- 都電14系統跡コース(1)
- コース 踏破記
- 今日は都電14系統跡を歩きます。都電14系統は新宿駅から荻窪駅までを結び、その路線は青梅街道のみを通っていました。都心から西に向う唯一の路線でした。
都電14系統
都電14系統の全長は7.3kmで、昭和38年12月1日に廃止となりました。
都電14系統の電停(路上の駅)は、新宿駅・柏木一丁目・成子坂下・本町通二丁目・本町通三丁目・鍋屋横丁・本町通五丁目・本町通六丁目・高円寺一丁目・高円寺二丁目・蚕糸試験場・杉並車庫・馬橋一丁目・馬橋二丁目・阿佐ヶ谷・杉並区役所・成宗・天沼・荻窪駅でした。
都電14系統は都電杉並線とも呼ばれ、都電杉並線は高円寺線(新宿駅前〜高円寺一丁目)と荻窪線(高円寺一丁目〜荻窪駅前)をあわせた路線でした。元々は西武鉄道が運営していた西武軌道線でしたが、東京都がこれを買収し、都電14系統となったのです。このような経緯を辿ったため、都電の中で唯一線路幅が1067mmの狭軌線路となっていました。しかし、都電14系統が走っていた青梅街道の地下に営団地下鉄荻窪線(現在の東京メトロ丸ノ内線)が建設され、昭和三十七年(1962年)に開通したたために地下鉄と競合関係となり、昭和三十八年(1963年)に都電としては早期に廃止されたのです。旧都電杉並車庫は、現在都営バスの杉並支所となっています。
都電14系統の新宿駅電停がどこに位置していたのか、いろいろと調べてみたのですが確定的なことは分りませんでした。ネットの情報をつなぎ合わせてみた結果、恐らく次のような変遷を辿ったのではないかと思われます。
大正十年(1921年)8月26日、西武軌道により淀橋〜荻窪間が電気鉄道として開業しました。翌年の12月1日には淀橋〜角筈(つのはず)間が延伸開業しました。角筈電停は、現在の都営地下鉄大江戸線新宿西口駅ならびに西武新宿線・西武新宿駅前付近のJR線の「大ガード」下辺りにありました。大正十五年(1926年)9月15日には、更に角筈〜新宿駅間が延伸開業しました。当時の新宿駅電停はJR線の大ガードから南下した現在の東口の駅ビル「ルミネエスト」の北側入口付近にありました。理由は不明ですが、昭和十九年(1944年)になると、角筈〜新宿駅間は休止となりました。戦後の昭和二十六年(1951年)4月1日、東京都が西武鉄道から路線を買収し、都電14系統として再発足しました。ということで、昭和十九年(1944年)以降、廃止された昭和三十八年(1963年)まで、新宿駅電停は角筈付近(JR線の大ガード下)に位置していたということになります。
折角なので、新宿駅東口の「ルミネエスト」の北側入口から歩くことにします。
ルミネエストに面した広場は待ち合わせの定番になっていますが、中央の植栽の壁の脇に馬水槽の案内柱があります。華やかな新宿の雰囲気とは別世界のようなモニュメントです。
馬水槽
十九世紀にロンドン市内で馬・犬猫・人間に飲料水を供給した石造品で、イギリスから贈られたものである。動物愛護の精神に基づく水飲み施設で、交通運搬とキ市水道発展の歴史を物語る記念物である。
壁には、昭和三十九年に設置されたプレートが埋め込まれています。最初から馬水槽がここに置かれたということではなかったんですね。
みんなの泉
この塔は、明治三十九年ロンドン水槽協会から東京市に贈られたもので、上部が馬、下部が犬猫、裏側が人間の水飲場となっておりますが、元来動物愛護の目的で造られたものです。当時東京市役所前に置かれ、その後淀橋浄水所に移され、今回更に新宿民衆駅完成を記念してこの場に移設されました。ロンドン近郊には今なおこの種のものが残っており、市民に親しまれております。このたび「みんなの泉」を命名され、この地に永久に残ることになりました。
プレートの文字が読み辛いためか、別の案内板も置かれています。
「みんなの泉」の由来
