15.水戸街道コース
[この紋所が目に入らぬかっつ!]
水戸街道は江戸時代に定められた五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)に準ずる脇街道のひとつです。江戸側の千住宿と水戸藩の城下町である水戸を19の宿でつなぎ、御三家のひとつだった水戸徳川藩が江戸と水戸の連絡のために利用したことから、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれました。街道名は行き先の名称を冠したことが多かったため、水戸側では江戸街道と呼ばれていました。水戸以北は岩城街道・磐城街道と呼ばれ、岩沼宿で奥州街道と合流して仙台まで続いていました。水戸街道・磐城街道は奥州街道の脇道として江戸と東北をつなぐ幹線道路ではありましたが、奥州街道ほどには栄えませんでした。明治時代以降は水戸街道と磐城街道をまとめて陸前浜街道として扱われています。現在では、水戸街道は国道6号線の東京都墨田区向島から茨城県水戸市までの区間の愛称として用いられています。
水戸街道コース(五日目:石岡市国府三丁目交差点から水戸市銷魂橋まで)
- 所要時間:7時間36分
- 歩数: 42、871歩
- 距離: 30.9km
今日は一日中秋晴れの良いお天気でした。10月半ばになり、日中でも気温は20度前後と薄手のセーターが必要なくらいです。つい先日までの暑さは何だったのだろうと懐かしくさえ思えます。昼間の時間が短くなって遠出は難しくなりましたが、お散歩には絶好の季節です。今日は水戸街道の最後の区間を歩きます。先日石岡まで歩きましたが、唯一利用可能な鉄道である常磐線は石岡から北に向かい、水戸街道から大きく外れています。石岡を出たら何が何でも水戸まで歩くしかないのです。石岡から水戸までは30kmチョットありますから、私の足では8時間位はかかるでしょう。山の中で日没になっても困りますので、頑張って始発電車に乗って石岡に向かいます。真っ暗な日の出前の常磐線に乗るのは初めてですが、意外と乗客は多いですね。仕事に行く人、通学の高校生、釣りに行く人、いろんな人が乗っています。やがて雲の間から太陽が顔を出し、石岡に着いた頃はすっかり明るくなっていました。先日見落とした駅前の案内板には、石岡は歴史の街と紹介されていました。それによりますと、4−5世紀に造られた丸山古墳、8世紀に栄えた常陸国府と行政府だった国衙(こくが)、10世紀に起きた平将門の乱、平安時代から700年間にわたってこの地を支配した大掾氏の居城である府中城、江戸時代に置かれた府中陣屋と水戸街道の府中宿などなど、多くの史跡が市内に散在しているとのことです。古代から近世まで、これだけ切れ目なく歴史の舞台に登場した街は珍しいですね。まだまだ見るべきところはありますが、先を急ぎます。
先日の中断地点の国府三丁目交差点から今日のお散歩を開始します。国分町交差点を右折し、泉橋で常磐線を越えます。この陸橋は最近架け替えられ、石岡の史跡のタイル絵とか案内板とかも設置されています。水戸街道については、「五街道に次ぐ脇街道のひとつとして水戸と江戸の間に開通し、石岡は当時府中松平家の陣屋の所在地であったため、水戸街道の府中宿として繁栄しました」と書いてありました。また聖武天皇の詔により建立された国分寺の七重の塔については、「筑波山を背景にした塔の勇姿はここに暮らす人々にとって心の依りどくろになっていた」と書かれていて、古代から筑波山が敬われていたことがうかがえます。
陸橋から続く歩道には、千住宿から府中宿までのすべての宿場名がタイル絵になって埋め込まれています。今まで歩いてきた道のりが懐かしく思い出されます。案内板には、「この辺りの街道筋には、昭和30年頃まで2kmにわたって続く杉並木が残っていた」と書かれていました。徳川幕府時代、各地の街道で松並木は見られましたが、杉並木は日光以外ではここにしか許されなかったのだそうです。この地を治めた府中松平家が御三家のひとつである水戸徳川家の分家であったという地位の高さを物語っています。
陸橋を下りて直ぐに「石岡の一里塚」が現れます。一目でそれと分かるくらい立派な姿です。街道の両側に塚が揃って残っているのも珍しいのですが、当時植えられた榎がそのまま樹勢よく天に向かって延びているのは全国的にも珍しいとのことです。
片方の榎は小ぶりですが、これは平成14年の台風によって樹齢400年の榎の大木が倒壊し、その後一里塚付近に育っていた苗木を移植したからとのことです。正真正銘の二代目ですね。
