11.成田・佐倉街道コース
[佐倉街道はさくらみち、成田はうなぎのぼりの街!]
佐倉街道には、葛飾区新宿(にいじゅく)と佐倉を結ぶ「水戸佐倉道」、寒川湊(現在の千葉港)と佐倉を結ぶ「千葉佐倉道」の2つのルートが存在します。通常、佐倉街道といえば「水戸佐倉道」を指します。江戸時代初期、徳川譜代の土井利勝が佐倉藩主となってから江戸と佐倉間の街道が整備され、参勤交代にも利用される程の重要な道となりました(ちなみに、武家諸法度に参勤交代を組み込んだのは土井利勝です)。当時、佐倉藩をはじめ房総方面の大名あわせて十数藩が佐倉街道を往還したと云われています。佐倉街道の起点は水戸街道から分岐する新宿追分とされていますが、広義に解釈した場合には、水戸佐倉道が日光街道から分岐する千住とも云えます。あるいは、日光街道と水戸街道の起点である日本橋とする考え方もあります。それぞれによって距離は違いますが、新宿追分から佐倉までであれば約36km、千住から佐倉までであれば約42km、日本橋から佐倉までであれば約51kmの距離となります。宿場は、市川宿・八幡宿・船橋宿・大和田宿の4ケ所に置かれました(佐倉市の臼井宿を除く)。文化年間(1804年〜)の頃から佐倉街道を経由して成田山新勝寺へ向かう成田参詣が隆盛するに従い、佐倉街道は「成田道」あるいは「成田街道」という愛称で呼ばれるようになりました。佐倉から成田までは約16kmありますので、新宿追分から成田までは約52kmとなります。通常、佐倉街道は成田街道の一部として扱われることが多いようです。
成田・佐倉街道コース(三日目:京成ユーカリが丘駅から成田山新勝寺まで)
- 所要時間:7時間39分
- 歩数: 38、389歩
- 距離: 27.6km
今日は、というか今日も暑かったです。ここのところ都心では雨が降らず、連日の酷暑と相まって水不足にならないかと心配していました。ところが、関東地方のダムの貯水量はこの時期としては意外に多いのだそうです。あまりの暑さで大気の状態が不安定になり、午後になると連日のようにダムのある関東北部で雷雨になっているのが幸いしているのだとか。水不足は困りますが、突然の雷雨も日常世活に制約が出て不便ですね。暑いと云いながらも、雷雨に遭うこともなくお散歩ができるのは有難いことです。そうはいっても暑い!先日の中断地点であるユーカリが丘駅前から佐倉街道の続きを歩きます。終点の佐倉城址公園までは残り10kmほどでしょうか?できれば引き続いて成田街道を歩きたいのですが、佐倉市以東の地図は需要が少ないのか、都心の本屋さんではお散歩用の小型本は置いていませんでした。ネットの情報を元にして手書きの地図を持参したのですが、佐倉市から先の成田街道は旧道が入り混じってルートがよく分かりません。ま、途中で道に迷ったらその時点で考えましょう。
ユーカリが丘駅前から北東方向に進みます。朝の陽射しは耐えがたいほどの眩しさです。日陰を選びながら歩きますが、道幅が狭いので車とすれ違う際は気を使います。広大な上座総合公園を過ぎた先で、手繰川を渡ります。農業用水のような小さな川ですが、橋を渡った先の二差路でいったん県道296号線と分かれて左側の旧道を進みます。直ぐに急な上り坂になりますが、ここは成田街道で一番の難所と云われた臼井坂なのだそうです。
坂を上り、住宅地の中を進みますとT字路に突き当たります。正面に古い道標があり、「西 さくば道 右 成田ミち 左 江戸みち」と書いてあります(あるそうです)。1806年建立とのことですが、こんな住宅地によく保存してあったものです。右折して少し進みますと、地区の消防団の建物の横に火の見櫓が建っています。4−5メートルの高さの鉄塔ですが、周囲に高い建物がないので結構目立ちます。
