- 都電13系統跡コース(2)
- コース 踏破記
- <<都電13系統跡コース(1)の続きです>>
水道橋交差点から順天堂大学に向ってゆるやかな坂になっています。あまり知られてはいませんが、お茶の水坂という名前が付いています。坂の途中に小さな公園があり、階段を上った奥の壁に何かの構造物の跡のようなものが見えます。ひょっとして、これが神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていた跡なのでしょうか?
お茶の水坂
この神田川の外堀工事は元和年間(1615年〜1626年)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水があり”お茶の水”として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。「御府内備考」によれば「御茶之水は聖堂の西にあり、この井戸水にして御茶の水に召し上げられしと・・・」とある。この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治三十四年(1901年)取りはずされた。
お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ
寒む夜はふけてわれは行くなり
島木赤彦(1876年〜1926年)
順天堂大学の隣に建つセンチュリータワーとその北側の給水場公苑に挟まれた道路の脇に石碑が置かれています。明治初期に医師(西洋医)になるには、大学の医学部を卒業するか、”医術開業試験”を直接受験するかのふたつの方法がありました。濟生學舎はその試験を受験するための予備校的な医学校でした。濟生學舎は明治九年に長谷川泰により設立され、その後30年間でおよそ1万人の医師を世の中に送り出したといわれ、一説によるとこの時代の医師の半数を養成したとされています。濟生學舎に学んだ人には、野口英世・吉岡弥生・荻野吟子などの名前が見られます。明治三十六年に濟生學舎は大学に昇格するべく申請しましたが果たせず閉鎖されました。現在の日本医科大学・日本女子医科大学・東京医科大学などは濟生學舎の流れをくんでいます。
濟生學舎 発祥の地
明治九年(1876年)4月9日に、本郷元町一丁目66番地に長谷川泰(1842年〜1912年)によって「濟生學舎」が開校された。長谷川泰は佐倉順天堂2代目堂主・佐藤尚中に学び、ついで西洋医学所頭取・松本良順に学んだ。佐藤尚中が順天堂より大学東校(東大医学部の前身)の初代校長(大学大博士)として赴任した際、小助教として佐藤尚中を支えた。後に校長心得となるが、明治八年、長崎医学校校長に赴任するも、3ヵ月後に長崎医学校が廃止となり帰京した。佐藤尚中の座右の銘「濟生(広く民の病苦を済う)」の志を継いで、医術開業試験の受験教育を目指す学徒のために佐藤尚中の支援を受け「濟生學合」を創設した。ここに全国から多数の医師志望者が集まり、その多くが隣接する順天堂で通学生となって臨床教育を受けた。明治十二年冬、火災により濟生學舎の校舎を焼失し、この地の一角に移転。その後、発展した濟生學舎は明治十五年に湯島四丁目8番地(現在のガーデンパレスの地)に移り、本格的な校舎を建設し、明治十九年に薬学部、附属蘇門病院を付設して「東京医学專門学校」と称した。濟生學合は隆盛の一途をたどったが、明治三十六年(1903年)8月31日、長谷川泰は廃校を告知して28年間の歴史を閉じた。その間、21,000人余の学生が学び、9,600人余の医師を輩出した。濟生學合が我が国の近代医学黎明期の医学教育、地域医療に果たした役割はきわめて大きなものであった。
東京医科歯科大学の隣りに湯島聖堂があります。外堀通りに面して築地塀が高く長く続いています。築地塀とは、石垣の基礎に柱を立てて貫を通した骨組みを木枠で挟み、そこに練り土を入れて棒でつき固める「版築」という方法で作られることが多く、塀の上に屋根として簡便な小屋組を設け、瓦や板などで葺いたものもあります。古来より公家の邸宅や寺院・官舎などに多く見られ、今でも御所や寺院などに残っています。規模の大きいものは「大垣」と呼ばれ、平城京の南面の築地塀は高さ12メートルに達したといわれています。寺では定規筋という白い横線を入れた筋塀を築き、5本(五条)を最高位にして寺格を表すようになりました。
孔子廟は、中国春秋時代の思想家・儒教の創始者である孔子を祀っている霊廟(霊を祀る建物)です。日本にも各地に孔子廟がありますが、多くは儒学の学校に付随して建てられています。都内には湯島聖堂があり、江戸時代の1690年に設けられました。湯島聖堂は「昌平坂学問所」に付随して設置され、元は朱子学の林羅山が上野忍が岡に先聖殿を築きましたが、江戸幕府が日本における儒教の学校として湯島(御茶ノ水)に移築・開学し、林家の学問所としても発展したものです。
