- 都電9系統跡コース(通常運転)(2)
- コース 踏破記
- <<都電9系統跡コース(通常運転)(1)の続きです>>
日比谷交差点で国道1号と別れ、晴海通りに入ります。正面にはペニンシェラ東京、その左には日本放送の本社ビルがあります。星野源さんの来週火曜日のオールナイトニッポンでガッキーとの結婚報告はあるのでしょうか?
数寄屋橋公園の手前の歩道上に明治大学発祥の地の碑が置かれています。さすが明大建学の碑、ピッカピカに磨かれていますね。
明治法律学校(現明治大学)は、明治十四年(1881年)一月十七日に旧肥前島原藩主松平氏の上屋敷であったこの地に開校した。創立者の岸本辰雄・宮城浩蔵・八代操の三人は、貢進生として鳥取藩・天童藩・鯖江藩を代表して大学南校に遊学し、つづいて明法寮でボアソナードにフランス法を学んだ。その後フランスに留学し、とくに「権利自由・独立自治」の精神の普及をめざして本学を設立した。当時彼らはいずれも三十歳に満たぬ白面の書生であった。
もうひとつの明大発祥の地の案内板が石碑の横に置かれています。同じような内容ですが、こちらは千代田区が設置したものです。
明治大学発祥の地(深溝松平家上屋敷跡)
かつて外濠川に面したこの付近には、元禄四年(1691年)以来、肥前島原藩(現在の長崎県)などを治めた深溝(ふこうず)松平家の上屋敷が置かれていました。明治維新後、屋敷は、政府の収用を免れて貸し出されることになり、民権結社による演説会などが盛んに催されました。明治十四年(1881年)1月17日、若き法律家である岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操は、屋敷の一部を借り受け、同心協力して明治法律学校(明治大学の前身)を開校し、明治十九年(1886年)に神田区駿河台南甲賀町(現在の神田駿河台)へ移転するまで、我が国の近代化を担う法曹の育成に努めました。平成七年(1995年)、同地に「明治大学発祥の地」碑が建立されました。
Birthplace of Meiji University (Remains of the Main Edo Residence of the Fukozu-Matsudaira Clan)
This area, which once faced the Sotoborigawa River, is the site of the main Edo residence of the Fukozu-Matsudaira clan. The clan ruled the Shimabara Domain in Hizen Province (present-day Nagasaki Prefecture) and other areas from 1691. After the Meiji Restoration, the residence was saved from government appropriation. It was made available for hire and was a popular venue for campaign speeches and so on by societies calling for freedom and people's rights. On January 17, 1881, three young lawyers, Kishimoto Tatsuo, Miyagi Kozo, and Yashiro Misao, in a spirit of cooperation, rented part of the residence to open the Meiji Law School. This was the predecessor to Meiji University. The School moved to Minamikogacho, Surugadai, Kanda-ku (present-day Kanda Surugadai) in 1886. The founders strived to foster a legal profession that could shoulder the modernization of Japan. A monument to the birthplace of Meiji University was erected on this site in 1995.
数寄屋橋公園の一角に、「君の名は」の脚本を書いた菊田一夫の石碑が置かれています。「数寄屋橋 此処に ありき 菊田一夫」と書いてあります。数寄屋橋は、その昔は銀座から江戸城の数寄屋橋御門に続く道の途中にかけられていた橋です。菊田一夫は劇作家としてさまざまな芝居を書いたのですが、なんといっても有名な作品が、昭和二十七年から2年間にわたって放送されたNHKラジオドラマ「君の名は」です。数寄屋橋は、延々とすれ違いを続ける主人公の恋人二人が初めて出会った運命の場所でした。このドラマは昭和二十八年に佐田啓二と岸恵子の主演で映画化もされ、空前の大ヒットとなりました。このようにして数寄屋橋の名は昭和のドラマによって全国に知られるようになったわけですが、「数寄屋」という橋の名は、近くに住んでいた茶人の織田有楽斎(織田信長の弟)が営んだ数寄屋造りの茶室に由来するともいわれる江戸以来の由緒ある名前です。また、有楽町という町名は「有楽斎」の邸宅があったことから名付けられたのです。更にいうと、数寄屋橋公園に隣接する泰明小学校は、北村透谷や島崎藤村の母校として知られていますが、透谷というペンネームは、「すきや」をもじってつけたものだそうです。
