16.東金街道コース

[墨俣築城を上回る一夜街道!]





東金街道は、徳川家康が上総国東金で鷹狩を行うために造営されたことから、「御成街道」とも呼ばれています。船橋を起点として藤崎・大久保新田・実籾を通り、犢橋(こてはし)・金親・小間子牧を経て東金に至る延長約37kmの道です。慶長十八年(1613年)12月、徳川家康は翌年正月に東金で鷹狩を行うため、佐倉藩主土井利勝に東金までの新道築造を命じました。土井利勝は沿道の村々に工事区間を割り振り、昼夜兼行でごく短期間に完成させたことから、「提灯街道」とか「一夜街道」とも呼ばれています。道幅は3間(約5.5m)を基準とし、途中に8箇所の一里塚が設けられました。また、将軍の宿泊所として船橋御殿と東金御殿、休息所として御殿町にお茶屋御殿が造られ、ほぼ一直線で結ばれています。現在は国道126号線が東金街道となっていますが、江戸時代の東金街道はこれとはルートが異なります。

東金街道コース(一日目:皇居大手門から京成大久保駅入口交差点まで)

10月も後半に入ったというのに秋らしい晴天が続きませんね。奄美地方では豪雨で被害も出たのだとか。何か、季節の感覚が狂ってきたような気がします。今日は朝からどんよりとした雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうなお天気です。予報では日中雨が降ることはないだろうということですので、それを信じてお出かけすることにします。長丁場の水戸街道を歩き終えて、今回は近場の手ごろなコースを歩きたいと思います。以前から目をつけていた東金街道がよさそうですね。東金街道は船橋が起点ですが、家康は船橋までどうやって行ったのでしょうか?推測ですが、江戸城から船橋市の海神までは千葉街道を使い、そこから東金街道に入ったのではないかと思います。折角ですので、私もこれに倣って皇居大手門から東金を目指すことにします。日本橋から海神までは6月に千葉街道で歩き、海神から前原までは8月に佐倉街道で歩きましたので、道筋は頭の中に入っています。ということで、9時前に皇居大手門前に着きました。平日の朝ですので誰もいないかと思っていましたら、大手門の前には年配者の長蛇の列ができています。皇居内は月曜日と金曜日が休園日なので、特別な団体なのでしょうか?



永代通りを日本橋交差点で左折し、日本橋を渡ります。相変わらず橋の工事は続いていますが、今日は歩道を通行止めにして路面に御影石を敷きこんでいるようです。日本橋の車道を歩くのはこれが最初で最後かもしれません。三越向かいに建設中だったコレド室町は既にテナントが入居を始めたようで、お店の前には開店祝いの花輪が並んでいました。老舗が建ち並ぶ中央通りに新しい名所が誕生しましたね。



ピジョン本社のエントランス前に置かれた「幸運を招く猪(ポルチェリーノ)」は未だ健在です。鼻の頭を撫でると幸運を招くということですが、前回撫でてから何かいいことがあったかな?コインを投げ入れなかったからかも。横山町大通りを進みますと、正面に東京スカイツリーが一望できます。今週、遂に塔の最頂部の組み立てが完了し、高さが495mに達したようです(公式には488mですが)。これから先はアンテナ部となるゲイン塔を引き上げていくことになります。工事は未知の領域に入りました。



隅田川を両国橋で渡ります。案内板によりますと、橋の名前の由来は、「明暦三年(1657年)に起きた大火(振袖火事・丸山火事とも呼ばれています)で当時の江戸市中の大半が焼き尽くされましたが、隅田川には橋が架かっていなかったために多くの人々が逃げ遅れて亡くなりました。このため、2年後に大橋と呼ばれる橋が架けられましたが、武蔵国と下総国を結んでいたことから両国橋と呼ぶようになりました。」と云うことだそうです。このことからも、両国橋と千葉街道のつながりが見て取れます。



橋を渡ったところで右折し、現在は首都高速7号線(小松川線)の下を流れる堅川の北岸に沿って進みます。江戸時代、この辺りは低湿地であったため、幕府は洪水の被害を最小限に抑えるために排水路を碁盤目状に開削し、掘り出した土を陸地の補強や嵩上げに利用しました。排水路は隅田川に対して縦・横に開削されたため、排水路の堅川も東西に真っすぐ延びています。墨田区には匠の技を引き継ぐ地元の工房を「小さな博物館」として認定していますが、ここ本所にも袋物博物館の東屋が看板を出しています。見学も可能なので、これらを巡るのも面白いですね。また、本所は両国国技館にも近いので、出羽海部屋などの相撲部屋も多くあります。運が良ければ人気力士と出会えるかも。



