- 都電13系統跡コース(1)
- コース 踏破記
- 今日は都電13系統跡を歩きます。都電13系統は新宿駅から水天宮までを結び、その路線は主に靖国通り・明治通り・文化センター通り・抜弁天通り・大久保通り・外堀通り・本郷通り・中央通り・靖国通り・水天宮通り(人形町通り)を通っていました。都心を東西に横断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電が一部区間を重複して走っていました。なので、重複する区間は新たな見所があったところを中心に追記することにします。
都電13系統
都電13系統の全長は9.3kmで、昭和45年1月27日に廃止となりました。都電13系統には何回かの路線変更がありました。昭和初期は18系統角筈〜万世橋間で運転され、1931年に13系統に改番されました。当初は現在の新宿遊歩道公園の敷地に専用の軌道があり、そこを経由して現在の文化センター通りに入っていました。戦後は、専用軌道は大久保車庫の回送線となり、角筈から四谷三光町を経由して文化センター通りに入り、飯田橋・水道橋・万世橋に至る路線となりました。更に、1958年4月に都電最後の延伸路線のひとつとして万世橋〜秋葉原東口414mが開通し、最終的に新宿駅〜水天宮の運転となりました。1968年3月に新宿駅〜岩本町に運転区間が短縮され、その後廃止に至りました。同時に、大久保車庫回送線もこの時点で廃止されています。
都電13系統の電停(路上の駅)は、新宿駅・角筈・四谷三光町・新田裏・大久保車庫・東大久保・河田町・若松町・牛込柳町・山伏町・牛込北町・神楽坂・築土八幡・飯田橋・小石川橋・水道橋・本郷元町・御茶ノ水・松住町・万世橋・秋葉原駅西口・秋葉原駅東口・岩本町・元岩井町・小伝馬町・堀留町・人形町・水天宮でした。
西武新宿駅前の靖国通り上にあった新宿駅電停跡に来たのは都電11系統・12系統と今回歩く都電13系統の3回で、今日が最後となります。正確にいうと、新宿駅と荻窪駅の区間を走っていた都電14系統の新宿駅電停が昭和の初期に現在の新宿駅東口ルミネ前あたりにがあったそうですが、戦時中に新宿駅西口に移動したらしいです。現在のルミネ前にあった(と思われる)新宿駅から大ガード下を通って青梅街道に入ったようなので、11・12・13系統とは線路と電停の共有はありませんでした。何より、14系統は狭軌(1067mm)の線路を使用していたために、11・12・13系統の準広軌(1272mm)の線路とは繋がりようがなかったのです。それはそれとして、(既に閉店しましたが)大塚家具の広告が掲げられた旧ヤマダ電機LABI新宿東口館の建物前から都電13系統跡の歩きを始めます。
靖国通りから歌舞伎町に入るメインロードは、よく知られた「歌舞伎町一番街」ですね。ですが、最も歌舞伎町らしい雰囲気が感じられるのは「さくら通り」かもしれません。最近、さくら通りの入口に架かるアーチが新しく生まれ変わり、5色に変化するLEDの妖しげなネオンで彩られたゲートが益々人々を誘惑するようになりました。さくら通りは、「ゴジラロード(セントラルロード)」と「東通り」の間にある南北に走る細い路地です。風俗情報店なども目立ちますが、高級焼肉店「游玄亭新宿」もあります。ロボットがダンスショーをする話題のレストランもさくら通りにあります。海外のセレブやハリウッド映画監督などの様々な著名人が来店し、海外では観光名所として人気のスポットとなっています。また、物珍しさからカップルやファミリー客の利用も多く、歌舞伎町のイメチェンにも貢献しています。
