14.下妻街道コース

[下妻物語の舞台を訪ねて!]





下妻街道は、中川の自然堤防上に築かれた古道です。前九年の役(1051年〜1062年)と後三年の役(1083年1087年)の際、陸奥(青森県と岩手県の一部)の安部時頼の討伐に向かった源頼義・義家らが通ったとされ、鎌倉時代には鎌倉と常陸・陸奥各地とを結ぶ主要道路として重んじられていました。徳川幕府によって水戸街道が整備されるまでは、下総と常陸の国を江戸につなぐ主要路にもなっていました。江戸時代に入ると、日光街道と水戸街道の中間に位置したことから、茨城県下妻方面への脇往還として利用され、この名前がつきました。現在でも、埼玉県の柿木町には街道跡が残され、昔を偲ばせる風情があります。現在では地図上で下妻街道の名前を見かけることは殆どありませんが、足立区の綾瀬川近くを通る区間は別名「花畑街道」と呼ばれています。街道の起点は足立区の千住で、終点は奥州街道と合流する栃木県さくら市(旧喜連川町)の連城橋南詰です。尚、茨城県の下妻(しもつま)市は、深田恭子と土屋アンナの主演映画「下妻物語」の舞台となったところです。

お散歩で喜連川まで歩くわけにはいきませんので、コースの終点は築西市冨士美陸橋までとしました。

下妻街道コース(一日目:千住五丁目から野田市愛宕神社前交差点まで)

今日は暑かったです。先週は気温も下がってようやく秋の訪れを感じたのですが、また真夏に戻ったような酷暑でした。予報では、お彼岸の中日にあたる23日を境にして気温が急激に下がるのだとか。ガリガリ君とも今年最後のお別れをしたし、この夏に思い残すことは何もありません。願わくば、来年はほどほどの暑さになって欲しいものです。さて、今日は下妻街道を歩きます。あまり聞きなれない街道名ですが、以前日光街道を歩いた折に、北千住のとある民家の角で見付けた道標に「北へ 旧下妻道 北西へ 旧日光道中」と書いてあり、その名前に惹かれていつか歩いて見ようと思っていたのです。いろいろネットで調べたのですが、ルートが分からず延び延びになっていました。ようやっと千葉県の野田市までルートが判明しましたので、行けるところまで歩いてみようと思います。ということで、北千住にやってきました。起点は、駅から商店街を抜けて10分ほどの千住五丁目の民家の角になります。道標となる石柱は古くありませんので、近年になって建てられたのでしょう。



北に向かって進みます。といっても、100mほど先は荒川の土手になりますので、行き止まりです。江戸時代には現在の荒川は存在せず、そのまま東武伊勢崎線の五反野駅方向に真っすぐに延びていたとのことです。土手の手前には、江戸時代から続く骨接ぎ専門の千住名倉医院があります。下妻道に面し、日光道中や水戸海道分岐点が近かったため、関東一円から駕籠や大八車で運ばれてくる骨折患者がひしめいていたのだそうです。江戸時代から使われてきた診療所の建物は史跡として敷地内に保存され、赤ひげにでも出てきそうな日本家屋の建物では今も整形外科の病院として診療が行われています。治療の際はちゃんと麻酔は使ってくれるのでしょうか?



千住新橋で迂回して五反野駅に続く通りを北上します。駅の先の四家交差点から右斜め前の花畑街道を進みます。田中さんの花畑牧場に似たロマンチックな名前ですが、都内屈指の古村だった「花又」の美称地名である「花畑」に由来するものだそうです。毛長川と綾瀬川に囲まれた殺風景な土地には何とも似つかわしくない地名のような。。。内匠橋で綾瀬川を渡り、浮塚交差点から八潮市に入ります。大曽根を通って中川に向かいますが、途中に若柳というバス停があり、かって徳川家康が関が原の戦いの直前に上杉景勝を討伐する際に陣を敷いたところだと伝えられています。家康が昼食の後で地面に刺した柳の箸から若芽が吹いたら勝利だといい、実際に芽が吹いて家康が関が原の戦いに勝利したことに因んで、この地を若柳という地名にしたのだそうです。でも、注意して通ったのですが、それらしきバス停はどこにもありませんでした。真っ直ぐ進んで土手に突き当たったところで、中川通りに沿って北上します。農道を舗装したような歩道もない狭い道路ですが、車はビュンビュン走っています。車とすれ違う際は避けようにも避けられません。結局、吉川橋の手前まで車に気が抜けない歩きとなりました。街道沿いの長閑な景色は申し分ないのですがね。



