05.古代東海道コース
[いにしえの東海道で飛鳥のロマンを想う!]
7世紀後半から8世紀(飛鳥時代〜奈良時代)にかけて、律令国家によって全国に古代官道七道が建設され、10世紀頃まで機能しました。七道とは、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道及び西海道です。道幅は6m〜12mで、ほぼ一直線の最短距離で各地の国府を結んでいました。総延長は約6、300kmで、約16km毎に駅家(うまや)を置き、全国402の駅家には原則として、大路(山陽道)に20頭、中路(東海道・東山道)に10頭、小路に5頭の駅馬が置かれ、中央政府が与えた駅鈴を持った官吏・公使が乗り継ぎました。古代東海道は京都羅城門を起点とし、常陸国府を終点として、15ヶ国を連絡していました。尚、国府(こくふ・こう)とは、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市を指します。
お散歩で茨城県の石岡市から京都まで歩くわけにはいきませんので、コースの始点は千葉県の市川市(のつもりが東京の江戸川区)、終点は多摩市の馬引沢第三公園交差点までとしました。
古代東海道コース(二日目:南千住駅から三鷹台駅まで)
- 所要時間:7時間12分
- 歩数: 39、018歩
- 距離: 28.1km
九州南部は大雨続きだというのに、関東地方はあまり梅雨らしいお天気ではないですね。今日も朝から晴れ渡り、真夏を思わせる厳しい暑さでした。それにもめげず、今日も古代東海道の続きを歩きます。南千住駅から再開するのですが、ここから西日暮里駅までの道のりが判然としません。一応、常磐線の北側を歩き、三河島駅の先から高架をくぐって尾竹橋通りに出るみたいですが、正確なルートは分かりません。ま、千年以上も前に造られた道ですから、現在の道路と一致する訳はないのですが。とりあえず、南千住仲通りという古びた商店街を通って日光街道に出た後、都電荒川線の三ノ輪橋駅を抜けて荒川一中前踏切を越え、明治通りを渡って常磐線沿いの裏通りを線路の土手に沿って進みます。古代東海道は、各国に置かれた国府を一直線で結ぶようにルートが設定されたとのことですが、満足な地図も測量技術もなかった飛鳥時代にしては驚くべき正確さで造られています。試しに東京の広域図を広げて定規を当ててみますと、現在判明してるルートとほぼ重なっています。府中(武蔵国府)から北側に少しカーブしているのは、現在の西ケ原にあった豊島郡衙(ぐんが:律令制下で郡を治める役所)を経由したからではないでしょうか?もともと古代東海道を厳密に辿ることは無理なので、適当に道路を選んで歩きます。西日暮里駅からJR線の線路を眼下に見ながら高台の坂道を登っていきます。坂の上に忠敬堂という古地図専門店があります。江戸時代の地図も扱っているようですが、古代東海道の資料も置いているのでしょうか?
田端高台通りを進んで本郷通りに入ります。滝野川消防署の手前に、平塚神社の長い参道が奥に延びています。この場所には豊島郡衙が置かれていたとされていますが、その後、平塚城という城館が造られ、八幡太郎の通称で知られる源義家も奥州への遠征の帰路に城に逗留したことがあるそうです。義家は城主の饗応への感謝のために鎧と十一面観音を下賜し、城主はこれを埋めて塚となし城の鎮守にしたのだそうです。塚が平らだったので平塚という地名になったそうですが、ホントかなぁ?公園内を探しましたが、案内板以外に豊島郡衙の存在を伺わせる遺跡が残っていませんでした。
滝野川公園の前から本郷通りを渡り、住宅街の路地に入ります。何やら前方からドーンという鈍い音が聞こえてきました。音の方向を見ますと、狭い路地にバックで入ろうとした軽自動車が後部を電柱にぶつけてしまったみたいです。ちょっとだけ電柱が道路に飛び出してはいるのですが、取りたてて難しい場所ではありません。どうせ運動神経の鈍いおばさんか誰かがハンドルを切り損ねたのだろうと思いましたが、ちょっと前進した後で再びバックで電柱に近づき、今度は後ドアの側面をこすっています。運転席を見ますと、夫婦と思われるカップルが乗っています。運転しているのは30代くらいの男の人です。歳でもないのに何という下手な運転と思いましたら、旦那さん(?)が車を停めて傷を確かめに降りてきました。先ほどの衝突で後ろには縦の凹みができています。その後でこの夫婦(?)に何があったのか分かりません。というか、様子を見るのが恐くて足早に通り過ぎましたもので結末は見届けませんでした。
