15.水戸街道コース

[この紋所が目に入らぬかっつ!]





水戸街道は江戸時代に定められた五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)に準ずる脇街道のひとつです。江戸側の千住宿と水戸藩の城下町である水戸を19の宿でつなぎ、御三家のひとつだった水戸徳川藩が江戸と水戸の連絡のために利用したことから、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれました。街道名は行き先の名称を冠したことが多かったため、水戸側では江戸街道と呼ばれていました。水戸以北は岩城街道・磐城街道と呼ばれ、岩沼宿で奥州街道と合流して仙台まで続いていました。水戸街道・磐城街道は奥州街道の脇道として江戸と東北をつなぐ幹線道路ではありましたが、奥州街道ほどには栄えませんでした。明治時代以降は水戸街道と磐城街道をまとめて陸前浜街道として扱われています。現在では、水戸街道は国道6号線の東京都墨田区向島から茨城県水戸市までの区間の愛称として用いられています。

水戸街道コース(二日目:金町三丁目交差点から取手駅東口入口交差点まで)

今日は薄曇りでしたが、暑くもなく寒くもなく、気持ちの良いお天気でした。あちこちで金木犀の匂いが漂い、秋が段々と深まっていきます。今日は水戸街道の続きを歩きます。ということで、先日の中断地点の金町三丁目交差点にやってきました。ここは6月に歩いた柴又街道の起点でもあります。「街道を歩く」シリーズは4ケ月目に入りましたが、こんなに長く続くとは思っていませんでした。関東一円には街道の名を冠した未踏の道路が未だ沢山残っていますので、暫くは楽しめそうです。さて、金町三丁目交差点から国道6号線を進み、常磐線のガード下を抜けた先の歩道橋脇から右斜め前の路地に入ります。水戸街道は多くの区間で旧道が残っていますので、国道6号線を歩く区間は意外と短いのです。路地を進みますと、葛西神社の角に出ます。お正月に江戸川ライン七福神で詣でた神社です。



その先から江戸川の土手下の江戸川堤防線に沿って進みます。この道路には歩道がありませんので、土手上のサイクリング道路を歩くしかありません。葛飾橋を越えたところに都の下水道局東金町ポンプ所の建物がありますが、その脇に「金町関所跡之記」と書かれた真新しい石碑が建っています。案内板によりますと、「金町関所は「金町松戸関所」と称され、江戸の東の関門として水戸街道が江戸川を渡る地点に置かれました。対岸の松戸宿との間には渡し船が常備されていましたが、将軍が小金原に鹿狩りに出かける際は、江戸川に高瀬舟を並べた仮設の船橋が架けられました。明治二年に関所が廃止された後、明治末期の江戸川の改修によって一帯の屋並みの一部は拡幅された堤防の下になり、江戸川の河身も大きく変貌しました」とのことです。



葛飾橋まで戻って江戸川を渡り、松戸側の土手を下りて角町交差点で県道5号線(松戸野田線)に合流します。古くは水戸石橋と呼ばれた春雨橋で水路のような坂川を渡りますが、このあたりから松戸宿が始まっていたのだそうです。当時の絵地図には本陣や問屋場が表示されています。松戸宿は米が豊富だったため、餅菓子や煎餅などを売るお店も多かったそうです。春雨橋の先にお寺が幾つか連なっていますが、寶光院と善照寺の間には幕末の剣豪千葉周作が修行を行った浅利又七郎の道場があったのだそうです。周作は免許皆伝を許された後、いったんは又七郎の娘婿となって道場を継ぎましたが、流儀に対する考え方の違いから免許を返上し、妻も離縁してしまいます。修行の旅に出た周作は「北辰一刀流」を編み出し、江戸神田に幕末江戸三大道場と云われた玄武館を開きました。周作の合理的な剣法は評判を集め、多くの門弟を輩出したそうです。離縁までして極めるとは、剣の道は非情ですね。



松戸駅入口交差点脇に旧水戸街道の案内板がありました。それによりますと、江戸と水戸の距離は29里31町(約117km)で、当時の旅人は2泊3日で歩いたそうです。参勤交代の大名行列は3泊4日だったそうですから、大がかりな行列の割には身軽な庶民と大して変わらなかったようです。金町関所によって江戸川の渡しは朝六つから暮六つまでと決められていましたので、旅人は松戸宿で宿泊することが多く、旅籠はたいそう繁盛したのだそうです。また、江戸川には松戸河岸(納屋河岸)が設けられ、利根川・江戸川流域の水上輸送の要衝でもありました。銚子方面から送られる鮮魚は布佐で陸揚げし、松戸まで鮮魚(なま)街道(懐かしい!)を陸送され、船で江戸に送られました。松戸宿は交通と物流の要衝だったわけです。



