都電9系統跡コース(通常運転)(1)  

コース 踏破記  

今日は都電9系統跡を歩きます。都電9系統は渋谷駅から浜町中ノ橋までを結び、その路線は主に国道246号(青山通り)・国道1号(内堀通り)・晴海通り・新大橋通りを通っていました。三宅坂交差点から議事堂を経て国会前交差点までは一般道を通っていました。森下町まで延長運転がされることもありましたので、この延長区間も含めて歩くことにします。  

都電9系統(昭和38年09月30日まで運転)

今日歩くのは、昭和38年09月30日まで運転されていた都電9系統の路線跡コースです。都電9系統は昭和38年10月1日に運転区間が変更され、更に昭和42年12月10日に運転区間が再度変更され、最終的に昭和43年9月28日限りで廃止となりました。変更後と再変更後の都電9系統跡については、それぞれ独立した路線として歩きます。

都電9系統の電停(路上の駅)は、渋谷駅・青山車庫・青山六丁目・明治神宮・青山五丁目・青山四丁目・青山三丁目・青山一丁目・赤坂表町・豊川稲荷・赤坂見附・平河町二丁目・三宅坂・議事堂・桜田門・日比谷・数寄屋橋・銀座四丁目・三原橋・築地・築地二丁目・新富町・桜橋・西八丁堀・茅場町・蛎殻町・水天宮・浜町中ノ橋(・浜町二丁目・新大橋・森下町)でした。


渋谷駅にやってきました。渋谷駅周辺は100年に一度という大規模再開発ですっかり街の風景が変わりました。かっての東急文化会館跡には渋谷ヒカリエが建ち、銀座線の渋谷駅も東急東横店西館内から明治通り上空に移動しました。半円形のフォルムが印象的だった東横線のホームは記憶の彼方に去り、今は渋谷スクランブルスクエアを取り巻く東口歩道橋に姿を変えています。ネットの情報によれば、都電9系統の渋谷電停は何度かの移動を繰り返した後で、現在の渋谷ヒカリエ前辺りに落ち着いたみたいです。私はそこから往復共に宮益坂を経由していたんだろうと思っていましたが、実は都電9系統は渋谷駅前でループ状の線路になっていたのだということが後で分りました。渋谷に向う電車は青山通りから玉川通りに抜ける金王坂を下り、右折して渋谷電停に向かいました。そして、浜町中ノ橋行きの電車は渋谷電停を出発したら地下鉄銀座線の高架の下を通り、宮益坂下交差点で右折して宮益坂を登って行ったのです。そんな訳で、渋谷電停跡だと思っていた東口の都営バス乗り場から宮益坂に向って出発です。ところで、最近ちょと気になっているのですが、iPhoneで撮った写真の色が青みがかって見えます。カメラのホワイトバランスがずれているためらしいのですが、修正するのも面倒なのでそのまま使っていますが、そろそろ買い換え時かな?



この時点で都電9系統の線路が渋谷でループ状になっているとは知らなかったので、宮益坂を上がり、既に別の系統跡コースで青山通りの西側歩道を歩いていたので、今日は東側歩道を歩こうと思い、宮益坂上の歩道橋を渡って青山通りの東側に出ます。そこに金王坂の案内柱が立っています。「金王」という地名は、この近くにある金王八幡宮に由来しています。

金王坂

明治・大正・昭和と、波瀾万丈の過程を歴て市区改正・町名変更に伴い、先輩諸氏の築かれた幾多の功績をたたえ、由緒ある金王の地名を保存し、ここに金王坂と命名する。




青山通りに面して、青山学院大学の正門があります。青山学院大学は、米国メソジスト監督教会から派遣された宣教師たちが設立した3つの学校を母体とするキリスト教主義学校(ミッションスクール)です。そのため、正門の横の一段高い台の上には、メソジスト運動の創始者であるジョン・ウェスレーの銅像が立っています。「メソジスト運動」とは、日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を重んじることから「几帳面屋」(メソジスト)とあだ名されたイギリス国教会の流れを汲むキリスト教の活動です。

ジョン・ウェスレー像

青山学院は、米国のメソジスト監督教会の宣教師たちにより、1874年に創立された。メソジスト運動はジョン・ウェスレー(1703年〜1791年)が英国で始めたもので、彼は世界を自らの教区として、神の愛はイエス・キリストにあって全人類に注がれている、と説いた。

JOHN WESLEY STATUE

AOYAMA GAKUIN was founded in 1874 by missionaries from the Methodist Episcopal Church in the United States. The Methodist movement was started in England by JOHN WESLEY (1703-1791), who took the world for his parish and preached that God's love is available to all people in Jesus Christ.




