- 都電12系統跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電12系統跡を歩きます。都電12系統は新宿駅前から両国駅までを結び、その路線は主に新宿通り・外堀通り・靖国通り・京葉道路を通っていました。都心を東西に横断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。なので、重複する区間は新たな見所があったところを中心に追記することにします。
都電12系統
都電12系統の全長は9.5kmで、昭和45年1月27日に廃止となりました。
都電12系統の電停(路上の駅)は、新宿駅前・角筈・四谷三光町・新宿三丁目・新宿二丁目・新宿一丁目・四谷四丁目・四谷三丁目・四谷二丁目・四谷見附・本塩町・市ヶ谷見附・一口坂・九段三丁目・九段上・九段下・専修大学・神保町・駿河台・小川町・淡路町・須田町・岩本町・豊島町・浅草橋・両国・東両国二丁目・両国駅でした。
新宿駅前電停は、靖国通り上の旧ヤマダデンキLABI新宿東口館の正面にあったらしいです。1949年以前の新宿駅前電停は今のスタジオアルタ前にあったそうですが、後にこの場所に移されたとのことです。新宿駅前電停は、ここから東側の各方面へ向かう11〜13系統(都電新宿線)のホームと、西側の荻窪駅前へ向かう14系統(都電杉並線)のホームに分けられていました。11・12系統は新宿三丁目・四谷二丁目方面、13系統は角筈線の新田裏方面へ向かっていました。11〜13系統の停まるホームはこの場所にあったのですが、荻窪方面の14系統のホームは新宿大ガードを挟んで離れた西側にあり、東西の線路は繋がっていませんでした。というのも、それぞれ前身となった路線が違い、軌間も違ったためです。14系統の走った「都電杉並線」という路線名は通称で、正式には高円寺線と荻窪線を併せた呼び方でした。東側(新宿線側)の電停は1970年に廃止されましたが、西側(杉並線側)の電停はそれよりも早く、1963年に廃止されています。これは、杉並線が地下鉄丸の内線に取って代わられたためでした。なんですがぁ。。。西武新宿駅の向かいに巨体を誇っていたヤマダデンキLABI新宿東口館は昨年10月4日に閉店していたんですね。今年になって建物は何回も目にしていたのですが、まさか閉店していたとは!外観は営業当時と変わらなかったので全く気が付きませんでした。改めて別の日に撮った写真を見てみますと、ヤマダデンキのロゴはなくなっていて、代わりに大塚家具のアウトレット店舗になっています。しかし、それも3月末で閉店し、今(7月)は建物の中はガランドーの状態なんだそうです。新宿駅東口には都電11〜13系統を歩いた際に3回来たのですけど、なんで気が付かなかったんだろう?いずれにしても、東口の名物がまたひとつ消えたのは寂しい限りです。
新宿区役所前の通りの1本先に、モザイク状の石畳が敷き詰められた遊歩道があります。樹木や四季折々の草花が繁る憩いのプロムナードで、道行く人々の心を和ませています。「新宿遊歩道公園四季の路」は、 昭和四十五年3月に廃止された都電の引き込み線軌道敷を新宿区が東京都より譲渡を受けて整備し、昭和四十九年6月24日に遊歩道公園として開園しました。 平成六年1月に新宿区が発表した「みどりの新宿30選」は、区内の緑による景観、あるいは緑のある施設などの中から「多くの区民の愛着・共感を集めていること、新宿らしさを表現していること」などをもとに選定されたものですが、四季の路もこの30選に含まれてています。
新宿の繁華街のド真ん中にある花園神社は、徳川家康の江戸開府(1603年)以前から新宿の総鎮守として重要な位置を占めていました。徳川氏が武蔵野国に入った1590年より前に、大和吉野山から勧請されたとされています。花園神社は寛永年代(1624年〜1644年)までは現在の場所より約250メートル南の現在の伊勢丹付近にありました。しかし、寛政年代に朝倉筑後守という旗本がこの周辺に下屋敷を拝領したため、花園神社の敷地は朝倉氏の下屋敷の中に囲い込まれてしまったのです。そこで氏子がその旨を幕府に訴えたところ、現在の場所を拝領し、遷座することになったのです。その場所は、徳川御三家(将軍家に次いで格の高い尾張藩・紀州藩・水戸藩)筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、沢山の花が咲き乱れていたそうです。この美しい花園の跡に移転したので花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来とされています。敷地内では各種劇団による催し物などが定期的に開かれ、新宿の街の文化の一翼も担っていることでも知られています。朱塗りの鮮やかな社殿は、参拝する人達の休憩や待ち合わせの場所としても使われ、境内に人影が途絶える事がありません。
