15.水戸街道コース
[この紋所が目に入らぬかっつ!]
水戸街道は江戸時代に定められた五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)に準ずる脇街道のひとつです。江戸側の千住宿と水戸藩の城下町である水戸を19の宿でつなぎ、御三家のひとつだった水戸徳川藩が江戸と水戸の連絡のために利用したことから、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれました。街道名は行き先の名称を冠したことが多かったため、水戸側では江戸街道と呼ばれていました。水戸以北は岩城街道・磐城街道と呼ばれ、岩沼宿で奥州街道と合流して仙台まで続いていました。水戸街道・磐城街道は奥州街道の脇道として江戸と東北をつなぐ幹線道路ではありましたが、奥州街道ほどには栄えませんでした。明治時代以降は水戸街道と磐城街道をまとめて陸前浜街道として扱われています。現在では、水戸街道は国道6号線の東京都墨田区向島から茨城県水戸市までの区間の愛称として用いられています。
水戸街道コース(四日目:荒川沖駅入口交差点から石岡市国府三丁目交差点まで)
- 所要時間:7時間44分
- 歩数: 38、024歩
- 距離: 27.4km
今日は午前中曇りでしたが、午後になって青空が広がってきました。暑くもなく寒くもなく、お散歩には気持ちの良いお天気でした。水戸街道の歩きは今日で4日目です。先日の中断地点である荒川沖駅に向かいます。以前から気になっていたのですが、「荒川沖」という地名は海の近くを連想させ、内陸部の地名にはそぐいません。ネットで調べてみますと、「江戸時代以前、この一帯は近くを流れる乙戸川や霞ヶ浦・牛久沼などの度重なる氾濫によって年中水に浸かり、「荒れる川の野」という意味で「荒川野」と呼ばれていました。近くにある本郷集落から眺めると、「沖(先という意味)」にあったということから「荒川沖」という地名になりました。」ということらしいです。ちょっと出遅れましたが、9時前に荒川沖駅入口交差点を出発します。荒川沖宿は日本橋から数えて10番目の宿場になります。学園東大通交差点まで旧道が続いているのですが、あちこちに茅葺の重厚な日本家屋が建ち並んでいます。入り口には立派な門があり、大名屋敷のような造りになっています。江戸時代から続く旧家が多いのでしょうか?現在では藁の吹き替えだけでも大変な手間だと思うのですが。かと思うと、長〜〜〜い塀に囲まれた広大な敷地に建つ洋館風の個人病院もあります。敷地内には広い駐車場が備えられていて、外にも専用の駐車場があります。看護師さんが箒で落ち葉を掃いていましたが、一日かかっても終わらないでしょう。
スケールの大きさはお店でも同じです。学園東大通交差点の脇にはジョイフル本田の店舗がありますが、こちらも桁外れの広さです。東京ドーム2.2個分の広さで、2000台分の駐車場が備わっているのだとか。ついでに調べてみますと、ジョイフル本田の中で一番大きな「ニューポートひたちなか店」は、東京ドーム4.8個分の広さで、6200台分の駐車場が備わっているそうです。いやはや茨城県はスケールが違いますね。
国道6号線に合流し、中村南4丁目交差点から再び旧道に入ります。旧道は原の前交差点で国道6号線に合流しますが、そのまま斜めに横切って住宅が散在する細い通りに入ります。旧道らしい風情が残っていていい雰囲気です。未だに刈り取られていない田んぼがありますが、アイス米でも作るのでしょうか?花室川を大川橋で渡った先に大聖寺があります。北関東三十六不動尊霊場の第三十一番札所だそうですが、境内には新四国八十八箇所ミニ霊場が設けられているそうです。石神井の三宝寺や高輪の高野山別院には数分で巡れる四国八十八箇所お砂踏場がありますが、大聖寺のミニ霊場は四国八十八箇所霊場の千分の1の全長1.5kmの巡拝コースになっているそうです。1時間近くかけて巡りますので、こちらの方が有難味は増しますね。それにしても、「ミニ霊場」なんてカタカナを使うのは止めてもらいたいです。
土浦大師の観音像も遠望できましたが、時間がなかったのでミニ霊場巡りはパスします。残念!
