15.水戸街道コース

[この紋所が目に入らぬかっつ!]





水戸街道は江戸時代に定められた五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)に準ずる脇街道のひとつです。江戸側の千住宿と水戸藩の城下町である水戸を19の宿でつなぎ、御三家のひとつだった水戸徳川藩が江戸と水戸の連絡のために利用したことから、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれました。街道名は行き先の名称を冠したことが多かったため、水戸側では江戸街道と呼ばれていました。水戸以北は岩城街道・磐城街道と呼ばれ、岩沼宿で奥州街道と合流して仙台まで続いていました。水戸街道・磐城街道は奥州街道の脇道として江戸と東北をつなぐ幹線道路ではありましたが、奥州街道ほどには栄えませんでした。明治時代以降は水戸街道と磐城街道をまとめて陸前浜街道として扱われています。現在では、水戸街道は国道6号線の東京都墨田区向島から茨城県水戸市までの区間の愛称として用いられています。

水戸街道コース(一日目:日本橋から金町三丁目交差点まで)

今日は爽やかな秋晴れとはいかなかったものの、まずまずのお天気でした。今日から水戸街道を歩くことにします。水戸街道は日本橋を起点とし、千住までは日光街道と同一のルート、その先の葛飾区新宿(にいじゅく)までは佐倉街道と兼用となっています。日光街道も佐倉街道も既に歩きましたので、日本橋から新宿までは重複しますが、完璧さを求めて日本橋からスタートしたいと思います。ということで、またまた日本橋にやってきました。日本橋の補修工事は依然として続いていて、片方の御影石張りの橋面は完全に剥がされています。明治44年(1911年)に架橋され、関東大震災や東京大空襲にも耐えて、来年で100年になるそうです。100周年記念五街道踏破ウォーキング大会なんていうイベントが企画されたら面白いですけど。



道標広場の里程表によりますと、日本橋から水戸までは118kmとのことです。なんとか踏破して、鮟鱇料理にありつきたいものです。



日本橋から新宿までは佐倉街道と同じルートなので地図なしで歩けます。三井本館の向かい側に建設中だった2棟の高層ビルは既に完成し、テナントの入居が始まっていました。手前側は「COREDO室町」という複合商業ビルで、有名飲食店や多目的ホール、それにオフィスが入るそうです。オープンは今月末とのことですが、COREDO日本橋と同じコンセプトだそうです。「COREDO」とは、その歴史や伝説を現代に引き継ぎ、街の核(CORE)になるようにとの想いからネーミングされたとのことです。もうひとつは野村不動産のオフィス主体のビルですが、千住名倉医院の系統を引く「江戸の骨接ぎ200年名倉整形外科」の診療所も入るそうです。周辺の建物に閉店のお知らせが目につきますが、室町地区では全体で五街区の再開発が行われるとのことで、これからもビルの建て替えが行われるようです。昔の街並みがどんどん変わっていきますね。



都心部でも東京スカイツリーがよく見えるようになってきました。現在の高さは478mだそうですが、アンテナ部となるゲイン塔を除いた高さは495mだそうですから、鉄骨の組み立てはもう少しで終わりですね。来週の13日(水)にはライトアップのテストが行われるそうです。3時間限定ですので、是非お見逃しなく。



千住の住宅地で日光街道と分岐しますが、その手前に「かどやの槍かけだんご」という古ぼけたお店があります。見かけは普通の串団子なのですが、「槍かけ」って何でしょうか?。小さな空地の角に「東へ 旧水戸佐倉道 北へ 旧日光道中」と書かれた道標が建っています。比較的新しいので、あまり有難味はありませんね。



右折して、細い路地を通って東武線のガード下を抜けますと、「槍掛けの松」で知られる清亮寺の前に出ます。先ほどの「槍かけだんご」の由来となったところです。お寺の門前には水戸街道の反対側にまで枝が達する大きな松の木がありました。水戸街道は多くの参勤交代の大名行列で賑わいましたが、槍持ちは如何なる理由でも槍を横に倒すことは許されませんでした。しかし、街道一杯に張り出した枝のため、一度は槍を倒さなければ通れません。そこで街道に張り出した枝を切ろうとしたところ、見事な枝振りをご覧になった水戸藩主の徳川光圀公は、「名松を切るのは惜しい。ここでこの松に槍を立てかけて休み、出立の時に槍持ちが向こう側に行ってから槍を取り直せば槍を倒したことにはならない」と粋なはからいをしました。以来、この松は「槍掛けの松」と称えられ、ここを通る大名は門前で松に槍を立て掛けて休むようになったのだそうです。ちなみに、「かどやの槍かけだんご」は明治時代に創業したそうですから、大名行列の休息中にこのだんごを食べることはなかったでしょう。境内には関東大震災前に撮られた松の写真が碑に残されていますが、地上2−3mのところで90度直角に曲がった大きな枝(というか幹?)は確かに槍を立てて通り抜けることは不可能だったと思われます。残念なことに樹齢350年を数えた名松は昭和20年頃に枯れてしまったのだそうです。このお寺には、明治初年に日本医学発展のために解剖された11人の囚人を供養した「解剖人塚」があるとのことでしたが、広い墓地を探したのですが結局見付けられませんでした。残念!



清亮寺の先で荒川に突き当たります。現在は対岸に行くのに堀切橋を渡って大回りしなければなりませんが、江戸時代には現在の荒川放水路はなく、水戸街道は対岸の小菅まで真っすぐに延びていたのだそうです。延長線上の綾瀬川に架けられている橋は水戸橋という名前ですので、水戸街道の名残なのかもしれません。



小菅から亀有に向かって進みますと、金木犀の匂いがあちこちから漂ってきます。橙色の花と独特の香りはこの時期ならではのものですね。亀有には「旧水戸街道 亀有上宿」の石碑が建てられていますが、これは千住宿と新宿の間に置かれた間宿の位置付けです。



中川を渡った先で右折し、日枝神社手前で道なりに左に折れます。真っすぐに進んだところで右にカーブし、中川橋東交差点で国道6号線に出ます。つい最近まではこの角に「あずまや」という蕎麦屋さんがあり、「右なりた千葉寺道 左水戸街道」と刻まれた佐倉街道と水戸街道の分岐点を示す水戸街道石橋供養道標があったそうです。現在は区画整理か何かで一帯は空地となり、道標もなくなっていました。歴史的に貴重な資料ですので、しかるべきところに保管されていることを切に願っています。すぐ先で左折し、国道6号線を離れて旧道に入ります。旧水戸街道道路拡幅と用水埋設工事に伴って移設された石仏や石碑が真新しいタイル張りの歩道脇に集められています。「帝釈道」の道標もありますが、ここから柴又帝釈天にもつながっていたのでしょう。よく確かめませんでしたが、ひょっとして佐倉街道の分岐点の道標もここに移されていたのかな?



旧道はこの先2つの緩やかな弧を描いて金町三丁目の国道6号線と合流します。この先、葛飾橋を渡って松戸宿に向かうのですが、夕暮れも近づいてきましたので今日はここで中断とします。「秋の日はつるべ落とし」と云いますが、油断しているとあっと云う間に暗くなってしまいます。帰りの足も考えてお散歩しないといけませんね。






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