東京の上水道育ての親、中島鋭司博士が明治三十四年から欧米諸国を視察した際、ロンドン水槽協会から東京市に寄贈されたもので、現在では世界に3つしかない貴重なものである。赤大理石製で上部は馬、下部が犬猫、裏面が人間用と、動物愛護の精神が息づいており、明治から大正にかけては当時の重要交通機関であった馬がよく利用していた。昭和三十九年の新宿民衆駅完成を記念して現在の場所に移転。その際、「馬水槽」と呼ばれていたものを一般より公募した「みんなの泉」と改称され、現在では新宿区の文化財に指定されている。
東口から西口の思い出横町に抜ける地下道の入口に旧青梅街道の記念碑が立っています。現在の青梅街道の起点は新宿大ガード西交差点となっていますが、江戸時代の旧青梅街道の起点は甲州街道の1番目の宿場だった内藤新宿でした。内藤新宿は現在の新宿三丁目交差点付近に当たり、この地点は甲州街道との分岐点(追分)であったことから新宿追分とも呼ばれました。この記念碑は、旧青梅街道が思い出横町への地下道の入口付近(角筈電停があったところ?)を通っていたことを示しています。
大ガード下へ向います。かっての新宿駅電停と角筈電停は、ほんの100m位しか離れていませんが、JR新宿駅と西武新宿駅の中間地点に位置していたことから、角筈電停が設置されたのではないでしょうか?
JR線大ガード下の壁には巨大な壁画が描かれています。落書き防止の意味もあるのでしょうけど、絵心のない私には芸術と落書きは紙一重の差としか思えませんね。
太陽と海をつなぐ道
これらの絵は、2013年夏に開催したアートイベント「新宿クリエイターズ・フェスタ 2013/こどもアート(NPO法人 3.11こども文庫)」で描かれたものです。このイベントでは、ライブペインティングやアート・ワークショップ、音楽ライブなど数多くの催しが行われ、子どもから大人までが気軽にアートに触れ、楽しみました。向かって左側の絵は「森をかかえる太陽」、中央の絵は「街をのせた海」という作品で、旧新宿コマ劇場(歌舞伎町)の建設現場の仮囲いをキャンバスに、子ども達が描いたものです。太陽や海に育まれる自然や人、楽しそうな街の風景が描かれています。向かって右側の絵は「よみがえれ!私たちの海」という作品で、福島県いわき市の小名浜港の風景を描いたものです。この作品は、福島県相馬市立中村第二小学校の3年生の皆さんの絵を、一枚ずつつなぎ合わせて制作したものです。一つひとつの絵から、子ども達の故郷に寄せる深い思いが伝わってきます。
大ガード下を抜けて新宿西口に出ます。思い出横町は1999年11月24日の昼過ぎに火事が発生し、老朽化したトタン屋根や電線を伝って次々と火が燃え広がりました。思い出横丁は戦後の焼け跡にできた闇市から発展し、露天商同士が戸板1枚で仕切られていた名残りから、2千平方メートルほどの敷地内に約80店舗がひしめきあっていました。一時期、防災面からビルに建て替え、地下に横丁を再現する計画も浮上しましたが、地権者がまとまらず計画は実現しないまま起きた大火だったのです。結局、火事は4時間にわたり続き、幸いにも死者は出ませんでしたが、全店舗の約3分の1が全半焼しました。もう再起は不可能かと思っていたのですが、以前と同じ極狭の通路が入り組んだ飲み屋横町が復活しています。
青梅街道に入り、新宿西口の超高層ビル群を見上げながら進みます。都電14系統が走っていた頃は、超高層ビル群は存在せず、代わりに淀橋浄水場の貯水池が眺められたことでしょう。
東京医大病院は2019年3月に竣工したばかりの真新しい建物です。当初は既存の病院棟を改修し、隣りに新棟を建設する予定でしたが、コストが嵩む懸念もあって、最終的に新棟に一本化することになりました。地上20階建て、延べ約9万7000平方メートル、病床数は約900床にも及ぶ都内屈指の規模の大学病院です。
東京医大病院と青梅街道を挟んだ反対側に成子天神社が鎮座しています。祭神は菅原道真公(天満大自在天神)です。創建は延喜三年(903年)で、菅原道真公の死去を嘆き悲しんだ家臣が道真公の像を配流先の大宰府(案内板では平安京となっています)から持ち帰って祀ったのが始まりであるといわれています。その後、鎌倉時代に源頼朝により社殿が造営され、江戸時代には将軍徳川家光から下賜された土地に春日局が天満天神社を勧請したとされています。寛文年間に起きた火災により、それまでの記録や社宝などが焼失してしまいました。第二次世界大戦中にも空襲により社殿が焼失しましたが、昭和四十一年(1966年)に鉄筋コンクリート製の社殿が建立されました。神社施設の老朽化に伴い、平成二十六年(2014年)に新たに社殿等を建替えて現在に至っています。