花園神社の境内の入口には、新宿で1・2位を争う高さの鉄製の大鳥居が建っています。そのはす向かいの新宿五丁目交差点付近には、かって都電の四谷三光町電停がありました。現在、行政上は残っていませんが、三光町という町名には次のような由来があります。南北朝(吉野朝)時代の初めの延元元年に後醍醐天皇が京都の花園院から吉野へ行幸された12月21日の深夜、暗闇で難渋され、途中伏見に差し掛かった際、稲荷大社の前で「ぬばたまの暗き闇路に迷うなり、われにかさなむ、みつのともし火(三の光)と歌を読まれ、道中の安全と神助を祈願すると、不思議に明るい一群の雲が現れ行幸の道を照らして無事に大和へ導かれたという故事から「三光」と呼ばれました。三光町の名称もこれより出たもののようです。昭和初期の都電13系統の路線は四谷三光町電停手前の現在の新宿遊歩道公園に専用の軌道があり、そこを経由して文化センター通りに入っていました。ちなみに、通りの名前になった新宿文化センターは旧都電大久保車庫の跡地に建てられました。専用軌道のあった東大久保に路面電車が走ったのは1913年〜1914年の頃で、新田裏から旧角筈に至る角筈線と呼ばれた専用軌道の路線を走っていました。1948年12月に四谷三光町経由の新線と、1949年に新宿駅前に都電ターミナルが竣工したことから、角筈線は大久保車庫の回送線として活用されることになりました。
新宿五丁目交差点を左折し、少しの距離ですが明治通りを進みます。明治通りに面して花園神社の裏門(こちらが正門?)があります。11月の酉の市の季節になると、参道横の空き地には熊手で覆われた小屋が密集して建ち並びます。参道の奥の一段高いところには朱色に塗られた拝殿が鎮座しています。花園神社は創建以来、幾度も大きな火災に見舞われ、その度に社殿を再建してきました。戦後社殿が老朽化したため、昭和四十年6月に鉄筋コンクリート造りの社殿が完成し、現在に至っています。
境内の一画に小さな社があります。威徳稲荷神社といい、昭和三年頃に建てられたと伝えられています。女性の参拝者に人気の高い神社で、奉納された赤い鳥居がびっしりと並び、異界へのトンネルに足を踏み入れたような不思議な感覚にとらわれます。
また、境内の隅っこに芸能浅間神社が鎮座しています。宇多田ヒカルの母親として知られる藤圭子の歌碑「圭子の夢は夜ひらく」もこの社の隣に建っています。
芸能浅間神社はその名の示す通り、江戸の昔から芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、演劇や歌曲など芸能関係の奉納が多いことで有名です。社の周囲には奉納した芸能人の名前が書かれたプレートがずらりと並んでいます。八代亜紀・ビリー・バンバン・中川翔子・唐十カ・ビートたけし等に混じって、NMB48加藤夕夏さんの名前もあります。昭和から平成にかけて活躍した芸能人が数多く名前を連ねていますが、プレートは差し替えできそうなので随時更新されるのかも。これから芸能人を目指す若者達の絵馬も沢山奉納されています。願いが叶うといいですね。
敷地の奥に二宮金次郎像が立っています。四谷第五小学校建設中の昭和八年(1933年)に卒業生の父親が千葉から荷車で運んできたものといわれています。同校が廃校になるに伴い、現在地に移設されました。戦前は多くの小学校に二宮金次郎像が設置されていましたが、戦後は軍国主義の象徴として撤去が相次ぎ、区内では希少となっています。戦前の修身教育の名残りをとどめる文化資源として置かれているようです。二宮金次郎像の奥には、浅間神社の井戸が再現されています。戦前には現在の手水舎脇に井戸があり、使用されていましたが、戦後上水道の普及に伴って埋め立てられました。テレビ東京の「新宿に井戸を掘る」の企画によって、約70年ぶりに浅間神社境内に再興されました。
新宿六丁目交差点で右斜め上方向の新宿文化センター通りに進みます。如何にも線路跡といった感じの道路です。ちなみに、新宿文化センターは都電車庫跡に建てられた施設です。
新宿文化センター通りはさして幅のある道路ではありませんが、中央に遊歩道が設けられています。かっての専用軌道の跡なのでしょうか?
