04.鮮魚街道コース

[お魚大好き人間にはたまらない下総歴史探訪のお散歩!]





江戸時代から明治初期にかけ、銚子沖で水揚げされた鮮魚は房総沖で海難事故が多発したため、利根川から野田を通り、江戸川を経由して江戸まで運ばれていました。しかし冬場を中心とする渇水期には利根川を遡ることが困難なため、途中の布佐河岸で荷物を馬に積み替え、布佐から松戸までを陸路で運び、納屋川岸から再び江戸川を経由して日本橋まで船で運び入れました。この陸送した区間(全長約七里半:約30km)の道が鮮魚街道とか、なま(生)街道とかと呼ばれています。最盛期には年500トン以上にも達する量の魚が運ばれ、街道は大変な活況を呈していたそうです。しかし鉄道の開通などで寂れていき、鮮魚街道は歴史の中に埋もれてしまい、かろうじてその痕跡がちらほらと残るだけになってしまっています。現在では途中、海上自衛隊下総航空基地で大きく分断され、松戸駅付近では千葉大学により消滅しています。

鮮魚街道コース(我孫子布佐観音堂裏から松戸市納屋川岸まで)

梅雨入りしたばかりなのに「梅雨の中休み」でもありませんが、今日は素晴らしいお天気でした。空気が乾燥していたので何とか凌げましたが、強烈な日差しは真夏そのものでした。東京の最高気温が31度だったそうですから暑い筈です。そんなお天気の中、無謀にもお散歩に出かけました。しかも長距離の難関コースです。先日、千葉県の地図を眺めていましたら、「鮮魚(なま)街道」なる道路名を見つけました。街道にもいろいろありますが、「鯖街道」として知られる若狭街道のように、名前だけで興味を引かれるのは少ないですね。京都に住んでいたら真っ先に鯖街道を歩いたでしょうけど。それにしても、東京の近郊にも似たような名前の街道があるとは思ってもみませんでした。早速ネットで情報を収集します。鮮魚街道の名前はかなり知られているようで、実際に歩かれた方の踏破記もいくつか見つかりました。結果的には、これらの方々が残された資料がなかったら全ルートの踏破は不可能だったと思います。長距離であることと、ルートが入り組んでいるため、先ず詳細な計画を立てます。歩行距離は余裕をみて35kmとしますと、約9時間の行程です。布佐駅から観音堂までは30分程度とのことですので、日暮れ時の18時までに松戸駅に到着するには朝の8時に布佐駅に着かなければなりません。東京からだと、常磐線で我孫子まで行き、成田線に乗り替えて4つ目の駅が布佐となります(乗車時間は16分)。成田線は単線で、ほぼ1時間に2本の運行ですので、乗り継ぎも考慮しないといけません。ネットで最適な組み合わせの電車を選び、早起きして布佐駅に着いたのは8時前でした。朝の通勤時間帯のせいか、駅は結構混んでいました。布佐駅の駅舎は比較的新しく、垢ぬけしています。東口の広場に降り立ちますと、大利根交通バスの停留所がありました。名前からしても遠くに来たなという感じがします。



駅から利根川の土手までは600m位でしょうか、きれいな道路が延びています。土手に登って利根川を眺めますと、またまたその茫洋とした流れに圧倒されます。栗橋の利根川橋は海から130kmの距離でしたが、ここは海から76kmとのことです。相当に距離は離れていますが、土手からの眺めは全く同じに感じます。さすがに日本を代表する大河ですね。



気をつけないと行き過ぎてしまいますが、土手下に降りる通路の先に小さなお寺のような建物が見えます。鮮魚街道の起点である布佐観音堂です。入口の石柱には、「新四国相馬霊場第五十八番」と彫ってあります。「新四国相馬霊場」とは、利根川を中心に設けられた取手・我孫子・柏地域の八十八ヵ所札所だそうです。観音堂は古びた建物ですが、何となく心ひかれる造りです。先ずは、観音様に今日の安全を祈願します。



観音堂の裏手に回りますと、鮮魚街道の案内板が建っています。観音堂は利根川の網代場があった所に建っており、ここで鮮魚が船から馬車に積み替えられたことから鮮魚街道の起点になったそうです。ちなみに、網代場とは定置網漁の漁場のことです。観音堂裏から細い道路が真っ直ぐに延びています。ちょっと不安はありますが、鮮魚街道踏破のお散歩に出かけましょう。