由緒 祭神 菅原道真公
千百年を超える歴史を紡いできた「成子天神社」。このあたりはその昔柏木村鳴子と呼ばれ、当地にはもともと大神宮(ご祭神天照大御神)が祀られ、松や柏の樹々が茂る清らかな神域が広がっておりました。平安時代の延喜三年(903年)、九州の太宰府で菅原道真公が亡くなられたという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は悲嘆極まりなく、その徳を慕い、洛陽(平安京)より、公の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰りました。そして当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神としてお祀りし当社が設立されたのです。その後、徳川三代将軍家光公より春日局に柏木鳴子の地を賜り、局の勧請により天満天神社として社殿を造営。明治二十七年成子神社と改め昭和三年成子天神社と改称。その後戦災消失、昭和四十一年の再建等を経て、平成二十六年の御造営を迎えました。
菅原道真は延喜三年2月25日に九州の太宰府で亡くなっていますが、当時の人々は祟りをもらたす怨霊として道真を恐れていました。というのも、文武両道で華麗な活躍をしていた道真は策略によって無実の罪を着せられ、都から遠く離れた大宰府の役人となり、無念の思いを抱いたまま亡くなったからです。その後起こった疫病の流行も、皇太子や貴族の死も、すべて怨霊となった道真の仕業だと思われたのです。この怨霊の怒りをしずめるために、醍醐天皇が京都にお社を造り、これが天満宮のもととなったとされています。北野天満宮はじめ多くの天満宮には牛の像が祀られています。この牛の頭を撫でると知恵を授かり、怪我や病気がある場所を撫でると早く治るといった信仰もあります。何故天満宮に牛が祀られているかといいますと、道真には牛にまつわるさまざまな伝説があるからです。道真の遺言通りに亡骸を乗せた車を牛に引かせたところ、途中で牛が座り込んで動かなくなって近くにあったお寺に埋葬したという故事も残されています。そして、牛だけではなく、鷽という鳥も天満宮にゆかりのある動物とされています。道真がハチの群れに襲われた時に、鷽がハチを食べて助けたという伝説があり、「鷽替え神事」という行事を行う天満宮もあります。これは、木彫りの鷽を毎年買い替え、ついてしまった「嘘」を「まこと」に替えて幸運を招くというものです。
今日は暮れも押し詰まった12月27日です。本来はのんびりとお散歩なんぞしている暇はない筈ですが、実際ヒマなので仕方がありません。年末の神事のひとつに「茅の輪くぐり」があります。茅の輪くぐりとは、茅で作った大きな輪をくぐることによって心身を清め、無病息災・厄除け・家内安全を願う行事です。茅の輪くぐりは12月31日の年越の祓のひとつとして日本全国の多くの神社で行われ、茅の輪くぐりは大晦日までが基本となります。1年の間についてしまった穢れを落とし、心身共に新年を清らかな状態で迎えるという意味があるそうです。
成子天神社の敷地は南北に細長く伸びています。その一番奥に大正九年(1920年)に造られた新宿区内では最大規模の富士塚(成子富士)があります。小山に富士山の溶岩を加えて築き、高さは約12メートルになるそうです。関東大震災(1923年)で富士塚は崩落しましたが、その後再建されました。
成子天神社の富士塚