道路の脇に近隣の名所を記した案内板が立っています。新宿文化センターは新宿区立の複合文化施設で、大・小各ホールやリハーサル室・会議室・展示室・レストランなどがあります。ホールでは区関係のイベントの他、オーケストラコンサート・バレエ・ミュージカルなどの公演も多く行われ、新宿区内外を問わず多くの利用者が訪れる施設になっています。
住居表示街区案内(AREA GUIDE)
專福寺(Senpukuji Temple)
この寺には、幕末から明治中期にかけて活躍した浮世絵師月岡芳年の墓(区指定文化財)がある。また、浄土真宗中興の祖と仰がれる、東本願寺第八世蓮如上人直系の高僧たちの遺品を蔵している。
法善寺(Hozenji Temple)
山の手七福神の一つ寿老神を祭る。法善寺の本堂には、極彩色の七面明神像(区指定文化財)が安置されている。この神像を前にしての読経供養が、毎年8月13日〜19日までの一週間営まれる。
西向天神社(Nishimuki−tenjin Shrine)
本社は、古来より東大久保村の鎮守社であった。現在でも境内は広く、椎の木などが森をなしている。境内には山吹の里伝説で知られる紅皿碑や富士塚(東大久保富士)がある。
花園神社(Hanazono Shrine)
内藤新宿の鎮守である。当社はしばしば火災にあって焼失し、その度ごとに復興資金を集めるため、芝居小屋を設け興業を行った。境内には、村田整a作の唐獅子像(区指定文化財)など、金石品が多く残っている。
新宿文化センター(Shinjuku Bunka Center)
区民の文化芸術活動の拠点として、昭和五十四年に開設された。大小ホール・展示室・会議室等があり、特に大ホールは音響効果に優れ、国内最高クラスのパイプオルガンが設置されており、音楽・オペラ・バレエ等、多くの催しが開かれている。
新宿遊歩道公園四季の路
「四季の路」とは新宿遊歩道公園の通称。区役所前から新田裏方面に向う260mの遊歩道で、都電軌道跡にできたもの。道沿いに樹木が植えられ、舖装は自然石、十分な夜間照明もあり、昼と同じように散歩することができる。
文化センター通りから抜弁天通りに入ります。その正面に抜弁天嚴嶋神社が鎮座しています。抜弁天は今はもう地名のようになっていますが、その昔、源義家が戦勝祈願した嚴嶋神社のことです。この近くを旧鎌倉街道が通っていたために源義家の伝説があるのだといわれています。境内が南北に通り抜けできることから、苦難を切り抜けられる弁天社、いわゆる抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天として、また新宿山ノ手七福神のひとつになっています。嚴嶋神社は七福神唯一の女神で、金運・縁結び・芸事上達の神である弁財天を祀っています。
警視庁第八機動隊の建物の入口付近に案内板が立っています。西向天神社は鳥居と拝殿に上る階段は見たのですが、境内には立ち入りませんでした。東大久保富士もあるんですか?今日はお正月の三日です。お天気も良いし、本物の富士山の初拝みができたかも。尚、住居表示街区案内には前出の案内板と一部重複があります。
住居表示街区案内(AREA GUIDE)
専福寺 Senpukuji Temple
この寺には、幕末から明治中期にかけて活躍した浮世絵師月岡芳年の墓(区指定文化財)がある。また、浄土真宗中興の祖と仰がれる、東本願寺第八世蓮如上人直系の高僧たちの遺品を蔵している。
法善寺 Hozenji Temple
山の手七福神の一つ寿老神を祭る。法善寺の本堂には、極彩色の七面明神像(区指定文化財)が安置されている。この神像を前にしての読経供養が、毎年9月13日〜19日までの一週間営まれる。
抜弁天(厳嶋神社) Nukebenten (Itsukushima Shrine)
源義家が後三年の役のとき祈願して建てたと伝えられ、江戸六弁天・山の手七福神の一つ弁財天がある。また生類憐みの令により、元禄八年(1695年)この付近に犬御用屋敷を設け野犬を収容した。その跡は、区指定文化財となっている。
戸山公園(箱根山地区) Toyama Park (MT. Hakone Area)
現在の戸山ハイツー帯には、江戸時代尾張徳川家の下家敷があり、戸山山荘といった。その一画に高さ44.6mの築山があり、それが現在の箱根山である。この箱根山を中心として公園が整備され、団地の中の貴重な緑となっている。
月桂寺 Gekkeiji Temple
臨済宗。豊臣秀吉・徳川家康に仕えた、月桂院殿が奉納した「厄除御安産諸願成就の至玉(安産宝珠)」や、隠れキリシタンの礼拝物であった「切支丹燈籠」がある。
西向天神社 Nishimuki−tenjin Shrine
本社は、古来より東大久保村の鎮守社であった。現在でも境内は広く、椎の木などが森をなしている。境内には山吹の里伝説で知られる紅皿碑や富士塚(東大久保富士)がある。
余丁町小学校の角に犬屋敷跡の案内板が立っています。中野の犬屋敷はよく知られていますが、大久保にもあったんですね。でも、たった2年で閉鎖されたのだとか。犬は多産な動物なので、ねずみ(戌)算式に増えて収拾がつかなくなったのでしょう。それにしても10万匹とは!餌は何を与えていたのかな?
