- 都電11系統跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電11系統跡を歩きます。都電11系統は新宿駅東口から月島通八丁目(延長運転の時は新佃島)までを結び、その路線は主に新宿通り・内堀通り・晴海通り(・清澄通り)を通っていました。都心を東西に横断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。勝鬨橋を渡った数少ない都電のひとつです。ところで、今回歩く都電11系統ですが、都電9系統(再変更後)の桜田門電停〜新佃島電停の区間と路線が重なっています。そのため、重複する区間は新たな見所があったところを中心に追記することにします。
都電11系統
都電11系統の全長は8.6kmで、昭和43年2月25日に廃止となりました。
都電11系統の電停(路上の駅)は、新宿駅前・角筈・四谷三光町・新宿三丁目・新宿二丁目・新宿一丁目・四谷四丁目・四谷三丁目・四谷二丁目・四谷見附・麹町六丁目・麹町四丁目・麹町二丁目・半蔵門・三宅坂・議事堂・桜田門・日比谷・数寄屋橋・銀座四丁目・三原橋・築地・かちどき橋・月島通八丁目(・月島通三丁目・新佃島)でした。
新宿駅前電停は、現在の靖国通り上の西武新宿駅手前にあったらしいです。1949年以前の新宿駅前電停は今のスタジオアルタ前にあったそうですが、後にこの場所に移されたとのことです。新宿駅前電停は、ここから東側の各方面へ向かう11〜13系統(都電新宿線)のホームと、西側の荻窪駅前へ向かう14系統(都電杉並線)のホームに分けられていました。11・12系統は新宿三丁目・四谷二丁目方面、13系統は角筈線の新田裏方面へ向かっていました。11〜13系統の停まるホームはこの場所にあったのですが、荻窪方面の14系統のホームは新宿大ガードを挟んで離れた西側にあり、東西の線路は繋がっていませんでした。というのも、それぞれ前身となった路線が違い、軌間も違ったためです。14系統の走った「都電杉並線」という路線名は通称で、正式には高円寺線と荻窪線を併せた呼び方でした。東側(新宿線側)の電停は1970年に廃止されましたが、西側(杉並線側)の電停はそれよりも早く、1963年に廃止されています。これは、杉並線が地下鉄丸の内線に取って代わられたためでした。
靖国通りに面して歌舞伎町一番街の派手なアーチが架かっています。昼間はそうでもないのですが、夜になると妖しいネオンが輝き出します。歌舞伎町には飲食店・遊技施設・映画館などが集中し、札幌のすすきの・福岡の中洲と並んで「日本三大歓楽街」と称される日本一の歓楽街です。この一帯は元々「大久保」の名の由来となる窪地の湿地帯と元大村藩主大村氏邸があったところでした。明治以降は鴨場となっていましたが、1893年に淀橋浄水場の建設に伴い、残土で鴨場の池が埋め立てられて現在の土地が造成されました。1945年の東京大空襲で一面焼け野原となりましたが、戦後になって石川栄耀や鈴木喜兵衛らによって「(現在の歌舞伎町一番街付近に)歌舞伎の演舞場を建設し、これを中核として芸能施設を集め、新東京の最も健全な家庭センターを建設する」という復興事業案がまとめられました。この都市計画から、計画担当者の石川栄耀の提案により、新しい町は歌舞伎町と名付けられました。結局、資金不足によってこの構想は実現せず、新宿コマ劇場が建設されるにとどまりました。
年明け早々ですが、コロナの新規感染者が急増しています。そのため、飲食店には営業時間の短縮が求められています。感染予防を徹底しているお店もそうでないお店も一緒くたの一律要請ですから、飲食店としては対処のしようがありません。やむなく「TAKE OUT」を始めるところもありますが、店内の営業と比べると売り上げ激減は目に見えています。(これを書いているのは6月ですが)あれから半年、事態は一向に改善しませんね。なんとかこの災難を乗り切ってもらいたいものです。
飲食店に止まらず、大規模店舗も営業の自粛が求められています。老舗デパートの伊勢丹も同様です。接客が命のデパートでお客が来なかったら話になりません。飲食店には細々ながら「TAKE OUT」という手段もありますが、デパートは堪え忍ぶしか道はありません。地方では伝統ある老舗の百貨店の閉店が続いていますが、上質の品物が揃っている東京のデパートだけでも生き残って欲しいものです。私にはデパ地下の食品売場以外はあまり縁はないのですけど。。。