大正九年(1920年)八月に、成子天神社境内にあった天神山という小山に富士山の溶岩を配して築かれたもので、区内で最後に築かれた富士塚です。高さは約十二メートルあり、区内では最大規模となっています。塚の北側には浅間神社の小祠があります。富士塚は、江戸時代中期より、江戸庶民の間で盛んになった富士信仰の遺跡です。同業者を中心に富士講が組織され、神社の境内に模造富士を築いて崇拝しました。成子天神社の富士塚は、柏木・角筈地域(現在の北新宿・西新宿)」の人々を中心に組織された丸藤成子講が奉祀していたもので、最盛期には約200名の講員がいましたが、現在は活動していません。
かって、山頂には木花咲耶姫命の像がありました。2011年3月11日の東日本大震災により北側斜面に落下しましたが、浅間社前に立て直されました。
なんか、香淳皇后に似ているような。。。
山があれば登りたくなるものです。今年の登り納めに富士山(塚)登山に挑戦してみましょう。小山ですが、結構キツィ勾配です。登山道はとても狭く、足場はゴツゴツした岩なので気を付けないと転げ落ちそうになります。クサリを伝って山頂を目指します。
へっぴり腰で登り詰め、山頂に上がりますと、小さな祠が鎮座しています。高さ12mの頂上からは新宿西口の高層ビル群が間近に眺められます。いやあ〜、絶景ですな。
神社の境内ではお馴染みの力石がずらりと置かれています。かつて例祭などの余興で人々の力くらべなどで使われた石です。殆どの(というか、全て?)力石は丸い形をしていますが、四角い形の方が抱え上げやすいと思うのですがね。
成子天神社の力石
力石は、祭礼などで余興として行われた力くらべに使われた卵型の大きな石です。成子天神社には七個が残っており、社殿前に並べられています。七個すべてに銘文が刻まれていますが、このうち二個は判読できません。残りの五個には、四十貫(約150キログラム)から五十八貫余(約218キログラム)に及ぶ重量や、虎松・喜太郎・亀治郎・市蔵という人名が刻まれています。人名は奉納者または持ち上げることができた人物の名であると思われます。製作時期は記されておらず不明ですが、江戸時代末から明治時代頃のものと推定され、人名が重複していることから、ほぼ同時期に奉納されたものと考えられます。
Lifting Stones at Narukotenjinsha Shrine
Lifting stones are large, oval stones used in strength competitions traditionally held during local festivals for entertainment. There are seven lifting stones arrayed in front of the main building of the Narukotenjinsha Shrine. All seven stones have inscriptions, though two have become illegible. The other five stones range in weight from 40-58 kan (approx. 150-218kg). They are inscribed with the male names "Toramatsu", "Kitaro", "Kamejiro" and "Ichizo", which are thought to represent either the stones' donors or the individuals who succeeded in lifting them. The dates when the stones were crealed are not recorded, though they are likely from the end of the Edo period to the Meiji period. A few of the same names are inscribed on several stones, hence why they are assumed to be from the same time period.