史跡湯島聖堂 YUSHIMA SEIDO
孔子廟、神農廟と昌平坂学問所跡
SHRINE OF CONFUCIUS、SHRINE OF SHINNO
AND THE SITE OF SHOHEIZAKA COLLEGE
- ■湯島聖堂と孔子
- 孔子は、2500年ほど前、中国の魯の昌平郷(現山東省濟寧市曲阜)に生まれた人で、その教え「儒教」は東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した徳川五代将軍網吉は、元禄三年(1690年)この地に「湯島聖堂」を創建、孔子を祀る「大成殿」や学舎を建て、自ら「論語」の講釈を行うなど学問を奨励した。
- ■昌平坂学問所跡
- ェ政九年(1797年)幕府は学舎の敷地を拡げ、建物も改築して、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」(昌平黌ともいう)を開いた。学問所は、明治維新(1868年)に至るまでの70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果たした。学問所教官としては、柴野栗山・岡田寒泉・尾藤二洲・古賀精里・佐藤一齋・安積艮齋・鹽谷容陰・安井息軒・芳野金陵らがおり、このうち佐藤一齋・安積艮齋らはこの地が終焉の地となっている。
- ■近代教育発祥の地
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明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治四年(1871年)に文部省が置かれたほか、国立博物館(現東京国立博物館・国立科学博物館)・師範学校(現筑波大学)・女子師範学校(現お茶の水女子大学)・初の図書館「書籍館」(現国立国会図書館)などが置かれ、近代教育発祥の地となった。
- ■現在の湯島聖堂
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もとの聖堂は、4回の江戸大火に遭ってその都度再建を繰り返すも、大正十二年(1923年)関東大震災で焼失した。その後「假聖堂」を営み、昭和十年(1935年)鉄筋コンクリート造で寛政の旧に依って再建され、今日に至っている。入徳門は宝永元年(1704年)に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。
湯島聖堂は近代教育発祥の地とされているためか、文部省による案内板も立っています。文部省が直に作製した案内板は珍しいですね。
説明
寛永九年(1632年)、尾張藩主コ川義直林道春(羅山)をして、上野忍ケ丘に先聖殿を造營せしめしに始まる。その回祿(火災)の災に罹るや、元祿三年(1690年)、將軍綱吉之を今の地に移して、大成殿と稱せり。後、寛政十一年(1799年)大成殿及び杏壇・入コ・仰高諸門を再建し、明治維新の際、大學を此地に置くに及び、一旦孔子以下の諸像を撤去せしも、後、舊に復せり。建造物は暫らく東京博物館の一部に充てたりしが、大正十二年(1923年)九月一日、関東大震災の為、入コ門・水屋等を除くの外、悉く焼亡せしを昭和十年(1935年)四月四日鐵筋混凝立構造に依りて原型に復せり。
湯島聖堂の東側の塀に沿って短い坂があります。本来の昌平坂はこちらの方で、神田川に沿って湯島聖堂の正面にある坂は相生坂と呼ばれていたようです。私が持っている地図には両方の坂を区別して記載してあります。なので、案内板のタイトルは「相生坂・昌平坂」にするのがいいかと思うのですが。
相生坂(昌平坂)
神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。「東京案内」に、「元禄以来聖堂のありたる地なり。南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これと昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
これやこの孔子の聖堂あるからに
幾日湯島にい往きけむはや
法月歌客
秋葉原駅の南側を通り、和泉橋で右折し、国道4号(昭和通り)に入った先で靖国通りを斜断して水天宮通りに向かいます。
和泉橋の袂に石碑が建っています。文字が書かれていますが読み取れませんね。案内板に「江戸城外掘(現在の神田川)南岸に築かれていた土手」とありますので、土手の名残の記念碑なのでしょうか?