国道354号線に合流して医療センター入口三叉路を右手に進みます。急に山間の道路に入り込んだように大木が生い茂っています。ほどなく、道路の奥に霞ヶ浦医療センターの正門が見えてきます。建物が見えないくらい広大な敷地ですが、元々は霞ヶ浦海軍病院として創設され、現在は国立病院機構に組み込まれているのだそうです。そこから100mほど進んだ先の曲がり角に「下高津の道標」が建っています。道標は古くなって文字を判読するのは困難ですが、案内の石柱には「この道標は水戸街道と坂東街道の交差点に位置し、享保十八年(1733年)に東崎の観音講の人々によって建てられたものである」と書かれています。確かに細い道路が交差しているのですが、街道とは程遠い雰囲気です。坂東街道はどこを通っているのでしょうか?
緩やかな坂道を下っていきますと、桜川に架かる銭亀橋に出ます。銭亀橋の歴史は古く、土浦の歴史を語る時には必ず名前が挙がる有名な橋だそうです。歴史的な橋というだけでなく、木橋の景観や橋からの眺望の美しさは語り草となりましたが、今では数多くの土浦の風景画に描かれたような昔の情緒はなくなり、コンクリートの橋に架け替えられたこともあって平凡な橋に姿を変えてしまったとのことです。「銭亀橋の跡」が史跡になっているくらいですから、地元の人の想いも分かろうというものです。
そのまま進んで、日本橋から11番目の宿場となる土浦宿に入ります。土浦は亀城の異名を持つ土浦城の城下町でもあったため、市内にはその名残が多く残っています。高架道下の大町交差点で鍵型に折れて進みますが、ここは土浦城の南門跡になるそうで、鍵型に曲がった道路もその名残のようです。
土浦市は史跡の保存に熱心で、通りのあちこちに「フィールド博物館・土浦」という史跡の案内柱が建てられています。
「矢口家住宅」は3棟の土蔵から成る建物で、現在でも母屋となる店蔵は酒屋として使われています。土蔵はワインを貯蔵するには最適でしょうね。土蔵造りの建物が多く残っているのは、土浦城下で天保十二年(1841年)に大火があり、瓦葺と共に防火への備えとして土蔵造りが取り入れられたからなのでしょう。
呉服の老舗であった「大徳」には4棟の蔵が残っていて、見学が可能となっています。喫茶蔵なんていう土蔵の中のお店もありますので、コーヒーを飲みながら蔵の雰囲気を味わってみるのも一興です。
歩道には宿場の様子を描いたタイル絵が埋め込まれていて、街道の歴史を感じさせます。
新川を渡りますと、真鍋宿通りの標識が目につきます。ここは真鍋宿が置かれたところですが、土浦宿に隣接していたために、独立した宿場とはならなかったようです。
更に進みますと、坂道の先に土浦一高の正門が現れます。随分と駅から離れた辺鄙な場所にあるのですが、茨城県では有数の進学校なのだそうです。そういえば、格式のある正門ですね。
下妻につながる国道125号線手前から右に折れ、旧道を進みます。沿道には水戸街道の松並木が今も残っていて、とても風情のあるところです。坂道を上りますと、日立電線の広大な敷地が広がっています。ゴルフ場のように手入れされた植え込みは工場とは思えない美しさです。工場の案内板によりますと、ここを「木田余(きだまり)の杜」として自然保護区を設立し、後世に伝えていくことにしたそうです。雄大な筑波山系に見立てた四季折々の植物を配し、霞ヶ浦を模したビオトープでは希少植生物を育成して霞ヶ浦に移植して再生に寄与しているそうです。水戸街道には旅人を暑さ・寒さから守るために松が植えられましたが、現在ではここ板谷地区だけに松並木が残っています。幹が曲がって街道を覆うように枝を広げた松の木もあり、旅人が一休みするには格好の場所だったことでしょう。
水戸街道には五街道と同様に一里塚が設けられ、塚の上には榎を植えて旅人の憩いの場とし、道のりを測る目安ともなりました。板谷の一里塚は日本橋から20里の位置に置かれ、旧水戸街道の一里塚の多くが失われている中で、街道の両側に残るものとしては極めて貴重な史跡となっています。土塁も榎の大木も当時の姿をそのまま残していて、私が見た中でも一番印象的な一里塚です。
6号バイパス中貫入口交差点先のトンネルをくぐって、日本橋から数えて13番目の中貫宿に入ります。沿道には農家と思しき住宅が多いようですが、その中に立派な門を構えた豪邸があります。門の横には、「中貫宿本陣」と書かれた案内板が建っています。現在でも住居として使われているそうですが、宮殿のような庇をくぐって中に入るのはどんな気分なのでしょうか?
