- 都電14系統跡コース(2)
- コース 踏破記
- <<都電14系統跡コース(1)の続きです>>
中野坂上交差点で山手通りと交差します。今は道路幅が拡がり、歩道も広々としている山手通りですが、都電14系統が走っていた頃はどんな景色だったのでしょうか?交差点先の右手に宝仙寺の参道が延びています。宝仙寺は真言宗豊山派の寺院で、中野区では屈指の広大な寺院であると共に、千年近くの歴史を誇る古刹です。宝仙寺は寛治年間(1087年から1094年)に源義家によって現在の杉並区・阿佐ヶ谷で創建されました。本尊は義家が後三年の役の際に護持していた不動明王像で、良弁作と伝えられています。室町時代の1429年に現在の位置に移転しました。江戸時代には優れた僧を輩出し、歴代の将軍から厚い保護を受け発展しました。将軍家が鷹狩りに出た際の休憩所としても利用されました。著名人の葬儀・告別式も多く執り行われることでも知られています。
宝仙寺には「馴象之枯骨(じゅんぞうのここつ)」が伝わっています。享保十三年(1728年)、徳川吉宗の命により中国の貿易商鄭大成が広南(現在のベトナム)から長崎に牡牝2頭の象をつれてきました(牝は上陸3ヶ月後に死亡)。江戸幕府で飼育されていた象は、寛保元年(1741年)4月に中野村の百姓源助に払い下げられ、寛保2年(1743年)に死亡しました(「寛延二年(1749)に死亡したという説もあります」)。皮は剥がされ、頭蓋骨と牙・鼻の皮が源助に与えられた後に宝仙寺へ納められ、「江戸名所図会」などでも「馴象之枯骨」の名で紹介されましたが、太平洋戦争の戦災に遭い、現在は鼻の皮の一部が残されています。
境内には中野町役場跡の石碑が建っています。明治期以降、境内には中野町役場が置かれ、その後1932年に中野区が発足したときには初代の中野区役所として利用されました。
境内の一画に夥しい数の石臼が積まれ、小山のようになっています。石臼塚というのだそうです。案内板にはその由来が記されています。
石臼塚由来
中野区と新宿区との間を流れる神田川には江戸時代から水車が設けられて、そば粉を挽くことに使われていた。そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため、中野そばとまで言われるようになつた。その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。それを見て当山、宝仙寺第五十世住職富田コウ(”學攴”が一字になった漢字)純大僧正(宝仙学園創立者)が、人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。
境内の奥に堀江家の墓があります。宝仙寺の檀家総代でもあった堀江家は、平安時代から代々中野一帯を開拓していった草分け的な地主でしたが現在は断絶しています。
堀江家の墓所
堀江家は、十二代堀江重賢の徳川幕府への届出書によれば、越前(福井県)から同家の先祖、兵部という人が農民十数名とともにこの地に来て、弘治元年(1555年)中野の開発に着手したとされています。当時、関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられ、江戸開幕後、歴代の当主は、中野村の名主として、中野とその近郷の有力な指導者となりました。堀江家によって、中野村は次第に発展していきました。その間の村政及び幕府との関係文書は、現在「堀江家文書」として首都大学東京に保管され、研究に供されています。堀江家は、将軍鷹場の村むらへの御用触次、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人のほか、江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しましたが、明治以後も中野の町村政のためにはたした業績は大きく、現在の中野区の発展の礎となっています。