青山学院大学の東端に接してアイビー通りがあります。「アイビー(Ivy)」とはツタとかツル性植物の通称です。1954年にアメリカの国際衣服デザイナー協会がアイビーリーグモデルという紳士服のスタイルを発表しました。アメリカ東海岸にある名門私立大学の校舎に蔦が絡まっていたので、これらの大学は総称して「アイビー・リーグ」と呼ばれていましたが、その学生やOBの間で広まっていた、髪を七三分けにし、ボタンダウンシャツ・三つボタンのブレザー・コットンパンツ・ローファーを着用するファッションがアイビーリーグモデルの原点になっています。日本でも1960年代にアイビーを冠したファッションが流行しましたが、このアイビー通りは、アイビーホール青学会館(2021年3月31日に閉館)がこの通りに面していることから名付けられたといわれています。アイビーホール青学会館に蔦が絡まっているのかどうかは知りませんが、この通りは蔦珈琲店など、カフェやレストランなどのハイセンスなショップが立ち並ぶ知る人ぞ知る隠れた小径になっています。



南青山三丁目交差点で外苑西通りを越えた先にガラス張りのビルを併設した梅窓院の入口(参道)があります。参道の両側には竹の木が植えられていて、都心とは思えないほどの空間を醸し出しています。梅窓院は青山の地名の由来にも深く関わっています。徳川家康の関東入府後、家康の鷹狩りの供をしたのが家康の三河時代からの家臣の青山忠成でした。家康は赤坂から西野原村に来たとき、忠成に「目のおよぶかぎりの宅地を与える」と言いました(内藤新宿の話と同じですね)。忠成は馬を走らせて樹木に紙を結びつけ、境界の印としました。その広さは、赤坂から渋谷におよんだといわれています。もとはこの地は「原宿」といいましたが、青山家にちなんで「青山」という地名となりました。梅窓院の寺名は、青山忠成の四男の青山幸成の法名(戒名)からきています。青山幸成が寛永二十年(1643年)に没すると、下屋敷の敷地内で荼毘に付され、側室が施主となり火葬地にお寺が建立されました。これが「長青山 宝樹寺 梅窓院」の始まりで、幸成の法名「梅窓院殿香誉浄董大禅定門」の一部が院名となりました。「泰平観世音菩薩」と呼ばれる梅窓院の観音さまは「江戸三十三観音霊場」の24番目の札所です。現在の梅窓院の境内は、「(新)国立競技場」のデザインを手がけた隈研吾氏によって、平成十六年に再建され、江戸時代の面影はほとんど残っていません。



オ、かっこいい!さすが青山!と思ってよくよく見たら足立ナンバーの車でした。エンブレムに見覚えはありませんが、どこのメーカーの車なんでしょうか?



青山一丁目交差点で外苑東通りを越えますと、左手には緑に包まれた広大な赤坂御用地の敷地が拡がっています。右手の一画にはカナダ大使館があります。カナダ大使館は1929年に設置され、パリ・ワシントンDCに次いで3番目のカナダの在外公館となりました。カナダの名産はメープルシロップ(サトウカエデなどの樹液を濃縮した甘味料)ですね。他に、最近ではカナダ産の小麦を使った高級生食パンがあちこちで販売されています。カナダ産であまり知られていないのはワインです。カナダは寒い国という印象があり、ブドウを育てるのには寒すぎるのではないかと思われがちですが、オンタリオ州ナイアガラの年間気温の推移を見てみますと、冬はマイナス10度以下と飛び抜けて気温が低いものの、ブドウの育成期である6月〜9月には世界の多くの主要ワイン産地よりも気温が高いのです。主な産地は太平洋に面したブリティッシュコロンビア州と東部オンタリオ州南部の五大湖周辺です。私はどちらの産地のワインも飲んだことがありますが、味はやや淡泊な印象でした。スイスのワインもそうですが、寒冷地のワインはちょっと濃厚さがイマイチのような気がします。とは言っても私が飲んだのは安いワインなので、高級なワインはそれなりに飲み応えがあるのでしょう。日本ではカナダワインを専門に売っているお店は少ないと思うのですが、都内でしたら恵比寿南一丁目交差点近くに「Heavenly Vines(ヘブンリー・バインズ)」というワインショップがあります。外から見てもかなりの品揃えです。カナダワインを探しておられる方は立ち寄る価値はあるかも。



