13.甲州街道コース
[木枯し紋次郎も駆け抜けた甲州路!]
甲州街道(甲州道中とも呼ばれます)は江戸幕府によって整備された五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)のひとつで、江戸(日本橋)から内藤新宿・八王子・甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで38の宿場が置かれました。徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際には親藩が居城した甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたと云われています。短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所が設けられたのはそのためです。街道沿線の物価が高いことやインフラが十分に整備されていなかったことから、参勤交代では多くの藩が中山道を使い、甲州街道を利用したのは僅かに3つの藩だけでした。現在は国道20号線が甲州街道を継承しています。
お散歩で下諏訪まで歩くわけにはいきませんので、コースの終点は小仏関所跡までとしました。
甲州街道コース(一日目:日本橋から東府中駅まで)
- 所要時間:7時間57分
- 歩数: 42、439歩
- 距離: 30.6km
台風9号が去った後、急に涼しくなりました。日中は未だ暑さが残っていますが、朝夕は随分過ごしやすいですね。東海道を歩いた後はどこにしようかと思ったのですが、五街道の残りの甲州街道を歩いてみることにします(奥州街道は宇都宮まで日光街道と同じルートのため除外)。甲州といえば、ワインですねぇ!これから葡萄の収穫とワインの仕込が始まり、秋の深まりと共にヌーボー(新酒)の季節がやってきます。もうひとつ甲州で思い浮かぶのは、道中合羽を寒風に翻して駆け抜ける木枯し紋次郎ですね。甲州街道の起点は、他の五街道と同じく日本橋になります。街道を歩くシリーズで日本橋から出発するのは7回目です。5回は北方向に歩きましたが、今回は東海道に引き続いて南方向に歩きます。日本橋はここのところ工事が続いています。明治44年に架設された古い橋ですので、雨水の浸透などで経年劣化が起きているそうです。御影石の路面を剥がして防水層を敷き直し、橋脚や基礎部分への雨水の浸食を防止するよう補修しているそうですが、さすが重要文化財に指定されているだけあって戦時中に落とされた焼夷弾の跡まで残すという念の入れようです。
8月29日に来たときは路面は見えませんでしたが、今日は片側の路面をはがして工事している様子が見てとれます。
コレドの角で右折し、大手町交差点まで直進します。国道一号線と同じルートなので、甲州街道の名前はどこにも出てきません。というか、府中まで歩いた限りでは、他の街道で頻繁に見かけた案内板はひとつもありませんでした。地元の思い入れが希薄なのでしょうか?いやいや、実は私が案内板の大半を見落としてしまったのです。日比谷通りから皇居に沿って内堀通りを進みます。今やジョギングのメッカとなったコースですが、平日の出勤時間帯ですので、さすがに走っているランナーは少ないですね。9月の初旬だというのに、沿道には枯葉が積り、木々の葉は早くも黄色く色づいています。これも猛暑の影響なんでしょうか?
半蔵門交差点から新宿通りを進みます。ここは麹町大通りとも呼ばれていますが、江戸時代にはあらゆる業種のお店が連なり、麹町に行けば何でも間に合うとさえ云われたそうです。麹町の地名は、@「小路」が多かったから、A「麹」を作る店があったから、B武蔵国府に向かう「国府路(こうじ)」があったからなどと諸説があります。どれももっともらしいですが、こじつけのような気がしないでもないですな。四谷駅の北側に石垣が残っていますが、これはかっての四谷見附の一部だそうです。見附は枡形をした見張りのための城門で、江戸城には赤坂見附とか市ヶ谷見附など三十六の見附がありました。
四谷と云えば、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」に出てくるお岩さんを想い浮かべますが、四谷三丁目の交差点脇にはお岩さんを祀った「お岩水かけ観音像」があります。新宿通りから一つ奥に入ったところに於岩稲荷がありますので、念のためそちらもお参りされると祟りが起こらないかも。
四谷四丁目交差点脇には「四谷大木戸跡」の記念碑が建っています。江戸時代、多摩川の羽村堰で取水された玉川上水は四谷大木戸まで川となって流れ、ここから石樋や木樋を地下に埋設して通水したそうです。ローマの水道橋にも劣らぬ素晴らしい施設ですね。