柳原土手跡と和泉橋
柳原土手は、筋違門から浅草門までの約1.1kmにわたり、江戸城外掘(現在の神田川)南岸に築かれていた土手です。昔は町屋が土手の南側下まで建ち並び、人は土手の上を通行していました。土手下には柳森稲荷(現在の柳森神社)や古着や古道具を扱う葦簀張りの床店が並び、繁昌していたといわれます。明治六年(1873年)に土手は崩されましたが、岩本町周辺には古着屋が集中し、また軍服を扱う羅紗問屋が神田須田町にできたことで、岩本町・神田須田町・東神田の一帯は、現在に至るまで衣料の町として発展してきました。和泉橋は、江戸城外堀(現在の神田川)にかかる橋の一つです。伊勢津藩(現在の三重県)の藤堂和泉守の上屋敷前に向かう通りに架かることが橋名の由来です。明治二十五年(1892年)に鉄橋となり、関東大震災後の昭和二年(1927年)には帝都復興事業の一環で拡張され、東京を南北に走る防火帯の役割も兼ねた場所でした。
Yanagihara Embankment Site and Izumibashi Bridge
Yanagihara Embankment was constructed on the south bank of Edo Castle's outer moat (current-day Kandagawa River) and stretched for a span of about 1.1 km from Sujikai-mon Gate to Asakusa-mon Gate. In the past, tradesmen's and merchants' houses lined the embankment as far as the foot of the south side and the top was a path for foot traffic. Lining the foot of the embankment were Yanagimori Inari (current-day Yanagimori Shrine) and stalls with reed screens selling secondhand clothes and other used articles, and trade is said to have thrived good here. Although the embankment was pulled down in 1873, numerous secondhand clothing stores opened in the Iwamotocho area, woolen cloth wholesalers dealing in military uniforms set up in Kanda Sudacho, and the clothes trade has prospered in the area extending from Iwamotocho to Kanda Sudacho and Higashikanda to this day. Izumibashi Bridge is one of the bridges crossing Edo Castle's outer moat (current-day Kandagawa River). It was so named because it carried the road leading to the front of the main Edo residence of the Todo clan Izumi-no-kami (governor), of the Tsu Domain, Ise Province (current-day Mie Prefecture). It was reconstructed in steel in 1892 then expanded in 1927 under the Imperial Capital Reconstruction Program after the Great Kanto Earthquake, and was also part of Tokyo's north-south firebreak.
水天宮通りに入ります。靖国通りから見ると、斜めに真っ直ぐ延びています。地図では、途中から人形町通りに変わっています。地元によって呼び方が違うようです。
水天宮通りは岩本町一丁目交差点で神田金物通りと交差します。交差点の近くに町名の由来を記した案内板が立っています。
千代田区町名由来板 神田元岩井町
この界隈はかつて神田元岩井町と呼ばれていました。岩井町という名前は、代々徳川将軍家の御用鎧師をつとめた岩井家の屋敷があったことに由来するとされています。この町は、もともと湯島(現在の文京区)にありましたが、天和二年(1682年)の大火で付近一帯が焼け野原となりました。そこで幕府は焼け出された人々にこの地を町人地として与え、ここに岩井町が誕生したのです。ところが享保年間(1716年〜1736年)、この岩井町も火災にあってしまいます。こんどは柳原土手(現在の神田須田町二丁目・岩本町三丁目・東神田二丁目周辺)が被災した町人に与えられました。このとき、柳原土手に移った人々は、町名を「柳原岩井町」と定めます。一方、移転せずに残った人々は、”こちらが元からある岩井町”という意味を込め、町名を「元岩井町」としたのです。江戸時代の元岩井町には、金物を扱う商人などがいたようです。文政七年(1824年)に書かれた「江戸買物独案内」には、釘や銅物などを扱う鉄物問屋・三河屋が町内にあったことが記されています。現在も岩本町二丁目と一丁目を分ける道が「神田金物通り」と呼ばれるのは、その名残なのでしょう。昭和四十年(1965年)、住居表示の実施にともない、神田元岩井町は、神田松枝町・神田大和町などとともに、岩本町二丁目となりました。
岩本町二丁目岩井会
Kanda-Motoiwaicho
It is said that this town was named Iwaicho after an armorer. It was relocated here after a fire in 1682. Another fire led many people to move out, taking the name with them, and the people who remained added "Moto" (original) to the name.