花園神社由緒記
- 祭神
- 倉稲魂神 日本式尊 受持神
- 由赭
- 花園神社は古来新宿の総鎮守として内藤新宿に於ける最も重要な位置を占め来たった(占めてきた?)神社である。徳川氏武蔵国入国以前の御鎮座にして大和国吉野山より御勧請せられたと伝えられる。寛永年中以前の社地は現在の株式会社伊勢丹の地域にあり、東西六十五間、南北七十五間に亘った神域であった。朝倉筑後守此の地に下屋敷を拝領されるに及び、神社をも下屋敷の内に囲い込まれたのでその由を御訴えに及び現在の社地を代地に拝領したと伝えられる。
参道脇に唐獅子が鎮座しています。神社を守護するのは狛犬とばかり思っていたのですが、狛犬も獅子もどちらもあるのだそうです。実は、狛犬の歴史はオリエントの獅子から日本の狛犬へと変遷をしてきたのです。古来より、あらゆる文明において「ライオン(獅子)」は力のシンボルでした。ライオンは古代文明の発祥と共に力を示す動物と見られ、「百獣の王」と崇められました。強いライオンを狩ることで王の権威を示し、その姿から王の権威を守る護符として王の側に侍るようになったのです。オリエントでは、ライオンを土台とした霊獣を造って城壁を守りました。城門にはレリーフを、門の前にはライオンの石像が置かれました。その後、霊獣思想はオリエントからインドへ伝播しました。古代インドでは森にライオンが数多く生息していました。仏教でも釈迦没後600年後頃から仏像が造られ始め、ガンダーラ地方の仏像では台座の左右に獅子像(ライオン)が彫られ、それが後の「蓮華座」となり「獅子座」となっていきました。シルクロードを経て中国に入ってきた獅子像(霊獣)は、中国古来の霊獣観と融合して「唐獅子」に変化しました。唐時代には、さらに中国風に変化して狛犬の祖になっていきました。やがて遣隋使や遣唐使によって日本にも仏教と共に唐獅子が伝来しました。日本では平安時代に想像上の動物「じ」が目出度い動物として儀式などで祀られてきました。「じ」は牛に似た灰色がかった黒い動物で、角が一本あるとされていました。この「じ」が狛犬の原型となったのです。時代が下がるにつれ獅子と狛犬の違いがなくなり、狛犬と呼ばれるようになりました。ということで、花園神社の唐獅子蔵は中国風狛犬といった感じです。
花園神社の唐獅子像
文政四年(1821年)に造立された雌雄一対の銅造の唐獅子像である。内藤新宿の氏子たちにより奉納されたもので、台座には発願者・援助者・世話人等の名が刻まれている。像高七十五センチ、台座高一三七センチ。彫工佐脇主馬の製作した原型により、鋳工村田整a(初代)が鋳造したもので、注連縄が浮彫された台座は石工本橋吉平衛の手になるものである。頭部は四つの部分(上頭部・顔・後頭部・たてがみ)に分けて鋳造し、身体も胴から後足、前足、尾の三つの部分をそれぞれ左右に分けて鋳造したものを接合して製作されている。
参道の脇に内藤トウガラシとカボチャの案内板があります。唐辛子は中南米を原産とする、ナス科トウガラシ属の果実です。メキシコでの唐辛子の歴史は紀元前6000年に遡るほど古いのですが、世界各国へ広がるのは15世紀になってからです。コロンブスがスペインに唐辛子を最初に持ち帰ったは1493年ですがそのまま忘れられ、ブラジルで唐辛子を再発見したポルトガル人によってヨーロッパに伝播され、各地の食文化に大きな影響を与えました。日本に伝来した経緯については諸説ありますが、1542年にポルトガル人宣教師バルタザール・ガゴが豊後国(現在の大分県)の戦国大名大友義鎮に種を献上したというのが有力です。江戸時代には新宿地域でも盛んに栽培されるようになっていたのでしょう。カボチャ(南瓜)の名称はポルトガル語由来であるとされ、通説では伝来元の「カンボジア」の国名から転訛したといわれています。ウリ科カボチャ属に属する果菜の総称ですが、日本への渡来は天文年間(1532年〜1555年)にトウガラシと同じく豊後国にポルトガル人がカンボジアから持ち込み、大友義鎮に献上したという説が有力です。
江戸・東京の農業 内藤トウガラシとカボチャ
