13.甲州街道コース

[木枯し紋次郎も駆け抜けた甲州路!]





甲州街道(甲州道中とも呼ばれます)は江戸幕府によって整備された五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)のひとつで、江戸(日本橋)から内藤新宿・八王子・甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで38の宿場が置かれました。徳川家康の江戸入府に際し、江戸城陥落の際には親藩が居城した甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたと云われています。短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所が設けられたのはそのためです。街道沿線の物価が高いことやインフラが十分に整備されていなかったことから、参勤交代では多くの藩が中山道を使い、甲州街道を利用したのは僅かに3つの藩だけでした。現在は国道20号線が甲州街道を継承しています。

お散歩で下諏訪まで歩くわけにはいきませんので、コースの終点は小仏関所跡までとしました。

甲州街道コース(二日目:東府中駅から小仏関所跡まで)

「暑さ寒さも彼岸まで」と云いますが、この一週間の気候の変化は驚くばかりです。まだ晴れた日中は気温が30度位まで上がりますが、朝夕は肌寒くさえ感じます。今日は甲州街道の続きを歩きます。やや出遅れましたが、10時前に東府中駅に降り立ちます。野川を渡った先から続いた旧甲州街道は東府中駅前で国道20号線とニアミスしますが、更にここから本宿町交差点まで旧道が続きます。京王線の踏切を渡ってずんずん進みますと、府中市の市街地に入ります。府中には宿場が置かれ、新宿・番場宿・本町の3つの宿から構成されていました(新宿の手前に八幡宿という地名がありますが、宿場ではありません)。本町には江戸時代以前から鎌倉街道(現在の府中街道)の宿駅があり、これに新宿と番場宿が加わって府中宿になったのだそうです。



府中はかって武蔵国の国府が置かれたことでも知られ、その跡地には大國魂神社の広大な境内が広がっています。大國魂神社の手前が新宿、その先が番場宿になっていたそうです。



府中市役所前交差点は鎌倉街道が南北に通り、角には高札場が今も残っています。旧甲州街道は本宿町交差点で国道20号線と合流しますが、その手前で左側の路地に入る道が甲州古街道と呼ばれているものです。町名の本宿は府中宿の名残を残しています。南武線のガード下を抜け、本宿町一丁目交差点で都道18号線(鎌倉街道)を渡った先に広大なNECの府中工場があります。工場内には本宿一里塚があり、お願いすれば見学できるとのことです。古街道に一里塚とは不思議な気もしますが、江戸時代初期には甲州街道として使われていたのだそうです。



工場正門で右折しますと、右手に崖が連なり、崖下に沿って旧府中用水跡の市川緑道が延びています。この崖は「ハケ」と呼ばれる府中崖線で、ハケからしみ出た湧き水が川や用水となって土地を潤していたそうです。緑道はよく整備され、木々の生い茂る散歩道になっていますが、「まむしにちゅうい!」の看板があちこちに立てられていますので藪には入らないようにしましょう。



上坂橋の手前で右折し、緩い坂道を上ります。ここはかっての大山道の一部で、橋の袂には立派な道標が建てられています。大山道はあちこちで見かけますね。



西府橋交差点で国道20号線に合流し、国立市に入ります。谷保(やほ)という地区には古い屋敷風の民家が残っていて、昔の隆盛が偲ばれます。甲州街道沿いには常夜灯(秋葉燈)が幾つか残っています。江戸時代に村を火難から守るために火伏せの神を祀ったもので、地区の住民が毎夕交代で灯を灯し、甲州道中の明かりともなっていたのだそうです。



立川市に入り、日野橋交差点で立川通りと新奥多摩街道の間の奥多摩街道を進みます。少し先のT字路で左折し、市民体育館の脇を通る旧甲州街道に入ります。新奥多摩街道を渡ったところに立川市の錦町下水処理場がありますが、昔はここに「日野の渡し」があり、舟や人力で多摩川を渡ったのだそうです。土手の上を通って立日橋を渡ります。橋の中央部には多摩モノレールの高架が通っています。