行里川(なめりかわ)歩道橋の先の三叉路で左側の旧道に入ります。風情のある屋並みが続き、立派な長屋門の民家が現れます。水戸街道沿いの民家には規模の違いはあっても、大抵入り口に門が備わっています。中にはこの住宅のように長屋門のような両側に部屋がつながった建物もあります。余程の旧家なのでしょう。
県道52号線と交差して、日本橋から数えて16番目の竹原宿に入ります。といっても、宿場の跡をうかがわせるようなものはどこにも見当たりません。そのまま進んで竹原交差点を左折して国道6号線を進みます。中野谷中央交差点で県道145号線と交差しますが、この道路は別名「メロンロード」と呼ばれています。周辺がメロンの産地だからだそうです。
堅倉三叉路で左手の旧道に入ります。現在は「堅倉」となっていますが、江戸時代は「片倉」と呼ばれ、日本橋から数えて17番目の片倉宿が置かれたところです。ここにも立派な門が建っているのですが、住宅ではないようです。「復旧門」と云うのだそうですが、案内板によりますと、当時名主職を勤めていた加藤家は、水戸藩主の世継ぎ問題に端を発した天狗党の乱によって母屋と共に門も焼き討ちに遭い、門の前柱2本だけが焼け残ったのだそうです。戦乱の歴史を後世に残すべく、焼け残った2本の柱を使って子孫の方が平成4年に再建されたのだとか。住みもしないのに門だけ建てるとは気骨を感じますね。隣には脇本陣だったのではないかと思う程立派な門と白壁の邸宅があります。時代劇の撮影にも使えそうな街並みです。
小岩戸で国道6号線と交差し、旧道を進みます。途中から茨城町に入ります。茨城県東茨城郡茨城町という、まさに茨城県の中心のような町名ですが、その割には長閑な田園地帯が続いています。県道181号線と交差した先から、日本橋から数えて18番目の小幡宿が始まります。といっても、宿場の面影は何も残っていません。小幡交差点で国道6号線と合流しますが、その先に「千貫桜碑」が建っています。かってこの地に桜の巨木があり、水戸光圀公が終日愛でて「千貫の価値がある」と称賛したのだそうです。現在では桜は枯れ死して残ってはいませんが、光圀公の歌碑と共に、当時の面影を伝えています。
奥谷(おくのや)で国道6号線と離れ、右側の旧道を進みます。涸沼川を渡り、小鶴交差点から左側の旧道に入ります。特に何ということもなく元の道路に合流し、涸沼前川を渡った先で直ぐに右側のなだらかな坂が続く旧道に入ります。水戸街道で最後となる、日本橋から数えて19番目の長岡宿が始まります。「長岡名物 みそまんじゅう」の看板を出したお店がありますねぇ。薄皮に味噌が練りこんであるらしいですが、どんな味なんでしょうか?蒸かしたてを食べてみたいものです。長岡宿には脇本陣として使われた木村家住宅があります。門は閉ざされていましたが、長い木塀に囲まれた敷地に建つ総茅葺の母屋は当時の格式を偲ばせます。
再び国道6号線と合流し、北関東自動車道のインターを越えます。水戸市に入って直ぐに東野町交差点で左側の道路に入ります。ここで国道6号線とはお別れです。吉沢三叉路で右側の道路を進み、水戸市街を目指します。もう街道の史跡はないだろうと思っていましたら、「一里塚跡」の石碑が建っていました。水戸街道29番目の元吉田一里塚なのだそうです。何故か、一段高いところには「阿夫利神社御霊」の碑が建っていましたが。
吉田神社先から右に折れ、住宅地の裏道を進みますと備前堀に突き当たります。昔の用水の跡らしいですが、堀に沿った歩道はブロックが敷き詰められ、きれいに整備されています。右折して銷魂橋(たまげはし)の袂に着きます。ここが水戸街道の終点となりますが、前に書きましたように、水戸側では水戸街道を江戸街道と呼んでいましたので、「江戸街道起点」の石碑が建っています。江戸時代に城下の出入り口に当たったこの地には広場が設けられ、高札が立ち、この橋の上で旅人が別れを惜しんだので銷魂橋となったんだそうです。「銷魂」とは聞きなれない言葉ですが、「驚きや悲しみのあまり、気力を失うこと」という意味だそうです。ちなみに、この橋の名前はもともと「七軒町橋」という名前だったそうですが、光圀公が別れを惜しんだ人々をみて「銷魂橋」と改めたと云われています。光圀公の庶民性を物語っていますね。
さて、水戸街道は歩き終えましたが、もう1ケ所行かなければなりません。水戸街道から奥州方面に続く陸前浜街道の起点です。大して離れてはいないのですが、ハミングロード513(513とは通りの長さです)という商店街の通りの先端の交差点脇に「陸前浜街道起点」の石碑があります。案内板も何もないのが残念ですが、これで水戸街道で思い残すことは何もありません。
まだ3時前ですので、水戸光圀生誕の地と水戸城址と弘道館なぞ見物して帰りましょうかね。
ところで、鮟鱇料理は?
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