12.東海道コース

[東海道9次膝栗毛!]





律令時代、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に国府を駅路(幹線官道)で結んだのが東海道の起源です。律令時代の東海道の道幅は中世や江戸時代より広く、直線的に建設されました。中世に大半が廃れましたが、1601年に徳川家康によって「五街道整備」が制定され、日本橋から三条大橋に至る宿駅(当初は39宿、後に53宿となりました)と関所(箱根・新居)が設けられ、東海道松並木や一里塚も整備されました。明治政府は幹線道路の呼称に番号付きの国道を用いるようになり、東海道は現在の国道15号線と国道1号線に受け継がれました。時代によって部分的に異なる経路もありますが、関東地方と近畿地方を結ぶ機能は律令時代から同じであり、現在においても東海道の重要性は変わっていません。一般的に、「東海道」と云えば江戸時代の東海道の道筋を指します。

お散歩で京都まで歩くわけにはいきませんので、コースの終点は箱根湯本までとしました。

東海道コース(二日目:神奈川通東公園から藤沢橋まで)

今日から9月。昔なら秋の訪れが感じられる頃ですが、今年は相変わらずの残暑が続いています。残暑というより、盛夏そのものと云った方がしっくりくる暑さです。地球温暖化の影響で、ゲリラ豪雨や超大型台風の襲来などの異常気象が多発し、河川の暗渠化や地下街の拡大といった都市化の進展も相まって、首都沈没の事態も起こり得ると昨夜のNHKスペシャルで警告していました。まるでハリウッドのパニック映画のようなCGの映像が流れていましたが、あり得ないことではないとのこと。荒川が決壊すると、東京の地下鉄は短時間で殆ど水没すると予測されているとのことです。早速、ワインとチーズを備蓄しておかないといけませんね。それはそれとして、今日は東海道の続きを歩きます。京急の神奈川新町駅で電車を降り、駅の脇にある神奈川通東公園に向かいます。先日は見落としていたのですが、公園の脇に「史跡 オランダ領事館跡」の石柱が建っています。横浜開港当時、各国の領事館は主に近在のお寺に置かれましたが、この地にあった長延寺にオランダ領事館が置かれたのだそうです。



「神奈川歴史の道」は神奈川通東公園から始まりますが、ルートは一本道ではないようです。あまり細かいことは気にしないで、適当に歩いていきます。神奈川小学校の塀には、東海道神奈川宿の当時の様子がタイルに描かれています。神奈川小学校脇には「上無川(かみなしがわ)」が流れていて、「かながわ」の地名はその「み」と「し」を略したものだという説があるそうです。ホントかなぁ。。。このあたりには神社やお寺が多いですね。成仏寺にはヘボン式ローマ字を考案したアメリカ人宣教師のヘボンが住んでいたそうです。神奈川宿は、安政元年の神奈川条約締結の舞台となったため、お寺は領事館だけではなく、外国人の宿舎としても使われたんですね。



青木橋を渡って、京急とJRの線路を越えます。旧東海道は左手奥の道路を進みますが、「神奈川宿歴史の道」は右手の坂を上り、本覚寺前から左に進みます。すんごい急な坂ですが、高台からの眺めは抜群です。横浜開港当時、アメリカ総領事のハリスは自ら見分し、渡舟場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、更には湾内を見通すことのできる本覚寺をアメリカ領事館に定めたのだそうです。更に坂道を登りますと、高島台公園があります。ここからの眺めも素晴らしいですね。地名の「高島」は「高島嘉右衛門」という明治期の実業家に因んでいるのだそうです。そういえば、桜木町駅の手前に高島町という廃止された東急の駅がありましたが、その地名も埋め立てを請け負った氏の名前を残したのだとか。



高台から下りて旧東海道のルートに戻ります。このあたりは神奈川宿の西端にあたり、神奈川台の関門が置かれたところです。かなりの高台ですが、崖下には神奈川湊が広がり、潮騒の聞こえる海辺の道だったそうです。長延寺から4kmにわたって続いた神奈川宿は、この先の上台橋で終わりとなります。



旧東海道は、青木橋から環状一号線の外側に沿って通っているのですが、松原商店街入口の手前の四つ角に八王子道との追分の標識があります。横浜開港以降、八王子方面から横浜に絹が運ばれるようになり、八王子道は「絹の道」と呼ばれるようになったそうです。



相鉄線の天王町駅前広場に東海道保土ヶ谷宿の案内板と初代歌川広重の浮世絵で有名な旧帷子橋(新町橋)跡の記念碑があります。帷子橋を渡った先から東海道4番目の程ヶ谷(保土ヶ谷)宿が始まります。旧東海道に沿って「歴史の道」の案内板が幾つも建てられています。「問屋場」は、幕府の公用旅行者や大名などの荷物の運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを行う施設だったそうです。高札場は、幕府や領主の基本的な法令を周知するための掲示版のようなものですが、宿場ではこれに加えて荷物の運搬料金とか旅籠屋の木賃(宿泊料)を記載したものもあったそうです。居酒屋の酒代が入っていたかどうかは定かではありませんが。何にしても明朗会計でいいですね。