新宿御苑は、江戸時代高遠藩主内藤家の下屋敷でした。当時、武家では屋敷内の畑で、野菜などを栽培し自給する習わしが一般的で、内藤家でも野菜を栽培していましたが、中でも軽くて肥沃な土に適したトウガラシがよくでき、内藤トウガラシと呼ばれて評判となり、新宿付近で盛んに作られるようになりました。「新編武蔵風土記稿」(1828年)には、「四ツ谷内藤宿及び其辺の村々にて作る、世に内藤蕃椒と呼べり」とあり、当時は新宿周辺から大久保にかけての畑は、トウガラシで真っ赤になるほどであったと言われています。このトウガラシは八房といって、実が房のように集まって付き、しかも上を向いて葉の上に出るような形になるため、熟すと畑一面が真っ赤に見えたのです。保存のできる調味食品として、庶民に喜ばれましたが、明治に入ると都市化により栽培も激減し、産地も西の方に移っていきました。この地域ではカボチャの栽培も盛んで、「内藤力ボチャ」とか「淀橋カボチャ」ともいわれていました。
THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO Naito Bell Pepper and Squash
The Shinjuku Imperial Gardens were the suburban residences of the feudal lord of Takatoh clan, Naito Families, The land was light and fertile and suitable for the production of bell pepper. Famed as Naito bell pepper, it was popularly grown in Shinjuku areas. Historical record tells that the fields around this shrine toward Okubo were full of matured reddish peppers in the high season during the years 1830-1844. Squash was also grown abundantly here and renowned as Naito Squash or Yodobashi Squash.
新宿三丁目交差点の角の歩道に、「新宿元標ここが追分」というプレートが埋め込まれています。追分という言葉には、「牛馬を追い、分ける場所」という意味がありました。これが転じて、「道が二手に分かれる地点」のことを追分と言うようになったそうです。そこから街道の分岐点も意味するようになり、甲州街道と青梅街道の分岐である新宿三丁目交差点が新宿追分と呼ばれるようになりました。
新宿通りに面して青山碁盤店のお店があります。見るからに老舗といった感じですが、昨今は藤井二冠の活躍でさぞ将棋用品も販売好調なことでしょう。
新宿通りと甲州街道が合流する地点には、かって四谷大木戸が置かれました。現在はその跡地に東京都水道局新宿営業所と四谷区民センターが建っています。四谷大木戸は、元和二年(1616年)に甲州街道の大木戸として設けられたもので、道の両側に石垣を築き、その間に木戸を設けて旅人を調べ、夜間の通行は原則として許さなれませんでした。四谷大木戸には玉川上水水番所も置かれていました。それを記念する巨大な石碑もあります。
玉川上水水番所跡
玉川上水は、多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で、四谷大木戸から江戸市中へは石樋・木樋といった水道管を地下に埋設して通水した。水番所には、水番人一名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ごみの除去を行い水質を保持した。当時、水番所構内には次のような高札が立っていた。
定
此上水道において魚を取水をあび
ちり芥捨べからず 何にても物あらひ申間敷
並両側三間通に在来候並木下草
其外草刈取申間敷候事
右之通相背輩あらば可為曲事者也
元文四巳未年十二月 奉行
水道碑記
玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ460センチ、幅230センチ。上部の篆字は徳川家達、碑文は肝付兼武、書は金井之恭、刻字は井亀泉によるもので、表面に780字、裏面に130字が陰刻されている。碑の表面には明治十八年の年紀が刻まれているが、建立計画中に発起人西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治二十八年(1895年)に完成したものである(裏面銘文)。
四谷大木戸跡碑
四谷大木戸碑(この説明板の裏側にある)は、昭和三十四年十一月、地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。実際の大木戸の位置は、ここより約80メートル東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。
四谷大木戸にあった玉川上水水番所は、現在の四谷四丁目交差点付近に置かれていたそうです。交差点脇の植栽の中に道標と記念碑が立っています。下諏訪宿とは随分と遠いですね。
新宿通りから幾つかの路地(広い道もありますが)が枝分かれしています。田安通りの他、杉大門通り・車力門通り・津の守坂通りなども新宿通りの北側に延びていました。
田安通り
江戸時代後期、この通りの周辺は御三卿のひとつ、田安徳川家の下屋敷であった。
今日は1月5日、まだまだ松の内でお正月気分です。お店の前にも立派な門松が置かれています。伝統のある老舗ほど門松を大切にしているようです。「錦松梅」はふりかけの専門店だそうです。私は丸美屋の「のりたま」しか使ったことはありませんが、ふりかけだけで専門店がなりたつということは、如何に日本の米食文化が奥深いか分るというものです。パンにふりかけとは聞いたことがありませんからね。でも、それも面白そう。以下、店主殿の言葉です。
私と「ふりかけ」との出会いは、曾祖父が道楽で作ったものを父が受け雑ぎ、商品化したもので、ごく日常的な環境であったためか、とりたてて印象深いとか感動的なものではありませんでした。しかしこの「ふりかけ」が人から人へ、小さな輪から大きな輪へと広がり成長した「錦松梅」に対する自覚は、周囲のあたたかい援助と助言の中から生まれたものでした。そして、私に課せられた仕事は「錦松梅を守り続けること」にあったわけです。材料の吟味はもちろん、味付け、配合・・・お客様のお口に入るまで細心かつ厳重な注意をそそぎ、その名に恥じないものであり続けなければなりません。「食道楽の粋に徹す」私はこの言葉を深く刻みながら歩んでまいりました。今後も私の良き仲問たちと共に、伝統の味を守り続けていきたいと思います。
四谷見附交差点を左折し、外堀通りに入ります。四ツ谷駅から通りに沿って外濠公園が始まっています。
江戸城を取り囲む外掘は場所によってかなりの高低差がありました。水は重力の法則から高いところから低いところに流れるので、濠のように水を溜めておく必要のあるところでは高低差を制御する仕組みが必要です。四谷から市谷に至る区間では特に高低差が大きかったために、要所に堰を造るなどいろいろと工夫がなされたそうです。最難関工事を受け持った天下の仙台藩も相当に苦労したことでしょう。
江戸城外堀跡は、寛永十三年(1636年)に江戸城内郭と城下を取り巻くように造られた延長約14kmの濠のうち、史跡指定された約4kmの範囲です。この説明板は、400年におよぶ江戸・東京の歴史を示す文化財を周知するために設置しました。
国史跡江戸城外堀跡 (市谷濠地区)
National Historic Sites: Site of Edo Outer Castle Moat (Moat of Ichigaya)
牛込門から赤坂門に続く江戸城外堀は、寛永十三年(1636年)三代将軍徳川家光の命により東国の大名52家が分担して開削したものです。この部分の外堀は、起伏のある山手の地形を巧みに取り入れ、北側の牛込から市谷付近では神田川から延びる谷筋を、南側の喰違から赤坂門にかけては溜池から延びる谷筋を利用しています。しかし、市谷から喰違付近、現在の外濠公園から上智大学真田濠グランドの一帯は高台となるため、最大13メートルも地面を掘り下げています。そして、掘り出された大量の土は、周辺の谷に運ばれ武家地や町地の造成に利用されたと考えられます。この土木工事はすべて人力で行われましたが、堀工事の約1/7を分担した仙台藩伊達家では、5,700人の人足を動員した記録が残されています。現在も残る江戸城外堀跡は、江戸幕府が諸大名を動員して行った、一大土木工事を物語る貴重な遺構です。
外堀水面の高低差