本所といえば、吉良上野介の上屋敷があったところですね。堅川に架かる一之橋(隅田川から数えて最初の橋という意味)は、赤穂浪士が討ち入りの後、泉岳寺に引き上げる際に渡った橋として知られています。五之橋あたりから旧千葉街道の標識が目につきます。案内板によりますと、「旧千葉街道は両国橋から堅川の北岸沿いに東へ通じて千葉方面に至り、江戸時代から佐倉道と称して江戸と千葉方面を結ぶ重要な陸路であった・・・」と書かれていました。前回、千葉街道を歩いた時は五之橋からルートを間違え、旧中川の「逆井の渡し跡」の史跡を見逃しました。今回は事前に確認しておいたおかげで、旧中川に架かる逆井橋に無事辿りつきました。江戸時代、現在の荒川・中川は存在せず、千葉街道は旧中川を逆井の渡しで渡った後、荒川の開削で消滅した四ツ又で行徳街道と交差し、小岩で江戸川を渡って房総に向かったのだそうです。大河のような荒川・中川が存在しなかったとは信じられませんね。



東小松川交差点で左折し、八蔵橋三叉路を右手に進みます。ここから蔵前橋通りに突き当たるまで、道路は一直線に延びています。案内板によりますと、この道路は東金街道の造成と前後して整備され、元佐倉道と呼ばれたのだそうです。ちなみに、千葉街道と改称されたのは明治に入ってからです。



新中川を小岩大橋で渡ります。橋の案内板には、「元佐倉道は将軍鷹狩の道として交通の便を最優先させ、村落や耕地を無視して造ったため、今も直線道路としてその名残をとどめています」と書いてありました。東金街道と同じですね。ちなみに、小岩大橋の灯具の上には鷹をモチーフにした像が配置されています。鷹を見上げて東金街道との関係を思い浮かべる人はいるのでしょうか?



小岩小学校の手前に「一里塚交番前」という名前の交差点があります。ひょっとして一里塚跡があるかもと思い、案内板を探しましたが見つかりませんでした。小岩小学校の敷地内に「江戸川区保護樹」に指定されている榎の老木がありましたが、これが一里塚跡なのでしょうか?帰ってからいろいろ調べてみましたが、千住から数えて2番目の一里塚ということらしいので、千葉街道とは関係なさそうです。



現在は市川橋で江戸川を渡りますが、江戸時代は小岩市川関所から渡しで市川に渡ったのだそうです。市川から船橋市の海神交番前三叉路まで千葉街道を進みます。三叉路で左側の細い道路に入り、総武線の線路下の地下トンネルを通って船橋市の市街地に入ります。船橋宿の入口に建つ西向地蔵尊の辺りには罪人のお仕置き場があったと云われています。



海老川に架かる船橋は船橋の地名の発祥となったところです。古代の英雄が東征の途中で海老川を渡れなかった時に、地元民が小舟を並べて橋の代わりにしたのだとか。海老川を渡った先に船橋大神宮があります。私はてっきり船橋大神宮が船橋御殿の跡に建てられたのだろうと思い込んでいましたが、実際には船橋駅の近くの路地の中にひっそりと建つ小さな祠が御殿跡なのだそうです。ちなみに、この祠は「日本一小さい東照宮」の異名を持っています。残念ながら、東金街道の重要なポイントを見逃してしまいました。



中野木陸橋をくぐり、成田街道入口交差点で佐倉道と分かれます。ここからが本当の東金街道になります。



津田沼駅北口を過ぎたあたりから、急速に空が暗くなってきました。今日はできれば実籾まで行きたかったのですが、京成大久保駅入口まで来たところで日没中断となりました。家康は江戸城からの距離・時間を勘案して船橋に御殿を造ったのでしょうけど、実際に歩いてみてその妥当性が頷けます。それにしても、東金街道が鷹狩のために使われたのは家康・秀忠・家光の三代の将軍で計11回だけだそうですから、徳川幕府の権勢の強大さが思い知らされます。実籾から先、東金までは鉄道が使えませんので30km超の長丁場になります。また早起きしないと。






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