JRの線路を越え、国道1号線に突き当たったところに保土ヶ谷宿本陣跡の案内板があります。この本陣は苅部家が代々勤めてきましたが、現在でも子孫の方が跡地に住んでおられるようです。本陣が混雑した際などは脇本陣も使われましたが、保土ヶ谷宿には藤屋・水屋・大金子屋の3つの脇本陣があり、藤屋跡には案内板が建っています。大金子屋は「まちかど博物館」として、建物の一部が保存されています。



その先の今井川と接するところに、松並木と一里塚が復元されています。保土ヶ谷宿の松並木は境木というところまで3kmにわたって続き、広重や北斎の浮世絵にも描かれたそうです。一里塚は日本橋から8番目に位置したそうです。



保土ヶ谷二丁目交差点から旧道に入ります。保土ヶ谷区内では、道路の分岐点毎に「歴史の道」と書かれた案内板があり、ルートに迷うことがありません。史跡の距離も添えられていますのでとても便利です。地理に不案内な人間には有難いですね。元町橋先からきつい登り坂の権太坂が始まります。江戸から西に向かう旅人が初めて出会う東海道の難所だったそうです。坂の名前の由来は、旅人が耳の遠い老人に坂の名前を訊いたところ、老人は自分の名前を訊かれたと思い「権太」と答えたことによるのだとか。坂道を切り開いた「権左衛門」という人の名前をとって「権左坂」と名付けたものが「権太坂」に変化したという説もあります。当時は今より勾配がきつかったそうですが、高台からの景色が良かったために、北斎の冨嶽三十六景にも描かれています。権太坂を上った先に「境木立場跡」の史跡があります。「立場」とは、宿場と宿場の間に設けられた馬子や人足が休息するところです。この先、焼餅坂と品濃坂という難所が続くなか、西に富士、東に江戸湾を望む景観が素晴らしかったことから、旅人が必ず足を止める名所だったそうです。ここは武蔵国と相模国の境界に当たり、その印しとして建てられた「境杭」という木柱が「境木」の地名の由来になったのだそうです。



境木から焼餅坂を下ります。坂の名前は、旅人の女性がヤキモチを妬いたからではなく、茶店で売っていた焼餅に由来するのだそうです。焼餅坂の先には品濃坂の登りが続きます。坂の途中には日本橋から9番目の「品濃一里塚」があります。旧東海道を挟んで二つの塚が当時のまま残っているのは神奈川県内ではここだけだそうです。早朝に江戸を発ち、日暮れまでに戸塚宿を目指す旅人にとっては品濃坂は最後の難所だったのでしょう。



環状2号線を渡って、川上川に沿って進みます。再び国道1号線に合流し、戸塚宿を目指します。不動坂交差点で国道1号線は二手に分かれますが、旧東海道は更に左手の不動坂を進みます。江戸方見付跡(宿場の江戸側の出入口)を過ぎますと、東海道5番目の戸塚宿に入ります。戸塚宿には、内田本陣と澤邊本陣の2つがありました。澤邊本陣跡には同名の表札がかかっていましたので、現在でも子孫の方がお住まいなのでしょう。



JR戸塚駅前に着いたところで、更に東海道を先に進むか、ここで中断するか迷います。この先は藤沢まで鉄道の駅はありませんが、何とかなるでしょう。戸塚宿の京方見付である上方見付跡の先には、長〜〜〜い登りの大坂が続きます。松並木から素晴らしい富士山が眺められることから、多くの浮世絵に描かれたことで知られています。



大坂を登った先で、不動坂で分かれたもう一方の国道1号線と一緒になります。片車線が昔の道らしく、道路の中央に松並木が続いています。でも、大型トラックがひっきりなしに走っていますので、排気ガスで空気は最悪です。環状4号線と交差する原宿には日本橋から11番目の一里塚跡があります。吹上の一里塚とも呼ばれましたが、取り壊されて現在では残っていません。



影取町の藤沢バイパス出口で国道1号線と分かれ、県道30号線(戸塚茅ヶ崎線)を進みます。並木道が続き、旧道らしくていいですね。鉄砲宿という地名がありますね。昔この辺りに住んでいた長者が自分の蔵に住み着いた大蛇を水神様のお使いとして「おはん」と名付けかわいがっていました。ところが長者の家が没落し、大蛇への餌もままならなくなってきたので、大蛇は長者様に迷惑をかけまいと近くの池に去っていきました。池には十分な食料がなかったので、大蛇は空腹に耐えかねて人の影を食べて飢えを凌ぎましたが、影を食べられた人は段々と弱ってしまい、村人はこの池を影取池と呼んで恐れたのだそうです。村人は一計を案じ、猟師に頼んで長者様のように「おはん」と呼びかけたところ、大蛇は長者様が迎えに来たものと思い込んで姿を現し、猟師に撃ち殺されたのだそうです。影取の名前は町名に、猟師の住んでいたところは鉄砲宿と呼ばれるようになりました。



藤沢橋に向かって緩い下りの遊行寺坂が続いています。両側は一段と高くなっていますが、道路の建設に際して旧東海道を掘り下げたからなのだとか。ここには一里塚もあったのだそうですが、今は痕跡もありません。



ということで、境川に架かる藤沢橋に着きました。戸塚からは長い距離でしたねぇ。夕暮れも迫ってきましたので、今日のお散歩はここで終了とします。小田原までは未だ35km位はありますかね。一日では無理かな?






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