江戸城外堀跡は、現在一部が埋め立てられていますが、かつては湧水や玉川上水の水を満々と湛えた水堀でした。起伏のある山手に位置する外堀では、堀の水深を一定に保うため、牛込・市谷・四谷門橋と喰違土橋に堰が設けられ水位が調整されていました。このため、水位の最も低い神田川につながる牛込門東側と水位の最も高い真田濠では水面に約20mもの差がありました。
右の写真は、明治初年の市谷門です。門手前の橋の下に水位調節のための堰が見えます。
そういうことで、四谷から市谷にかけては割と傾斜のある下り坂になっています。高力坂と呼ばれていますが、この区間には都電の外濠線が走っていました。品川から虎の門・赤坂見附を経て飯田橋までの3系統、それに今回ご紹介している12系統、さらには昭和三十九年に三宅坂経由から四谷三丁目経由に変更された渋谷駅前から須田町までの10系統が通っていました。高力坂の石碑には当時の都電の姿がレリーフに描かれています(よく見えませんが)。なお、高力松の樹名の由来となった高力家の屋敷は比丘尼坂付近にあり、外堀付近に植わっていた高力松との因果関係は不明とのことです。
高力坂
新撰東京名所図会によれば「市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の邸あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり、東京電車鉄道の外濠線往復す」とある。すなわち,高力邸にあった松が高力松と呼ばれ有名だったので、その松にちなんで、坂名を高力坂と名付けたものと思われる。
市ケ谷橋で外堀通りを外れ、靖国通りを進みます。須田町までの区間は、都電10系統と都電10系統(変更後)で詳しくご紹介しましたので、新たな発見のみ追加します。都電10系統では小川町三丁目(南部)の町名由来板をご紹介しましたが、(西部)版もあるんですね。地元民の熱意を感じます。
小川町三丁目(西部)
江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広犬な地域をさす俗称でした。このあたりはかつて、猿楽(のちの能楽)師の観世太夫とその一座の屋敷があったため猿楽町、鷹狩に使う鷹の飼育や調教を行う鷹匠が住んでいたことから元鷹匠町などと呼ばれていました。元禄六年(1693年)、小川町と改称されました。五代将軍網吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道潜はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。安政三年(1856年)の絵図では、この界隈に寄合医師和田春孝、常陸土浦藩土屋家の上屋敷などが見られます。明治五年(1872年)、周辺の武家地を整理し、富士見坂を境に北側は猿楽町一丁目、南側は小川町となり、明治十一年(1878年)、神田区に所属します。ちなみに富士見坂の名は、坂の上から富士山が見えたことに由来します。明治時代の猿楽町一丁目には、英語・漢学・数学などを教える研精義塾、裁縫を教える裁縫正鵠女学校や婚姻媒介所などがありました。小川町には、西洋料理店やビリヤード場、小川町警察署などがあり、学生たちで賑わう街でした。また、町内に過ごした昭和期の小説家永井龍男は、文塾春秋社で雑誌編集長を務めたのち、後年には文化勲章を受章しています。昭和八年(1933年)の区画整理により、ここは小川町三丁目となります。昭和二十二年(1947年)に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町三丁目となりました。
Ogawamachi 3-chome (Western district)
In the Edo Period, the name Ogawamachi was used to indicate a huge area comprising the western side of Kanda. The name came from a body of water in the area, which was featured in a poem written by a famous warlord. In the Meiji Period, there were several schools here, as well as entertainment places for students.