カナダ大使館の隣りに高橋是清翁記念公園があります。明治後期の金融界の重鎮であり、大正から昭和初期まで首相・蔵相をつとめた政治家高橋是清の邸宅跡地にある敷地面積約1,600坪の公園です。高橋是清は岡田啓介首班の内閣で六度目の蔵相に就任しましたが、軍事予算の抑制をしようとして軍部の反感を買い、二・二六事件においてこの地で若い青年将校達に暗殺されました。高橋是清は銃で撃たれる前に「待て、話せばわかると」言ったそうです。しかし彼らは、問答無用と即刻射殺しました。五・一五事件でも当時首相だった犬養毅が青年将校に銃口を向けられながらも(撃たれた後に言ったという説もありますが)、彼らに「話せばわかる」と言ったものの、「問答無用!」と拳銃の引き金を引かれたといわれています。

高橋是清翁記念公園の沿革

この公園は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年〜1936年)の邸宅があったところです。翁は、昭和十一年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和十三年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和十六年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和五十年(1975年)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母家は故人の眠る多摩霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和三十年(1955年)に再建されました。現在の面積は5,320uで、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。園内は池を中心として石像や石灯龍が配置され、樹木はかえで・もっこく・うらじろがし・くすのきなどたくさんの種類があり、落ち着いた雰囲気をかもしだしています。




公園は、入口に近いところがすべり台や砂場のある遊具スペースになっており、その奥が池・石橋・石灯籠などが配置された庭園スペースになっています。石像はどうみても中華風で、日本庭園にはそぐわないように思いますが。



公園の一番奥に高橋是清像と石碑が置かれています。碑文は頑張って読み取ったのですが、何カ所か判読不能の箇所があります(?で表示)。

高橋是清翁ハ安政元年江戸芝ニ生ル。幼少轗軻不遇(かんかふぐう:恵まれた才能をもちながら、世間から認められないこと。「轗軻」は、道が凸凹で車がうまく進めないさまから転じて志を得ないことのたとえ。)。十四歳ニシテ北米ニ渡航。刻苦勉學シ、長シテ轉々窮境(てんてんきゅうきょう)ニ在ルモ気宇益高邁識見。常ニ卓抜夙(しゅく:早い時期)ニ特許制度を創設シ殖産興業国家経済ニ盡?シ或ハ戦時財政ノ確保ニ貢献スル所多ク日本銀行総裁大蔵大臣ヲ歴任シテ遂ニ首相の樞(枢の旧字)職ニ就キ日夜一死報國ノ純忠ニ終始セラレタリ。昭和十一年二月??トシテ此邸ニ薨ス。年八十三。本邸ハ明治三十三年以来翁カ日常起居ノ處ニシテ之ニ臨メハ洵(まこと)ニヨク其ノ高風雅懐ヲ偲フニ足レリ。昭和十三年十月嗣子(しし:家を継ぐべき子。あととり。)子爵高橋是賢氏ハ故高橋是清翁記念事業會ト?力邸地二千坪ヲ擧ケテ本市ニ寄附シ永ク翁ヲ追慕スルノ資タラシム。本市ハ其趣ヲ承ケ諸般の保存施設ヲ了セリ。茲(ここ)ニ公開ニ當リ由緒ヲ記シ以テ之ヲ後生ニ傳フ。



公園の隅っこに「赤坂地区旧町名由来板」が立っています。「青山御掃除町」って面白い町名ですね。現在の地番でいえば、港区赤坂七丁目5・6番地辺りになるようです。「御掃除町」の町名の由来は、青山一族の青山大膳亮邸の上地(あげち;民間から幕府・政府に召し上げられた土地)の一部を三河以来徳川家康に従った御掃除の者30人へ大縄地(下級武士に拝領屋敷が与えられる際、個人にではなく同じ組ごとに屋敷地を一括して与えた土地)として与えられ、御掃除の者が住むことになったためと言われています。

赤坂地区旧町名由来板

赤坂表町

古くは、ーツ木村に属していました。寛永十三年(1636年)に家康入国以来、よくその務めを果たしたということで、その土地を南伝馬町の伝馬役三名に褒美として与えられたことが、この町の起こりです。初めは赤坂新伝馬町と称し、ついで表通りが表伝馬町、裏通りが裏伝馬町となり、明治五年(1872年)に赤坂表一丁目〜四丁目、同四十四年(1911年)に赤坂表町一丁目〜四丁目となりました。明治時代には、一丁目・二丁目の東半の表通りは、商店街としてにぎわいました。一方、三丁目・四丁目は、旧武家地であり官公庁や華族などの邸宅地となり、商家は少なく、今日もこの状況を受け継いでいます。なお、地元では、「あかさかおもてまち」と言っていました。

赤坂台町

古くは、麻布今井村に属し、江戸時代になると町域に青山御掃除町や専福寺門前(東北部)、種徳寺ほかの寺地(東部)、小身の武家屋敷などが区別されるようになりました。明治二年(1869年)、青山御掃除町を中心とする区域が合一されて赤坂掃除町となり、同五年(1872年)にその他の区域も加えられて赤坂台町と改称されました。丘続きで地勢が高いため「台町」と命名されたといわれています。

