16.東金街道コース
[墨俣築城を上回る一夜街道!]
東金街道は、徳川家康が上総国東金で鷹狩を行うために造営されたことから、「御成街道」とも呼ばれています。船橋を起点として藤崎・大久保新田・実籾を通り、犢橋(こてはし)・金親・小間子牧を経て東金に至る延長約37kmの道です。慶長十八年(1613年)12月、徳川家康は翌年正月に東金で鷹狩を行うため、佐倉藩主土井利勝に東金までの新道築造を命じました。土井利勝は沿道の村々に工事区間を割り振り、昼夜兼行でごく短期間に完成させたことから、「提灯街道」とか「一夜街道」とも呼ばれています。道幅は3間(約5.5m)を基準とし、途中に8箇所の一里塚が設けられました。また、将軍の宿泊所として船橋御殿と東金御殿、休息所として御殿町にお茶屋御殿が造られ、ほぼ一直線で結ばれています。現在は国道126号線が東金街道となっていますが、江戸時代の東金街道はこれとはルートが異なります。
東金街道コース(二日目:京成大久保駅入口交差点から東金御殿跡(東金高校)まで)
- 所要時間:9時間14分
- 歩数: 54、095歩
- 距離: 38.9km
今日は朝からどんよりとした雲が広がっています。天気予報では、関東地方は夜遅くから雨になるとのことです。無理して出かけることもなかったのですが、朝起きたら気分はお散歩モードになっていました。先日大久保まで歩いた東金街道ですが、まだ30kmほど残っています。秋の深まりと共に日没も早くなっていますので、明るいうちに東金に着くには出来るだけ早く出発する必要があります。頑張って京成大久保駅に降り立ったのは朝の8時半でした。30kmを8時間かけて歩けば、何とか日没までには東金に辿りつけるだろうと思ったのですが、これが甘かった!今日は街道を歩くシリーズで最悪の日になってしまいました。前置きはこれくらいにして、駅から続く「ゆうろーど」商店街を進みます。大久保駅の北方には、東邦大学と日大生産工学部の広大なキャンパスが広がっています。先日は下校時間と重なったのか、帰宅の学生さんで商店街は大混雑でしたが、今日は日曜日の朝ということもあって閑散としています。
駅入口から東金街道の歩きを再開します。東金街道は、前原の成田街道分岐点から国道16号線と交差する長沼まで、県道69号長沼船橋線となっています。地図で見ても、道路が真っ直ぐ一直線に延びているのが分かります。これほどの直線道路は北海道を除いて日本国内には見当たらないのではないでしょうか?出発して1kmも歩かないうちに街道を右折し、習志野二中に向かいます。正門の奥にいわくありげな大樹が空を突いて伸びていますが、東金街道の一里塚(半里塚)に植えられていた椎の木の子供だそうです。実際には東金街道が京成本線と交差する踏切脇にあったそうですが、地域の方々の協力によって学校内の敷地に移植されたのだとか。先日、無理して実籾駅まで歩いていたら、暗闇でどれが一里塚の木だか分からなかったことでしょう。
街道に戻り、先を急ぎます。水戸街道沿線でよく見かけた長屋門ですが、東金街道沿いにもかなりありますね。それだけ旧家が多いのでしょう。
どんどん歩いて、実籾街道と交差する長作交差点から千葉市の花見川区に入ります。一面肥沃な畑が広がる天戸町の道路脇に立派な椎の木の古木が聳えています。一里塚かと思いましたが、椎の木の根本近くに「六十六部供養塔」という巡礼(六部)行脚の供養碑が建っていましたので違うようです。供養碑は天戸村の農民の心を伝える貴重な文化遺産として今でも大事に守られているとのことです。
また、この先の検見川道(袖ヶ浦と印旛沼を結ぶ古道)との交差点奥には、馬頭観音や庚申塔がまとめられた小さな広場があります。この辺りの習志野原は江戸時代に徳川幕府が「下野牧(野馬)」を育てていた牧場だったため、検見川道を行き交う人々は牧場の中を通って往来していたそうです。庚申塔はこれらの旅人の道標にもなっていたようです。
東金街道に戻って、天戸大橋で花見川を渡ります。千葉市に入ってから気が付いたのですが、案内板や標識には、東金街道ではなく「御成街道」という表記が使われています。現在、国道126号線が東金街道と呼称されているため、これと区別するためでしょうか?
