都電10系統跡コース(2)  

コース 踏破記  

<<都電10系統跡コース(1)の続きです>>  

大妻通りは三番町にある大妻女子大学に因んで名づけられました。番町の地名の由来は、江戸時代の旗本の中で将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことに因んでいます。大番組は設立当初は一番組から六番組まであり、これが現在も名目だけ一番町から六番町に引き継がれています。かっては塀をめぐらし、樹木が鬱蒼とした中に人気のない古い旗本屋敷が連なる地域であったことから、「番町皿屋敷」や「吉田御殿」・「番町七不思議」などの怪談が生まれました。表札もなく、同じような造りの旗本屋敷ばかりが密集していたため、近隣の住民でさえ地理を認識することが困難で、「番町の番町知らず」という諺が流布しました。大妻通りには3つの坂があり、下りと登りが続く谷のような地形になってます。新宿通りから入って最初の下り坂が永井坂です。

永井坂

江戸時代、この坂道を挟んだ両側に五百五十俵取りの旗本・永井勘九郎と五百石取りの旗本・永井久右衛門の屋敷があったことから名付けられました。明治時代になると、坂の周辺には華族や官吏の邸宅が多く建設されるようになりました。




通りの脇に千代田区の町名由来板が立っています。

千代田区町名由来板

江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に大番組に属する旗本たちを住まわせました。ここから「番町」という地名が生まれ、この界隈には多くの武家屋敷がありました。明治になると、中央官庁や皇居に近接したこの地には、政府役人の官舎や華族の屋敷が並び、山県有朋の邸宅もありました。明治五年(1872年)、英国大使館(当時は公使館)がこの地に移ってきます。維新の志士たちと深い交流をもち、のちに駐日英国公使として日英同盟に尽力したアーネスト・サトウも、ここで多くの年月を過ごしました。英国大使館の裏手には、明治三十三年(1900年)、津田梅子が女性の自立をめざした英語学校・女子英学塾を創立しました。これが現在の津田塾大学の前身です。

一番町

文化人たちにも一番町は愛されていました。小説家・劇作家として名高く、画家でもあった武者小路実篤はこの地に生まれ、結婚してからもしばらくその屋敷に住んでいました。「荒城の月」・「花」などの歌曲で知られる作曲家の滝廉太郎や、「からたちの花」・「赤とんぼ」などを作曲し、西洋音楽の普及と発展に努めた山田耕筰もまた一番町の住人です。昭和三十二年(1957年)に制定された「千代田区歌」は、佐藤春夫が作詞、山田耕作が作曲したもので、英国大使館前に区歌の碑が残されています。昭和十三年(1938年)、かつての五番町と上二番町、元園町一丁目の一部が一緒になって、現在の一番町となりました。新たな文化を積極的に取り入れ、近代思想の礎を築いた町、それが一番町なのです。

Ichibancho

This neighborhood was once inhabited by special samurai given the task of defending Edo Castle (obangumi), and ?????????? this was known as bancho (literally, guard's town). In the Meiji Period, it bacame a town of aristocrats and bureaucrat and is also the site of the British Embassy.


木の葉っぱに隠れて単語が読み取れません。「Therefore」など、いろいろ類推してみたのですが、ギブアップ!



2番目の坂は袖摺坂です。英国大使館の裏手にあたります。やや上り坂になっています。

袖摺坂(そですりざか)

現在では幅の広い道となっていますが、かっては行き交う人の袖と袖が摺れる程狭かったことから名付けられました。明治時代、付近には作曲家の滝廉太郎や小説家・詩人の国木田独歩などが住んでいました。




大妻通りから分岐する坂には、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に通じる五味坂もあります。

この坂の名称は五味坂といいます。「ごみ」という名前から「芥坂」や「埃坂」の字をあてたり、その意味から「はきだめ坂」と呼んだり、さらに近くにあったという寺院の名から「光感寺坂」「光威寺坂」と呼ばれ、さらに「光感寺坂」がなまって「甲賀坂」とも呼ばれています。「麹町区史」には「由来は詳らかでないが、光感寺が元とすれば甲賀は光感の転化らしく、ごみは埃ではなく五二が転化したものではないか」という内容の説明があります。つまり、坂の辺りは「五番町」で坂を登ると「上二番町」なので二つの町を結ぶ坂として五二坂と名前がつき、「五味坂」に変わったのではないかということです。ちなみに昭和十三年(1938年)に実施された区画整理の結果、「五番町」と「上二番町」は現在では「一番町」に含まれています。