赤坂新坂町

古くは、麻布今井村に属していましたが、天正十八年(1590年)になると町域の北部は、青山忠成が徳川家康より賜った屋敷地の一部となり、南部には、岡部氏の下屋敷がありました。その後も居住者は変わりましたが、町域の大部分は武家屋敷として存続し、わずかに南東隅に町屋がありました。明治五年(1872年)、町域が合一され、隣接する赤坂台町との境にあった新坂に因み、赤坂新坂町と命名されました。

The origins of old town names in Akasaka Area

Akasaka-omote-cho

The town area was originally within the village Hitotsugi-mura in old times. This town started, as it was given as a reward to the three persons in 1636 who had resided in Minami-demma-cho and had been diligently engaged in post-horse services since Tokugawa Ieyasu entered Edo city. The town was named Akasaka-shindemma-cho, then eventually Akasaka-omote-cho in 1911. Busy shopping streets developed in the eastern half part of the town at that time.

Akasaka-dai-machi

The town area was originally within the village Azabu-imai-mura in old times. In the Edo period, the area began to divide the town into Aoyama-osoji-machi, temple territories and samurai residences. In 1869, Aoyama-osoji-machi and its neighborhood developed into a larger town named Akasaka-soji-machi which was then renamed Akasaka-dai-machi after three years (1872), uniting its neighboring areas. The town is situated on a height (dai-chi); therefore it got the name "dai-machi".

Akasaka-shinsaka-machi

The town area was originally within the village Azabu-imai-mura in old times. In 1590, the town area began to see samurai residences in its north and south part; afterwards the whole area had existed as the samurai residential area except for some tradesman's houses at the southeastern corner. In 1872, the whole area developed into a town named Akasaka-shinsaka-machi after a shinsaka slope separating the adjacent town Akasaka-dai-machi.




公園には赤坂区役所跡の案内板も立っています。

最初の赤坂区役所跡

明治初年の地方制度は、いくたびか改正の繰り返しが続きましたが、明治十一年(1878年)七月二十二日、近代地方自治の歴史上画期的な郡区町村編制法などの公布によって、同年十一月二日、東京は一五区六郡に区画され、区会も設けられました。その時、現在の赤坂・青山の地域が赤坂区として誕生し、最初の赤坂区役所が赤坂表町三−五(現在赤坂七−二【本公園東隣敷地の一画】)に置かれ、同年十一月四日に開庁しました。初代区長は翌年一月、島津忠亮が任命されました。赤坂区役所はその後、表町一丁目などに移り、さらに明治二十四年に現在の港区役所赤坂地区総合支所の位置に移りました。なお、芝・麻布・赤坂区は、昭和二十二年三月十五日、統合されて港区となりました。




公園の隣には総ガラス張りの草月会館ビルが建っています。草月会館は建築家・丹下健三が設計し、昭和三十三年(1958年)6月に初代の建物が竣工し、その後昭和五十二年(1977年)に現在の建物に再建されました。会館は芸術家のイサム・ノグチによる石庭を備え、外装のカーテンウォールには赤坂御用地と青山通りの緑が映しこまれるようになっています。草月流いけばな(草月では基本的に「生ける」などの漢字を使用せず平仮名で書く)は、昭和二年(1927年)に初代家元勅使河原蒼風によって創流され、自由で前衛的な作風を特徴としています。入口に置いてある巨大な石は表札の代わりでしょうか?



赤坂支所の手前に急坂があります。谷底から上ってくるような急峻さです。赤坂と言うくらいですから、昔はデコボコの地形だったのでしょう。

薬研坂(やげんざか)

中央がくぼみ、両側の高い形が薬を砕く薬研に似ているために名づけられた。付近住民の名で、何右衛門坂とも呼んだ。




赤坂御用地は、天皇一家の御所(赤坂御所:旧東宮御所)を含む、秋篠宮邸・三笠宮邸・三笠宮東邸(ェ仁親王邸)・高円宮邸・赤坂東邸のある御苑をいいます。広大な敷地には6つの門(出入口)があり、テレビなどによく出てくる門は「巽門」と呼ばれています。皇族方のほか、 御用地を訪問する客人の多くはこの門を使います。陛下の通勤などの特別な場合は、赤坂御用地の北側にある「赤坂御所正門」が使われます。巽門の向かいには豊川稲荷が鎮座しています。豐川稲荷という名前から、私はてっきり神社だと思っていたのですが、実際は正式名を「豐川閣妙嚴寺」と称する曹洞宗のお寺です。