境内には朱色に映える三重塔が建っています。江戸六塔のひとつで、初代の三重塔は寛永十三年(1636年)に建立されました。昭和二十年(1945年)5月25日の空襲により焼失しましたが、平成四年(1992年)に法起寺三重塔を模した飛鳥様式で再建されました。塔内には胎蔵界五仏が安置されています。
三重塔
当寺の三重塔は寛永十三年に建立された塔が飛地境内の塔ノ山公園(現在の中野区立第十中学校)にありましたが、昭和二十年の戦災で焼失致しました。平成四年の興教大師八百五十年御遠忌記念として再建されました。この塔は、焼失した塔とほぼ同じ高さの約二十メートルで、奈良法起寺に範をとり、飛鳥様式の純木造建築で心柱は基壇まで貫通しています。塔内には大日如来を中心とした胎蔵界(仏の菩提心が一切を包み育成することを母胎にたとえたもの)佛が安置されております。
御影堂とは、寺院の中で宗祖などの御影を祭っている建物のことです。宝仙寺は真言宗豊山派の寺院ですから、宗祖は弘法大師空海となります。
御影堂
御影堂とは、弘法大師の御影すなわちお姿を安置してあるお堂のことです。このお堂は、三間四方の純木造建築です。このお堂に安置してある自輪弘法大師像は脱活乾漆という漆と麻布で作られており、この技法でこのような大きな佛像は壹千年以上も絶えて作られでおりませんでした。この弘法大師像は座像で、高さは後背まで入れて約三メートルです。
長らく建替え工事中だった中野警察署の新庁舎が完成し、令和二年11月から業務を開始しました。新庁舎では、屋上に太陽光発電を行うソーラーパネルや地下に射撃場、それに授乳室なども完備しているそうです。また、バリアフリー設計で多くの来庁者に対応した建物となっています。地上4階・地下2階建で、広さは1万1800平方メートルとなり、旧庁舎のおよそ3倍の延べ床面積となっています。建屋の正面から見ると、建物の間にマンションが入り込んだ複雑な構造となっています。マンションが先に建っていたようなので、やむなく警察署の建物が凹型の配置になったものと思われます。日本全国広しといえども、警察署の建物の間に民間のマンションが挟み込まれているのはここだけでしょう。絶対に泥棒や押し売りは近寄らないでしょうから、マンションの住民は超安全な住み心地でしょうね。
徳光和夫さんと田中律子さんが案内役を務めるテレビ朝日の「路線バスで寄り道の旅」でも紹介された鍋屋横町ですが、出演した久本雅美さんの地元でもあるとか。横町といっても路線バスが通る割と広い道路です。両側が商店街となっていて、古くからのお店が大半です。久本雅美さん行きつけのパン屋さんの「ミルクロール」の店先には、いつもまとめ買いのお客さんの長蛇の列ができています。安くて美味しいという評判です。
鍋屋横町の由来
ここは古くから北は新井薬師へ南は堀之内妙法寺へと通じる道が青梅街道から分かれているところである。妙法寺が元禄年間に厄除け祖師として名高くなると沿道は参詣人で大いに賑わい、商家や料亭が軒を連ね、中でもこの角地の休み茶屋「鍋屋」はひときわ繁盛したため、この通りを鍋屋横丁と呼ぶようになった。鍋屋を有名にしたのは名物の草餅とともに庭の二百数十株の梅林であり、早春は梅香芳しく参詣客や文人墨客などの間でつとに知られるようになった。鍋屋の繁栄を偲ばせるものとして、文久二年奉献された東中野氷川神社の鳥居と平成十四年に妙法寺に移設した明治十一年建立の道しるべにその銘が刻まれている。
青梅街道と中野通りが交差する交差点の角に杉山公園があります。公園の名前からして個人と関係のありそうな感じです。
杉山公園の由来