橋を渡りますと日野市に入ります。ここには日野宿が置かれ、現在でも本陣の建物が資料館として残っています。都内に唯一残る本陣建築だそうです。本陣の向かいには、問屋場と高札場が置かれたそうで、跡地は図書館になっています。



JR日野駅のガード下を抜け、左にカーブする長い坂を上ります。「大坂」という名前だそうですが、昔の旅人にとっては永遠に続く山道に思えたことでしょう。大坂を上り切った先には日野自動車の広大な敷地が広がっています。ここにお勤めの方は、朝な夕なに大坂を上り下りされているのでしょうか?日野自動車の先には、これまた広大なコニカミノルタ東京サイト(事業所)の敷地が広がっています。



八王子市に入ります。大和田橋で浅川を渡り、右折して市立五中交差点で左手の裏道に入りますと、右手に竹の花公園があります。ここは八王子宿の東の入り口に位置し、日本橋から12番目の「新町竹の鼻の一里塚」が置かれました。この先で旧道は鍵の手に曲がっていますが、街道防御のためだったのでしょうか?八王子宿は正式には「横山宿」と呼ばれています。八王子宿は全部で15の宿から構成されていましたが、その中で横山宿が一番大きかったためだとか。八王子は今も交通の要所らしく、甲州街道からは野猿街道・秋川街道・陣馬街道などが分岐しています。いつか歩いてみたい魅力的な街道名です。



追分二差路を左に進み、高尾を目指します。ここの地名は千人町ですが、武田家滅亡後徳川家に仕えた半士半農の武士集団が中核となって江戸の西口の防備にあたった八王子千人同心の名残とのことです。長房団地入口交差点で右折し、直ぐに左折して少しの間旧道を進みます。角には「右 高尾山 左 真覚寺」の大きな石碑が建っています。ここに「散田村新地の一里塚」が置かれたそうですが、異論もあるようです。尚、江戸時代の甲州街道は直線ではなく、角々と曲がりくねっていたそうで、確かにここは曲がり角になっていますね。



多摩御陵参道に続く交差点のひとつ先から右手の旧道に入ります。弓型をした住宅地の道路ですが、側溝には勢いよく清流が流れています。特に案内板は見かけませんでしたが、旧道らしい雰囲気を堪能できます。高尾駅を過ぎ、両界橋を渡ってJR中央線のガード下を抜けた先に西浅川交差点があります。旧道はここで右折し、小仏峠に向かいます。途中に駒木野病院がありますが、私もワイン依存症になってお世話にならなければいいのですが。緩やかな狭い坂を上って行きますと、右手に竹垣で囲まれた小仏関所の史跡があります。元々は北条氏によって小仏峠に築かれましたが、徳川家康によって現在の駒木野に移設されたのだそうです(正式には駒木野関所と呼ばれています)。この関所の東側は駒木野宿、西側は小仏宿になっていました。



関所は道中奉行の支配下に置かれ、4人の関所番が配備されました。明け六ツ(午前6時)に開門され、暮れ六ツ(午後6時)に閉門されたそうで、通行には手形を必要としました。庶民が携行した町人手形は名主によって発行され、その手形を番所の前に据えられた手形石にならべ、もうひとつの手付き石に手をついて吟味を待ったのだそうです。抜け道を通ることは関所破りと見做され、磔の刑が課せられたのだとか。



さて、私も関所を通る必要がありますが、生憎と手形を持っていません。ダメ元で手形石に荷物を置き、手付石に手をついてお許しを請います。「お奉行様ぁ、甲州道中をお散歩しておりますぅ。何卒、お通し下されぇ。」「ならぬっつ、手形なき者は通しゃせぬっつ!」と云うことで、甲州街道のお散歩は小仏関所で終了となりました。今度は、ヌーボーの時季に甲州ワイン街道を歩いてみたいものです。






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