08.中原街道コース
[徳川将軍縁の街道!]
中原街道は、武蔵国と相模国を結ぶ中世以前から続く古道です。小田原北条氏の時代に本格的に整備が行われ、工事の際に狼煙(のろし)をあげてそれを目印に道を切り開いたため、比較的直線区間が多くなっています。1590年に徳川家康が関東移封によって江戸入りした際もこの街道を利用したといわれ、その後東海道が整備されるまでは江戸に向かう主要な街道でした。当初は江戸城桜田門が起点でしたが、江戸城の拡張により虎ノ門が起点となりました。東海道の整備に伴って、終点も平塚市中原の中原御殿から現在の大磯町化粧坂一里塚に変わりました。徳川家康が駿府との往復や鷹狩の際の宿泊施設として小杉と平塚中原に本陣(御殿)を置いたことから、平塚の「中原」御殿に因んで中原街道と呼ばれるようになりました。中原街道は、相州街道(相州は相模国の別称)・お酢街道(中原の酢を江戸に運んだ)・こやし街道(江戸から肥しを運んだ)などとも呼ばれています。東海道の脇街道としての役割を担ったことから、東海道での大名行列の煩わしさを嫌う庶民や商人に好まれ、赤穂浪士が江戸入りした際にも利用されました。
中原街道コース(三日目:大和市桜ケ丘交差点から大磯町化粧坂一里塚まで)
- 所要時間:7時間47分
- 歩数: 38、308歩
- 距離: 27.6km
今日も暑かったですねぇ。一日中強烈な陽射しで、その上風が強く、お散歩には厳しい日でした。そんなら家で。。。という誘惑に打ち勝って、中原街道の最後の区間を歩くことにします。今日は長距離になりますので、早起きして朝の9時過ぎに大和市の桜ヶ丘駅に降り立ちます。駅から出た途端に熱気が体を包み込みます。たまらず駅前のコンビニで定番のガリガリ君と冷凍ジュースを買い込みます。「街道を歩く」は史跡なんかを巡って面白いのですが、遠くまで来ると往復の交通費が結構かかります。その上、今日のような暑い日にはジュース代もかさんでしまい、お散歩も高くつきますね。愚痴はこれくらいにして、先日の中断地点の桜ヶ丘交差点から中原街道のお散歩を再開します。このあたりは道路が狭い割に交通量が多く、大型トラックなどとすれ違う際は道路脇に避難しなければなりません。排気ガスも浴びて、とても歩きづらいですね。
小田急の踏切を渡った角に、「桜株十一面観世音菩薩」が祀られています。昭和11年、秋祭りと小学校の運動会の帰途、当時珍しかった自動三輪車でこの踏切を渡ろうとした際に電車と接触し、車もろとも11名が即死という大惨事を起こしたのだそうです。十一面観世音菩薩は、この事故を弔うために村人によって安置されたのだとか。代々木踏切転倒事件もあるし、私には他人事とは思えません。
桜並木が続く引地川を渡った先で、道路は二手に分かれます。本当は右手の旧道を歩きたかったのですが、間違って新道の方に進んでしまいました。旧道はかってマッカーサー元帥が降り立った厚木飛行場(現在は米軍厚木基地の中にあります)のフェンスに沿って歩くので面白そうでしたが、残念。新道は代官橋を渡って、代官三丁目交差点で旧道と合流します(正確には、本来の旧道は基地で分断されています)。厚木基地には滑走路が南北に延びていて、道路を挟んだ反対側の「引地川公園ゆとりの森」の中にも航空機の誘導灯が設置されています。滑走路横の駐機場には大型の輸送機が何機か見えましたが、残念ながら離発着の瞬間には立ち会えませんでした。道路は滑走路の延長線上にありますので、数十メートル上空を飛ぶ飛行機は結構迫力があるのではないかと思いますが。
綾瀬大橋入口交差点で左折し、「県道45号(丸子中山茅ヶ崎) 春日新道」の標識に沿って進みます。そういえば、大和市に入ってからは中原街道の標識を見かけなくなりました。でも、道標はあちこちに残っています。深谷中というところには古い庚申塔があって、「西 あつぎ道、(?) 江戸道」と読み取れます。綾瀬浄水場の先に佐川急便の研修センターがありました。何の研修かと思いましたら、自動車学校のような広いコースが付属しています。狭い住宅地の路地を回る宅急便の運転には、このような施設でのトレーニングが不可欠なのでしょう。女坂というバス停近くの交差点角に、お墓のような礎石と鎖で囲まれた古い道標がありました。一部表面が剥離してよく読み取れなかったのですが、ここまでうやうやしく守られた道標を見るのは初めてです。案内板でもあると有難いのですが。
中原街道は、寒川町に入った小谷一丁目で二股に分かれます。右側の細い道が旧道で、突き当たりを右折して日産工機の敷地を回り込むように進みます。寒川小裏交差点を直進するのが本来の旧道のルートだったようですが、あまりに狭い道路だったので見落としてしまい、道なりに進んでしまいました。寒川消防署を過ぎて、県道46号線との交差点に来たところで間違いに気が付きました。地図を見ますと、直ぐ先に寒川神社があります。初詣のスポットとして耳にしたことはあるのですが、訪れたことはありません。折角ですので、道を間違えたついでに立ち寄ってみましょう。境内は鬱蒼とした大木に覆われ、入り口には巨大な鳥居が聳えています。奥の方に本殿らしき建物が見えますが、今日のところは入り口で失礼します。後で調べてみましたら、古くからテレビ界では「視聴率祈願の神社」として知られているそうです。ひょっとしたら、キムタクかじゅりっぺが来ていたのかも。。。