これも神社の境内には必ず見かける神輿庫があります。三基共に立派なものですが、左端の神輿が一番大きいようですね。渡御しているところを見てみたいものです。
境内には地元の特産物だった鳴子ウリの案内板も立っています。マクワウリは、美濃国(現在の岐阜県南部)の真桑村(現在の本巣市)でよく作られていたため、その地名をとって真桑瓜と呼ばれるようになったとのことです。メロンの仲間ですので、甘味の乏しかった江戸時代には貴重な食べ物だったのでしょう。
江戸・東京の農業 鳴子ウリ
成子天神を中心とした地域は、江戸時代マクワウリの特産地でした。記録によれば、江戸に幕府を開いた徳川家は、元和年間(1615年〜1624年)に美濃の国真桑村から農民を呼び寄せ、鳴子と府中の是政村(現在の府中市)に御用畑を設け、マクワウリを栽培させました。マクワウリは根が浅く、土の乾燥に弱いので、土に湿り気のある神田川流域の当地は適地でした。元禄十一年(1698年)新宿に宿場が開かれたため、栽培は次第に盛んとなり、当時、四谷ウリとか、この地域が鳴子坂と呼ばれていたので、鳴子ウリと呼ばれ、明治にいたるまで特産地として栄えました。鳴子ウリは長さ四寸(12cm)で、太さは元で一・八寸(約5.4cm)、末で二寸(6cm)余りの小型のウリで、外観は緑色で表面に細い緑のすじがあり、熱すと甘い香りと共に黄色く色付く。果肉は緑色で甘味に富んで、当時は甘い物が少なかったので水菓子として貴重な野菜でした。
THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Naruko-Uri (Makuwa melon)
The area around this shrine was a production center of Makuwa melon during the years 1615 - 1624, According to the record, the Tokugawa Shogunate, who established its government in Edo, called upon farmers from Makuwa of Mino Province and had them grow the melon at two government-patronized farms, one here at Naruko and the other at Koremasa (the present Fuchu city). Establishment of the post town in Shinjuku in 1698 gave a great incentive to the growing of Makuwa melon and Naruko had prospered as the specialty production area up to 1870s. This melon was a precious vegetable as fruit in those days when there were few sweet things to eat.
境内には七福神が祀られています。間隔を空けて置かれていますが、1ケ所七福神といえないこともありません。でも、石材店の店先に置かれているような月並みなお姿なのでイマイチ御利益が薄そう。。。
長居をしてしまいましたが、鳴子天神社を後にして青梅街道を進みます。もうやんカレーのお店がありますね。もうやんカレーのお店は新宿に3店あり、ここは「大忍具 (青梅街道店)」という名前です。近所には「利瓶具 (西新宿)」という名前のお店もあります。ちなみに、大忍具はダイニング、利瓶具はリビングと読むみたいです。インド仏教の用語かと思いましたよ。
つい最近まで淀橋手前の青梅街道沿いには雑居ビルや古マンションがごっちゃに建ち並んでいました。それが今は広大な更地となり、新しいビルの建設が進んでいます。西新宿五丁目北地区再開発プロジェクトという名称で、防災街区整備事業として、2棟の超高層ビルに建て変わります。A棟(複合棟)は地上33階・高さ151m・床面積9万u、B棟(住宅棟)は地上35階・高さ131m・床面積4万4千uの規模となる予定です。2棟とも2023年3月に竣工するとのことですので、周辺の景色は一変することでしょう。
青梅街道と神田川が交差する地点には淀橋が架かっています。蛇足ですが、家電量販店のヨドバシカメラが創業した地はかっての新宿区淀橋でした。地名の「淀橋」は、現在の新宿駅西口一帯を指す地域の旧称でした。
淀橋の由来
淀橋の名は、江戸時代の三代将軍徳川家光が名づけたといわれています。古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか、「いとま乞いの橋」といわれていたといいます。このあたりで中野長者といわれていた鈴木九郎が自分の財産を地中に隠す際、他人に知られることを恐れ、手伝った人を殺して神田川に投げ込みました。九郎と橋を渡るときには見えた人が、帰るときには姿が見えなかったことからその名がついたといわれます。江戸時代の初めに鷹狩りのためこの地を訪れた将軍家光はこの話を聞き、「不吉な話でよくない、景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めるよう」に命じ、これ以降、その名が定まったそうです。
<<写真多数のため、都電14系統跡コース(2)に続きます。>>
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