長いこと、新宿二丁目交差点の先の新宿御苑と新宿高校の間に空き地がありました。花園神社の横で二股に分かれた明治通りの片方が新宿二丁目交差点の先で行き止まりになって、その延長線上に空き地が続いていたのです。これには歴史的な経緯があります。環状七号線とか環状八号線は聞き慣れていますが、環状五号線はあまり聞かないですね。実は環状五号線の大部分の区間は明治通りと重なっています。正式には、環状第5号線といい、港区の南麻布から北区の滝野川に至る「環状第5の1号線」(環5ノ1)と、北区の王子から荒川区の荒川に至る「環状第5の2号線」(環5ノ2)からなる都市計画道路です。現在ほぼ完成していますが、この空き地には環状第5の1号線(千駄ケ谷区間)が二重構造のバイパス道路として通るのです。この区間は僅か805mの距離ですが、工事の費用は約1500億円(内土地収用費1200億円超)もかかるのだそうです。明治通りのJR新宿駅の東側付近は長い間慢性的な交通渋滞が問題となっていましたが、このバイパスの完成によって交通量が分散され、十分な投資効果が得られるとのことです。当初の計画が決まったのは今から約70年前のことでした。計画では、池袋方面に向かう北行き(外回り)と渋谷方面に向かう南行き(内回り)でそれぞれ2車線ずつ、計4車線を平面構造で造るというものでした。道路の幅は31〜35mで、新宿御苑の公園区域の一部を道路区域に変えて道路を通すことになっていました。しかし、計画は直ぐには実現しませんでした。この計画に難色を示したのは環境省でした。道路の計画ルート上に含まれていた新宿御苑の敷地内に、全国的にも希少な樹齢100年を超える落羽松(らくうしょう:秋になると葉が鳥の羽のように落ちることから名前が付いた)の群落があったからです。新宿御苑内の湧水を水源とする湿地への影響も危惧されました。環境省は新宿御苑の森を避けるよう東京都に要望したのです。東京都は2005年に道路の構造を見直し、この群落を回避できるように計画を改めました。池袋方面に向かう北行きの2車線を一部トンネルにして地下化し、渋谷方面に向かう南行きの2車線と歩道をトンネルの上に重ねる2層構造に変えたのです。この変更によって、平面構造の4車線としていた当初計画では30m以上あった道路の幅が半分以下の14mに縮小し、新宿御苑の敷地への影響はほとんどなくなったのです。森を囲う柵の位置すら変える必要がなくなりました。工事は2010年に始まり、間もなく完成する見込みです。完成の暁にはトンネルの上の歩道を歩いてみたいものです。
四谷四丁目交差点傍の蕎麦(うまい!)屋さんのメニューサンプルウインドウに江戸時代の風景を描いた絵が貼ってあります。この附近には、街道を通って江戸に出入りする通行人や荷物を取り締まるための関所である四谷大木戸がありました。
四谷四丁目交差点は江戸時代は「四谷大木戸」と呼んでいた。それはここに大木戸という関所があったからである。天正十八年(1590年)家康は江戸入府にあたり、武田・北条の残党から江戸を防衛する為、家臣の内藤清成に陣をかまえさせた。後に、幕府は元和二年(1616年)内藤氏の陣を廃止して、四谷大木戸門を設けた。この年は、大阪夏の陣で豊臣が滅びた翌年で、その残党の侵入を防ぐのが目的であった。寛政四年(1792年)大木戸は取り払われた。
笹寺(正式名称は長善寺)は天正三年(1575年)甲斐国武田氏の臣高坂弾正昌信の住居に結ばれた草庵を起源とし、四谷付近では最古の寺院のひとつです。二代将軍徳川秀忠が長善寺に立ち寄った際に、笹が繁ったいたことから笹寺と称するよう命じられ、この名が付いたといわれています。一説には長善寺の笹が江戸城紅葉山に移植されたとも伝えられています。
地下鉄丸の内線の四谷三丁目駅前に丸正というスーパーがあります。その1階入り口に、その場の光景から切り離されたようにあるのが「お岩水かけ観音」です。名前からして「四谷怪談」ゆかりの土地なのかと思われますが、これは昭和四十六年(1971年)に丸正スーパーの社屋を建設する際、社長の肝煎りで建立されたそうです。特にここが何かの伝承地ということではないのですが、「四谷といえばお岩さん」という感覚でお店を目立たさせるために作られたみたいです。一応、本物のお岩稲荷から分祀はされているみたいなので、信心深い通行人は本物のお岩さんと思ってちゃんとお参りしています。
お岩水かけ観音由来
貞享年間(1684年〜1687年)、四谷左門町に住む御家人宮又左衛門の一人娘お岩は、迎えた婿養子伊右衛門の放蕩が原因で哀しくも狂乱行方知れずになり、それからと云うものは種々怪奇な事件が頻発したが、田宮家の菩提寺にてお岩の霊を供養したところ、ようやく平穏になったと伝えられています。この伝説をもとに脚色したのが鶴屋南北の東海道四谷怪談で、文政八年(1825年)三代目菊五郎の浅草市村座で初演、大評判を得ました。爾来約三百年、お岩稲荷は幾度か災禍をこうむり太平洋戦争でも焼失したが、地元世話人によって再建され、家庭円満無病息災商売繁盛などに霊験あらたかと言われ、参詣人はあとを絶たず崇敬者は広がって現在に至っております。当お岩水かけ観音は、縁あって再建の世話人をつとめた飯塚五兵衛が昭和四十六年九月二十五日丸正食品株式会社本社屋建築施行の際三年の願をかけ、昭和四十九年九月二十三日満願にあたりお岩稲荷と観音様の慈愛をこめて祈願成就のしるしとして新たに分祀建立したものです。