大妻女子大学は、創立者大妻コタカが1908年に設置した裁縫・手芸の塾を母体としています。1922年に日本で初めて女子勤労学生のための中等夜間学校を開設しました。その後、1949年に女子大学として設置されました。「恥を知れ」の校訓で知られています。女子大ですが、大学院は男女共学になっています。



大妻女子大学の敷地は、かっての旗本佐野家の屋敷跡だったようです。

佐野善左衛門宅跡

現在の大妻学院の辺りには旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は代々番士として、江戸城の警備を勤めていました。天明四年(1784年)4月24日、当主であった佐野善左衛門政言は、江戸城内で若年寄の田沼意知(老中田沼意次の子)を斬りつけ、その後切腹を命じられ自害しました。当時、飢僅や大火が続き、物価が高騰していましたが、この刃傷事件が米価の下落の時期と重なり、さらに老中田沼意次が失脚したことから、善左衛門政言は「世直し大明神」と江戸の人々から崇められました。この事件を脚色した歌舞伎の「有職鎌倉山」や黄表紙「黒白水鏡」(石部琴好作・山東京伝画)はこの事件を風刺したものと言われています。善左衛門政言の墓所は台東区の徳本寺にあります。

Remains of Sano Zenzaemon's Residence

The residence of the Sano clan, retainers to the Shogun, was near current-day Otsuma Gakuin Educational Institution. The Sano clan was a samurai clan with the hereditary duty of guarding Edo Castle, the Shogunate's stronghold. On April 24, 1784, the head of the clan, Sano Zenzaemon Masakoto attacked Tanuma Okitomo (an aide to the Council of Elders and son of Tanuma Okitsugu, a member of the Council of Elders) with his sword within Edo Castle, and was later ordered to take his own life by seppuku (disembowelment). A succession of crop failures and large fires at the time had caused a sudden jump in the prices of goods, but this bloodshed coincided with a fall in the price of rice, and the loss by Council of Elders member Tanuma Okitsugu of his position, so Zenzaemon Masakoto came to be revered by the people of Edo as "a Great Shining Deity of Social Reform." Dramatizing this incident are the kabuki play Yushoku Kamakurayama and the illustrated story book Kokubyaku Mizukagami, (written by Ishibe Kinko, illustrated by Santo Kyoden) which are also said to satirize it. The grave of Zenzaemon Masakoto is in the grounds of Tokuhonji Temple in Taito City.




3番目の坂は御厩谷坂といいます。ふりがながないと読めませんね。

御厩谷坂(おんまやだにざか)

坂下の谷筋(現在の大妻学院から九段小学校に向かう道筋)に江戸時代、徳川将軍家の厩舎があったことから名付けられました。その後、旗本屋敷などの武家地となり、明治以降は華族や実業家などの邸宅が多く建設されました。




大妻通りが靖国通りとぶつかるところに靖国神社があります。靖国神社は、明治天皇の意向によって建てられた招魂社に起源を発し、国家のために殉難した人の霊(英霊)246万余柱を祀っています。境内は都内でも有数の桜の名所であり、毎年3月下旬から4月上旬にかけて多くの花見客で混雑し、屋台も多数出店されます。気象庁は境内にある3本のソメイヨシノを東京の桜の開花日を決定する標本木として指定しています。そのため、この標本木に五〜六輪の桜の花が咲いた時に東京の「桜の開花」が発表されています。



1966年の新住居表示の施行により、九段各丁目は靖国通りを境にして南北に分けられました。そのため、現在では「九段二丁目」の町名は存在せず、「九段南二丁目」または「九段北二丁目」が正式な町名になっています。「九段南二丁目」は、もともと明治五年に「富士見町一丁目」として誕生し、「九段北二丁目」は同じく明治五年に「富士見町二丁目」として誕生しました。その後、昭和八年に「富士見町一丁目」と「富士見町二丁目」が合併し「九段二丁目」となり、さらに昭和四十一年に靖国通りを境に南側が「九段南二丁目」、北側が「九段北二丁目」と命名され現在に至っています。