杉山公園は、明治の実業家杉山裁吉氏が令嬢みさをさんの病気療養のため、自然環境ゆたかな田園風景をもとめて居をかまえた所です。この地に移られてからの杉山氏は多年の事業から隠退し、みさをさんの療養につくされました。しかし、そのかいもなく、みさをさんは明治四十一年、二十五歳の若さで世を去りました。両親の悲しみは非常に深いものでしたが、みさをさんの冥福を祈ると共に多くの子供達が健康ですこゃかに育つように祈願されました。大正十四年に夫人が逝去されたのを機に邸宅、土地を当時の中野町に寄付し、親子三体の地蔵尊を彫った石碑を建立されました。昭和六年に杉山裁吉氏が逝去された後、昭和九年三月、東京市より杉山公園として開園されました。現在は中野区に移管され、日毎に増す交通事故から子供達を守り、また、よき遊び場として地域のみなさんから親しまれる公園となっております。
公園の奥には地蔵三体が祀られ、その左にある石碑には「杉山一家嗣なく血統絶ゆるも代々の精霊は永くここに鎮りて中野町の繁栄と其の住民の幸福を祈らむ」と記されています。右側の石碑に埋め込まれたプレートには公園の沿革が記されています。
中野杉山公園沿革
この地は杉山裁吉氏が事業界隠退後居を卜(ぼう:占う)せられたる地にして、氏は一女ありしも歿して後継なく大正十四年令室亦卒っせられし後邸地を擧げて附近児童の遊園となすべく旧中野町へ寄付を申出られ同町に於て昭和六年杉山氏逝去後之を受領せるものなり。會昭和七年十月大東京となり市域拡張されしを以て市に於て其遺志を尊重し小公園として設備し永く保存管理し以て同氏の芳志を後世に伝へんとす。
青梅街道を更に進みますと、右手に古ぼけた小さな神社が鎮座しています。祠の後に銀杏の木が聳えています。
保護樹木西町天神大公孫樹
この大公孫樹は、江戸時代より聳え立つ大木であり、その偉容は、東は追分・鍋屋横町、西は高円寺押出・金灯篭(高円寺交番附近)周辺から天空高く望見できた。また、近在農家の江戸稼業往還の目安、一般休息の場ともなっていた。しかし、昭和五十四年10月の台風20号の被害を受け、根株もろとも倒伏した。蘇生策として躯幹の大部分を切断せざるを得なかったが、地域の人々の努力と熱心な手当によって、今では銀杏の実がつくまでになった。これからも人々に愛されながら、永くこのまちの移り変わりを見守っていくことであろう。
蚕糸の森公園の塀の前に青梅街道の案内板が立っています。
青梅街道
この前の道は青梅街道です。青梅街道は慶長十一年(1606年)、江戸城修築の城壁用に武州多摩郡の上成木村・北小曽木村(現青梅市)産出の石灰を運ぶ道(初期には成木街道とよばれた)として、大久保石見守長安によって開かれたと伝えられています。石灰輸送は城の修築等のほか、民間の需要も多く、最盛期には年間ニ万俵以上にも達したといわれます。道中には中野・田無・小川・箱根ヶ崎・藤橋等継送りのための宿駅がおかれ、区内の田端・成宗・馬橋・和田の四箇村は中野宿の定助郷(江戸時代、宿駅常備の人馬が足らず指定されて応援の人馬を負担する課役)と定められ、一か月十日間の伝馬継立を行っていました。江戸中期以降、青梅街道は江戸の都市域の拡大と経済の発展にともなって、江戸と近郊農村との商品流通路・甲州への脇往還(甲州裏街道)としての性格を強め、一方、御嶽神社(青梅市)や秩父巡礼のための通行路としても発展しました。御嶽参詣の道中を記した天保五年(1834年)刊行の「御嶽菅笠」は、「荻久保(窪)の中屋の店に酔伏て」と、当時のにぎわいの様子を伝元ています。維新後、本道の重要性はさらに高まり、明治時代には乗合馬車が走り、大正十年には淀橋〜荻窪間に西武電車が開通しました。西武電車は戦後都電となり、昭和三十九年に廃止されました。なお、杉並の名称は、江戸初期に成宗村・田端村の領主となった旗本岡部氏が、村境の印として、青梅街道沿いに杉の木を植えたことに由来するといわれています。
蚕糸は「さんし」と読みます。文字通り、蚕が紡いだ糸という意味になります。明治維新以降、日本が近代化への道を進んだ際、軽工業の中心は絹織物産業でした。ここには蚕糸試験場が置かれ、蚕糸科学技術研究の最先端の施設でした。その広大な敷地跡に造られたのが蚕糸の森公園です。
入口の奥に大きな石碑が置かれています。独特の形状をしていますが、何か意味があるのでしょうか?