伊勢丹で左折し、新宿四丁目交差点で右折すると、いよいよ甲州街道の標識が現れます。甲州街道の最初の宿場は内藤新宿ですが、これは信州高遠藩主であった内藤若狭守が幕府に返上した下屋敷に新しい宿場が設けられ、高井戸宿に対する新しい宿との意味と併せて「内藤新宿」になったのだそうです。現在の新宿の地名もこれに由来しています。新宿は甲州街道の副産物だったんですね。ずんずん進んで、甲州街道は笹塚交差点で中野通りと交差します。この交差点角に「道供養碑」の案内板が建っています。江戸時代の道供養信仰を知る珍しい史跡で、道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げ、通行の安全を祈願するものだそうです。現在の中野通りは鎌倉道の一部に当たるため、この道供養碑は鎌倉道で行き倒れになった行路者に対する供養の意味もあったと考えられています。道供養碑の奥には「牛窪地蔵尊」が祀ってあります。以前、この地には極悪人の刑場があり、最も厳しい牛裂きの刑が行われていました。牛を使って両足から股を引き裂く酷刑で、周囲が窪地だったことと併せて「牛窪」の地名になったんだそうです。この地に悪疫病が流行った際に罪人の霊の祟りだと伝えられ、地蔵尊を祭って霊を慰めたのだとか。
甲州街道は西に向かって延びているため、あちこちで南北方向の道路と交差します。大原交差点で環七と、松原交差点で井の頭通りと交わっていますが、どちらもラジオの交通情報でよく耳にしますね。
荒玉水道道路と交差する手前に「一里塚」というバス停があります。特に案内板はありませんが(鎌倉街道入口のところにあるとか)、この付近には高井戸宿が置かれ、日本橋から4番目の一里塚があったとのことです。
甲州街道の上には、西新宿三丁目から首都高4号線の高架が延びています。ただでさえ交通量が多いのに、首都高の巨大な高架は気分を圧迫させます。上北沢駅付近でようやく高架と分かれますが、その手前に鎌倉街道入口という交差点があります。ビルの間の細い道路ですが、辿っていきますと、庚申堂バス停とか神田川に架かる鎌倉橋とか、なんとなく街道の雰囲気がします。鎌倉街道のルートがイマイチ不明なために未だ実現していませんが、そのうちに是非鎌倉街道も歩きたいものです。
高速道路奥の信号横に「鎌倉街道入口」の標識があり、ビルの間の路地が鎌倉街道の道筋と思われます。
上高井戸一丁目交差点で環八と交差しますが、その先から左手に旧道が延びています。千川三叉路まで続く比較的長い道のりで、商店街主体の交通量の少ない道路です。旧道はのんびりして歩きやすくていいですね。途中、下宿とか中宿とかの名前の付いたバス停がありますが、烏山には正式な宿場は置かれなかったので、由来はよく分かりません。千川三叉路で再び国道20号線と合流します。この先で日本橋から20kmの標識に出会います。ちょっと歩いたところで、道路の反対側に「瀧坂旧道」の石碑が建っています。いつもならすっ飛んで行くところですが、入り口が鉄製の柵で閉められていたので止めました。後で調べてみますと、ここが今日の最大のハイライトになったであろう区間ということが分かりました。ここから旧道が300m位続いていて、この部分が八王寺以東で唯一旧街道の面影を残す場所なのだそうです。昔は雨が降ると滝のように雨水が流れたという急坂で、新宿から八王子までの間で一番の難所として有名だったとか。旧道の入口の右手は馬宿を営んでいた川口家の屋敷で、私が閉まっていると勘違いした鉄柵は川口家の門だったようです。道路の右側を歩いていれば瀧坂の入り口を見逃すことはなかった筈なのですがね。今日は沢山の案内板を見落としたし、ツイテないです。
後日、ちゃんと歩いたもんね。
調布警察署の手前で野川を越えます。橋の名前が馬橋というのも何か街道の面影を連想させます。旧甲州街道入口の三叉路で国道20号線と分かれて左側の旧道を進みます。この先、府中市の本宿町まで旧道が延びています。住宅街の狭い道ですが、交通量が少ない上に武蔵野の面影がそこはかとなく感じられ歩きやすいです。布田駅近辺には布田五宿と呼ばれる宿場がありました。上石原・下石原・上布田・下布田・国領の五宿を併せて、布田五宿と呼ばれたそうです。下高井戸宿と上高井戸宿が交代で宿場を勤めたように、これら五宿も交代で宿場を勤めたそうです。宿場を運営するにはそれだけ負担が大きかったのでしょう。
東府中駅に着きました。太陽が大分傾いてきましたので、今日のお散歩はここまでにします。ふと見上げますと、広場の前に「品川街道」という標識があります。府中と品川に接点はあるのかなと思って調べたら、なかなか面白そうな街道です。ここも是非歩いてみたいものです。
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