案内板には町会の結束を示すような神輿の写真と江戸時代の金物屋の様子を描いた挿絵が添えられています。
同じ岩本町でも、一丁目と二丁目で独自に案内板を設置するとは地元愛がハンパないですね。竜閑川の存在は「東京の河川を歩く」時には全く知りませんでした。竜閑川の名前の由来は、日本橋川河口付近に江戸城殿中接待役井上竜閑の屋敷があったためと言われています。竜閑川には浜町川が接続していました。浜町川の跡は現在の浜町緑道(グリーンベルト)になっています。グリーンベルトの名に相応しく様々な木々が植えられ、近隣の住民や会社員の憩いの場になっています。どちらも川の存在を知っていれば歩きたかったですね。
千代田区町名由来板 岩本町一丁目
岩本町一丁目は、かつて東福田町・材木町・東今川町・亀井町の四つの町に分かれていました。古地図にある川筋は、明暦の大火の翌年、方治元年(1658年)に造られたものです。このうち竜閑橋より甚兵衛橋の先、堀が南へ曲がるところまでの土手を「八丁堤」、掘割は「神田八丁堀」と呼ばれ、下町の防災の拠点になっていました。この掘割は、以後何度か埋め立てや開削が繰り返されましたが、明治十六年(1883年)、新たに堀を開き、「竜閑川」と呼ばれるようになりました。明治元年(1868年)、それまで細分されていた町が、「東福田町」・「材木町」・「東今川町」の三町に区割りされ、昭和の初期に日本橋区より「亀井町」の一部が編入されで四町となり、現在の町の形が整いました。亀井町はその後、昭和二十二年(1947年)に材木町に編入されました。各町名の由来を調べてみると、
- 東福田町
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むかし、この近在を「福田村」と称し、当地はその東方に位置していた。安政四年(1857年)に土手を崩して堀を埋め、その跡地を開いて町とした。
- 材木町
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川筋に面して船で運ばれた材木などを荷揚げする場所があり、多くの材木店が軒を連ねていた。
- 東今川町
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川に架かる橋の一つ「今川橋」の東にある町であった。橋の名は、天和の頃(1681年〜1684年)の名主「今川善右衛門」に由来するといわれる。
- 亀井町
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寺社地であったところが、町屋に変わるとき、それを祝して名づけられた。町名はこの町を開いた亀井某の名によるともいわれている。
などが伝えられています。これらの町は昭和四十年(1965年)七月一日の住居表示の実施により、合併して現在の「岩本町一丁目」になりました。「竜閑川」は終戦後に三度埋められて現在に至りますが、江戸の頃より変わらないのは、この川筋を神田と日本橋の境界としていたことです。現在は千代田区と中央区の区境となっています。
岩本町一丁目町会
Iwamotocho 1-chome
This neighborhood was once composed of four towns, which in 1965 were finally united into one. The area was once located along a canal, which was built in 1658 following a major fire, and eventually became known as the Ryukan River. The canal was filled in for the third time after the end of the Second World War, but has remained as the boundary between Kanda and Nihonbashi since the Edo Period. Today it is on the border between Chiyoda and Chuo Wards.