長沼交差点で国道16号線の下をくぐります。道路は相変わらず真っすぐに延びていますが、ここからは県道66号浜野四街道長沼線に変わります。千葉市稲毛区と四街道市の境にある八幡神社でようやく右折して、住宅地の中の裏道を通って県道64号千葉臼井印西線に入り、鎌池交差点まで南下します。東金街道は真っすぐに造られていた筈。。。なのに、ここで大きく曲がるとは?理由は、戦前に旧日本陸軍の下志津飛行学校(現在は自衛隊の下志津駐屯地)が開設された際に東金街道が分断されたため、この部分を迂回せざるを得なくなったからだそうです。その証拠に、鎌池交差点から駐屯地に向かって真っ直ぐに延びる旧街道と思われる道路は、基地のフェンスで行き止まりになっています。
鎌池交差点から定規を引いたように真っ直ぐに延びる道路の入口には「御成街道」の大きな標識が立っています。ここからは千葉市の若葉区になるのですが、この先町名が変わるたびにこの標識に出会います。道路標識だけでなく、「御成苑」とか「おなり整骨院」とか、いろんなところに御成街道の名前が使われています。東金街道がこんなに地元の方々に親しまれているとは思いませんでした。
若葉区の金親町に入りますと、道路は急に狭くなります。車がすれ違うのも窮屈なのに、歩道がありません。しかも交通量は多く、ひっきりなしに車がやってきます。右手に小高い丘が見えてきました。御成公園という名前で、ちょうちん塚があったところです。東金街道を造る際に、起伏のある下総台地の高所に堤灯を吊るし、道路が真っ直ぐになるように道筋を決めるために用いたのだとか。道路の両側に盛り土が残っていますが、ちょうちん塚であると同時に一里塚としても使われたのでしょう。
山道に入ったのか、段々と道路の起伏が激しくなってきます。車が通らないとこの辺りは旧道らしい雰囲気が味わえていいのですがね。
東金街道で是非見ておきたい史跡があります。船橋御殿・御茶屋御殿・東金御殿の3ケ所です。船橋御殿跡は見逃しましたので、御茶屋御殿跡は是非立ち寄りたいですね。御成公園から1kmほど歩きますと、御殿入口という三叉路に着きます。真っ直ぐに進めば御茶屋御殿の前に行けるはずなのですが、ここで大ミスをしてしまいました。真っ直ぐと見えた左手の道路に入ってしまったのです。交通量は多く、歩道もありません。行けども行けども目指す御茶屋御殿は現れません。川崎十字路まで行って、初めて間違いに気が付きました。ったく、先が長いのに時間のロスです。引き返して歩き直したら、御茶屋御殿は三叉路の直ぐ先にありました。今は御茶屋御殿の存在をうかがわせるものは何も残っていませんが、発掘調査では建物の基礎部分とか井戸跡とか当時の陶器などが発見されたそうです。船橋御殿や東金御殿は宿泊用に建てられましたが、御茶屋御殿は休息をとるための施設だったとか。但し、実際に使用されたかどうかは定かではないそうです。船橋から東金までは37kmあったそうですから、御茶屋御殿でゆっくり休む時間はなかったのでしょう。
標柱には、「船橋22km 東金16km」と書いてあります。今、午後の2時前ですから、東金に着くのは6時位になりそうです。急がなくちゃと一歩足を踏み出した途端にポツリ。マズイ、雨が降ってきました。予報よりも半日早く雨になったようです。今まで持参はしても、一度も使わなかった折り畳み傘を手提げから取り出します。手が塞がって歩き辛いですね。本当は雨に遭ったら即退却したいのですが、もはや鉄道の走っていないところに来ています。東金まで何が何でも歩くしかありません。歩道もない山道で、疾走してくる車を避けながら傘を差して歩くなんて惨めなものです。途中、袖ヶ浦カンツリークラブ(新袖コース)の横を通るのですが、雨の中をゴルフに興じるプレイヤーを見ると貧富の差をまざまざと感じます。
八街市に入って直ぐの高台の雑木林の前に御成街道の旧道の案内板が建っていました。それによりますと、今でも舗装されずに当時の状態のままで残っている旧道は、ここ八街市沖地区と東金市境地区のごく一部なのだそうです。本来は雑木林の中に分け入って旧道を見てみたいところですが、入り口が分かりません。心残りですが、パスします。