蚕糸科学技術発祥の地
明治四十四年(1911年)、この地に農商務省原蚕種製造所が創設され、一代交雑種の原蚕種配布を開始した。その後、蚕業試験場、蚕糸試験場と改められたが、一貫して蚕糸科学技術の研究を進め、世界の先端を行く蚕糸技術を開発してきた。この業績は蚕糸業ばかりでなく、我が国の近代化と経済の発展に大きく貢献した。昭和五十五年、蚕糸試験場は筑波研究学園キ市へ移転し、杉並区立蚕糸の森公園がここに設けられた。この地に生れた蚕糸科学技術がますます発展することを願い、ここに記念碑を建立する。
青梅街道と環七が交わる高円寺陸橋下交差点の先の左手に都バスの杉並支所があります。かって都電杉並線の車庫があったところです。新宿以西を走っていた都電は14系統のみでしたから、その車輌を収容するには広すぎる敷地のように感じます。
でも当時の写真を見ますと、車庫だけでなく整備場としても使われていたようですので、これくらいの広さも必要だったのでしょう。
五日市街道入口交差点先の左手に清見寺があります。この一帯は昭和四十三年(1968年)に住居表示が実施される前まで馬橋という地名だったことから、通称「馬橋の灸寺」と呼ばれていました。「灸寺」という愛称は、先々代の住職に鎮灸の心得があり、檀家や近隣の人達に治療を施していたことに由来するそうです。清見寺では明治末年から灸治療が行われ、旧本堂脇の内玄関に「官許、瑞雲山清見寺、名灸点」の看板が掲げられていたそうです。灸治療は昭和五十年代まで続いていたそうですが、今はやっていないとのことです。清見寺の本堂の軒の四隅には、風鐸と呼ばれる鐘形の鈴が下がっています。山門からも見える高さ約3mの大きな石仏は、左から弘法大師、観世音薩、地蔵善薩と並んでいます。清見寺は杉並の小学校発祥の地としても知られています。明治三年(1875年)に東京府中野村(現在の東京都中野区)の宝仙寺に桃園小学校が開校しましたが、校区が広かったために清見寺に馬橋村・高円寺村・阿佐ヶ谷村・天沼村・田端村・成宗村の児童が通う分校が設けられました。毎年5・6月になると杉並第一小学校の児童が見学に訪れているとのことです。
清見寺
馬橋の灸寺で知られる瑞雲山清見寺は、曹洞宗の寺です。本尊は千手観世音菩薩像で、中野区の成願寺の末寺です。寺伝によれば開創は寛永初年(1624年)で、開山は成願寺六世鉄叟雄「さく」(茲の下に鳥)大和尚と伝えます。当寺は開山後しばらくの間、檀家の数も多くはなく、しばしば無住の時もあったといわれ、その詳細はあきらかではあません。当寺は元禄年間(1688年〜1703年)火災に遭い、現法堂は平成五年(1993年)に新築されたものです。文化財としては、馬橋村・阿佐谷村の村民の奉納した地蔵石像があります。江戸時代には、寺の北東側に馬橋村の高札場(幕府の出した法令を記した高札を掲げておく施設)が設けられていました。寺前の青梅街道は、江戸初期に開かれた杉並地域の幹線道路で、近世のみならず現代でも生活上・産業上の重要な役割を担っています。なお、当寺には明治八年(1875年)から同十七年(1884年)まで、現在の杉並区立第一小学校の前身である桃園小学校第一番分校(同九年桃野学校として独立)が置かれており、杉並近代教育発祥の地の一つです。