町名由来板 九段二丁目

現在の九段上界隈は、江戸時代の早い時期から武士の屋敷として整備された町です。この界隈が九段と呼ばれるようになったのは、江戸時代も中ごろのことでした。幕府は四谷御門の台地から神田方面に下る坂にそって石垣の段を築き、その上に江戸城で勤務する役人のための御用屋敷を造りました。当時の石垣が九層にも達したことから、九段という通称が生まれ、のちに町名にもなったのです。関東大震災以前はいまよりさらに勾配がきつく、坂の下に荷車を後押しして生計を立てる「押屋」が常に集まり、客を待っていたほどでした。また、坂上にある靖国神社は、新宿方面から神田方面に抜ける主要地方道302号線の中心にあたり、靖国通りという呼称もここから生まれています。九段坂は四谷御門の台地の東端に位置し、坂を上りきった場所からは神田や日本橋・浅草・本所はむろんのこと、遠くは安房国や上総国(共に現在の千葉県)の山々まで見渡せました。さらに、西に目を向ければ、道の正面に富士山の全容を拝み見ることができました。坂を上りきった界隈が明治から昭和のはじめまで富士見町と呼ばれていたのもそのためです。

Kudan 2-chome

From the early Edo Period, this was a well-organized residential area for samurai. It began to be called Kudan, or "nine layers," during the middle of the Edo Period. The Shogunate built a stone wall running down the hill from the Yotsuya Gate of Edo Castle to the Kanda area, and at the time there were nine layers in the wall. On the top of the hill were residences of samurai officials working at the Castle. The top of the hill once had a panoramic view including Mt. Fuji.




千鳥ヶ淵緑道は、江戸城北の丸の西側部分の内堀に沿った遊歩道です。桜の季節には大勢の花見客で賑わいます。今日は未だ正月明けなので、桜の木は枯れ木同然の姿をしています。

千鳥ヶ淵周辺のご案内

千鳥ヶ淵緑道と桜並木

千鳥ヶ淵は、東京屈指の桜の名所とされ、皇居を囲む内濠の中で、もっとも親しまれているお濠です。千鳥ヶ淵緑道の桜並木は、昭和三十年代にソメイヨシノを植栽したことから現在に至ります。開花時期(見ごろ)は、3月下旬から4月上旬ごろになり、毎年多くの花見客が訪れます。

Information on the Chidori-ga-fuchi Moat

Chidorigafuchi Ryokudo (Greenway) and Cherry Blossoms

The Chidori-ga-fuchi Moat is a superb place in Tokyo to see cherry blossoms. It is the most well-known moat among the moats that encircle the Imperial Palace. The cherry blossoms along the Chidorigafuchi Ryokudo are of the Somei-Yoshino variety and were planted in the late 1950s. They begin to bloom be-

千鳥ヶ淵

千鳥ヶ淵は、旧江戸城の築城にあわせて、内濠の一部として造られました。現在の千鳥ヶ淵と半蔵濠はもともと一つで、明治三十四年(1901年)に代官町通りの道路工事に伴い分断され、今の形となりました。千鳥ヶ淵の名の由来は、V字型の濠が千鳥に似ているからといわれています。千鳥ヶ淵は、旧江戸城の一部として、昭和三十八年(1963年)に文化財保護法による特別史跡「江戸城跡」に指定されています。

The Chidori-ga-fuchi Moat

The Chidori-ga-fuchi Moat was constructed as part of the moat system of Edo Castle during its construction. What are now called Chidori-ga-fuchi Moat and the Hanzo-bori Moat were formerly conjoined; but, in 1901, they were separated to construct Daikancho-dori Street. The origins of the name Chidorigafuchi come from the resemblance of the V-shape of the moat to the chidori (plover bird). The Chidori-ga-fuchi Moat was designated a special historical site, as part of the Edo Castle ruins, under the Cultural Properties.




北の丸公園につながる田安門の手前に馬に乗った軍人の銅像が建っています。旅順要塞を陥落させた乃木将軍と日本海海戦でバルチック艦隊を撃破した東郷平八郎連合艦隊司令長官は知っていますが、大山巌という軍人は知りませんでした。日露戦争における最後の大規模な戦闘となった奉天会戦の指揮官だったんですね。「陸の乃木・大山、海の東郷」がいいかも。

大山巌(1842年〜1916年)

大山巌は天保十三年(1842年)の生まれで薩摩藩出身。従兄弟である西郷従道(西郷隆盛の弟)は、盟友関係にあった。薩英戦争での近代的な軍備に影響され、江川太郎左衛門のもとで砲術を習得した。日清戦争では第2軍司令官、日露戦争では満州軍総司令官を務めた。東郷平八郎と対を成して「陸の大山、海の東郷」 と称された。その後参謀総長、内務大臣を勤め元老となった。

Iwao Oyama (1842-1916)

In 1842, Iwao Oyama was born in Kagoshima to a samurai family of the Satsuma Domain. His cousin, Tsugumichi Saigo, brother of Takamori Saigo, was his sworn friend. He was influenced by the modern armament in the War of Great Britain, and acquired artillery under Tarozaemon Egawa. During the Sino-Japanese War, he was appointed the commander-in-chief of the Japanese Second Army, and during the Russo-Japanese War, he was a field-marshal and served as the commander-in-chief of the Japanese armies in Manchuria. Often paired with Admiral Heihachiro Togo to be referred to as "Oyama of the Land, Togo of the Sea." In later life he served as the Chief of the Army General Staff, Home Minister, and was given the title of Genro (elder statesman).