赤坂には五つの商店街(会)がありますが、南北に伸びる三つの商店街のなかで最も西に位置するのがこの赤坂一ツ木通り商店街です。通りの両側には飲食店や物販店が連なり、季節によって盆踊りやクリスマスイルミネーションの飾り付けなど、様々なイベントも開催される賑わいある通りです。ところで、通りの「一ツ木」という名の由来をたどりますと、平安時代までさかのぼります。当時この付近の街道沿いは人馬の往来が絶えず、人足の交代を意味する「人継」というのが語源となっているそうです。赤坂は平安時代からすでに栄えていた地域なんですね。昭和四十一年(1966年)の住居表示実施に伴う町名変更により、赤坂四丁目と五丁目が誕生し、「一ツ木町」という町名はなくなってしまいましたが、現在もこうした通りの名前に「一ツ木」の痕跡が残っています。



赤坂見附交差点から富士見坂(別名:水坂)を上っていきます。結構な傾斜で、高い建物がなかった昔は坂上から富士山がよく見えたことでしょう。バブル時代には、前の晩遅くまで夜遊びした若いサラリーマン諸氏(含む淑女)が朝9時の始業に間に合うようにと猛ダッシュする姿が多く見られました。富士見坂の途中には衆議院・参議院議長公邸が隣り合っています。衆・参議院議長公邸のある場所はかっての雲州松江藩松平出羽の屋敷跡です。明治になって公用地となり、華族女学校もここに設立されました。別名の水坂は松平家が赤坂御門御水番役であったことに由来しています。



平河町から下り坂になり、都電9系統は三宅坂交差点を右折して国会議事堂に向います。かって三宅坂交差点の角には旧社会党本部が入居していた社会文化会館の建物がありました。社会文化会館は東京オリンピック開催の1964年に完成し、その地名から「三宅坂」とも呼ばれ、高度経済成長から「おたかさんブーム」、55年体制の崩壊を経て、1994年には自社さ連立政権で村山富市首相を輩出するなど、政治の舞台となっていました。しかし東日本大震災後は会館の耐震性が疑問視され、2013年春に解体されました。敷地はもともと国有地だったことから、現在は「憲政記念館代替施設」の建設が始められようとしています(会館取り壊し後、一時期警視庁本部改修に伴う仮庁舎が建てられたようです)。



都電9系統は三宅坂交差点を右折した後、さらに左折して国会議事堂前を通ります。「議事堂」という名前の電停があったそうなので、さぞかし議員さん達で車内は混雑していたのでしょう。イヤ、議員さん達は高級車を使っていたでしょうから、乗客は議事堂見物の観光客が多かったかも。



国会前交差点から内堀通りに出て桜田門前を通ります。国道1号を挟んで警視庁の本部庁舎と法務省のネオバロック様式の赤れんが庁舎が向かい合っています。警視庁の本部庁舎はテレビドラマにもよく出てきますが、1980年の竣工から40年近くが経過して老朽化が進んでいます。2017年から大規模な改修工事に入っていて、工事期間中は一部の部署が先ほど通った社会文化会館跡地に建てられた仮庁舎に入ったのだそうです。社会党と警視庁とはとんだ因縁ですね。



祝田橋交差点は昭和三十年代には都内随一の交通量が集まり、渋滞の名所として知られていました。都電の運転士さんもさぞや大変だったことでしょう。ちなみに、内堀通りは祝田橋交差点で皇居外苑方向に折れていきますが、内堀通りの元々の名前は凱旋道路でした。明治三十九年(1906年)に日露戦争の戦勝を祝して皇居外苑を縦断する凱旋道路が造られることになり、日比谷濠を渡る区間は外苑南側の石垣を崩して建設されました。一般的な橋と異なり橋の下に空間はなく、濠を分断する堤防のような構造です。祝田橋で分断された日比谷濠の西側は凱旋濠と呼ばれるようになりました。橋名(形態は橋ではありませんが)は、皇居外苑側の旧町名である祝田町から採られました(戦勝を祝するということで名付けられたんじゃないんですね)。その後、凱旋道路は現在の内堀通りとなりました。



祝田橋から日比谷交差点までは、折角ですので日比谷公園の中を通ることにします。



日比谷公園内にはいろんなモニュメントが置かれています。このアーク灯、やけに背が高いですね。ランプを交換するときは長大な脚立が必要だったことでしょう。

アーク灯

この元アークライト灯は、開園当時の公園灯で、園内には10基設置され、1200 カンデラの明るさがあったといわれます。これ以外はガス灯70基が設置されていました。三笠山の裾にある水飲みと同じ鋳鉄製で統一されたデザインとなっており、両方とも明治の記念物として1基づつ園内に残っています。

Arc lamps

There were 10 arc lamps installed through the park when it first opened. It is said that it had a brightness of 1,200 candela. 70 gas lamps were also installed. The design of these lamps was consistent with the cast-iron drinking fountain found at the base of Mt. Mikasa, and one of each has been preserved in the park as mementos of the Meiji period.