大久保の犬御用屋敷跡
厳島神社(抜弁天)の東側一帯(約一万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊を含む一帯(約一万三千坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の跡である。五代将軍徳川綱吉は、男子徳松の死後世嗣にめぐまれず、これを前世の殺生によるものと深く悔い、貞享四年(1687年)生類憐みの令を発し、生物の殺生をかたく禁じた。特に綱吉が戌年生まれであったため犬を重視したという。これに伴い元禄八年(1695年)飼い主のいない犬を収容するため、四谷(千駄ヶ谷村、天龍寺の西)・大久保・中野(中野区役所一帯、旧囲町)の三ヶ所に犬御用屋敷を設置した。大久保の犬御用屋敷は、元禄八年五月二十五日に、四谷の犬御用屋敷とともに落成したもので、収容された犬は十万匹にのぼったと伝えられる。しかし次第に手狭になり、順次中野の犬御用屋敷にその役制を移し、元禄十年(1697年)十一月に閉鎖され、跡地は武家屋敷となった。
Site of the Okubo Kennels
Designated Historical Site of Shinjuku City
Location: 12 and 13 Wakamatsucho
Designation Date: June 6, 1986
For a time during the Edo period, dog kennels occupied a piot of land that now comprises of about 33,000mxm on the eastern grounds of the Itsukushima Jinja Shrine (also known as Nukebenten), about 43,000mxm of land used by the Yochomachi Elementary School, and the headquarters of the Eighth Riot Police Unit of the Metropolitan Police. The fifth Tokugawa shogun, Tsunayoshi, was without an heir. He believed this was because of the killings he committed in previous lives. for which he felt deep remorse. In 1687, he began issuing a series of edicts called the Order of Compassion for Living Things, which strictly forbado the killings of animals. Having been born in the year of the dog Tsunayoshi gave particular emphasis on the protection of dogs. This led to the establishment of three large kennel areas in Yotsuya, Okubo, and Nakano in 1695 to house the numerous stray dogs in Edo. The kennels in Okubo, which opened at the same time as the ones in Yotsuya, are said to have held some 100,000 dogs. As they became overcrowded, they were moved to the kennels in Nakano. The kennels in Okubo were closed in November 1697, and the land was converted into samural residences.
第八機動隊の敷地と余丁町小学校の敷地は隣り合っています。日本一安全な小学校といえるでしょう。それにしても、余丁町小学校の時計台は風格がありますね。
都営大江戸線の若松河田駅に隣接して、旧小笠原伯爵邸があります。江戸時代、ここには小倉藩の下屋敷がありました。昭和二年(1927年)になって、この地に旧小倉藩藩主の小笠原長幹伯爵の邸宅が建てられました。建物は当時流行のスパニッシュ様式で鉄筋コンクリート造の地上2階、地下1階建てでした。昭和二十三年(1948年)に米軍に接収され、4年後に東京都に返還されて昭和五十年(1975年)まで東京都福祉局の中央児童相談所として使用されましたがその後は用途を失って放置され、一時は取り壊しも検討されました。 平成十二年(2000年)になって管理していた都生活文化局から民間貸出の方針が示され、同年12月には箱根等でレストランを経営するインターナショナル青和が借り手に決定され、修復工事を経て平成十四年(2002年)6月にレストラン「小笠原伯爵邸」としてオープンしました。スペイン人料理長のゴンサロ・アルバレス氏による確かな技術と感性が生み出す最先端の「ヌエバ・コシーナ(新しいスペイン料理)」を堪能することができます。結婚式場としても人気があります。