大山巌像

大山巌像は、大正八年(1919年)に現在の国会前庭に設置された。銅像は軍服を着た騎乗姿で、原型作者は新海竹太郎。近代の軍人像の中では、数少ない乗馬像象の一つ。昭和二十三年(1948年)、GHQにより一時撤去され、東京都美術館に預けられた後、昭和四十四年(1969年)に現在地に移転した。

The statue of Iwao Oyama

On November 3 ,1919, the statue of Iwao Oyama was installed in the park in front of the National Diet Building. The bronze statue of a horse-riding figure in military uniform was created by a sculptor, Taketaro Shinkai. This is one of a few horseback riding statues among the modern military statues. In 1948, it was temporarily removed by GHQ, deposited at the Tokyo Metropolitan Art Museum, and then moved to its current location in 1969.

大山巌顕彰碑(解釈文)

元帥陸軍大将、従一位大勲位功一級公爵の大山厳は、天保十三年(1842年)10月10日に鹿児島県において生まれる。日清・日露の両大戦後に従い大正五年(1916年)12月10日日、東京において薨(みま)かる。

An Explanation of Monument in Honor

Field marshal with the highest rank of the Empire of Japan, Iwao Oyama was born on November 12, 1842, in Kagoshima. After serving in both the Sino-Japanese and the Russo-Japanese wars, he returned to Tokyo where he died on December 10, 1916.




大山元帥の隣には品川弥次郎の銅像も建っています。こちらは政治家であり、経済人だったようです。初めて名前を知りましたが。

品川弥次郎(1843年〜1900年)

品川弥二郎は天保十四年(1843年)、長州藩に生まれた。15歳の時、吉田松陰の松下村塾に入門。練兵館で剣術を学んだ後、長州藩士として、高杉晋作らと尊皇攘夷運動、戊辰戦争で活躍した。明治政府設立後、明治三年(1870年)、ロンドン・ドイツ等の欧州に留まり、次第に政治や経済に注目するようになった。帰国後、内務省・農商務省・宮内省に勤め、明治二十四年(1891年)に内務大臣となるなど、政治家として要職を歴任した。また、学校や信用組合や産業組合などの成立に関わった。

Yajiro Shinagawa (1843-1900)

In 1843, Yajiro Shinagawa was born in Hagi, former Choshu Domein. Yajiro attended Shoin Yoshida's Shoka Sonjuku Academy, and he improved his skills of his swordsmanship at the Renpeikan Training Hall. Subsequently as a samurai of the Choshu Domain, he joined the Sonno-joi movement and Boshin war with Renpeikan classmates such as Shinsaku Takasugi. After the Meiji Restoration, he was dispatched to Europe in 1870, gradually becoming interested in politics and economics. After returning to Japan, he worked for three ministries such as Ministry of Home Affairs, Agriculture and Commerce, and the Imperial Household. In 1891, he was appointed the Home Minister in the cabinet of Prime Minister. He was involved in the formation of schools, credit unions and industrial cooperatives.

品川弥次郎像

品川弥二郎像は、明治四十年(1907年)に設置された。品川弥次郎は、現在の九段北に存在した練兵館で剣術を学んでおり、練兵館に近い九段坂公園に像が設置された。監督は高村光雲※、原型作者は本山白雲、鋳造者は平塚駒次郎。

※高村光雲:影刻家。文久三年(1863年)仏師である高村東雲のもとで木彫を学んだ。木彫に写実主義を取り入れ、山崎朝雲・平櫛田中など後進の育成にも尽力した。代表作は「老猿」・「楠木正成像」・「西郷隆盛像」など。

The statue of Yajiro Shinagawa

The statue of Yajiro Shinagawa was erected in 1907. He learned his swordsmanship at Renpeikan (which was the current Kudan-kita), and it was built near Rempeikan in Kudanzaka Park. The director was Koun Takamura*, the original sculptor was Hakuun Motoyama, the caster was Komajiro Hiratsuka.