阿佐谷パールセンターは、阿佐ケ谷駅南口から青梅街道にかけて南北に約700メートル続く240店舗にも及ぶ商店街です。「各店舗が真珠(パール)のように輝き、首飾りのように商店同士が協力し、結び合い、繁栄する」という願いを込めて「阿佐ヶ谷パールセンター商店街」と命名されました。昭和二十九年(1954年)に始まった夏の風物詩である「阿佐谷七夕まつり」は毎年8月に5日間にわたって開催され、仙台・平塚七夕まつりと並び「日本三大七夕まつり」といわれています。例年50万人以上の来客数を誇る都内有数の夏祭りのひとつです。パールセンターの全面アーケードは多くの飾りで彩られ、阿佐ケ谷駅構内や周辺商店街も飾りつけられます。蛇足ですが、阿佐谷という地名は、以前は阿佐ヶ谷(阿佐ケ谷)という表記がされていましたが、昭和四十年(1965年)の住居表示実施の際に阿佐谷に統一されました。ただ、駅名は今でも「阿佐ヶ谷駅」となっています。
都電14系統は当初天沼陸橋の手前で左側の道路に入って荻窪駅南口に進んでいました。空襲で壊された天沼陸橋の復旧工事が昭和三十一年に完了した後、青梅街道を真っ直ぐに進み、荻窪駅北口に行くようになりました。
天沼陸橋を渡った先から駅前商店街が続いています。立ち呑み晩杯屋も進出してきましたが、荻窪といえばやはりラーメン激戦区ですよね。春木屋は戦後の荻窪で屋台から始まりました。荻窪近辺の中央線沿線は昭和初期より名だたる文豪が多く住み、時より小説の中に行きつけの店などが書かれていました。黒澤明氏を育て、食通で有名な映画監督である山本嘉次郎氏は当時としては珍しいグルメ本を発行し、その中で春木屋を絶賛しています。漫談家・作家でマルチな活躍を見出していた徳川夢声氏は、幼少のころに春木屋の中華そばに出会い、床に伏すまで春木屋の中華そばを食べたいと話していたほどです。一時期ほどではありませんが、現在でも店先には入店待ちのラーメンオタクが列をなしています。
荻窪駅北口広場の入口に「有(ゆう)いち」という割烹料理店があります。ミシュラン2015でビブグルマンにも選ばれた名店で、店主は「人形町きく家」出身とのことです。お店のある場所は、元々は実家の金物屋さんの敷地だったのですが、敷地の半分をお店に改築したのだそうです。残りの半分の敷地では今でも金物屋を営んでいます。「有いち」という店名は、店主の祖父の名前(有一)だそうです。私はテレビでしか観たことがないのですが、コースで供される二種のお造りと中盤に出される八寸代わりの盛り合わせが評判のようです。
荻窪駅北口バスロータリーに面した線路側は今では小綺麗な広場になっていますが、2009年8月までは雑多なお店が軒を連ねていました。荻窪の焼鳥の名門「鳥もと」もここにありました。戦後の闇市時代からのお店で、西荻窪の戎・吉祥寺の伊勢屋と並んで、中央線三大大衆酒場といわれています。今は場所を少し東側に移動して営業しています。
荻窪駅北口には、ルミネとタウンセブンという二大ショッピングセンターが立地しています。どちらかというと、ルミネの方が高級志向で、西友主体のタウンセブンは庶民的といった感じでしょうか?
ということで、都電14系統跡を歩き終えました。実は、「昭和の都電跡を歩く」シリーズで最初に歩いたのが14系統でした。「東京の河川を歩く」で最後に歩いた「三田用水コース」の後、次のテーマは何にしようかと考えていたときに、昭和の都電を歩いたら面白いかなと思い、近くの青梅街道を通っていた都電14系統跡を試しに歩いたのです。これが結構ハマッて、都電の全41系統+臨時5系統+路線変更3系統+現在の荒川線の計50系統を歩くことになったという次第。この先は概ね系統番号順に歩いていくことになります。
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