国道6号線に合流して、かすみがうら市に入ります。大型店が建ち並んだ先から、日本橋から数えて14番目の稲吉宿に続く旧道に入ります。稲吉宿入口手前には「下稲吉の一里塚」が残っています。
緩やかな起伏のある坂道を進んで宿場の中に入ります。稲吉宿本陣は、取手・中貫の本陣と共に水戸街道に残る希少なものです。
すぐ隣には旅籠皆川屋だった木村家住宅があります。当時は17軒も旅籠が軒をつらねていたそうですが、現在はこの1軒の建物だけが残っています。二階の客室の壁には、遊び過ぎて支払いに窮した思案の愚痴や愛しい女性の名前などが墨痕も鮮やかに残っているそうです。ちなみに、皆川屋は水戸街道に唯一残る旅籠だそうです。
宿場の外れの畑にはひょうたんが鈴なりに実をつけていました。ひょうたんの木ってなかなか出会えませんね。
下土田北で再び国道6号線と合流しますが、すぐ先に常磐自動車道につながる複雑なインターがあります。道路下のトンネルをくぐってインターの中央部に出るのですが、一段高くなった灌木の中に「千代田の一里塚」が残っています。急な坂を登っていかないと見付けられないのですが、一里塚としてはなかなかレアものです。インターの先でちょっとだけ旧道を進むのですが、道路脇のテントで林檎の直売をやっていました。茨城には林檎農園もあるんですね。
ロマンチックな名前の恋瀬川を渡って石岡市に入ります。石岡には日本橋から数えて15番目の府中宿がありました。国府7丁目交差点から国道6号線を離れて旧道を進みます。石岡は古代東海道の終点になったところで、常陸国の国府がありました。これを見ない手はありませんので、街道を外れて国府史跡巡りをします。国府公園・総社神社を経て、国衛(古代律令時代の役所の建物が置かれたところ)跡のある石岡小学校に向かいます。
小学校は普通は立ち入り禁止なのですが、失礼して正門脇の史跡を見学させて頂きます。ちょうど下校時で生徒さんが沢山集まっています。なんとなく気恥ずかしい思いです。ここには移築された石岡藩の陣屋門もあります(陣屋とは、江戸時代に代官その他の役人が在任した建物を云います)。隣には府中城の土塁跡もあります。常陸国衛は昭和48年の石岡小学校の改築時に実施された発掘調査によってその存在が判明したのだそうです。校内にある民族資料館には詳しい資料が展示されているのでしょうけど、残念ながら休館日で入れませんでした。
最後に常陸国分寺跡を巡ります。全国66ケ所に造られた国分寺の中でも屈指の規模を誇ったそうで、雲を突く七重の塔や金堂は京都の東寺をも優る建物だったそうです。七重の塔の心礎と云われる巨大な岩は塔の大きさを実感させます。
夕闇迫る中、石岡駅の入口となる国府三丁目交差点に着きました。今日はここで水戸街道のお散歩を終えることにします。ここから水戸までは30km余り。鮟鱇鍋は遠くにありにけり。。。ですね。
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