*Takamura: a Japanese sculptor who had learned wood carving under the Buddhist sculptor Toun Takamura since 1863. He is also known for having incorporated Realism into wood sculpting, as well as nurturing Choun Yamazaki, Denchu Hirakushi and other upcoming artists. His works such as the statues of Roen, Masashige Kusunoki and Takamori Saigo, are well known.




銅像だけでなく、陸の灯台ともいうべき燈籠も保存されています。燈籠の灯りは東京湾上の船からだけでなく、遠くは房総沖からも見えたそうですので、相当の輝度だったのでしょう。もっとも、明治の初め頃は東京の街は灯りが乏しく、そのために東京湾からも燈籠の光が見えたのかもしれません。

高燈龍(常燈明台)

高燈籠(常燈明台)は、明治四年(1871年)靖国神社(当時は招魂社)の燈籠として設置された。方位盤や風見が付けられ、いわゆる疑洋風建築の印象を醸した燈籠で、高さは16.8m。小林清親が描いた錦絵に、設置当初の高燈籠が登場している。九段坂の上に設置されたため、品川沖を出入りする船の目印として、東京湾からも望むことができ、灯台の役目も果たした。かつて九段坂は急坂であり、いくつかの段が築かれていたが、関東大震災後の帝都復興計画により勾配を緩やかにする改修工事が行われた。高燈籠は、当初は靖国通りをはさんで反対側に建てられていたが、この改修に伴い、大正十四年(1925年)に現在地に移転した。

Lantern Tower (Joto-Myodai)

The Lantern Tower was built in 1871 as an all-night light in front of the Yasukuni Shrine, which was known as the Shokonsha in those days. The height of the Lantern Tower is 16.8m with azimuth scale and the weather vane attached, which creates the impression of so-called pseudo-Western-style architecture. The Lantern Tower which had just installed is in the Nishiki-e painting painted by Kiyochika Kobayashi. Because it was built atop Kudanzaka, the lamp in the Lantern Tower could be seen at night from Tokyo Bay, serving as a lighthouse and landmark for ships sailing off the coast of Shinagawa. In the past, Kudanzaka slopes used to be steep, having several steps between the slopes. According to the Imperial Capital Recovery Plan after the Great Kanto Earthquake, Kudanzaka was repaired to make the gradient gentle. Originally the tower was built on the other side of Yasukuni Dori Ave. ,but was relocated to the present location in 1925 as part of road improvement work.




田安門は北の丸の北辺に位置する江戸城の城門です。江戸時代の九段坂は高低差が激しく、坂上に位置していた田安門付近の内堀は谷筋を活かして掘られた巨大な人工構造物で、伊達政宗ら東北の大名が中心になって普請したものだそうです。それでも千鳥ヶ淵と田安門東側の牛ケ淵との高低差は10m近くもあり、水位調整は必須だったのでしょう。

田安門

この門は九段坂上にあり、門の前の土橋が千鳥ヶ淵と低地の牛ヶ淵の水位調整をしていました。江戸時代には江戸城北の丸から牛込門を経て上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点でした。門の名は、この台地が田安台と呼ばれ、田安神社(現在の築土神社)があったことに由来します。門は元和六年(1620年)に建築され、寛永十三年(1636年)に修繕されたものが現在に伝わっていると考えられ、高麗門は江戸城のなかでは最も古い建築物です。現存する石垣は戦災により崩れ、昭和四十年(1965年)の北の丸整備に合わせて修復されたものですが、地上から2〜3段分は江戸時代の原型を保っています。

Tayasu-mon Gate

This gate is situated at the top of Hill of Kudan, and the earthen bridge in front of the gate regulated the water levels of Chidorigafuchi moat and Ushigafuchi moat, located on lower ground. During the Edo Period (1603-1868), the gate was the start of the road towards Joshu (now Gunma Prefecture) from the Kitanomaru (North Keep) past the Ushigome-mon Gate. The name of the Tayasu-mon Gate is derived from the fact that this plateau was called "Tayasudai," and that the Tayasu Shrine (now the Ushigome Tsukudo Shrine) stood here. The gate was constructed in 1620; it was repaired in 1636, and it is thought that this version still stands here today. It is the oldest structure within Edo Castle. The existing stone walls were destroyed in wartime, and were repaired at the same time as maintenance was carried out on the Kitanomaru in 1965. The original Edo Period structures of the second and third levels above ground have been preserved.