この水飲み場は、人間だけでなく馬にも水を供していたみたいです。犬ならわかりますが、公園に馬が乗り入れることはあったのでしょうか?

水飲み

この水飲みは、日比谷公園開設当時(明治三十六年/1903年)のものです。鋳鉄製で重厚ななかにも細かな装飾が施され、デザイン的にも見応えがあります。また、馬も水を飲めるような形に作られており、陸上交通の重要な部分を牛馬が担っていた当時がしのばれます。

Drinking fountain

This drinking fountain dates back to the time Hibiya Park opened in 1903. Robustly made from cast-iron and intricately decorated, it has an impressive design. Its shape allows horses also to drink from it, evoking a time when horses and oxen played an important role in land transport.




日比谷公園は広大なので、少しの高低差はあまり気づきません。ちょっとした盛土に石段が付いていて、三笠山という案内板が立っています。ちなみに、明治三十七年(1904年)からの日露戦争で連合艦隊旗艦を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗した戦艦三笠は奈良県にある三笠山(春日山)にちなんで命名されました。若草山は、山が3つ重なって見えることから三笠山とも呼ばれたそうです。ま、同じようなネーミングですかね。

三笠山

この小丘を含むテニスコート西側の一帯は三笠山と呼ばれています。公園造成時に池などを掘った残土で作られた人工の山で、その当時は全体が三つの笠を伏せた形に似ていたのでこの名が付いたといわれています。その後、テニスコートの造成など周辺の整備に伴い、山の形は変わりましたが、三笠山の名は残りました。

Mt. Mikasa

The area west of the tennis courts including this hillock is called Mt. Mikasa. The hillock is an artificial one, made with leftover soil from the construction works making ponds when the park was constructed. At the time it was created, the physical shape of the whole area resembled three woven hats, or kasa in Japanese, so that it got its name "Mikasa", meaning three woven hats. Due to improvement works such as the construction of the tennis courts, the mountain shape has changed, still the name of it remains as the original one.




日比谷公園でひときわ目を惹く四角形の広場があります。初夏にはバラ園が見頃になります。ペリカンには気がつきませんでした。

第一花壇 触知図案内板

第一花壇は、日本最初の洋式庭園として残されたドイッ風の沈床花壇です。バラを主体に植栽され、花壇中央にはシュロノキが植わっています。その他四季を通じさまざまな花を楽しめます。北側にあるペリカン噴水は、2羽のペリカンのくちばしから水が落ちる洋風の装飾噴水です。

This is a German-style sunken garden, and was the first Western-style garden in Japan. The palm tree in the center as well as roses and other flowers that bloom throughout the seasons are a pleasure to behold. Pelican Fountain in the north is a Western-style waterworks; water cascades down from the bills of the two pelicans.




松石が何で日比谷公園に展示されているのかよく分らないんですけど。

松石

今から3〜5千万年前の植物が、水底に運ばれ埋没された後、珪酸質の液がしみこんだものを珪化木といいます。北九州の炭田では炭層中に珪化木が含まれ、これを松石または松炭と呼んでいます。ここにあるものは、昭和初期に福岡市外亀山炭坑の地下300mのところから長い木のまま発見されたものの一部です。

Pine Stone

"Silicified wood" is a 30 to 50 million-year-old tree, which was soaked in a siliceous liquid after having been buried in the bottom of water. It is often contained in the coal beds In the coalfields in Kita-Kyushu (the south part of Japan), and is called "pine stone" or "pine charcoal" there. What you can see here is part of the "pine stone" which was found just as a long tree 300m under the Kameyama coal mine shaft located outside Fukuoka City at the beginning of the Showa period (1926-1989).