丸正の窓硝子に節分の告知が貼ってあります。2021年の節分は2月3日ではなく、2月2日です。節分はその名の通り、季節の分かれ目の日となります。節分は立春の日の前日となるので、立春の日がずれると節分の日もずれることになります。なぜ立春の日がずれるかといいますと、閏年と同じで、1年を二十四節気に当てはめて定期的な運用をしようとすると、年毎に少しずつ誤差が出てきてずれが生じるわけです。その調整のために、2021年は2月3日が立春になりました。ちなみに、2021年と同じように立春の日が2月3日になったのは明治三十年(1897年)で、今年はそれ以来の124年ぶりとのことです。そして、昭和五十九年(1984年)は逆に立春の日が2月5日だったために、節分が2月4日となりました。そうでしたっけ?
四谷見附橋は、JR中央線の上を通る新宿通り(国道20号)に架かる橋です。現在の橋は1991年に架け替えられた二代目の橋になります。寛永十六年(1639年)、現在の四ツ谷駅東側の江戸城外濠内側に江戸城三十六見附のひとつの四谷御門が造られ、見附番所が置かれました。北側に尾張徳川家・南東側には紀州徳川家の屋敷があり、江戸城防衛の要のひとつでしたが明治に入って門は撤去されました。明治二十七年(1894年)、外濠の一部の水を抜いて甲武鉄道(現在のJR中央本線)飯田町駅〜新宿駅間が開通し、その中間部に四ツ谷駅が開設されました。新宿方面から江戸城への道は防衛上の理由からクランク状に曲がっていて、交通の障害となっていました。1910年に四谷見附橋の建設を含む道路整備計画が東京市会を通過し、翌1911年に着工・大正二年(1913年)に完成しました。橋上には東京市街鉄道により新宿と月島を結ぶ路面電車が敷設され(都電11系統!)、1968年まで運行されました。1974年、新宿通りの拡幅と四谷見附橋の架け替えが決定し、架替工事は1991年10月5日に竣工しました。旧橋の橋体は八王子市の多摩ニュータウンにある長池公園に移築されました。初代の橋は400メートルほど離れた赤坂離宮との調和を図り、高欄や橋灯はネオ・バロック様式が採用されました。橋台は隅を花崗岩で押さえた煉瓦積みの外殻で、アーチは茶褐色に塗装されました。現在の橋は旧橋のアーチをイメージしたラーメン構造とし、高欄や橋灯は旧橋のものが再利用されています。
半蔵門交差点で新宿通りは終点となり、右折して内堀通りに入ります(国道20号の名称は変わりません)。半蔵門は皇族の方々の車列がよく見られるところで、私も出待ちをするほどのミーハーではありませんが、偶然通りかかって今の天皇ご夫妻や秋篠宮ご夫妻などの車列もよく見かけました。半蔵門というと、昔はTFM(東京FM放送)しか思い浮かびませんでした。それまでのAM放送の音質とは一線を画し、クリアで迫力のあるFM音質に嵌まったものです。
半蔵門交差点から始まる緩い坂は三宅坂といいます。江戸時代にこの坂の右側には三宅土佐守の屋敷があり、三宅坂の名前の由来になりました。坂の途中に国立劇場があります。劇場前の広場は桜の名所になっています。
神代曙
ワシントンへ贈られた染井吉野の種から生まれた桜を東京都の神代植物公園で接木したのが原木です。桜を植えるにあたり、財団法人日本花の会より推奨を受け、全国最初の植栽地として平成十二年(2000年)に国立劇場が植栽し、以降、全国各地に広まっていきました。花の色がやや濃く、遠目にも濃淡が美しい・病気に強い・染井吉野ほど大きくならないなどの特徴があります。国立劇場での開花は染井吉野より数日早くなっています。
神代曙の隣には仙台屋という品種の桜の木もあります。
仙台屋(センダイヤ)
高知市内の仙台屋という店の庭にあった桜で、植物学者牧野富太郎博士が命名したと言われています。博士の出生地高知県佐川町の牧野公園・高知市五台山の県立牧野植物園・東京都練馬区の牧野記念庭園などに植えられています。ヤマザクラの一種で花色が濃く、一重でオオヤマザクラに似ています。ソメイヨシノより数日遅く開花し、その年の気候によって変わりますが、おおむねソメイヨシノが散り始めの時が見頃です。平成十八年(2006年)2月国立劇場開場40周年記念樹として3本植栽しました。
国立劇場に隣り合って、最高裁判所の角ばった巨大な建物が聳えています。現在の庁舎は建築家岡田新一によって設計され、昭和四十九年(1974年)に竣工しました。建物は地下2階・地上5階・延べ53,923uで、7つの棟で構成され、スペースウォールと呼ばれる二重壁によって結合するという、これまでに例を見ない構造になっています。当時、剛構造の建物で振動解析したのはこの最高裁判所庁舎が初めてでした。外壁と内壁は御影石貼りになっていて、なるべく白い御影石を求め、茨城県の稲田石が使用されました。石工事は建築工事費の20%を占め、効率的に石積みする新工法が開発されました。使用した石の延べ総面積は全体で7万u近くに及びます。