水天宮通りから路地のような参道が延びています。三光稲荷神社は猫が失踪したときに願を掛ければ戻ってくるということなので、電柱に迷い猫のポスターを貼るよりも効果的かも。
三光稲荷神社 御由来
- 祭神
- 三光稲荷大神
- 田所稲荷大明神
- 大正十三年区画整理にて旧長谷川町と旧田所町が合併して現在の堀留町二丁目になっていますので、田所大明神さまも当神社に奉祀されています。
- 創建
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中村座に出演していた大阪の歌舞伎役者関三十郎が伏見より勧請したと伝わる当神社は「江戸惣鹿子」元禄二年(1689年)には記載があるところから、それ以前と推測される。
- 拝殿
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右上の額「日本橋區長谷川町守護神 三光稲荷神社」は神田神社社司 平田盛胤氏の揮毫である。
- 江戸時代
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近隣には吉原や歌舞伎小屋の中村座・市村座、更には操り人形や人形浄瑠璃の小屋等があり、それを背景とした(江戸落語)に「三光新道」や「三光神社」が登場するところとなった。古くから娘・子供・芸妓等の参詣するものが多く、ことに猫を見失ったとき立願すれば霊験ありと云う。「三光稲荷神社参道」と銘ある石碑や境内にある猫の置物は猫が無事に帰ったお礼に建立・奉納された。
人形町三丁目交差点に「玄治店由来碑」が建立されています。案内板にその由来が詳しく説明されているのですが、玄冶店由来の石碑にも碑文がありますね。でも、かろうじて読み取れるものの、全文を書き写すまでは至りませんでした。玄冶店の跡地には創業百年でミシェラン三つ星だった料亭「玄冶店濱田屋」があるんですね。ミシェランガイドで店名を見かけましたが、人形町にあったとは知りませんでした。
玄冶店(げんやだな)跡
江戸時代初期、新和泉町(人形町三丁目)のこの辺りは、幕府の医師であった岡本玄冶の拝領屋敷があったことから「玄治店」と呼ばれていました。岡本玄冶(1587年〜1645年)は京都に生まれ、医術を曲直瀬玄朔に学びました。元和九年(1623年)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、幕府の医師となりました。後に法眼から法印に叙せられて啓迪院(けいてきいん)と号しました。三代将軍家光は岡本玄治を重用し、数多くの功があったことが記録に残されています。「寛政重修諸家譜」には、寛永十年(1633年)、家光が大病を病んだ時、諸医術をつくしても効験がなかった病を玄冶が薬を奉り平癒したとあり、この功により白銀二百枚を賜ったことが記されています。岡本玄冶の拝領屋敷は「寛保沽券図」によると、「表京間六拾間 裏行京間二十五間 坪数千五百坪」とあります。当地にはその後、九代にわたって子孫が住み、明治維新で地所を奉還したと伝えられています。玄冶は正保二年(1645年)に没し、広尾の祥雲寺(渋谷区)に葬られました。玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐が脚色し、嘉永六年(1853年)に中村座で初演された「与話情浮名横櫛」の「源氏店(玄治店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台となり、その名が広く世に知られるようになりました。
江戸の大店伊豆屋の養子与三郎は木更津に預けられていますが、ある日地元の親分赤間源左衛門の妾お富に一目惚れ。情事が露見してめった切りにされます。お富も海に身を投げますが、ふたりとも命はとりとめました。それから3年。与三郎は勘当され、34か所の刃傷をもつ「向疵の与三」として悪名を馳せています。一方お富は和泉屋の大番頭多左衛門の妾となっていました。ごろつきの蝙蝠安と与三郎が偶然にもお富の妾宅に強請に入ったことから、お互いに死んだと思っていたふたりが再会。その名シーンが四幕目、玄冶店妾宅の場です(劇中では源氏店)。「しがねぇ恋の情けが仇・・・」で始まる長科白が有名です。なお濱田家のシンボルマーク「蝙蝠」は、劇中の登場人物蝙蝠安にちなんでつくられました。
人形町といえば甘酒横丁ですね。甘酒横丁は、明治の頃に今の甘酒横丁入口付近に「尾張屋」という甘酒屋さんがあって、その小路を「甘酒屋横丁」と呼んでいたのが地名の起源のようです。そのころから、人形町にあった寄席や明治座の芝居帰りの見物客で賑わっていました。関東大震災の後で道路が広げられましたが、今でもこの路地は「甘酒横丁」と呼ばれ親しまれています。甘酒横丁には老舗が何軒もありますが、大正五年(1916年)創業の柳屋は全身をリズミカルに動かしながら焼く鯛焼が評判で、店先には連日長蛇の列ができます。鯛焼の命はあんこにあるという信念のもと、十勝産の小豆を厳選し、毎日必要量だけを店内で製造して熱々の出来たてのあんこを使用しているとのことです。火床での滞留時間が短く、水分が飛ばないためにしっとりと洗練された味わいが醸し出されます。東京のたい焼き御三家といえば、麻布が本店の「浪花家総本店」、四谷見附の「わかば」、ここ柳屋といわれています。甘酒の尾張屋は昭和の終わり頃まで商売していましたが、現在はその跡地が王英堂という和菓子屋さんになっていて、お店の入口横にここが尾張屋だったことを展示しています。
人形町の歩道に櫓が建っています。残念ながら私が歩いていたときにはからくりは演じられませんでしたが、運が良ければ楽しめたかも。外国人観光客には受けるかもしれませんね。
からくり櫓 江戸落語
下段の緞帳が開くと噺家(はなしか)の人形が登場。落語家立川談幸氏による創作小咄(こばなし)「人形町の由来」が流れます。上段の絵が回転すると、江戸の町並と町人たちの暮らしが再現されます。
起動時間 午前11時から午後7時までの正時約2分
Mechanical Clock Tower in Ningyocho, "the town of dolls"
Edo Story tellers (Rakugo-ka)
As the donchou (curtain) opens on the lower level, a Rakugo-ka starts to tell the story of the origins of Ningyocho; this was created by the Rakugo-ka, Danko Tatekawa. On the upper level, the murals rotate to reveal daily scenes from the Edo period.