数寄屋橋公園の奥に見える「若い時計台」の彫像は岡本太郎の作です。昭和四十五年(1970年)に開催された大阪万博の「太陽の塔」にそっくりですが、この「若い時計台」はそれよりも4年早い昭和四十一年(1966年)の制作です。岡本太郎氏の「芸術は爆発だ」の掛け声と共に、あのギラッとした鋭い目つきは、強い印象を与えました。この塔は作られてからすでに40数年経っていますけど、周りの変化にもびくともせず、時代の流れを感じさせずに、より強烈なインパクトを与えています。当時の数寄屋橋界隈は「みゆき族」など最先端のファッションや文化が生まれる街として知られる一方で、集まる若者たちの風紀の低下が問題視されていたといい、時計台製作は「青少年の健全育成」が目的でした。岡本太郎は同所を訪れて「やたら色、形が混乱した雑踏の場。ひどい」と嘆きながら、「ただすっきりとしたものを作ったって埋もれてしまうだけ。激しいと同時に、静まった、周囲と異質でありながらピタリとあの場所に生きる、彩の濃い象徴を」と構想し、円柱スタイルの台から円すい状のオブジェがさまざまなに突き出す全長約8メートルの「若い時計台」を完成させました。作品の「顔」となる時計盤は、時間によって指針がまゆ毛、ヒゲなどに見え、夜間は作品全体を赤、黄、青、緑にライトアップされます。完成にあたっては、「人間は本来八方に意欲を突き出し、情熱をほとばしらせながら生きたいのだ。時間を超えた時間、機械的でない、人間的な時間を表象したつもり」とコメントを寄せました。
数寄屋橋の碑
寛永六年(西暦1629年)江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅四間長三間の木橋であった。橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという。見附の城門枡形は維新の際に撤去され、ついで大正大震災後の復興計画によって完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼することとなった。爾来三十年、首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させた。外濠上を高架車道が、地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消し、ここは渾然(こんぜん:いくつかのものが溶け合って区別がつかないさま)たる大銀座の一劃(一画:いっかく)となった。本会は茲(ここ)に旧橋の偉材を以て碑を建て、感慨深い東京文化の変遷を偲ぶよすがとした。
左側の写真の左上隅の彫像が「若い時計台」です。
このモニュメントはたまたま見かけたのですけど、お店の売り上げに貢献することはなさそうです。決して安くはないのでしょうけど、銀座の通りを行き交う人達につかの間の安らぎを与えてくれますね。銀座の品格とはこういうことでしょう。
からくりモニュメント 悠久の翔(つばさ)
このモニュメントは銀座の街角に、憩いと潤いをもたらし天空に翔く「天の童子たち」をイメージし制作いたしました。「和と洋の共生」をテーマに、華やかで個性的な衣装姿の人形をはじめ、伝統的技法の七宝をあしらった飾り台、木製歯車など全てコンピューターによって制御されています。「箜篌を奏でる童子」や「逆とんぼする童子」・「風を送る童子」・「舞い降りる童子」、せり上がりながら瞬時に面が変わる「面かぶりの童子」など5体の人形は音楽とともに、約5分間演技を致します。
このモニュメントも同じように銀座の街の雰囲気を上げるのに貢献しています。銀座四丁目の交差点にある三愛ドリーム館の1階のカフェを挟んで右端と左端に2体のネコの石像が置かれています。銀座で何を食べようかと考え事をしながら歩いていては見落としてしまいます。私は願い事はないので撫でませんでしたが、撫でれば当然その部分は光沢がでてきますよね。オスの名前は「ごろべえ」、メスの名前は「のんき」だそうです。では、「ごろべえ」で一番光沢のある部分はどこでしょうか?「ごろべえ」を撫でるのは女性の方ですが、「お尻」がピッカピカ!「のんき」を撫でるのは男性ですが、「背中」がツルツル。。。
銀座の恋の招きネコ コイコリン
恋をサクセスさせるという縁結びのネコ「コイコリン」。1963年に三愛ドリーム館と共にこの場所に誕生以来、銀座の街を見守り続けています。コイコリンは館に向って右がオス、左がメスで、この前で待ち合わせをしたり、女性はオスを、男性はメスを願いを込めて撫でれば恋が成就するという「恋の招きネコ」です。産みの親は世界的な彫刻家の流政之先生。ノルウエイ産の御影(ミカゲ)石から彫り出されています。
撫でる場所であなたの願いが叶えられます。(こちらのネコはオスです。)
- 頭 − ステキな恋人が現れることを夢見るあなたは、願いを込めて撫でましょう。
- 顔 − 好きな人と結ばれることを願うあなたは、想いを込めて撫でましょう。
- 背中 − こわれた恋を取り戻したいあなたは、祈りを込めて撫でましょう。
- お腹 − ダイエットで再出発したいあなたは、しっかり撫でましょう。
- お尻 − パートナーの浮気をやめさせたいあなたは、叩くように撫でましょう。
但し、指でる回数は2回ずつ、欲張るとご利益がうすれます。
Love-Inviting-Cat in Ginza COICORIN
COICORIN, the "love knot" cat, opens the doors to love. Born when the San-ai Dream Center was opened in 1963, COICORIN has continued to watch over the Ginza shopping area. COICORIN is "the cat who beckons love for one and all". The COICORIN on the right facing the building is male, and the COICORIN on the left is female. A favorite place to rendezvous, people waiting in front of COICORIN tell COICORIN their fervent hopes and wishes. If women pet the male COICORIN, and men pet the female COICORIN, their love will be fulfilled. COICORIN was brought to life by would-famous sculptor Nagare Masayuki, who carved his likeness out of Norwegian granite.