寒川神社の入口から続く表参道は、緑のオアシスになっています。両側の大木がトンネルのように葉を茂らせ、路面には木洩れ日が揺れています。束の間の涼しさと静けさを満喫します。
参道に沿って流れる目久尻川を渡った先に、相模川に架かる長大な神川橋があります。正面に丹沢の山並みを望める風光明媚なところですが、相模川に沿って建設中の圏央道(さがみ縦貫道路)が完成した暁には風景は一変することでしょう。神川橋には何か所かの展望スペースに、「??の富士」、「大山街道」、「大山参り」、「至大山」、「田村の渡し」などのプレートが取り付けられています。今日は見えなかったのですが、橋の北側に雄大な富士山が拝めるそうです。正面には大山が望め、先日歩いたルートとは別の大山道になっていたようです。
神川橋を渡り、左手の土手沿いに200mほど行った先に「田村の渡場跡」の石碑があります。案内板によりますと、中原街道と大山道の二つの往還の渡しだったそうで、ここの大山道は藤沢・江の島からの大山参詣に使われたのだそうです。平塚から厚木に向かう八王子道もここで交差したことから、「田村の宿」とも呼ばれ、旅籠屋などもあったそうです。
旧田村十字路で左折し、少し進んだ先の二股路に「田村駒返橋跡」の石碑があります。徳川家康が関東に移り住んだ後、ここは家康の最も好んだ狩場になりました。大雨の後で家康が鷹狩に来た時、道路がぬかるんでいたために村人が畳を出して通行の便宜を図りましたが、家康は田村の人達の苦労を思んばかって馬を返したのだとか。一説には、ここに馬継場が置かれたところから「駒(馬)返(替)」と呼ばれたとも云われていますので、家康の話は出来過ぎの感じもありますが。
更にその先の鹿見堂橋バス停脇には、「田村の一里塚跡」の石碑があります。「南 中原道 北 奥州道」と書かれていますが、家康が使った重要な街道であったために、東海道などと同様に一里塚が置かれたのだそうです。
四之宮林町という交差点から住宅地の道路をジグザグに進みます。本当にこのルートでいいのかなぁと思いつつ進みますと、関西ペイントの社宅を回り込んだ先に「古道 中原街道」の立派な石碑がありました。ここ真土地区の中原街道は、最もよく昔の面影を残していると云われているそうです。私には雑然とした半住宅・半農地にしか見えませんでしたが。
とある民家の軒先に林檎の木を見つけました。枝には大ぶりの林檎が沢山実っています。東京近郊で林檎の木を見かけるのは珍しいですね。
東中原地区に入って、私の地図は五万分の一の縮尺に変わりました。中原御殿の跡地に建つ中原小学校の名前も載っていません。でも大丈夫!途中のコンビニでたまたま見つけた神奈川県のライトマップを買っておいたのです。三万分の一の縮尺ですが、何とかルートを辿れそうです。第一三共の工場に突き当たったところで、前方に20人位の団体さんが見えました。旗を持った人が先導し、リュックを背にした男女混合の年配者が続いています。ここを歩いているのなら、きっと中原街道巡りのグループなのでしょう。団体で歩けばルートを探しながら歩く面白さがないじゃんと思いつつ、私も安直に後ろについていきます。一緒に中原御殿跡に到着すると面倒なので途中で追い抜いて先を歩きます。住宅地の中を進んで、中原小学校の前に着きます。結構広い校庭ですねぇ。案内板によりますと、中原御殿は雲雀野御殿とも呼ばれ、敷地は東西141m、南北101mもあったのだそうです。家康の死後、1657年に引き払われ、跡地には松や檜が植えられたのだそうです。
中原小学校を回り込むようにして進みますと、善徳寺というお寺があります。正面の三門は雲雀野御殿の裏門を移建したものだと云われ、藁葺きの屋根は如何にも由緒あり気な風格と雅趣を併せもっています。
鈴川(阿夫利神社の脇を流れていた川かな?)を渡って、県道62号線を進みます。花水川を渡った先に大磯宿史跡の案内板があります。当時の様子を描いた絵を見ますと、東海道は疎らに旅人が通るのどかな雰囲気だったのですね。
化粧坂交差点で右側の旧東海道に入ります。今まで街道を歩いた中で最も昔の雰囲気を感じさせるところです。民家の軒先に「化粧井戸」の史跡があり、今でも井戸がそのまま残っています。この近くに住んだ鎌倉時代の大磯の代表的な女性であった「虎御前」も、朝な夕なにこの井戸水を汲んで化粧をしたのだそうです。
中原街道の旅もいよいよフィナーレを迎えました。日本橋より16里の場所に置かれた「化粧(けわい)坂の一里塚」で中原街道は東海道と合流し、終点となります。
桜田門から約70km、歩きにくい区間はありましたが、家康の足跡を辿れて面白かったです。街道歩きに完全に嵌ってしまいましたが、次はどこを歩きましょうかね?
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