九段下交差点の近くでビルの建て替え工事が進んでいます。城郭風の外観で知られた九段会館です。九段会館は、昭和九年(1934年)に当時の在郷軍人会が主導して完成しました。そのため、軍人会館とも呼ばれました。戦後は日本遺族会が運営を引き継ぎ、ホール(講堂)・レストラン・宿泊施設などを備え、結婚式やイベントなどに使用されていましたが、2011年3月11日の東日本大震災による天井崩落事故の影響で平成二十三年(2011年)4月に廃業となり、国に返還された後も長らく放置されていました。2017年に行われた一般競争入札により東急不動産が落札し、東急不動産は城郭風の建築様式を残しつつ、地上17階建て(高さ約75m)の複合ビルに建て替え、2022年に再開業する予定となっています。かって、貸しホールはコンサート会場としても使われ、1978年にサザンオールスターズがデビューライブを行ったことでも知られています。



昭和館は、日本遺族会が運営を受託している国立博物館です。日本国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていくことを目的として、平成十一年(1999年)3月27日に設立されました。実物資料の常設展示のほか、特別企画展や図書・映像・音響資料の閲覧事業を実施しています。建物の外周の壁面にはチタン製のパネルが使われ、竣工から20年以上経た現在でも美観を保っています。

昭和館について

昭和館は、戦没者遺族に対する援護施策の一環として、戦没者遺族をはじめとする国民が経験した戦中・戦後の国民生活上の労苦に係る歴史的資料・情報を収集・保存・展示し、後世代の人々にその労苦を知る機会を提供することを目的として設立され、平成十一年3月にオープンしました。具体的には、当時の国民生活の姿を伝える実物資料の展示事業、図書・文献及び映像・音響資料の閲覧事業並びに類似施設の概要等に関する関連情報提供事業等の諸事業を行っている国立の施設です。




昭和館の隣りに案内板が立っています。案内板には、蕃書調所の設立に尽力した勝海舟の写真(肖像画?)が添えられています。勝海舟ってこんなカッコイイおじさんでしたっけ?

蕃書調所跡

蕃書調所は安政三年(1856年)、江戸幕府によって西洋の書籍を解読し海外事情を調査するための組織として設立されました。幕臣・諸藩の家臣らに対し英語や西洋の文物を教育する機能も加わり、幕府官立学校としての位置づけが与えられました。内部に置かれた画学局では、高橋由ーをはじめとして明治期に活躍した西洋画家たちも学んでいます。後に神田一ツ橋通りに移転し、洋書調所・開成所と改称しています。幕府の崩壊に伴い閉鎖されますが、明治政府による開成学校として生まれ変わりました。 和泉橋(現在の神田和泉町)にあった医学校と統合され、東京大学の前身となりました。

Remains of Bansho Shirabesho

The Bansho Shirabesho ("Institute for the Study of Barbarian Books") was established by the Edo Shogunate in 1856 as an organization to study the state of affairs overseas by deciphering Western literature. Another of its functions was to educate the vassals in the Tokugawa Shogunate and feudal retainers to various clans in English and Western literature, and it was given the status of a Shogunate governmental school. Western-style painters active in the Meiji Period, such as Takahashi Yuichi, studied at the institute's art department. The institute was later relocated to Kanda Hitotsubashi-dori, its name changing to Yosho Shirabesho ("Western Literature Institute") and then to Kaiseijo (Innovation Institute). It was closed following the collapse of the Shogunate, but it was later re-opened as Kaisei Gakko (“Kaisei School") under the Meiji Government. It amalgamated with the medical school at Izumibashi (current-day Kanda Izumicho) to become the predecessor organization to Tokyo University.




日本橋川を渡った先に専修大学のキャンパスがあります。以前は靖国通りに面したところは細長い空き地になっていたのですが、現在は新しい現代風のビルが建っています。よくこんな狭い土地にビルが建てられたものです。



神田神保町は、約190店もの本屋が集まる世界最大級の古本屋街です。神保町ブックフェスティバルや神田古本まつりなど、本に関するイベントもよく行われていて、地元だけでなく全国から本好きが集まってきます。一日では見切れないほどの沢山の本がありますので、目当ての本がなくても、ふらっと立ち寄って希少な本を見つけるのも楽しいですよ。



旧飯田町はかなり広かったようで、現在の九段北一丁目・飯田橋一丁目〜四丁目・富士見一丁目・富士見二丁目がその町域になっていました。文人・学生が多く住んでいたことで古本屋街が発展したのでしょう。