布佐観音堂裏を8時20分に出発します。とりあえず、案内板の通り真っ直ぐに進みます。交通量の多い道路よりひとつ手前の住宅街の裏道のせいか、車は殆ど通りません。やっぱし、歴史街道は車を気にせずのんびりと歩かないと。。。朝の爽やかな空気を胸一杯吸いながら、成田線の踏切に近付きますと、交通量の多い先ほどの道路が合流してきます。のんびりと歩いたのは束の間で、歩道のない狭い道路をダンプカー・トラック・自家用車が数珠つなぎになって往来しています。危なくて歩けたものではありません。前後を確認しながら、車が途切れた瞬間に急ぎ足で歩きます。手賀川に架かる関枠橋の手前の民家の庭先に、馬頭観音の小さな石碑が4柱ほど並んでいます。「文化4年卯・・・」と読めますので、1807年頃に建てられたものと思われます。よくぞこんな場所で200年近くも生きながらえたものだと感心します。馬頭観音とは「馬の首」の意味を持つ菩薩ということで、乗馬や荷運びで使われた馬が急死した際に路傍や芝先(馬捨場)などに供養塔として建てられたのだそうです。鮮魚街道のあちこちに馬頭観音が多く見受けられたのも頷けます。本来、忿怒の姿をとるのだそうですが、この石碑の観音様はおだやかな慈母のような顔でした。



関枠橋にも歩道はありませんので、車が途切れた瞬間を狙って急いで渡ります。渡り切った橋の袂の草っ原に石碑が建っていて、若山牧水の歌碑が彫られています。大正末期に手賀沼で舟遊びをした際に詠んだもので、美しかった手賀沼に戻そうとする水質浄化運動の願いを込めて建てられたのだそうです。



関枠橋を渡っても相変わらずの車の多さです。1kmほど先で合流した木下街道(県道59号市川・印西線)は更に交通量が多く、狭い歩道はありますが大型車が猛スピードで通る度に思わず身が竦みます。道路脇には庚申塔があちこちに見受けられます。どういう訳か、庚申塔の文字に朱色の色付けがされています。



田んぼの向こうに通っている細い農道が本来の鮮魚街道の道筋でした。。。


折角ですので、庚申塔の由来をまとめてみます。


庚申塔は、「庚申待」と呼ばれる道教の伝説に基づく行事を3年18回続けた記念に建立される塔です。道教では、人間の頭と腹と足には三尸の虫がいて、いつもその人の悪事を監視しており、三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って閻魔大王に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされると教えていました。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、庚申の日の夜は村中の人達が集まって神々を祀り、その後寝ずに酒盛りなどをして夜を明かす庚申待の行事を行ったのです。


日頃悪いことをしなければ庚申待なぞする必要もないと思うのですがね。参考にした踏破記に大杉神社の紹介がありましたので、ちょっと立ち寄ってみようと木下街道を外れ、並行して走る狭い道路に入ります。何と、これが旧鮮魚街道のルートでした。関枠橋を渡ったところで、田んぼの中の農道のような道を進めば車を気にせずにゆったりと歩けたのにと思っても後の祭り。旧街道は人家を抜け、田んぼの中に延びています。周囲の田んぼは田植えしたばかりの苗がすくすくと成長し、青々とした葉っぱが伸びています。そのうちに畦道になるのではとの不安もありましたが、松山下公園の下で木下街道に復帰することができました。ヤレヤレです。狭いながらも車道と段差のある歩道を進みます。坂の上にある永治郵便局のところで脇道に入ります。印西市コミュニティセンターの奥には「大六天神社」が祀られていますが、鳥居も社もおもちゃのような大きさです。神社の先には展望台があり、高台ということもあって眺望は最高です。田園風景と手賀沼の一部が遠望でき、木々の間を吹き抜ける涼風は暑さを吹き飛ばせてくれます。



ちなみに、この展望台は「印西八景:大六天の手賀沼」に指定されています。名残惜しいですが、休息を取る間もなく先を急ぎます。



更に脇道を進みますと、「月影の井」という史跡に出会います。何とも風流な名前ですが、今では金網で蓋をされているものの、鎌倉の「星の井」・奥州二本松の「日の井」と共に、日本の三井のひとつであったそうです。昔はこんこんと清水が湧き出ていたそうですが、こんな辺鄙な場所にある井戸が日本でも3本の指に入る銘泉だったとは信じられません。でも、「月影の井」って名前は歴史のロマンを感じさせますね。



