18.青梅街道コース

[徳川家康が江戸城修築のために造った石灰街道!]





青梅街道は、内藤新宿(現在の新宿三丁目交差点付近)で甲州街道と分岐し、青梅・大菩薩峠を経由して、甲府の東にあった酒折村(現在の甲府市酒折)で再び甲州街道と合流していました。甲州街道よりも二里短く、関所が無かったために庶民にも多く利用されました(小規模な番所は存在しました)。江戸末期には志士や凶状持ちもよく利用したと云われています。「甲州裏街道」とも呼ばれ、沿道には中野宿・田無宿・小川宿・箱根ヶ崎宿・青梅宿・氷川宿・丹波宿・塩山宿・小原宿の9つの宿場が置かれました。青梅街道は別名成木街道とも呼ばれましたが、これは徳川家康が慶長十一年(1606年)に江戸城の大改修を行うに際し、城壁の修築用として大量の白土(石灰)が必要となり、石灰の産地であった武州多摩郡の上成木村や北小曽木村から江戸に石灰を運搬するために、大久保石見守長安に命じて江戸城の裏木戸・半蔵門から成木までの武蔵野の荒野30数kmを一直線に切り開いて青梅街道を造らせたことに由来しています。石灰は城の修復だけでなく民間の需要も多かったため、最盛期には年間2万俵以上もの石灰が青梅街道で運ばれたと云われています。その後、薪炭などの林産物や武蔵野新田の農産物の輸送にも使われるようになりました。現在の青梅街道は、新宿三丁目交差点から田無町一丁目交差点までが都道4号(東京所沢線)、田無町一丁目交差点から青梅市上町の市民会館前交差点までが都道5号(新宿青梅線)となっています。尚、新青梅街道は青梅街道のバイパス路線の総称を云います。

青梅街道コース(二日目:西武多摩湖線青梅街道駅前交差点から青梅市民会館前交差点まで)

今日は午前中は雲が垂れ込めていましたが、午後になって青空が広がりました。暑くもなく寒くもなく、お散歩には格好のお天気でした。今日は青梅街道の続きを歩きます。ということで、午前9時前に西武多摩湖線の青梅街道駅に降り立ちました。中断地点の交差点は駅の目の前です。



歩き始めてすぐの道路脇に青梅街道の案内板が立っていました。それによりますと、青梅街道の起点は「江戸城の裏木戸、半蔵門」となっています。青梅街道は成木村近辺の石灰を運ぶために造られましたので、江戸城の入り口を起点にしてもおかしくはないですね。



JR武蔵野線の新小平駅前の次の信号で、小型車一台がやっと通れるくらいの狭い道路と交差します。何の変哲もない裏道ですが、これが鎌倉街道の一部なのだそうです。



標識と共に、案内板も立っていました。それによりますと、「小川村開拓以前の小平はススキの生い茂る広漠たる原野でした。この原野に天平の昔(730年)頃から、府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ1本の官道がひらけていました。その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くにおよび、この道は鎌倉街道と呼ばれるようになりました。千数百年の歴史を有するこの道筋には多くの史跡や伝説が残っています。そのひとつが、小平市と東村山市の境にある「九道の辻」です。その昔、ここには九本の道が交差していて、元弘の変で新田義貞が鎌倉へ攻め上る際に道に迷い、この道沿いに1本の桜を植えて鎌倉街道の案内にしたと云われています。」とのことです。



小川町交差点を越えたところで、道幅が若干広くなっています。小川村を開拓した小川九郎兵衛は明暦3年(1657年)にこの地に馬継場を開設し、小川村進展の礎を築きましたが、道幅が広くなっているところはその名残なのだそうです。小川九郎兵衛の子孫は今でもこの近くにお住いのようで、広大な屋敷の表札にそれらしいお名前がありました。その先に「小川寺(しょうせんじ)」というお寺があります。小川九郎兵衛さんが開基したとかで、堂々とした仁王門の両側には、巨大な仁王像が睨みをきかせています。門を入りますと、境内にはきれいに手入れされた庭園が広がっています。庭園の奥にある梵鐘は貞享3年(1686年)に鋳造され、小川寺檀家57戸により寄進されたものだそうです。貞享の頃は青梅街道の全盛期で、江戸城の修復や明暦の大火の復興に要する石灰などの資材の運搬で街道は賑わい、馬継場の荷役稼働による収入で生活にも潤いが出た村人が梵鐘の寄進に応えたと云うことです。