Performances begin every hour on the hour from 11 a.m. to 7 p.m. and last approximately 2 minutes.
からくりは一種類だけではなくて、別の演目もあります。こちらも時間が合わず観ることはできませんでした。
からくり櫓 町火消し
江戸時代の町火消し「いろは47組」のなかで人形町界隈を担当したのは「は組」でした。当時の衣装などを再現した人形が「梯子乗り」や「纏上げ」を披露します。流れる唄はとび職人が祭りなどで唄う「木遣」です。(社)江戸消防記念会第一区八番「は組」 の方々に資料や助言の協力を頂きました。
起動時間 午前11時から午後7時までの正時約2分
Mechanical Clock Tower in Ningyocho, "the town of dolls"
The Town Firefighters
The town firefighters (or Machi-bikeshi) during the Edo Period were divided into 47 groups named from the 47 letters of the "I-Ro-Ha" syllabary and so were called the "I-Ro-Ha 47 Gumi (groups)". Among those groups, the Ha-Gumi was in charge of the Ningyocho area of Tokyo.
The dolls are performing Hashigo-nori (ladder-top stunts) and Matoi-age (traditional standard-raising). In Hashigo-nori, firefighters perform acrobatics at the top of ladders. Matoi-age involves a firefighter raising his group's standard to lead the other members of the group to come to fight fires.
Kiyari, the work songs in chorus are commonly sung together by steeplejacks during festivals and ceremonies.
This display was realized with the help of the Ha-Gumi, the Eighth group of the First District of Edo Firemanship Preservation Association.
Performances begin every hour on the hour from 11 a.m. to 7 p.m. and last approximately 2 minutes.
道路の脇に人形町の案内板が置かれています。第五国立銀行は統合や合併を繰り返して、現在の三井住友銀行になっています。
江戸からの商業地
この地は往時武家地でしたが、近くを流れる日本橋川に通じる堀り割りが多く在り、物資の大量輸送を容易にし商業が盛んになる基盤をつくりました。明治に入って武家地の場所は広く商業地となり、第5国立銀行をはじめ米穀取引所が設けられ「米屋町」と呼ばれ活気がありました。現在も商業の中心地のひとつとして繁栄しております。明治になって人形町通りも確立し、水天宮・明治座・商業地を周辺にひかえた商店街として共に繁昌し、現在に続いています。
人形町の名所・旧跡案内板がふたつあります。芸能・文学・金融、はては富籤まで人形町には多様な文化がありました。
人形町の由来
The History of the Name of the Ningyocho
江戸が開府され20年ほど過ぎ、現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在り大変な賑わいでした。大芝居の中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上演され、また人形操り芝居・浄瑠璃芝居・見世物小屋が軒を並べ、それに携わる多くの人形師達がこの町に住んでいたことから、江戸時代より俗に「人形丁通り」と呼ばれ後に町名となりました。正式に「人形町」という町名がついたのは関東大震災以降の区画整理で昭和八年になってからです。
名所・旧跡案内
Scenic Spots and Places of