三宅坂交差点に接した区立三宅坂小公園には「平和の群像(正式名称は「広告人顕頌碑」)」という銅像が建っています。日本電報通信社(現在の電通)が建立したもので、広告功労者顕彰のための記念碑なのだそうです。小公園の奥には渡辺崋山の案内板も立っています。
渡辺崋山誕生地
渡辺崋山は寛政五年(1793年)にかつてこの場所にあった、田原藩(現在の愛知県)の上屋敷で生まれました。江戸時代後期の政治家として藩政改革や海防政策に業績を残す一方で、画家としても先駆的な功績を遺しました。崋山は名を定静、通称を登といいます。はじめは華山、のちに崋山と号しました。文化六年(1809年)、16歳の時に絵師の金子金陵に入門し、後に谷文晁に学んでいます。崋山の画風は西洋画法を取り入れたもので、真に迫った肖像画や写実的な花鳥画、軽妙な筆による風景画のスケッチなどを得意としました。18歳の時には、儒学者の佐藤一斎に師事し、蘭学を中心とする幅広い分野の学者で結成された「尚歯会」にも参加しました。天保十年(1839年)に執筆した「慎機論」で幕府の対外政策を批判したため、蛮社の獄で捕縛され、国許の田原での蟄居を命じられます。その2年後、48歳で自決し、生涯を閉じました。
Birthplace of Watanabe Kazan
Watanabe Kazan was born in 1793 in the main Edo residence of the Tahara Domain (current-day Aichi Prefecture), which was on this site. While he contributed as a politician in the late Edo Period to feudal government reforms and coastal defense policy, he also made an important contribution as a pioneering artist. Kazan's given name was Sadayasu, but he was commonly known as Nobori. His name was originally written ("Kazan") but later he changed it slightly to (also "Kazan") as a second name. He began studying under the painter Kaneko Kinryo in 1809, at the age of 16, and later studied under Tani Buncho. Kazan's painting style incorporated elements of Western painting and he specialized in realist portraits, true-to-life paintings of flowers and birds, landscape sketches using a light and easy brush style, and so on. At the age of 18 he studied under the Confucian scholar Sato Issai and he was also a member of the Shoshikai, an association of scholars from a wide range of fields, especially Western Studies. After criticizing the Shogunate's foreign policy in an essay entitled "Shinkiron" in 1839, Kazan was arrested under the Shogunate's suppression of Western Studies scholars (Bansha no goku) and he was put under house arrest in Tahara, his family's hometown. Two years later at the age of 48, he ended life at his own hands.
