10.日光御成街道コース

[将軍様の御成りぃ〜〜〜!]





日光御成街道は中世以来の鎌倉街道を前身とし、将軍が徳川家康公の命日(四月十七日)に日光東照宮へ社参する際に利用した日光街道の脇街道として江戸時代に整備されました。本郷追分(文京区弥生一丁目)で中山道から分岐し、幸手宿で日光街道と合流します。大手門から幸手宿までの距離は13里30町(約51km)で、岩淵宿・川口宿・鳩ヶ谷宿・大門宿・岩槻宿・幸手宿の6宿がおかれました。岩槻藩の参勤交代に使われたことから「岩槻街道」とも呼ばれています。

日光御成街道コース(二日目:鳩ヶ谷市昭和橋交差点から幸手市南二丁目スーパーベルク前交差点まで)

台風4号は日本海から東北地方に上陸しましたが、遠く離れた関東地方にも相当の強風をもたらしました。今日はお天気が回復するとの予報でしたので、先日の続きを歩いてみたいと思います。埼玉高速鉄道(地下鉄)の鳩ヶ谷駅で降り、地上に出ますと、ナント道路には水たまりができています。雨は止んだばかりという感じで、空はどんよりとした雨雲が低く垂れ込めています。予報では、埼玉地方は晴れの筈だったのに。。。と恨めしい気持ちもしますが、途中で雨に遭ったら即退却と決めて先日の中断地点の昭和橋交差点に向かいます。江戸時代、鳩ヶ谷には宿場が置かれたこともあり、御成街道沿いに延びる商店街には案内板が幾つも見受けられます。明治時代に撮られたという写真も添えられていて、江戸時代の街道の面影が偲ばれます。



御成街道は埼玉県内で多くの河川と交差していますが、歩きだして直ぐに見沼代用水に架かる吹上橋を渡ります。見沼代用水は江戸時代中期に完成した農業用水ですので、吹上橋はそれ以前の御成街道にはなかったことになります。橋の袂の御成坂公園に、「日光御成道のみちすじ」という大きな案内板が建っています。日光御成道の成り立ちと、街道沿いの旧跡を解説したもので、これと同じものをこの先2−3ケ所で見かけました。史跡の内容と街道上の位置がよく分かりますので、丁寧に見ておけば後で後悔することはなかったのですけど。



公園には日光参詣の将軍の行列を描いたタイル画とか、からくり時計とかも置かれています。からくり時計は定時に動くそうなので、機会があったら見てみたいものです。



鳩ヶ谷市を出ますと、新井宿となります。宿場のような地名ですが、そうではありません。新井宿の先で東北自動車道と外環道の高架下を通ります。東北自動車道とは浦和インターの近くで再び交差するのですが、その手前の大門は御成街道4番目の宿場が置かれたところです。御成街道には、岩淵・川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻に宿場が置かれましたが、50kmほどの距離しかないのに5つの宿場とはちょっと多いですね。将軍は御成街道では岩槻城だけに宿泊したので、大門宿では休息するだけだったそうです。では誰が宿場に泊まったのかといますと、将軍を警護する大名なのだそうです。当時の本陣と脇本陣の表門は、現在でも代々名主を勤めた子孫の方の敷地内に当時のまま保存されています。藁ぶきの屋根を維持するだけでも大変な負担と思いますが、いつまでも残して頂きたいものです。



左側が「大門宿本陣表門」、右側が「大門宿脇本陣表門」です。


御成街道沿いには学校が多くあります。多くは鉄道の駅から離れていて決して交通の便が良いとは云えないのですが、校風に魅力があるのでしょうか?高校野球でよく耳にする浦和学院高校もそのひとつで、最寄駅の浦和美園駅とは随分離れています。スクールバスが運行されているそうですが、時差通学でもしないと間に合いませんね。



さぎ山記念公園を過ぎ、見沼代用水に沿って進みますと、膝子という地区に入ります。ここには膝子一里塚が置かれましたが、現在でも片方の塚(一里塚は元々は街道の両側に置かれました)が現存しています。日本橋から8里のところだそうです。一里塚には遠くからでもよく見えるように榎が多く植えられたそうですが、膝子一里塚の榎も天を突く大木です。二代目だそうですが、いつまでも残って欲しいものです。



いよいよ岩槻市内に入りました。さすがに人形の街だけあって、人形の文字が目立ちます。人形歴史館もありますね。「岩槻に過ぎたるものが二つあり、児玉南柯(岩槻藩士で教育者・儒学者)と時の鐘」と云われますが、時の鐘って何でしょうね?地図にも載っているのですが、岩槻駅入口交差点脇に、「元祖商標登録時の鐘最中」とか何とかの大きな看板が見えます。時の鐘って最中のことだったのか。。。と納得し、岩槻区役所先で左折して県道65号線(さいたま幸手線)につながる渋江通りを進みます。いつまでたっても岩槻城は現れませんねぇ。手元の資料を読み返してみますと、岩槻城のあった城址公園は区役所の奥の元荒川沿いにあります。御成街道沿いにはお城はなかったんですね。今は岩槻城そのものは取り壊されて残っていませんが、黒門とか裏門が公園内に移築・保存されているそうです。御成街道の最大の史跡を見逃してしまいました。ついでに時の鐘の解説を見直してみますと、最中ではなく本物の鐘のことだと分かりました。その鐘の音は九里離れた江戸まで聞こえたということで、現在でも朝な夕なに美しい響きで時を告げているそうです。紛らわしい看板をかけないでもらいたいものですぅ。



元荒川を渡り、北上を続けます。道路は狭く、歩道は全くありません。隼人堀川に架かる小さな橋を渡ります。ガードレールには錆が目立ちますが、橋名は見当たりません。資料によりますと、義理橋と呼ばれているのだそうです。江戸時代に将軍が日光参詣で御成道を通る際、地元の人は岩槻境まで行って将軍の一行を出迎え、今度はすぐに義理橋を通って岡泉の外れまで先に行き、一行を見送ったので「義理を果たす」というので名付けられたのだそうです。



更に姫宮落川を渡った先の下野田に、御成道11番目の一里塚が残っています。私が出逢った中では、西ヶ原と志村の一里塚と並んで完全な一対の形を保っています。これも是非後世に残して頂きたいものです。



いよいよ幸手市に入りました。とある二股路には、「右 日光道 左 いわつき道」と書かれた馬頭観音菩薩(石柱のみ)がありました。文化14年(1817年)に建てられた道しるべのようですのが、今でもはっきりと読み取れます。



東武伊勢崎線の踏切を越え、更に2kmほど進んだ左手にスーパーベルクがあります。ここで右側からT字型に交わる日光道中(日光街道)と合流して御成街道は終点となります。思えば、「街道を歩く」の最初に日光街道を歩いた時は未だ旧道を意識していなかったので、幸手市街を通らずに国道4号線を進んでしまい、この合流点には至りませんでした。



この合流地点で天保11年(1840年)に創業し、現在でも造り酒屋を営んでいる石井酒造の「大吟醸 初緑」を記念に買って帰ろうかと思ったのですが、重そうで止めました。残念!



と云うことで、岩槻城址と時の鐘を見逃したことはいささか心残りではありますが、日光御成街道のお散歩はここで終了とします。






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