Historical Interest Information
谷崎潤一郎生誕の地
Junichiro−Tanizaki’s Birthplace
明治十九年(1886年)、人形町に生まれた。日本的な伝統美に傾倒し、和辻哲朗と「新思潮」を創刊し、短編小説・戲曲を発表して王朝文化の息吹を現代に生かした新しい境地を開いた。
蛎殼銀座跡
The Remains of Kakigara−Ginza
江戸時代の銀貨鋳造所である「銀座」は、200年余り続いた銀座からこの地に移され、明治二年(1869年)に造幣局が新設されるまでの68年間、蛎殼銀座と呼ばれました。
明治座
Meijiza Theater
明治六年(1873年)、日本橋久松町に開場した「喜昇座」がルーツ。歌舞伎や新派の他、映画・テレビのスター達の芝居や新喜劇などの公演で話題を呼んでいます。
加茂真淵県居の跡
The Remains of Mabuchi−Kamono’s House
国学者で歌人。日本橋の浜町に住んだ。遠江(静岡)の神職の出で、京に出て荷田春満の門に入り、元文三年(1738年)江戸に下った。古典を通して古代精神を追及し、国学の基礎を築いた。
別の名所・旧跡案内板ですが、次も掲載されています。
富塚碑
大正八年(1919年)椙森神社境内に富くじ興業を記念して建立された。現在の碑は昭和二十九年の再建。富くじは寛永年間(1624年〜1644年)に神社仏閣の普請修理費捻出のために始まったもの。
玄治店跡
「玄治店」の地名は、江戸時代、医者岡本玄治(1587年〜1645年)が住んだことに由来し、歌舞伎「与話情浮名横櫛」の舞台となる。
蛎殼銀座跡
かつてこの地は、明治二年(1869年)に造幣局が新設されるまでの68年間、銀貨鋳造が行われた。
鉄造菩薩頭
総高170cm、面幅54cmの鋳鉄製。鎌倉の新清水寺に存した観音像であったが火災に遭い、頭部のみ掘り出されたのち明治九年現在地に安置された。関東特有の鉄仏の中でも優秀な遺品。
案内板にもあります蛎殼銀座については、もっと詳しい解説板があります。さすがに金貨までは鋳造していなかったようですね。
蛎殻銀座跡
江戸幕府の銀貨鋳造所として設立された「銀座」は、慶長十七年(1612年)に駿府(現在の静岡県葵区両替町)に置いた銀座を閉鎖して、その機能を江戸へと移しました。江戸の銀座は、京橋南の町屋敷が鋳造方の長・大黒常是吹所(鋳造所・役所)と座人の居宅としてあてられました。なお、常是の拝領屋敷は、新両替町二丁目(現在の銀座二丁目)にあり、当地において通用銀貨類の鋳造と検査が行われました。その後、寛政十二年(1800年)に座人の粛清が行われて一時廃絶(江戸大黒家は断絶)の憂き目に遭いましたが、代わって京都銀座の大黒家が江戸に下り、幕府から播磨国姫路藩酒井家屋敷の上地(元大坂町〈現在の日本橋人形町一丁目4番・19番〉の南)を拝領して銀座役所を再興しました。再興した銀座役所の敷地にあたる当該地は、古くから蛎殻町の俗称があったことから、この銀座は「蛎殻銀座」と呼ばれました。その後は、明治二年(1869年)に明治政府の造幣局が新設されるまで約70年存続しました。
The site of KAKIGARA GIN-ZA - The Mint in the 17th Century
"GIN-ZA" means Silver Coinage Mint, which was established as the Mint of Edo Regime firstly in Sizuoka City Aoi-ku in 1612, then, this was once closed. Later, its function was transferred to Tokyo (Edo). Edo Regime settled the descendent mint workers in towners houses located in Kyobashi Minami area, and also gave the houses at the same location to the head of minting, called DAIKOKU JYOZE a residential and minting building (JYOZE Office), and business side office (GINZA Office). These buildings used to locate at current Ginza 2chome, and minting and examination of passable silver coins were made there.