沖十文字交差点で右折し、県道289号岩富・山田台線を進みます。中沖バス停の手前に両腕を広げた恰好の標柱があり、「お成街道跡」と書かれています。地図で見ますと、袖ヶ浦CCの先から直線を引くとちょうどこの辺りになりますので、街道の一部が消滅しているのでしょう。中野霊園の看板のあるT字路で左折し、暫く進みますと墓場の脇に再び「御成街道跡」の標柱が現れます。「お」と「御」を使い分けている理由は分かりませんが。
手持ちの地図では、ここから東金までの範囲が20万分の一の縮尺になっています。使い物になりませんので手書きの地図を用意してきたのですが、いい加減に描いたので距離感も方向も掴めません。猪が飛び出してきてもおかしくないような山道を進みますと、生い茂った樹木の前に案内板が建っていました。御成街道の一里塚について解説してあり、それによりますと、御成街道には船橋から東金の間に八箇所の一里塚が設けられたのだそうです。現存するのは、ここ「上砂の一里塚」と「千城台東の一里塚(御成公園内)」と「富田町の一里塚」の3ケ所だけだそうです。通常、一里塚は約4km毎に置かれますが、御成街道では約4.7km毎に置かれたそうです。8倍すると計算が合わないようですが、これは街道が東金の手前で二手に分かれ、それぞれに一里塚が置かれたためと思われます。
山道を抜け人家のある通りに出ます。更に進みますと、お墓の先に沼が現れます。「びんだらい池」という名前だそうですが、鷹狩の一行が池の水で髪の乱れを整えたという言い伝えがあるそうです。昔の人は結構身だしなみに気を使ったんですね。
千葉東金道路の下をくぐり、その先で左折して滝台交差点に出ます。ここを右折して国道409号線を進みます。ようやっと東金市に入りましたが、夕暮れが迫ってきて段々と辺りは暗くなってきました。またしても山道に入ります。途中で国道409号線と分かれ、県道301号東金山田台線に入ります。東金市街と表示してありますので、このまま進めば何とか東金駅に辿りつけるでしょう。一時小止みになった雨が再び降りだしてきました。急がねば。。。東千葉カントリー倶楽部辺りまでは薄暮状態でしたが、今や夜の闇に包まれています。雨は激しさを増し、歩道には水たまりができていますが暗くて足元が見えません。靴の中には水が溜まり、ズボンも背中も雨でグシャグシャです。悲惨なことになってきました。どれくらい歩いたでしょうか、ようやく街並みが見えてきました。ちょうど犬の散歩をさせていたおじさんがいましたので、東金駅への行き方を訊いてみましたら、3つ目の信号を右折すれば駅に行けるとのこと。信号で3つの距離なら大したことはない筈です。ちょっと気を取り直して再び土砂降りの雨の中を進みます。ひと〜〜〜つ、ふた〜〜〜つ、までは順調にきました。ところが3つ目の信号がなかなか現れません。それもその筈、山の中を通っていますので、そもそも交差する道路がないのです。暗闇に不気味に沈む山の森林は恐怖感を覚えます。果たして今夜はワインが飲めるのでしょうか?暖かい布団で寝れるのでしょうか?気が遠くなるくらい歩いて、ようやっと片貝県道入口の交差点に辿りつきました。ホッ。。。交差点を右折して駅入口に続く県道119号東金源線を進みます。道路の両側にはお店が並び、とりあえず一安心です。駅入口を通り過ぎ、東金御殿跡の東金高校を目指します。
東金高校入口の標識で住宅地の中に入ります。暗くてよく見えなかったのですが、東金高校の手前に八鶴湖があります。家康は東金御殿の造営に合わせて八鶴湖に弁天島などを設け、整備したのだそうです。湖の奥に目指す東金高校がありました。日曜日の夜ということもあって正門は閉じられ、史跡の案内板があるかどうかも定かではありません。
残念ですが、ここで東金街道のお散歩を終了と致します。日本橋から10万歩、70kmの歩きでしたが、思っていた以上に史跡が残っていて面白かったです。東金駅入口まで戻って駅に向かいます。駅前広場に着いた時に、走り去る電車の後部車両がチラと見えました。不吉な予感!駅舎に入って時刻表を見たら、ナント千葉行が発車した直後でした。次の電車は?大網行が53分後。。。(_ _;)
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