そのすぐ先に「雷電の碑」の案内板が立っています。右手の坂を下ったところに妙覚寺というお寺があり、境内には史上最強の名大関(当時は大関が最高位でした)と呼ばれた雷電為右衛門の巨大な顕彰碑があります。石碑には等身大の雷電の土俵姿が描かれていますが、相当の大男だったようです。横には手形を写し取った案内板があり、雷電の手形と自分の手形を重ねて大きさを比較することができます。身長1m97cm、体重168kgといいますから、手も大きかった筈です。試してみた人が多かったのか、私の手と同じ大きさの部分が黒光りしていました。
上り坂もあれば下り坂もあるということで、長い坂を下って再び県道296号線と合流します。その先でT字路を右折するのですが、ここは中宿ということで、臼井宿があったところです。京成線の踏切を渡った先に「みちしるべ(道標)」と書かれた案内板が建っています。「西 江戸道 南 飯重 生ケ谷道 東 成田道」と書かれているそうです。その横の石像には「さくら道」と書かれています。江戸時代の中期までは佐倉道と呼ばれ、成田山への参詣が盛んになるにつれて成田街道とか成田道と呼ばれるようになったとのことですが、新旧の街道名が並んでいるのは面白いですね。
線路沿いに進み、黄色くなりかけた田んぼを眺めながら緩やかな坂を上って行きます。やがて両側には木々が生い茂り、森の中を歩くような気分です。なんだか薄気味悪いですね。聖隷病院入口交差点手前の公園に「江原刑場跡」の案内板と供養塔が建っています。ここは旧佐倉藩の刑場があったところで、1843年に藩医の鏑木仙安が蘭医学研究のために佐倉藩で初めて刑死者の人身解剖を行ったとのことです。近くに首洗井戸が残っているとのことですが、見つかりませんでした。
狭い道路と車の多さに閉口しながら20分ほど歩きますと、目の前に緑に覆われた小山が広がっています。目指す佐倉城跡公園です。鹿島川を渡って直ぐに右折し、川沿いに進んだ後で佐倉城址公園に入ります。門を抜け、木柱を埋め込んだ階段を上っていきますと、「帯曲輪跡」の案内板があります。敵が城の根方からよじ登ってきた際に、ここから石などを投げ落として防御するためなのだとか。実際に使われることはなかったのでしょうけど、かなり原始的な戦法ですな。
佐倉城は、初代藩主の土井利勝が7年の歳月をかけて築城したそうですが、城内にいろいろな樹木を植え、雄大な風格を示したそうです。確かに森の中の城といった雰囲気が感じられます。本丸は解体されて残っていませんが、跡地は広い広場になっています。城内には幕末の世に日米修好通商条約の交渉に当たった堀田正睦とハリスの銅像が建てられています。堀田正睦は第五代の佐倉藩主を勤め、文武の奨励や蘭学の導入などの藩政改革を行い、後に老中となって、攘夷が叫ばれる中で貿易の重要性を説き、ハリスとの交渉をまとめ上げたのだそうです。佐倉は歴史的な街であると同時に、人材も豊富だったんですね。
佐倉城跡には明治時代に陸軍の歩兵連隊が駐屯し、西南戦争・日清戦争・日露戦争に多くの部隊が出征したそうです。広場の脇には「兵営の便所跡」まで残されています。今は土台のみですが、何故かポンペイの遺跡を思い出します(トイレの跡は見かけませんでしたが)。
公園の中には巨大な国立歴史民族博物館の施設があります。なかなか豪華な建物で、そのうちに事業仕分けにも登場してきそうです。田町門跡がある愛宕坂の脇には「臼杵磨崖仏」の中の大日如来像のレプリカがあります。本物は大分県にあるそうですが、近くの臼居という地名に因んで造られたのでしょうか?