憲政記念館は、日本の議会政治に関する展示施設です。前身は1960年に市民の浄財によって建てられた尾崎行雄(衆議院名誉議員)を記念する「尾崎記念会館」です。1972年に衆議院に寄贈され、この時に「憲政記念館」と改称されました。資料展示をするほか、特別展・講演会などが催されています。江戸時代には、大老職を務めた彦根藩の井伊直弼の上屋敷がここにありました。戦前はここに陸軍省・参謀本部・陸地測量部(国土地理院の前身)が置かれました。そのため敷地内に日本水準原点が残っています。知る人ぞ知る「憲政記念館」内のレストラン「霞ガーデン」は2021年3月5日に60年の歴史に幕を下ろしました。当時まだ賄いだったハヤシソースをかけたオムライスが政財界の上客の舌をうならせ、いつしか不朽の看板メニューとなりました。2008年に死去した尾崎行雄の三女の相馬雪香さんも生前にこのオムライスをこよなく愛したことで知られています。「ポークカツカレーライス」は、なにかと勝負事が多い国会議員の験担ぎにも使われました。帝国ホテルや首相官邸の官邸調理室で「台所番」を務めた歴代シェフの味を堪能できるとあって、霞が関のみならず「都心の隠れ家」としてひそかな人気を集めていたのです。憲政記念館は2022年から建て替え工事が始まり、新しい記念館の完成は2028年度になる予定です。
都電11系統は国会議事堂の正門前で左折し、内堀通り方向に進みます。コロナ禍以前は都内観光の定番でしたが、今は訪れる観光バスも殆どなく閑散としています。そんな中、乗客は数えるくらいですが真っ赤な色合いの観光バスが走っています。日の丸自動車興業株式会社が運営する「屋根なし2階建て」スカイバスです。観光業界は今コロナ禍で大変な事態に陥っていますが、また沢山の観光客が都内の名所を訪れてくれるようになるといいですね。日の丸自動車はこの他に、「水陸両用バス」のスカイダックも運行しています。
数寄屋橋交差点近くの交番脇に奇妙な姿をした銅像が建っています。足元には百獣の王の獅子を従え、兜をかぶった力強い男性像です。台座には、標語「不意の地震に不断の用意」の銘板も埋め込まれています。この標語は懸賞募集されたもので、銅像を制作した北村西望の自筆で書かれました。また、北村西望は台座の設計も行ったそうです。
銅造彫刻「燈臺(とうだい)」北村西望作
関東大震災10周年記念塔の銅造彫刻は、彫刻家北村西望(1884年〜1987年)が47歳の時に制作した作品です。北村は、この彫刻を昭和六年(1931年)開催の帝国美術院第12回美術展覧会にあわせて制作し、「燈臺」と題して出品しました。北村西望は、明治十七年(1884年)に長崎県で生まれ、京都市立美術工芸学校や東京美術学校彫刻科に学び、戦前から優れた造形の彫刻を数多く制作してきました。中でも、昭和三十年に制作した長崎市の「平和祈念像」は代表作の一つです。「燈臺」は、力に満ちた青年が兜を装い、松明を捧げ、獅子をしたがえた作品です。この像には、北村が得意とした写実的で覇気に満ち溢れた力強い造形の人物像が創り出されています。この作品は、大正十二年(1923年)の関東大震災から10周年を迎えた昭和八年9月1日、震災記念塔に相応しい彫刻として設置されました。北村は設置にあたって、石造の台座設計や十数万の応募から選ばれた標語「不意の地震に不断の用意」の鋳造銘板も制作しています。銅像彫刻「燈臺」は、彫刻家北村西望による優れた造形芸術を表現しながら、震災の歴史を伝える記念塔として語り継がれています。
Bronze Statue "Todai (Lighthouse)"
This statue was carved by Kitamura Seibo (1884 -1987) to submit to the 12th Imperial Art Exhibition, when he was 47 years old (1931). It was put in Sukiyabashi Park on September 1st, 1933, as a merorial monument of the 10th anniversary of the Great Kanto Earthquake. This sculpture depicts realistic and spiritual portrait which he was good at. He was born in 1884 in Nagasaki Prefecture, and he learned at Kyoto City College of Fine Arts and Crafts and Tokyo Fine Arts School. He produced many great sculptures, especially "Peace Statue" in Nagasaki City, produced in 1955, is one of his best works.