神田須田町二丁目は靖国通り上にあった須田町電停の先の中央線ガード下を抜けたところの狭い地域の町名です。それでも町名案内板を立てるのですから、住人の地元愛は相当に強いようですね。
千代田区町名由来板 神田須田町二丁目
現在の神田須田町二丁目が生まれたのは、昭和八年(1933年)のことです。大正十二年(1923年)の関東大震災の後、東京の町は再編されました。その一環として元柳原町・柳町・小柳町・平永町などの町が合併され、いまの町の区域が定められたのです。関東大震災から二十二年後の昭和二十年(1945年)、第二次大戦下の空襲によって東京はふたたび焼け野原となってしまいます。とくに三月十日の東京大空襲では、東京の東半分がほぼ焼き尽くされました。そんな中にあって、須田町二丁目は町の人々が一致団結して防火にあたったため、町内の一角は戦火をまぬがれることができました。戦後、須田町二丁目周辺は、ラシャの切り売りなどを生業とする業者が集まり、一時は日本一といわれるほどの繁盛ぶりを示しました。その賑わいも、空襲から命をかけて町を守った人々の努力があったからこそ生み出せたのです。町を愛する住民の気持ちは、戦後も変わりませんでした。昔から祭り好きの人たちが多い土地柄ですが、この界隈には、神田神社・柳森神社・下谷神社の氏子が集まり住んでいます。いまでもこの須田町に住む人々は、三社の祭礼を五月にまとめてとりおこない、住民が一丸となって伝統ある神田の祭りを盛り上げています。
Kanda-Sudacho 2-chome
This area became known as Kanda-Sudacho 2-chome in 1933. During the aerial bombardment of World War II, the townspeople fought valiantly and managed to preserve a section from the fires that swept the capital. After the war, the area became a center of woolen cloth dealers, and at one time was one of the most.prosperous commercial areas in Japan.
岩本町交差点の手前は、水天宮通りが鋭角に昭和通りと合流する地点にあたり、靖国通りを底辺とする三角形の広場になっています。そこは馬の水飲み広場という名前になっていて、かっての主要街道の交差点になっていたこともあって、人馬の休息所になっていたそうです。
岩本町馬の水飲み広場
この場所は、江戸時代より房総や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類・材木等)のために荷車を引く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場として、重要な役割を果たしてきました。
以前は激しくお邪魔していた浅草橋の人気居酒屋「たいこ茶屋」は今でも健在です。コロナ禍で大打撃を受けておられるとは思いますが、いつの日かまたお刺身食べ放題に行きたいものです。ちなみに、たいこ茶屋は「倍返しだ!」でお馴染みの半沢直樹のロケ地に使用されました。しかも、初回と続編の2回も。他にも私は観ませんでしたが、池井戸潤ドラマ製作福田監督チーム御用達のお店のようで、「陸王」・「下町ロケット」・「七つの会議」などにもロケ地として使用されたそうです。ネギトロのてんこ盛り、美味しかったなぁ。
靖国通りは浅草橋交差点で終点となり、そこから先は京葉道路になります。少し外れますが、浅草橋に立ち寄ってみます。浅草橋は神田川に架かる橋です。
旧浅草橋
浅草橋という町は昭和九年(1934年)に茅岡・上平右衛門町・下平右衛門町・福井町・榊町・新須賀町・新福井町・瓦町・須賀町・猿屋町・向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(1636年)のことである。浅草御門前にあつたことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。
浅草橋の袂には小さな広場があり、植栽の中に浅草見附跡の石碑が立っています。裏面には判別しづらい碑文が刻まれています。
浅草見附は、江戸三十六門の中、外郭門に配する十二見附の一つであり、奥羽への街道口として寛永十三年に設営された。慶長年間すでに浅草橋の名があり、見附が廃されたのは明治以前のことである。これに因んで、昭和九年6月1日、現在の浅草橋一丁目・二丁目・三丁目の町名が生れた。
植え込みの中には郡代屋敷跡の案内板も立っています。
郡代屋敷跡