旧飯田町と神田本屋街

江戸時代、このあたり一帯は武家地であり、町屋は九段坂北側の旧飯田町だけであった。この旧飯田町は、かって文人などが多く住み、滝沢馬琴ゆかりの地でもあり、明治時代には、尾崎紅葉を主宰者とする硯友社があった。神保町周辺は、明治以後、周辺の大学の拡張に伴って学生の街として発展した。震災復興後の昭和初期には、銅板や装飾を施した町並みが続き、古書店が数多く軒を並べる町となった。この本屋街の規模は世界に類を見ないもので、周辺の出版関連会社とともに、日本の文化や科学を支える役割を担っている。

Kanda Bookstore Quarter

Since the Meiji period, Kanda Jimbocho has developed into a student town as the universities expanded around it. In the early Showa period, numerous bookstores were in business. It eventually made this quarter famous throughout the country.




神保町は今やカレーの聖地としても知られています。400店以上のカレー屋さんが軒を並べ、多様なカレーを提供している街は世界でも類を見ないといわれています。神保町は何故カレーの街になったのでしょうか?きっかけのひとつと考えられるのが、1978年に神保町にオープンしたボンディです。当時珍しい高級路線の欧風カレー店でありながら、開店から半年ほどで行列のできる大人気店になりました。ボンディ以降の十数年間で、まんてん・ガヴィアル・ペルソナ・マンダラ・エチオピア・トプカ・カーマなどの今も続くカレー専門の名店が次々と登場しました。それに輪を掛けたのが雑誌などのメディアです。2000年以降に神保町をカレーの街として次々と取り上げ、神保町をカレーの聖地に祭り上げたのです。トドメは2011年から始まった神田カレーグランプリで、これが毎年4万〜5万人を集客する大イベントとなったことでカレーの聖地のイメージは確固たるものになりました。



案内板が法被を着ています。なかなか洒落た試みです。

神田神保町一丁目

江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。そこに表神保町、裏神保町などの町が誕生したのは、明治五年(1872年)のことです。裏神保町は、大正十一年(1922年)に通神保町と改称したのち、表神保町、表猿楽町などとともに、昭和九年(1934年)、神保町一丁目となりました。さらに昭和二十三年(1948年)、神田区と麹町区が合併して千代田区ができると、現在の神田神保町一丁目になりました。町名の由来は、元禄年間(1688年〜1704年)のころ、旗本の神保長治が広大な屋敷をかまえ、そこを通っていた小路が「神保小路」と呼ばれるようになったためといわれています。

Kanda-Jimbocho 1-chome

In the Edo Period, many samurai residences lined this area. The name Jimbocho comes from a high-ranking samurai, Nagaharu Jimbo, who lived in the area. He first gave his name to an alley running in front of his residence, and this later became the name of the town.




神保町の古本屋街が途切れるところから各種のスポーツ店が軒を並べています。冬はスキー用具、夏はサーフィン用具、あとはアウトドア関連の品でしょうかね。勿論、ジョギングシューズなんかも揃っています。本とカレーとスポーツ、若者の街ならではですね。

小川町三丁目(南部)

江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693年)に小川町と改称されました。五代将軍網吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。安政三年(1856年)には、この絵図にも見られるとおり、下野足利藩戸田家、越後高田藩榊原家、信濃高遠藩内藤家の上屋敷がありました。小川町の由来ともなった「小川の清水」は、内藤家の屋敷内にあったといわれています。明治五年(1872年)、この一帯は周囲の武家地を整理して表神保町となり、明治十一年(1878年)、神田区に所属します。町内には、勧工場(百貨店の前身)で時計塔としても知られた南明館、大弓場や寄席などがあり、東京を代表する繁華街でした。昭和八年(1933年)の区画整理により、ここは小川町三丁目となります。昭和二十二年(1947年)に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町三丁目になりました。この界隈は明治のころより学生街として賑わっていましたが、昭和三十年代からは大型のスポーツ用品店が出店しはじめ、現在では東京のみならず日本屈指のスポーツ店街として多くの人々を集めています。

Ogawamachi 3-chome (Southern district)

In the Edo Period, the name Ogawamachi was used to indicate a huge area comprising the western side of Kanda. The name came from a body of water in the area, which was featured in a poem written by a famous warlord. In the Meiji Period, this became a well-known entertainment district, with one shopping center, called Nanmeikan.