竹藪の中の砂利道を抜け、再び木下街道に戻ります。少し歩きますと、またまた庚申塔の石碑に出会います。文字から滲みだした朱が石碑全面を赤く染めています。出羽三山(山形県庄内地方にある月山・羽黒山・湯殿山の総称)参拝記念碑も建っています。この地方の人々の信仰心が如何に深かったかが推し量れます。



「石尊阿夫利神社」の白い鳥居脇で木下街道と別れます。ここから鮮魚街道は山間の狭い道路を進みますが、道幅は狭くてもダンプカーを始めとして車が多いのには閉口します。おまけに路面には穴が開き、水たまりになっています。土埃も相当なものです。歩道など何もなく、草茫々の道路の端っこを歩くしかありません。700mほど先に石尊参道の石碑がありました。参道を下り、階段を上がって本殿に行ってみます。阿夫利神社の由来は、明和元年に銚子の海底から拾い上げられた2個の青石が住民にご利益をもたらしたことから祀られるようになったとのことです。



平塚というところで、ちょっと広い道路に合流します。道路の両側には梨園が広がっています。まだ小さな実をつけたばかりですが、秋には幸水・豊水などとなって梨狩りが楽しめることでしょう。梨だけでなく、ビニールハウスには赤いトマトが鈴なりで、農家の庭先で直売をしています。まさに産地直売です。



街道のあちこちには馬頭観世音の石碑が見受けられ、道標となって距離や方角を示しています。東京の名前があるところをみますと、明治以降に建てられたのでしょうか?



暫く歩きますと、白井工業団地に入ります。広大な敷地には、大小いろんな業種の工場が建ち並んでいます。ビル建設で使われる巨大な鉄骨を作る工場もあります。鮮魚街道にもいろんな風景があるものですね。



国道16号線を越えた先は、鮮魚街道で最も分かりにくいルートです。県道280号白井流山線を越え、商店前のバス停の先の二叉路を右に折れます。その先のT字路角には「成田山道」と彫られた成田不動の小さな石像があります。T字路を左折し、直ぐに右折します。そのまま真っ直ぐに進むのが第一のポイントです。直ぐに左手に「矢の橋台霊園」の墓地が見えてきますので、塀に沿って坂を下ります。坂の下で道路は右にカーブしていますが、左手の置き石のある路地を進むのが第二のポイントです。直ぐに広い道路に出ますが、ここを渡ってセブンイレブンの裏の小道を進むのが第三のポイントです。小道の脇の空き地には、先ほどの石碑と同じく成田不動が彫られた成田道の道標が建っています。その先のT字路を左に進みますと、鮮魚街道の中間点となる藤ヶ谷地区台町になります。時刻は午後の1時ちょっと前で、布佐観音堂を出て4時間半が経過しました。予定通りの行程ですが、この先松戸の納屋川岸まで無事に歩き通せるでしょうか?



鮮魚街道の中間点にあたる藤ヶ谷地区は格好の休息所として大いに賑わい、茶店も開かれていました。荷駄人足達はここで食事を摂り、魚に水をかけて鮮度を回復し、再び江戸に急いだのです。道路脇には鳥居が建ち、金毘羅宮に続く階段が見えます。金毘羅神社はもともと水運の守護神で、鮮魚街道で暮らす人々によって信仰されました。「金毘羅宮と大沼枕山選碑」という案内板には、鮮魚街道全体のルートを含む銚子から江戸魚河岸(日本橋)までの地図が描かれていました。少し歩きますと、右カーブの登り坂になっています。坂の中ほどに相馬商店という、開いているのかいないのか分からないような雑貨屋さんがあり、塀の中に石造りの立派な常夜灯が建っています。常夜灯は昼夜兼行の輸送の道標として、また道中の安全の願いを込めて建立されました。坂の上には小さな墓地があり、「相馬家之墓」と書かれた立派な墓碑がありました。今は街道を通る人もなく開店休業状態ですが、ご先祖様の時代には相馬商店(茶屋?)は大いに繁盛していたことでしょう。



そのまま弓なりに進んでいきますと、下総航空基地の前に出ます。航空基地といっても航空自衛隊ではなく、海上自衛隊の基地で、対潜哨戒機P3−Cを使用した教育訓練が主な任務となっています。鮮魚街道のルートは、正門から滑走路を挟んで反対側の門まで真っ直ぐに延びていたものと推測されます。勿論、一般人は基地の中には入れませんので、フェンスに沿って北に大回りしなければなりません。この距離が馬鹿にならないのです。午後の灼熱の日差しを浴びて歩きますので、水分の補給が間に合いません。今日はペットボトルを何本空けたことか。