銀座四丁目交差点に来ました。交差点に面した三越の入口横に2枚のプレートが貼られています。銀座出世地蔵尊は三越の屋上の社に祀られています。地蔵尊は明治の初めに鳶頭の田中善太郎が地中から掘り出したとされています。近くの空き地に地蔵尊を安置したところ、心篤い人達が花や団子を供え参詣するようになりました。その後、この地蔵尊が開運・出世・延命・商売繁盛のあらたかな御利益があるということが喧伝され、お堂が建立され、さらに毎月7日・18日・29日が縁日となって賑わいをみせるようになりました。最盛期には、京橋から新橋までの片側に夜店が246軒も並び、「銀座八丁露店」として発展しました。関東大震災と昭和二十年5月25日の東京大空襲で銀座一帯は焼け野原となり、地蔵尊も行方知れずになりましたが、無事にお堂跡で発見されます。その後、幾多の変遷を経て三越の屋上に祀られるようになったのです。
三越のシンボルであるライオン像が置かれたエントランスから見上げた壁一面に大きなシャンデリアレリーフが誕生しました。銀座という街にふさわしい風格と美しさを備え、銀座に集う人々の記憶にやさしく灯る光でありたいという願いを込めて生まれた「銀座シャンデリア」です。
銀座シャンデリア(GINZA CHANDELIER)
世界中のあらゆる文化を受け入れ、あらたな輝きを生み出してきた街、銀座。これからもずっと夢とあこがれに満ち、幸福な思い出が紡がれる舞台でありたい。そんな願いをこめて銀座四丁目交差点に誕生したのが光のファサード「銀座シャンデリア」です。それは銀座に集う人々の物語が始まるエントランス。出会いをまばゆく照らし、記憶にやさしく灯る。銀座の今日を彩るあたらしい街のシンボルです。これからも銀座の街に寄り添いながら、銀座の街とともに発展していきたいと願っています。
株式会社 三越伊勢丹
晴海通りが首都高速道路環状線と交差する万年橋の左右に広がるのが築地川銀座公園です。公園の中に「健康こみち」という足踏み台が設けられています。表面に付けられたデコボコが足のツボに当ることで、ツボに関係する内蔵の働きを高めようとするものです。台上には、心臓・肝臓・腎臓・胃などに効果のあるツボが足裏の図の中に標示されています。腎臓と胃は左右対称の位置にあるのですが、何故か心臓のツボは左足裏の外側で肝臓のツボは右足裏の外側の位置にあります。足踏み台は野ざらしだし、当然靴も脱がないといけなので、潔癖好きの人には無理かも。
築地四丁目交差点から続く築地場外市場商店街の「もんぜき通り」は、2017年8月3日に火災が発生して7棟計935平方メートルが焼失しました。その後復旧が進み、今では新大橋通りに面した店舗は殆ど営業を再開しています。ところで、「もんぜき」という名前は、築地本願寺に因んでいます。門跡橋交差点脇にある「門跡橋の親柱」の案内板にその経緯が書かれています。
門跡橋の親柱
門跡橋は、昭和三年(1928年)六月に築地三丁目(現在の築地三・四丁目)と南小田原町一・二丁目(現在の築地六丁目)との間に架けられた築地川南支流の震災復興橋梁でした。昭和六十一年(1986年)から開始された築地川の埋め立て工事や道路の拡幅工事に伴って撤去されましたが、その時に花崗岩製の親柱一基が高欄の一部とともに、この場所に移築保存されました。なお、門跡橋という名称は、江戸時代に同じく築地川南支流に架けられていた小田原橋の俗称から取ったものです。当初は「築南橋」という橋名が付けられていましたが、昭和三年十一月、西本願寺の門徒代表以下五十九名から、東京市長宛に「門跡橋」への名称変更に関する陳情書が提出され、門跡橋と改称された経緯があります。この親柱は、復興事業の歴史を今日に伝える資料として重要であるとともに、震災復興橋梁がこの辺りに架けられていたことを物語る貴重な文化財です。
Newel Post of Monzeki* Bridge
The subject bridge was built in June 1928 under the reconstruction project of the great Kanto Earthquake between the bank of Tsukiji 3 chome(currently Tsukiji 3, 4) and Minamiodawaracho 1 & 2chome (currently Tsukiji 6)over the south subsidiary stream of Tsukiji River. Because of the reclamation work of Tsukiji River and the expansion work of roads starting in 1986, the bridge itself was removed. However, one granite newel post