都電荒川線の西ヶ原四丁目駅の手前に「道音坂」という緩い坂があります。ここに案内の柱が立っていて、「道音坂は、旧西ヶ原と・滝野川の村境にあり、浅草道と呼ばれ、中世は鎌倉街道だったとも伝えられています」ということが書いてありました。古代東海道とのかかわりは触れられていませんでしたが、こんな住宅地の狭い道にも歴史があるものですね。
そのまま西に向かい、埼京線の板橋駅脇の踏切を渡って首都高の高架下を真っすぐ進みます。山手通りを越えた先は「遊座大山」という商店街になっています。東武東上線の大山駅脇で「ハッピーロード大山」という元気な商店街とぶつかりますが、線路を越えたところで直ぐに別れます。
アーケード先から真っすぐ斜め下に向かって進みます。ここから西武池袋線の江古田駅までは車も少なく、とても歩きやすいです。特に板橋高手前では桜並木が続いていますので、お花見シーズンには最高と思います。尚、板橋高の先は七差路になっています。大田区にある七辻交差点には信号機はありませんが、この交差点には付いています。信号機が幾つもあるので、初めて通るドライバーはどれを見たらいいか迷ってしまうかも。
江古田駅の手前にガラス張りの前衛的な建物が並んでいます。「NUArt」という洋風の名前ですが、日大藝術学部のキャンパスのようです。以前通った時は古ぼけた校舎だったと思うのですが、いつの間に建て替えられたのでしょうか?
江古田駅の北口の浅間神社には富士山の溶岩で造られた都内でも大規模な富士塚があるのですが、登れるのはお正月の三日間と7月1日の山開き、それに9月第二週の土・日だけだそうです。9月って、何かお祭りでもあるのでしょうか?
江古田駅先の踏切を渡って千川通りに入ります。この辺りの千川通りは別名「清戸道」とも呼ばれ、朝は練馬名物の大根とか野菜を積んだ荷車が市中に向かい、昼過ぎには下肥を積んで戻ったそうです。この道に沿って千川上水が流れていたことから千川通りと呼ばれるようになったとのことです。ちなみに、「千川」の由来は上水の管理を行った千川家に因んでいるとか。
古代東海道は、中村北二丁目から南西に真っすぐ延びていますが、この道は「下練馬道」と呼ばれていたそうです。道路脇のところどころに石像が立っています。ちょっとした草むらの中には、「石憧七面六観音勢至道しるべ」なる七面石柱の道標が立っていました。観音様が彫られていたのは、馬頭観音のように道標を兼ねていたからでしょうか?私には読めませんでしたが、「東 此の方なかの道、めぐろ道」、「南 中村里道」、「西 大山道」、「北 川口道」と刻まれているそうです。どれも興味を惹かれ、古道歩きに嵌りそうです。
中瀬中を回り込んで早稲田通りを渡った先に妙正寺公園があります。公園の中心の妙正寺池から流れ出た水が妙正寺川となっています。都心の暴れ川として有名でしたが、水源は小さな池です。
環八を渡って桃井防災公園に向かいます。住宅地ですが、道路の北側の町名は「今川」となっています。戦国の武将だった今川義元の子孫が菩提寺とした観泉寺があることから、今川という町名が付けられたようです。ちなみに、今川焼きは今川家とは関係なさそうです。
善福寺川を渡り、中央線のガード下をくぐって立教女学院に続く真っすぐな道路を進みます。午後の日差しは更にきつくなり、ジュースでは間に合わず、たまらずコンビニでガリガリ君を買い込みました。ほどほどに柔らかくて、甘ったるくなく、美味しかったです。初めて食べましたが、これから暑い日の定番の水分補給源になりそうです。立教女学院の先で神田川を渡りますと、京王井の頭線の三鷹台駅があります。これから先は府中まで鉄道と出会いませんので、今日のお散歩はここまでとします。
今日は暑かったのですが、交通量の少ない裏道が中心でしたので歩きやすかったです。次は府中、できれば馬引沢まで歩きたいのですが、どうなりますやら。
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