江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。関東郡代は、天正十八年(1590年)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(1642年)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688年〜1704年)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(1657年)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。寛政四年(1792年)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(1806年)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
京葉道路は隅田川を両国橋で渡ります。その手前の地域は、かって両国広小路と呼ばれていました。
旧跡 両国広小路
明暦の大火(1657年)は江戸の市街の大半を焼失し、10万余の死者を出した。その際このあたりで逃げ場を失って焼死するものが多数出た。このため対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵・下総両国の境をなしていた。また延焼防止のため橋に向う沿道一帯を火除け地に指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり、江戸三大広小路の一つとして、上野浅草に並び称せられる盛り場に発展した。明治維新のころ、ここには新柳町・元柳町・横山町・吉川町・米沢町・薬研堀町・若松町があったが、昭和七年合併して日本橋両国となり現在に及んだ。維新後百年を経た今日、まちの近代化はめざましく、広小路や両国の名も過去のものとして忘れ去られようとしているが、300年前火除け地が設定され、これが広小路に発展して行った事跡のなかには、先人の英知と努力が偲ばれてまことに意義深いものがある。ここに由緒ある両国広小路の旧跡を永く保存するため、町会の総意により、この碑を建てた。
両国橋は江戸時代に隅田川で2番目に架けられた橋で、その当時は武蔵国と下総国のふたつの国をつなぐ橋だったので、いつしか「両国橋」と呼ばれるようになりました。人が集まる場所でしたので、両国の花火が打ち上げられるようになったといわれています。両国橋の親柱には人工衛星の形をした大きな石球が置かれています。これは地球儀をイメージして作られたのだそうです。橋の欄干には両国の二大見所、国技館を象徴する行司の軍配団扇と両国の花火の図がレリーフになって装飾されています。
隅田川を渡った先の右手に、円筒を半分に割ったような形の屋根が特徴的な回向院の山門があります。
回向院(Eko−in Temple)
明暦三年(1657年)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍コ川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。有縁・無縁・人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震・関東大震災・東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者・遊女・水子・刑死者・諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。
参道の入口横には回向院の由緒を記した案内板が立っています。鼠小僧次郎吉の本来の墓は南千住の小塚原回向院にあり、両国の墓は明治時代に建てられた供養墓となっています。鼠小僧次郎吉は鈴が森で獄門(斬首刑)になったそうですが、なんで小塚原刑場近くに墓を作ったのでしょうかね?ちなみに、江戸時代の刑場は北に小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(南大井)、西に大和田刑場(八王子市)があり、三大刑場といわれました。鼠小僧次郎吉の墓のすぐ隣に「猫塚」と書かれた碑があります。名前のとおり、猫の供養のために建てられた塚です。「猫に小判の話」とは、「文化年間、日本橋に住む時田半治郎という人がいて、家計が窮迫したうえに病気となって苦しい毎日を送っていたところ、日頃かわいがっていた猫が小判をくわえてきて長年の恩にむくいた。それ以来、時田家の家運が次第に開けて、病気も治り家運が挽回し繁栄していった。時田家では、この猫を徳として感謝していたが、猫が死ぬとその霊を回向院に埋葬し、墓をたてた」というお話です。
諸宗山 回向院
明暦三年(1657年)江戸大火(振袖火事)に依る死者10万八千余人を弔うために建立された。
安政大地震(1855年)の死者二万五千人余を初めとして、江戸府内の無縁佛・天災地変に因る死者も埋葬され、近くは大正十二年の関東大地震の死者十万余人の分骨も納骨堂に安置されています。
江戸時代の雰囲気を伝える史蹟記念碑墓地がある。
明暦三年 大火石塔