日比谷公園には日比谷松本楼を始め、由緒ある建物が多くあります。ドイツ風バンガロー様式の日比谷公園事務所もそのひとつです。昭和三十九年からは公園資料館として広く公開され、平成2年には東京都の有形文化財に指定されました。その希少な建物は、現在結婚式場を手がける「フェリーチェガーデン日比谷」となって運営されています。幸せの天国に登る階段下には2本の案内板が立っています。

旧日比谷公園事務所 (東京都公園資料館) 一棟

旧日比谷公園事務所は、わが国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として、明治四十三年(1910年)十一月に竣工した建物である。設計者は東京市に勤める技師福田重義であった。建物の規模は桁行12.6メートル、梁間7.2メートル。現在、内部は一階部分に倉庫・物入・厨房・便所、二階部分にべランダ・ホール・展示室・事務室などが設けられている。昭和五十一年(1976年)に公園資料館として使用するため内部を改造しているが、構造の躯体(くたい:建物の主要な構造を作っている部分。柱・梁・桁・床・壁・階段などのこと。)・軸組・外観の変更は僅かでよく旧態を留め、二階の展示室にある腰板・竿縁天井(さおぶちてんじょう:壁の上端に沿って回り縁を取り付け、その回り縁に一定間隔に竿縁を通し、その上に天井板を置く、日本座敷でもっとも普通に用いられている天井形式)・べイウィンドーの腰掛け、また階段などに当初の名残りがある。この建物は、洋式の日比谷公園に相応しいように設計されたドイツ・バンガロー風の瀟洒な建築物で、明治期の数少ない近代洋風建築の一つとして建築史上貴重である。

旧日比谷公園事務所

我が国最初の洋式公園であった日比谷公園の管理事務所として、明治四十三年(1910年)11月に竣工したドイツ・バンガロー風の蒲酒な建物です。昭和五十一年(1976年)より公園資料館として内部を改造して使われていました。明治期の数少ない近代洋風建築の一つとして、平成二年(1990年)3月22日に東京都指定有形文化財に指定されました。建物の規模は、桁行12.6m、梁間7.2mです。

Former Hibiya Park Office

This sophisticated building in German bungalow-style was constructed in November 1910 as the administrative office of Hibiya Park, which was the first Western-style park in Japan. It was renovated and has been used for the Park archives since 1976. On March 22, 1990, it was designated as one of Tokyo metropolitan’s Tangible Cultural Assets since it is a rare specimen of modern Western architecture of the Meiji Era. It is 12.6m long by 7.2m wide.




徳川幕府で何が後生に貢献したかというと、大名の家族を江戸に留め置いたことでしょう。大名の家族が住まうのですから、当然その居住する屋敷は広大な広さになります。それが明治維新後、多くが官庁・大学・公園などに転用されたのです。桜田門の法務省敷地は江戸時代に米沢藩上杉家藩邸(上屋敷)でしたが、日比谷公園は仙台藩の上屋敷跡だったんですね。

仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地

ここは、仙台藩祖伊達政宗から三代綱宗の時代、仙台藩の外桜田上屋敷があったところである。慶長六年(1601年)、政宗は徳川家康より江戸屋敷を与えられ、外桜田の屋敷は寛文元年(1661年)まで上屋敷として使用された。その敷地は、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷堀沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたものと推定される。政宗の時代には、徳川家康が三度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ各四度ここを訪れ、もてなしを受けたことが記録に残っている。政宗は江戸参勤の折、寛永十三年(1636年)五月、ここで七十年の生涯を閉じた。

The place of death of Date Masamune, the founder of the Sendai Clan

This is where the Sendai Clan's main Edo (Tokyo) residence, Sotosakurada Kamiyashiki, was located from the period of the founder, Date Masamune, to the third Lord, Date Tsunamune. In Keicho 6 (1601), Masamune was given a residence in Edo by the Shogun, Tokugawa Ieyasu. This residence in Sotosakurada was used as his main residence in Edo until Kanbun 1 (1661). The grounds of the residence spanned from the western shore of Shinji Pond to eastern tip of the tennis courts, and from the road alongside Hibiya-bori Moat in the north to the area around the Small Open-Air Concert Hall in the south. The records state that, at this residence, Masamune hosted Tokugawa Ieyasu on three occasions, in addition to both 2nd Shogun Hidetada and 3rd Shogun Iemitsu on four occasions each. Masamune's life ended here in May, Kan'ei 13 (1636) at 70 years of age during his stay in Edo under the system of alternating residence.




江戸城が築城された当時、日比谷は未だ江戸湾の入江でした。それを活かして濠にしたのですけど、日比谷公園を造成するに際し、ドイツ式庭園を目指した本多静六は江戸城に連なっていた濠を埋め立てる際に一部を心字池として埋め残し、日本的な要素も残しました。心字池の脇にはかつての濠の石垣の一部が今でも残されています。

心字池

ここは日比谷公園ができる前は濠でした。その面影を残すために公園造成時に池としたもので、全体を上から見ると「心」の字をくずした形をしています。このような池を心字池といい、禅宗の影響を受けた鎌倉・室町時代の庭に見られる日本庭園の伝統的な手法のひとつです。

Shinji-ike Pond

This pond used to be a moat of the Edo Castle, and was converted into a pond to preserve its appearance when Hibiya Park was constructed. Looked at from above, this pond looks like the Chinese character "心" (meaning heart), so that it is called the "Shinji" pond (meaning "心 letter"). Making a pond into this shape is a traditional technique influenced by the Zen sect, which were commonly used in Japanese gardens during the Kamakura and Muromachi periods.