八潮排水機場の脇に4つの石像が並んでいて、庚申塔の左面には「江戸道」と彫ってありました。下妻街道の希少な道標のひとつです。



外環道の高架下を抜け、更に北上します。柿木町に入りますと、交差点の標識に女体神社(南)というビミョーな名前が書かれています。何か曰くありげですねぇ。少し進んだ先の道路下に、鬱蒼とした木々に覆われた神社らしき敷地が見えます。鳥居の方に回ってみますと、「女體神社」の大きな石柱が建っています。これがそうなのかと、鳥居横の案内板を見ます。それによりますと、「女体神社」の名前の由来は怪しいものではありません。柿木地区には中川沿いに下妻街道が通り、平将門の叔父にあたる豊田氏によって古くから開発されたのですが、後に後裔にあたる豊田治親が多賀谷氏の侵略で討ち取られ、本城の石毛から逃れた妻子が落ち延びて柿木に移り住んだそうです。豊田氏は信仰心が篤く、筑波山女体神社を崇拝していましたので、その分霊を勧請してこの神社を創建したのだとか。では何故筑波山に女体神社という名前があるのかといいますと、筑波山は男体山と女体山という2つの山から成っていて、女体山に置かれた女体神社がその由来なのだそうです。ビミョーでも何でもありませんね。



この付近には、「草加八景 音店河岸と下妻街道」と書かれた真新しい石柱や年代物の道標など、下妻街道の存在を示す痕跡が残っています。こういうのを探しながら歩くのはラリーのようで面白いですね。



更に中川沿いを北上します。吉川橋で中川を渡り、吉川市に入ります。延命寺の角で左折し、埼玉県道67号線を進みます。ようやく歩道が現れました。交通量は多いですけど、前後の車を気にせずに安心して歩けます。大落古利根川が中川に合流する地点で弥生橋を渡り、松伏町を半周するように進み、野田橋を目指します。午後の陽差しは強烈で、顔中から汗が吹き出します。二万五千分の一の縮尺の地図では幾ら歩いても遅々として距離は延びません。所々で見かける古い庚申塔以外に目を引くものはなく、ひたすら歩き続けます。夕日が大分傾いて来た頃、ようやっと江戸川が見えてきました。かなり上流の筈ですが、川幅は広くて水量は豊富ですね。広大な河川敷はゴルフ場になっています。対岸には野田市の一大産業であるキッコーマンの醤油工場が見えます。



長〜〜〜い野田橋を渡ります。中野台交差点で左折して直ぐに次の信号を右折します。交差点脇には古い石像が沢山並んでいます。道祖神、庚申塔、馬頭観世音、誰かのお墓も混じっているようですねぇ。下妻街道の道標はないかと探したのですが、残念ながら見当たりませんでした。



東武野田線の愛宕駅まではもう少しです。それにしても、この通りは寂れていますねぇ。夕暮れ時なのですが、殆ど人通りがありません。ふと前方の建物を見ますと、「やよい食堂」という大きな看板がかかっています。築数十年と思われるトタン屋根の外観と変色した食品サンプルは、とても食欲をかき立たせるものではありません。でも、この店名はどこかで聞いたことがあるような。。。そうそう、先週土曜日のテレビ東京で放映された「出没!アド街ック天国」という番組でも紹介されていましたが、全国から大喰いが集まるデカ盛りの聖地なのです。名物おばさんが作る一番人気の「カツカレー 大盛り」は丼にてんこ盛りの驚愕のボリューム!溢れたカレーを受け止めるための大皿を敷いた丼には3合分のご飯を詰め込み、総重量は2kgを超えるとか。小さな食堂でありながら、一日に40升のお米を炊くそうですから、他のメニューのボリュームも推して知るべしです。一度食べに来たいとは思っていたのですが、どこにあるか場所が分かりませんでした。下妻街道に面していたとは!生憎と午前の部は午後3時で終了し、夜の部は夕方5時からと張り紙に書いてありました。30分待てばいいのですが、汗まみれの恰好で入りたくはないですね。また出直すことにして今日のところはパスします。



そのまま真っすぐに進み、千葉県道17号線(流山街道)に突き当たったところで左折します。次の信号が下総野田の総鎮守である愛宕神社前です。



東武野田線の愛宕駅は直ぐ近くなので、今日のところはここでお散歩を中断することにします。本当は利根川堤の小山の渡しまで行きたかったのですが、時間的に到底無理です。ここで下妻街道の歩きを終えるのは中途半端だし、さてどうしますかね?続きを歩くかここで下妻街道の歩きを終了するかは家に帰ってから考えることにしましょう。それにしても今日は暑かったですぅ。セルベッソ、セルベッソ。。。






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