ということで、めでたく佐倉街道を歩き終えました。
時刻はお昼過ぎです。猛烈な暑さなのでお散歩を中断してこのまま帰ってもいいのですが、折角ですから引き続いて成田街道を歩くことにします。公園を出た先で住宅地の細い道路に入り、海隣寺という坂を上ります。キツイ上り坂ですが、実際に居住している藁ぶきの民家などもあって昔の街道の趣があります。
坂の上で成田街道と合流し、麻賀多神社の横で左折して蘭学通りを進みます。真っ直ぐに延びる通りですが、城下町らしく「鉤の手(クランク型)」に曲がっているところもあります。蘭学通りの外れに「佐倉順天堂記念館」があります。佐倉藩は蘭医学を奨励し、江戸から移った佐藤泰然によって開設された順天堂塾からは多くの塾生が巣立って明治の医学界で活躍したのだそうです。お茶の水にある順天堂大学も佐倉順天堂塾が起源となっているとのことです。
記念館内には当時の解剖図とか手術用具とかの資料が展示されています。手術の様子を描いた絵では、何故か大勢の屈強な助手達が患者を押さえつけています。外科手術では麻酔を危険と見做して使わなかったそうで、手術(実験と呼んでいたそうな!)の様子を記録した中には、「手術ノ間患者痛苦スルノ景況甚シカラズ・・・」とあります。そりゃぁそうでしょうとも!でも、手術がうまくいったのか、最後には「・・・大毒性ナル麻薬ヲ用フルノ愚ヲサトル」とも書かれています。現代に生きていて良かったですぅ。。。
酒々井町に入り、上本佐倉という交差点先で県道137号線に入ります。八坂神社の先の路地奥の公園に「伝説 酒の井碑」があります。地名となった酒々井の語源と云われている史跡で、下総鮮魚街道で見かけた「養老伝説の地 子和清水」と全く同じ内容です。どちらが本家本元なのでしょうか?酒々井町は先進的な技術を取り入れているようで、観光案内の木柱にはQRコード付きの観光ナビが備え付けられています。携帯電話でコードを読み取ると解説が聞ける仕組みです。解説文を写真に残して後で見るということはできませんが。
宗吾入口から旧街道に入り、住宅地を抜けて成田街道(国道51号線)に合流します。交通量の多い狭い道路ですが、直ぐに次の信号で右折して旧道に入ります。成田街道で私が一番気に入ったところで、鬱蒼とした竹林の坂を上ると江戸時代にタイムスリップしたような気分になります。こんな山道で大丈夫かなと心配になりますが、道路脇には年代物の傾いた成田山の道標がありますので間違いないでしょう。
竹林を抜けたところで再び国道51号線と出会います。旧道はこの先も1kmほど国道と並行して延びています。道路脇には松の大木が点在し、旧街道らしい雰囲気を醸し出しています。「成田道 伊篠の松並木」と呼ばれているのだそうです。道路脇には道標が幾つか建っていて、「成田山 是より壱里余」とあります。夕方の4時近くになりますので、成田山には5時過ぎには着けるでしょう。
国道51号線に合流してから単調な歩きが続きます。成田市に入った並木交差点から国道を離れ、市街地に向かいます。川越と似た感じです。一本松通りを進み、JRと京成の成田駅を過ぎると成田山参道となります。門前町らしく、両側にはいろんなお店が並んでいます。「うなぎのぼりの街成田!」というノボリが目立ちます。鰻の養殖がなかった時代、成田山参詣の江戸っ子は印旛沼で獲れた天然の鰻で旅の疲れを癒したのだとか。現在でも鰻をメニューに出しているお店は60店舗に及ぶそうです。先週まで「成田うなぎ祭り」が開催されていたそうですが、祭りに間に合わず残念です。大山の阿夫利神社の参道には豆腐屋さんが多かったのですが、長い道のりを歩いて念願の参拝を済ませた後は名物料理で旅の疲れを癒すというのはどこも同じですね。
成田山新勝寺に着いたのは5時過ぎでした。参拝客は殆どなく、外人の観光客を何人か見かけるだけでした。成田山には初めて来ましたが、さすがに絢爛豪華ですね。写真を撮るのに夢中になり、参拝するのを忘れてしまいました。。。
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