常磐線を歩道橋で渡り、上本郷交差点で再び国道6号線と合流します。馬橋駅入口まで国道6号線を進むのですが、途中の「ベガスモーターサイクル」というお店のショーウインドーに気持ちの悪いオブジェが並んでいます。バイクの部品か何かで作った人物像らしいのですが、皮膚を剥ぎ取った人体解剖のような感じでゾッとします。それにしても、よくできているなぁ。。。



馬橋駅入口から900mほど弧を描いて旧道を進み、八ケ崎でもう一度旧道を進んだ後で、北小金駅入口交差点で国道6号線と交差します。現在の国道6号線のルートからすると物凄い大回りなのですが、何か理由があるのでしょうか?小金には広い敷地の旧家が多く、永妻家という代々の飴屋さんは先祖が俳句を詠んだことから同門の小林一茶も宿泊したと云われています。



一月寺は現在は日蓮宗のお寺ですが、門前の標柱によりますと、江戸時代は普化宗金竜山一月寺と云う虚無僧(士の平服に紺黒五条の袈裟をかけ、深編み笠をかぶり、尺八を吹きながら行脚・托鉢をする半俗半僧)の総本山だったそうで、鎌倉時代に創建され、江戸時代には関東地域の普化宗諸派の寺院を統括したものの、明治4年の太政官布告によって普化宗は廃止されたとのことです。鈴木家は代々玉家という屋号を持つ旅籠で、今も外観は江戸時代後期の旅籠の原型を留めています。確かに、瓦屋根を張り出した造りは時代劇に出てきそうですね。



サティ前の交差点で右折しますが、その脇に古い道標が2つあり、片方には「右 水戸道中」、もう一方には「右 水戸海道」と彫られていました。「水戸海道」の方が見かけは古そうでしたので、時代によって街道の呼び方が変わったのかもしれません。



根木内交差点で国道6号線と交差し、更に旧道を進みます。途中に根木内歴史公園があり、戦国時代に置かれた根木内城の空堀・土塁・土橋などがよい状態で保存されています。香取神社には一里塚跡の記念碑があります。水戸街道の一里塚は珍しいですね。



水戸街道は「小金牧」という広大な幕府直轄の馬の放養地を通っていたそうですが、旅人が迷うことがあったために水戸藩の援助によって街道筋に千本の松を植えたのだそうです。昭和50年代まで現存したそうですが、老木となって切り倒され、現在では残っていないそうです。残された写真には天を突く松の大木が写っていますが、もはや見られないのは残念ですね。



柏駅を過ぎ、国道16号線と交差して常磐線を越え、線路沿いに進みます。根戸から国道356号線に入り、我孫子四小前で常磐線を越えます。我孫子駅の先に「我孫子宿本陣跡」の標柱が建っています。近くには脇本陣を勤めた旧家が今でも藁ぶきの屋根のまま残っています。



その先の我孫子一小入口で左折し、成田線の踏切を渡ります。この踏切の名前は「浜街道踏切」になっています。これは水戸街道が磐城街道とまとめて陸前浜街道として扱われていることを示しています。柴崎で国道6号線に合流すると、直ぐ先の青山台交差点で右側の旧道に入ります。住宅地の狭い坂道ですが、非常に迷いやすいところです。利根川の土手に出るとのことですが、道が分からず大回りしてしまいました。



最後の難関は利根川に架かる大利根橋の歩道の入口を見つけることです。県道170号線(利根水郷ライン)との合流点手前の坂を上がって防音壁の隙間から橋の歩道に入るしか方法はなさそうです。さすがに日本一の流域面積を誇る利根川、大利根橋を渡りきるのに17分もかかりました。でも、大半は河川敷の上なんですけど。



橋を渡ってすぐに階段を下りて右折します。ここから先は茨城県の地図が必要になりますので、今日のところは取手駅東口入口交差点で水戸街道の歩きを終了とします。水戸はまだまだ遠いですね。






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