小川寺の斜め向かいにある小平神明宮の入口に「是より 北山口 東江戸 道」と彫られた古い道標がありました。「山口(現在の所沢市)道」とは、昔の鎌倉街道のことです。



小平上宿交差点で道路は二手に分かれますが、そのまま直進します。左手は立川通りになっていて、直ぐ先の旧家の裏庭には、樹齢300年以上で樹高35mにも及ぶ大欅が聳えています。青梅街道沿いには天を突く巨木が多いですね。



青梅橋交差点で現在の青梅街道(都道5号線)は北に向きを変えています。これは武蔵野を一直線に切り開いた青梅街道のコンセプトと反しますね。そうです、旧青梅街道は青梅橋から西武拝島線の東大和市駅前広場を経て、一直線に延びる江戸街道に重なっているのです(都営村山団地あたりまでは、かっての桜並木に因んで桜街道とも呼ばれています)。地図で見ますと、一目瞭然です。話を戻して、橋の袂に立っていた案内板で青梅橋の由来をまとめてみます。それによりますと、「青梅橋は、青梅街道の起点の四谷から25km、終点の青梅から20kmのところに位置し、承応四年(1655年)に玉川上水から分水された野火止用水を渡るために架けられました。両岸を石組で固め、幅2.5m、長さは4mの木造の橋でした。その後、野火止用水路は暗渠化され、橋も取り壊されました。西武拝島線の駅の名前も当初は青梅橋駅でしたが、東大和市駅に改名され、青梅橋は交差点に名前を残すだけになりました。明治15年頃、青梅橋から丸山台までの4kmにわたって、幅20mの道の中央に一列に植えられた桜並木は千本桜と呼ばれ、その数といい、樹齢といい、小金井堤の桜に劣らぬ素晴らしいもので、桜の季節には近郷の人々が花見に訪れて大層賑わったと云われています。青梅橋からこの桜並木を経て箱根ヶ崎に至る旧青梅街道は今は寂れて断続的にその跡を残すだけになりました。これに代わって、青梅橋から北上し、奈良橋から箱根ヶ崎に至る狭山丘陵下旧集落沿いの道が栄え、いつしか青梅街道と呼ばれるようになりました。青梅橋から丸山台の一つ家までは人家がなく、青梅街道中の難所で、夜ともなれば夜盗追いはぎの危険に道を急ぎ、日のあるうちに箱根ヶ崎や小川に宿を求めたという昔日の旅人のことなど、今では考えられません。」ということです。



当時の青梅橋の様子を描いた木版画を見ても、街道の寂しさが伝わってきます。蛇足ながら東大和市の名前の由来ですが、「東大和市のあゆみ」と題された案内板によりますと、大和は「大いに和する」、東大和は「東京の大和」という意味なのだそうです。



桜街道を進みます。人々を楽しませた桜並木ですが、さつまいもや桑の木の成長を妨げる「こさをひく(影ができる)」ということで一部切り倒されもしましたが、昭和二十年の大空襲で大部分がなくなってしまったのだそうです。



森永乳業の工場の先に、芋窪街道の上を走る多摩モノレールの桜街道駅があります。先日五日市街道を歩いた際に利用した砂川七番駅は2つ手前になります。



芋窪街道を越えますと、江戸街道の標識が現れます。街道沿いには茶畑が広がっていますが、狭山茶を栽培しているのでしょうか?