佐津間地区に入りますと、渋谷重兵衛商店という雑貨屋さんが信号の脇にあります。ここで左に折れ、次の角で右折します。右手の空き地には、小さな木製の鳥居と道祖神のカップルが鎮座しています。道祖神は旅や交通安全の神としても信仰されていますので、ここで道中の安全を祈願したのかもしれません。その先の角には古い道標が建っていました。苔むしてはっきりとは読めませんでしたが、「左松戸・江戸道」とかだったと思います。



六実駅の北側に「このまちで野馬追いや将軍がお鹿狩りをした頃の話」という碑が建っていました。別のプレートには「わたし達のまちは野馬の放牧場でした」と書かれていましたので、このあたりは広大な狩場だったのでしょう。火の見下という交差点の角に「六実の火の見やぐら」という案内板と火の見櫓が建っていました。鉄骨造りで、高さは電柱ほどあります。今は現役を退いたそうですが、六実のランドマーク的存在です。



五香駅手前の新京成電鉄のトンネルをくぐった先に、「翠雲堂」という佛具工場があります。無造作に置かれた木材にの前に巨大な大仏様のお顔が鎮座しています。首を切られた状態ですので、初めて見るとギョッとします。運転している方は注意しないと脇見運転で事故を起こしてしまいますのでご用心。



その先の交差点の名前は「子和清水」となっています。交差点の角には木々に覆われた緑地があり、「養老伝説の地 子和清水」の石碑があります。中に入ってみますと、古ぼけたポンプと井戸があり、奥には「子和清水像」が建っています。案内板には、「昔、この近くに酒好きの老人が住んでいました。貧しい暮らしなのに外から帰るといつも酔っ払っていました。息子が訝って父のあとをつけてみると、父はこんこんと湧き出る泉を手ですくってさもうまそうに、ああうまい酒だといって飲んでいました。父が去った後で息子が飲んでみるとただの清水でした。この話を聞いた人々は、親はうま酒、子は清水というようになったそうです。」私も水で酔っ払えれば、ワイン代が随分と節約できるのですがね。



八柱駅の手前に「日本の道百選 さくら通り」と書かれた木柱があります。今の時期は青々としたさくら並木ですが、お花見のシーズンには満開の桜で見応えがありそうです。



みのり台駅先の工業団地を過ぎた交差点で、湯楽の里の前を通る路地に入ります。そのまま真っ直ぐに進んで、県道464号線に出ます。右折して進んだ先が地図上の鮮魚街道の終点、松戸隊道交差点となります。これから先は千葉大学園芸学部のキャンパスで途切れてしまいますが、国道6号線(水戸街道)を渡り、園芸学部を回り込んでJR常磐線を歩道橋で渡ります。



県道5号線(流山街道)を北に進みます。松戸神社の先には(手前にも)古い木造の家が目立ちます。古いといっても半端な古さではありません。昔の松戸宿の生き残りかと思えるような古さです。「原田屋」という米屋さんは昭和初期の建物だそうで、建物の正面には「しとみ戸」という小さな雨戸があります。三枚の板でできていて、明りを取り込むとか風を入れるとか、状況に応じて一枚ずつ取り外すのだとか。今でもシャッター代わりに使われているとのことです。



正面の板壁の下の方に「しとみ戸」が見えます。


西蓮寺の脇から路地に入り、新坂川を渡った突きあたりが鮮魚街道の本当の終点である納屋川岸です。土手の手前には、当時鮮魚運搬の舟運をほぼ独占していたという旧船問屋の青木源内家の塀が再建され、角に納屋川岸の説明入り木柱が建っています。ちなみに、青木源内さんは第12代に当たるのだそうで、現在(?)は松戸市の文化財審議会委員を務められているのだそうです。下総鮮魚街道の歴史に詳しく、松戸ロータリークラブにおける講演録は鮮魚街道を知る上で必見の資料です。



土手に上がって江戸川を眺めます。朝見た利根川に比べれば川幅は狭く、周囲の風景も違いますが、夕日を浴びた川面は今日最後の輝きを見せています。



鮮魚街道はかなりの長距離で、しかも交通量の多い道路を主に歩きますので、お散歩のレベルを超えています。やはり私には近場の気軽なお散歩が合っているようです。







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