道路脇の花壇に、アンパンマンとキティちゃんが並んで立っています。いろんな彼氏と付き合うなんて、キティちゃんも隅に置けませんな。



須田町交差点の手前に旧神田市場の案内板が立っています。私は神田青果市場は秋葉原駅の北方にあったのが最初だと思っていたのですが、江戸時代から明治・大正年間までは神田川沿岸のこの地に青果市場があったんですね。千住の青物市場も隅田川沿岸にあったし、東京の河川は物流の要だったんですね。

神田市場(神田須田町一丁目)

中世の神田川右岸は、水田が多い農村地帯だったようです。幕府が編集した江戸の地誌である「御府内備考」には、町が整備される前、この周辺が須田村と呼ばれていたという記述があります。江戸初期の慶長年間(1596年〜1615年)にも、この界隈を中心に「神田青物市場」の起源とされる野菜市が開かれたこともわかっています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、一万五千坪(約4万9500u)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。つまり、現在のわたしたちが考える市場と違い、当時は市場の中に町があるといったイメージでした。巨大な市場でしたので、中にある町も須田町だけでなく、多町・佐柄木町・通新石町・連雀町なども市場の一部をかたちづくっていたのです。そして、これら五町の表通りには、野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、連日のように威勢のいい商いが行われていたということです。青物市場の別名である「やっちゃ場」は、そんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉なのです。江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和三年(1928年)には秋葉原西北に、平成二年(1990年)には大田区へと移転しました。それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています。須田町は、江戸からつづく活気あふれる商いの伝統が、いまだに息づく町なのです。現在の須田町中部町会は、この青果市場の中心であった連雀町と佐柄木町のそれぞれ一部が、関東大震災後の土地区画整理事業によって合併し、誕生しました。

Kanda-ichiba (Kanda-Sudacho 1-chome)

In the Middle Ages, this area along the right bank of the Kanda River was an agricultural village with many paddy fields, and was called Suta Village. It was the original site of a large and bustling Kanda Vegetable Market, which sustained the people of Edo and Tokyo. Though the market moved out in 1928, there are still many long-established shops, still in business, that have been designated as historical buildings.




案内板の隣りに、わりと新しい石の台座の上に「神田青果市場発祥の地」と彫られた古い石柱が立っています。碑文の文字は浮き出しているように彫られていて、結構読み取りやすいくなっています。

旧 神田青果市場の由来

この市場は慶長年間に今の須田町附近、当時は八辻ヶ原と称していたこの地一帯において発祥したものである。年を追って益々盛大となり徳川幕府の御用市場として駒込、千住と並び江戸三代市場の随一であった。ためにこの市場には他市場で見られない優秀なものが豊富に入荷した。そして上総房州方面の荷は舟で龍閑町河岸へ、葛西、砂村方面のものは今の柳原稲荷河岸から水揚げされた。当時の記録によるとこの市場の若い衆達が白装束に身を固めてかけ声も勇ましく御用の制札を上に青物満載の大八車を引いて徳川幕府賄所青物御所を指してかけて行く姿は実に「いなせ」なものがあったと云う。巷間江戸の華といわれた、いわゆる神田っ子なる勇肌と有名な神田祭はこの神田市場にそのことばの源を発しているものといわれた。こうして繁栄をきわめたこの市場は江戸時代から明治、大正、昭和へと漸次その地域を拡大してこの地を中心に多町二丁目、通り新石町、連雀町、佐柄木町、雉子町、須田町にわたる一帯のものとなりその坪数は数千坪に及んだ。この間大正12年9月関東大震災にあって市場は全滅したが直ちに復興し東洋一の大市場とうたわれた。惜しい哉この由緒ある大市場も時代の変遷と共にこの地に止まるととができず、昭和3年12月1日を期して現市場である神田山元町東京都中央卸売市場神田分場へと移転した。当時数百軒に及んだ問屋組合頭取は西村吉兵衛氏であった。風雪幾百年永い発展への歴史を秘めて江戸以来の名物旧神田青果市場は地上から永遠にその姿を消した。父祖の代からこの愛する市場で生きて来たわれわれは神田市場がいつまでもなつかしい。あたかも生れ故郷のように、尽きない名残りをこの記念碑に打ち込んで旧市場の跡を偲ぶものとしたい。




須田町交差点に着きました。最盛期には何系統もの都電の発着所があり、都電10系統がどこに発着していたのか、今となっては知るよしもありません。靖国通りの中央分離帯が丁度電停のように見えたので、ここを都電10系統の終点とします。



ということで、都電10系統跡を歩き終えました。番町のアップダウンの坂を走り抜けたであろう都電10系統の勇姿が目に浮かびます。須田町電停跡にはこの後もイヤというくらい訪れることになります。




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