青梅街道は榎交差点で右に方向を変え、北に向かいます。旧道はそのまま直進し、広大な空き地の中を進みます。左手には巨大な武蔵村山病院、右手には「むさし村山ミュー」のショッピングモールが広がっています。あまりの広さに飛行場の跡地ではないかと錯覚しますが、ここはかって日産村山工場があったのだそうです。途方もない広さの敷地ですが、工場が閉鎖され、雇用が失われた影響はいかばかりだったのでしょうか?



残堀川に架かる伊奈平橋で右折し、手打ちうどんのお店の手前で細い路地に入ります。上砂橋で残堀川を渡った地点は、地図上で榎交差点から一直線上のところにあります。旧道が如何に真っ直ぐに延びていたかが実感できます。グリーンタウン南交差点で右折し、中原公園の手前で左折します。ここから先の区間は旧道が一部途切れていますが、住宅地の路地を抜け、ジョイフル本田の手前に出ます。今まであちこちでジョイフル本田の店舗を見ましたが、とにかくデカイお店です。その敷地の角の盛り土の上に榎(?)の巨木が枝を広げ、隣には古い庚申塔の石碑が建っています。江戸街道の標識も置かれていますので、一里塚か何かの跡なのでしょうか?案内板が欲しいところです。



瑞穂石畑で新青梅街道と交差し、斜めに延びる江戸街道を進みます。多摩信金の手前で右折し、その先で左折して青梅街道に入ります。ここから河辺町の野上交差点まで青梅街道を進みます。JR八高線を越えた先で道路は二股に分かれますが、右手の道路は岩蔵街道となっています。沿道の瑞穂町長岡地区に多数の温室ハウスが並び、中でもシクラメンが都内最大の生産地であることから、別名シクラメン街道とも呼ばれています。



新町地区に入りますと、街道脇に「XX家井戸跡」の石碑が目立ちます。



御嶽神社入口交差点を右折した先には「大井戸公園」なるものもあります。ここには五日市街道でも見かけた「まいまいず井戸」が残されていて、都内最大規模なのだそうです。地下水が得にくい武蔵野台地では、地面を擂鉢状にくり抜き、底に筒井戸を掘って地下深くから水を汲み上げたのだとか。驚くほどの大きさで、擂鉢の大きさは、南北33m、東西22m、深さ15mもあるそうです。内部には螺旋状の石段が設けられていて、人々は石段を下りて底の井戸から水を汲んだのだそうです。石段を上り下りする手間を考えると、地面から直接井戸を掘った方が効率的だと思うのですが。青梅街道の沿道に井戸跡の石碑が沢山残っているのも、如何にこの辺りで水が得にくかったかを思い知らされます。



街道に戻った先に、新町村の名主を勤めた吉野家の住宅が保存されています。安政二年(1855年)に建てられた茅葺の旧家には昔の道具類とか釜戸なども展示され、内部も見学できるようになっています。



その直ぐ先の公園には鈴法寺跡の石碑が建っています。鈴法寺は虚無僧で有名な普化宗の総本山でした。慶長十八年(1613年)に当地に移転し、全国120ヵ所の総本山として栄えたそうです。公園の奥には歴代寺持の墓が10基ほど残っていますが、深編笠の墓石なのでのっぺらぼうの形をしているのが面白いところです。そういえば、水戸街道を歩いた時に「小金宿」で虚無僧の寺「一月寺」跡を見かけましたね。



野上交差点で右折し、直ぐに左折して住宅地の路地を進みます。途中に「道間公園」があるのですが、この辺りが旧道の雰囲気をよく残している区間なのだそうです。旧道独特のゆるやかにうねった道を歩いていると、精神安定曲線とでも云うのでしょうか、何故か気分が安らぎます。



東青梅駅北口で旧青梅街道に合流し、石灰の産地だった成木村に続く成木街道入口の先にある踏切で青梅線を越えると青梅駅まで一本道です。私は駅の先の市民会館前交差点で青梅街道の歩きを終えましたが、旧青梅街道はこの先も奥多摩湖・大菩薩峠を経て甲府に続いています。



本当はJR青梅線の奥多摩駅あたりまで歩きたかったのですが、山道は苦手なもので仕方ありません。またの機会にしましょう。






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