Later on, in 1800, the lots mint workers were cleaned up by the Regime, so that the DAIKOKU family in Edo faction was abolished. However, the DAIKOKU family in KYOTO faction came down to Tokyo (Edo), in place of Edo Family, and rebuilt the Mint given the land of a Feudal Lord in Hyogo Prefecture by the Regime. The given land currently locates in Nihonbashi-Ningyocho 1-4/19. The relocated area, this site, had been called as "KAKIGARA-cho" since long ago, so that this rebuilt mint came to be called "KAKIGARA GIN-ZA" , and had kept on existing for 70 years till the Meiji Government Mint was established.
人形町通りから一段上がったところに大観音寺が鎮座しています。アメ横の摩利支天徳大寺に見た感じが似ています。
鉄造菩薩頭
大観音寺には、本尊である鋳鉄製の菩薩頭(総高170センチメートル、面幅54センチメートル)が安置されています。菩薩頭の頭上には高さ53センチメートルの高髻(奈良時代の女性貴族の髪型)があり、後補である鋳銅製蓮華座の台座上に祀られています。この菩薩頭の由来については、かつて鎌倉の新清水寺に祀られていた鋳鉄製の観世音菩薩像でしたが、廃寺となった後、江戸時代に頭部のみが鶴岡八幡宮前の鉄井(くろがねのい)から掘り出されたと伝わっています。その後、明治初年の神仏分離の令に際して鎌倉から移され、大観音寺に安置されました。以後、本尊として今日に至っています。本尊は、毎月十一日・十七日のみ開帳され、人々の信仰を集めています。この菩薩頭は、中世造立になる関東特有の鉄仏のうちでも、鎌倉時代製作の優秀な作品であることから、昭和四十七年四月、東京都指定有形文化財に指定されています。
水天宮が見えてきました。交差点の近くに案内板が置かれています。
水天宮
江戸時代は芝・赤羽橋の有馬藩邸内に在りましたが、明治になって藩邸が新政府に没収され、明治四年8月赤坂に移り、明治五年にこの地に移り、同時に水天宮も移ってきました。明治十一年5月、官許を得て以来、現在でも「水天宮さん」と呼ばれて親しまれ、特に安産を願う人達でにぎわっております。
水天宮交差点の先に都電13系統の終点である水天宮電停があったと思うのですが、場所が分りません。恐らく水天宮前辺りだったと思い、ここを水天宮電停跡として都電13系統跡の歩きを終えることにします。
今日はお正月三が日の最終日なので、ついでに水天宮にも新年のご挨拶をしていこうと思います。
御由緒
当社は文政元年(1818年)港区赤羽に在った有馬藩邱に当時の藩主第九代・有馬頼コ公が久留米城下に鎮座していた水天宮の御分霊を藩邱内に祀ったことに創まります。壇之浦の戦で敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ筑後川の河畔に落ちのび、一門と共に入水された安コ天皇・建礼門院・二位の尼の御靈を、ささやかな洞をたててお祀りしたのが、水天宮の創めです。江戸時代の当社は藩邱内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ入れて参拝したと伝えられます。ただし毎月五日の縁日に限り、殿様の特別な計らいによって藩邸が開放され、参拝が許されました。その当時、ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒の鈴紐)のお下がりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ、ことのほか安産だったことから、人づてにこの御利益が広まりました。その当時の当社の賑わいを表す流行り言葉に、「なさけありまの水天宮」という酒落言葉があった程です。明治維新により藩邱が接収され、有馬邱が青山に移ると共に青山へ、更に明治五年十一月一日に現在の蛎殼町に御鎮座致しました。関東大震災では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる「新大橋」に避難し難を逃れました。その後復興も相成り、昭和五年に流れ造りの社殿が完成し、昭和四十二年には権現造りの社殿となりました。現在の社殿は平成三十年の江戸鎮座二百年を迎えるに当たって、有馬家十七代当主・当代宮司の有馬頼央の念願により、平成二十八年に境内地全面免震構造の建物として完成致しました。
都電13系統は唯一抜弁天通りと久保通りを通っていたので、初めて目にする名所・旧跡が沢山ありました。外堀通りでも新たな発見がありましたもんね。水天宮にはこの後、都電21系統跡を歩くでも訪れます。
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