抜弁天通りが大久保通りに合流する手前に団子坂があります。
団子坂
昔この辺一帯が低湿地であり、この坂はいつも泥んこで、歩くたびにまるで泥だんごのようになったという。嘉永七年(1854年)の「江戸切絵図」には「馬ノ首ダンゴザカト云」とある。
外苑東通りと交差する手前の高台に経王寺があります。新宿山ノ手七福神のひとつで、10年ほど前に狂ったように七福神巡りをした際に詣でたお寺です。最も、境内には入りませんでしたが。
経王寺の大黒天像
新宿山ノ手七福神のひとつで、日法上人の作、慶長三年(1598年)に甲斐国身延山より移されたと伝えられる。高さ十二センチの木造の立像で、大黒頭巾をかぶり小槌と大袋を持ち、台座に乗る通規の様式だが、江戸時代のものと異なり、微笑面ではなく厳しい表情をしている。室町時代の作と考えられ、度重なる火災にも焼け残ったことから「火防せ大黒」として、また「新宿山ノ手七福神」の大黒天として崇敬されている。
外苑東通り(環状第3号線)と大久保通りが交差している地点が市谷柳町交差点です。外苑東通りは南北に亘って長いこと道路の拡幅・整備工事が続いています。この区間では、道路工事と同時に電線共同溝の工事も行われています。電線を地下に通し、電柱のない街になるのでしょうか?
大久保通りから細い階段が延びています。昔は階段なぞなく、もっと狭い急な坂道だったのでしょう。
袖摺坂
俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺り合わしたという(「御府内備考」)。
神楽坂は早稲田通りの一部で、神楽坂上交差点から外堀通りに面する神楽坂下交差点までの区間をいいます。江戸時代には、外堀に設置されていた牛込門に通じる交通の要衝でした。
筑土八幡神社は大久保通りから一歩奥に入ったところにあります。境内にある宮比神社の御祭神「天鈿女命」は、日本神話に登場する芸能の神として知られています。太陽の神である「天照大神」が、弟の「素戔嗚尊」の粗暴な行為を目の当たりにし、天岩戸に隠れてしまった際、面白おかしく踊り、「天照大神」を再び御出現させた神が「天鈿女命」です。一説では別名「宮比神」と呼ばれていることから、神社の名称の由来となったといわれています。八百万の神を笑わせた神として、今でいう芸人や俳優の元祖ともいわれ、学芸の上達や、商売繁盛・縁結び・合格祈願などの御利益があるとされる神社です。
筑土八幡神社由来
昔、嵯峨天皇の御代(今から約千二百年前)に武蔵国豊嶋郡牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現われたもうことを知り、すぐに注連縄をゆいまわして、その松を祀った。その後、伝教大師がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた。さらにその後、文明年間(今から約五百年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。現在、境内地は約二千二百平方米あり、昭和二十年の戦災で焼失した社殿も、昭和三十八年氏子の入々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。
宮比神社由来
御祭神は宮比神で大宮売命・天鈿女命(天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になった「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子)ともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋載にあったもので、明治四十年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和三十七年に再建したものである。
飯田橋交差点を左折し、大久保通りから外堀通りに入ります。
外堀通りに面して東京ドームシティがあります。ポール・マカートニー、イーグルス、タイガースなど、公演の度に東京ドームには何度も足を運びましたね。
都立工芸高等学校の校舎は高校とは思えないほどの立派な建物です。1997年に改修を実施した地上9階・地下2階の校舎で、校外にオニヒトデのような赤いオブジェがあります。これは炎を意味していますが、建築家のコンセプトであり、学校の意思とは関係がないそうです。このオブジェは風力で回転し、一部生徒の間で「校長が自転車をこいで回転させている」という説が未だに残っているとか。この赤いオブジェの他にも、校内には卒業生の芸術家などの数々の芸術作品や伝統工芸品が展示されています。掲示板には、全日制アートクラフト科による銅鍋制作の成果が張り出されています。肉じゃがにあんことあったので、てっきり料理の実習かと思っていましたら、制作した鍋の出来映えを試していたんですね。銅鍋は熱伝導率が高いので、肉じゃがもよく煮込めたのではないでしょうか?
<<写真多数のため、都電13系統跡コース(2)に続きます。>>
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