江戸城には、内濠・外濠・西の丸・吹上・紅葉山にそれぞれ多くの門がありました。日比谷門は、和田倉門・馬場先門・外桜田門・半蔵門・田安門・清水門・竹橋門と共に、外濠の最も内側にあった門です。

日比谷門跡

門の名は、中世のこの地域に日比谷村があったことに由来します。慶長十九年(1614年)に熊本藩(現在の熊本県)藩主加藤忠広によって石垣が築造され、寛永五年(1628年)に仙台藩(現在の宮城県)藩主伊達政宗によって門の石垣が構築されました。日比谷門は現在の日比谷交差点付近にありましたが、明治六年(1873年)に撤去されました。現在の日比谷公園の心字池沿いの石垣は、日比谷門と山下門の間にあった土手の名残りです。

Remains of Hibiya-mon Gate

The name of this gate is derived from the fact that Hibiya Village was located in this area. Stone walls were built around the area by the feudal lord of Kumamoto Han (now Kumamoto Prefecture), Kato Tadahiro, in 1614; and Date Masamune, feudal lord of Sendai Han (now Miyagi Prefecture), constructed the walls of the gate in 1628. The Hibiya-mon Gate was located near to Hibiya Crossing, but was demolished in 1873. The stone walls that currently remain alongside Shinji-ike Pond in Hibiya Park are those left from the embankment between the Hibiya-mon Gate and the Yamashita-mon Gate.




見附とは、本来は街道の分岐点など交通の要所に置かれた見張り所のことですが、江戸城の見附は見張り役の番兵が駐在する城門のことをいい、門の内側には番兵が滞在できる番所がありました。俗に江戸城には36の見附があったといわれていて、現在も四谷見附や赤坂見附など地名として残っているものもあります。

日比谷見附跡

この石垣は、江戸城外郭城門の一つ、日比谷御門の一部です。城の外側から順に、高麗門・枡形・渡櫓・番所が石垣でかこまれていましたが、石垣の一部だけが、ここに残っています。当時、石垣の西側は濠となっていましたが、公園造成時の面影を偲び、心字池としました。

Hibiya Mitsuke (Approach) Remains

This stone wall is a part of Hibiya Gate, one of the outer defenses of the Edo Castle. Outside of the castle, the Koma gate, square, turreted passageway, and guardhouse used to be surrounded by the stone wall, but only part of the stone wall remains today. On the west side of the stone wall was the moat, which was later converted into Shinji-ike Pond and recalls the appearance at the time the Park was constructed.




ようやっと日比谷公園を出ます。短い距離でしたが、いろんな見所があって面白かったです。出口(入口)脇に案内板があります。本来はここから日比谷公園の探索を始めるべきですね。

日比谷公園

幕末までは松平肥前守等の屋敷地で、明治初期には陸軍練兵場となっていたところでした。当初から近代的な「都市公園」として計画・設計・造成された本格的な公園であると同時に、日本初の「洋式庭園」として明治三十六年(1903年)6月1日に開園しました(開園面積:161,636u)。文化の先駆者としての公園設計者(本多静六等)の意気込みが随所に感じられます。そして、それは今日に伝えられ、広く利用されています。今日に至るまでに、関東大震災や太平洋戦争により改修等をおこなってきましたが、心字池・第一花壇や雲形池周辺は開園当時の面影がそのまま残っています。花壇には一年中、色鮮やかな四季の花が咲き、公園を訪れる人々の憩いの場になっています。

Summary of Hibiya Park

There were several daimyo (feudal lord) mansions including that of Lord Matsudaira Hizen-no-kami on this site until the end of the Edo Era. In the early Meiji Era, it was used as an army drill ground. Hibiya Park was open on June 1, 1903 as the first Western-style Park in Japan, and it was planned, designed, and constructed as a modern city park of the time (Area when opened : 161,636 square meters). The enthusiasm of the Park architects (such as Seiroku Honda), who led the culture of the era, can be found everywhere. Their aspirations have been fulfilled, for the Park is now very popular. Although the Tokyo Earthquake of 1923 and the Pacific War forced the Park to undergo some renovation, the areas around Shinji-ike Pond, Flower Garden #1, and Kumogata-ike Pond still look as they used to when the Park first opened. Various colorful species bloom in the flower gardens throughout the year, giving pleasure to those who visit the Park.




<<写真多数のため、都電9系統跡コース(通常運転)(2)に続きます。>>




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