together with a part of bridge railings were moved here for conservation. Besides, the name of MONZEKI Bridge came from the colloquial term of Odawara Bridge locating as well over the south subsidiary stream of Tsukiji River in Edo era. At first, this Bridge was named "Tsukinam Bridge" , however, its name changed to “MONZEKI Bridge" on Nov. 1928 as the petition for requesting the renaming was submitted to the Mayor of Tokyo-shi (currently Tokyo Metropolitan City) by 59 religious followers, including the head of them, of Nishi Hongwanji Temple, This newel post is meaningful as an informational material bringing down the history of reconstruction project and also a valuable cultural asset telling the bridge under the reconstruction project was once located this area.
* MONZEKI means specified temples managed by aristocrats. Naming of class of temple.
隅田川に架かる勝鬨橋を渡ります。勝鬨橋を通っていた都電は、11系統の他は9系統のみでした。車道上の横桁には今でも架線を取り付けた跡が見てとれるそうですが、どこに跡があるのかよく確認できませんでした。
勝どき駅前交差点を左折し、清澄通りに入ります。かって交差点近辺には「月島通八丁目電停」があり、通常運転の11系統の終点になっていました。
月島橋の袂に、「愛する月島を守る会」の張り紙がありました。都心に近い月島地区には、最近になって超高層マンション、いわゆるタワマンが林立しています。地元民でないと分りませんが、環境・騒音・日照・学校などの問題が山積しているようです。昔は長閑な下町だったのでしょうけど。
とはいっても、月島にはまだまだ少なからぬ昭和の名残りが残っています。清澄通りに面した小さな店構えですが、魚仁は月島の人気居酒屋です。一見して下町のお魚屋さんのような外観の店内には長机と簡易イスが置いてあり、昭和の雰囲気が満点で、いつも多くのお客さんで賑わっています。メニューは刺身の盛り合わせ・鰤大根・鮪ホッべ刺・マグロの脳天などといった多彩な海鮮ものが揃います。どれも下町価格で、ボリューム満点です。また、もつ煮込みやチャーシューなど、煮つけなども揃っています。魚仁の昼間の外観は活気にあふれた魚屋さんそのものです。「うまいぜぇ!日本一!!」の看板が掲げられた店舗では威勢の良い店員さんが新鮮な魚介類を次々と売りさばいています。夜になり、店頭販売が終わると居酒屋に早変わりし、店舗の外までテーブル席が張り出して、気軽に立ち寄りたくなる大衆居酒屋の趣となります。私も随分前に一度だけお邪魔しましたが、東南アジア系の女性店員の元気溢れる接客が印象に残っています。
フジマート月島店のモットーは「下町の底力スーパー」です。店頭に並べられた野菜・果物はどれも新鮮で安いですね。お散歩の途中ですが、夕食のお買い物もしていきましょう。今の時季(1月)は芽キャベツと菜の花ですね。マヨネーズと辛子で和えたほろ苦い味はお酒のつまみにぴったりです。
新月陸橋を過ぎると、11系統延長線の終点である新佃島電停跡に着きます。新佃島電停がどの辺りに位置していたのか分りませんが、都営バスの月島駅前停留所あたりとしましょう。当時は東京メトロ有楽町線も都営大江戸線もなく、そもそも月島駅はなかったのですけど。
ということで、都電11系統の歩きを終えました。今までに歩いたルートと重なるところもあって、今回は取り上げなかった見所も多くあります。といっても、全部で50系統近く歩いたので、どこが重複していたのか自分でも分らなくなっています。そういうことで、見所の重複や漏れもあるかとは思いますが、これからも細かいことは気にせずに気軽に書いていこうかと思っています。
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