安政二年 大地震石塔
鼠小僧次郎吉墓
水子塚 (寛政五年)松平定信建立
猫に小判の話 猫塚
勧進相撲発祥の地記念 力塚
呼び出 定火消墓 木遣塚
諸動物供養塔
竹本義太夫墓
岩P京傳・京山・加藤千陰墓
回向院の境内には、かって大鉄傘と愛称された旧国技館がありました。収容人数一万三千人のドーム型建物を造ったほどですから、境内は相当に広かったのでしょう。
旧国技館跡
旧国技館は、天保四年(1833年)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年(1909年)に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難統きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年(1983年)に解体されました。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。
大鉄傘については、もうひとつの案内板が置いてあります。明治時代にこのような巨大で難しい構造の建物を建てたのは信じられませんね。
国技館(大鉄傘)跡
相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、天保四年(1833年)から国技館に開催場所が移されるまでの七十六年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。国技館は、この回向院の境内に明治四十二年(1909年)に建設されました。三十二本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、一万三千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和五十八年(1983年)に解体されました。そして同六十年(1985年)、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていま すが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。
回向院のすぐ先に、芥川龍之介が育った家の跡の案内板が立っています。
芥川龍之介生育の地
芥川龍之介は、明治二十五年(1892年)三月一日、東京市京橋区入船町八丁目一番地(中央区明石町)に牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれました。辰年辰の日辰の刻に生まれたので龍之介と命名されたといわれます。生後七力月で、当時本所区小泉町一五番地(両国三丁目)に住んでいたふくの長兄、茶川道章に引き取られ、十三歳の時、芥川家の養子となりました。芥川家は江戸時代からの旧家で、道章は、教養趣味が深く、俳句や南画をたしなみ、一家をあげて一中節を習い、歌舞伎を見物するなど、江戸趣味の濃い家庭でした。明治四三年(1910年)十九歳で新宿に移転するまで過ごした両国界隈は、龍之介の精神的風土を形成しました。「大導寺信輔の半生」・「本所両国」などの作品に、その一端を見ることができます。龍之介は、回向院に隣接する江東尋常小学校付属幼稚園に入園、翌年同小学校(両国小学校)に入学しました。明治三八年(1905年)府立第三中学校(両国高等学校)に入学、同四十三年成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学しました。その後、大正二年東京帝国大学英文科に入学、同五年卒業しました。大学在学中、同人維誌「新思潮」に「鼻」を発表して夏目激石に激賞され、大正初期の文壇に華やかに登場しました。初期には「羅生門」・「芋粥」などの多くの歴史小説を残し、大正時代を代表する短編小説家として活躍しました。また、小説以外にも詩・俳句(高浜虚子に師事)・評論・随筆にも優れました。昭和二年(1927年)に三十五歳の生涯を閉じました。遺稿に「西方の人」・「歯車」・「或阿呆の一生」などがあります。龍之介のゆかりを慕い、区立両国小学校の正門前には、児童文学「杜子春」の一節を引用した文学碑が、また、両国高校内にも「大川の水」の一節を刻んだ文学碑が建てられています。
芥川龍之介賞
通称芥川賞。新聞・維誌に発表された純文学短編作品の中から、最も優秀な新人作家に与えられる文学賞。昭和十年(1935年)、当時文芸春秋社長であった菊池寛氏が、亡友芥川龍之介の名を記念し文学の発展をねらい創設されました。
両国駅電停がどこにあったのか分りませんが、両国駅と直線的に同じ位置にある両国三丁目交差点辺り(都営両国四丁目バス停前)に電停があったとして、都電12系統跡の歩きを終えることにします。
両国は伝統を重んじる町、松の内とあって鏡餅は大きいしお飾りも立派。これぞ下町の心意気ですね。
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