Pet COICORIN in the following places and your hopes will be fulfilled. (This cat is male)
- Head - If you want the wonderful love of your dreams to appear, make your wish with all your heart and It's head.
- Face - If you want to create a relationship with someone special, imagine that persSon with all your might and It's face.
- Back - If you've lost love and want to bring it back, fervently make a prayer and It's back.
- Stomach - If you wish to slim down and make a new debut, make your resolve firm and stroke It's stomach.
- Hips - If you want to make your partner's fickleness vanish, It's hips as if you were spanking him.
You mast pet COICORIN twise, however. And if you're greedy, you will weaken the effect.
三連休の中日ですが、午後2時の銀座歩行者天国は人影もまばら。折角の好天なのに勿体ないですね。
三原橋交差点の角に「俺のGrand Market」のお店があります。以前、群馬県のアンテナショップがあったところです。1階は惣菜やパンや調味料などのデリの販売、2階はレストランになっているようです。俺のフレンチで頂いた「牛フィレとフォアグラのロッシーニ」や「オマール海老のロースト」かぁ。。。じゅるじゅるっつ!ちなみに、フォアグラとトリュフを贅沢に組み合わせたこの料理は、通称「ロッシーニ風」と呼ばれます。この料理名「ロッシーニ」は「セビリアの理髪師」や「ウィリアム・テル」などを作曲したジョアキーノ・ロッシーニの名前が由来となっています。彼は音楽家としてだけでなく美食家としても有名で、パリ市内でレストランを経営していたほどです。彼の写真(肖像画)を見ますと、ナルホド凄いお腹のでっぱりです。それはそれとして、俺の〜のお店もコロナ禍が収まるまで何とか持ちこたえて欲しいものです。
築地四丁目交差点の手前に「築地銀だこ」の本店があります。都内あちこちで見かけますが、店舗数は国内578店・海外63店もあるのだそうです。店名は、「魚河岸の活気」・「新鮮な素材」から「築地」、「銀座」へ出店する夢から「銀」をとって命名したのだとか。明石焼きもメニューに加えてもらえないかなぁ。
築地四丁目交差点で晴海通りから新大橋通りに入ります。築地場外市場は火災の跡は殆ど目立たなくなりましたが、やはりかっての勢いはなくなったように感じられます。時代の流れですかね。
築地ができるきっかけになったのは築地本願寺の移設からです。築地本願寺は江戸時代の1617年に西本願寺の別院として浅草御門南の横山町(現在の日本橋横山町・東日本橋)に建立され、「江戸海岸御坊」・「浜町御坊」と呼ばれていました。しかし明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失し、その後江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付されたのです。そこで佃島(現在の中央区佃)の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き(この埋め立て工事が地名築地の由来)、「築地御坊」として1679年に再建されました。現在の本堂は1934年に竣工し。古代インド様式をモチーフとしたこの建物は当時の浄土真宗本願寺派法主・大谷光瑞と親交のあった東京帝国大学工学部名誉教授・伊東忠太による設計です。当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造で、松井組(現在の松井建設)が施工しました。大理石彫刻がふんだんに用いられ、そのスタイルは現在においても斬新かつ荘厳です。
築地本願寺案内
- 1.宗 派
- 浄土眞宗本願寺派(本山は京都西本願寺)
- 2.宗 祖
- 親鸞聖人(見眞大師 1173年〜1262年)
- 3.御本尊
- 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
- 4.歴 史
- 元和三年(1617年)本願寺第12世准如上人によって、本願寺派の関東地方における根本道場として、元江戸浅草横山町に創建されたが、明暦三年(1657年)の振袖火事により焼失した。その後八丁堀海上に約3万uの土地を幕府より下附され、当時大阪佃より移住した門徒が中心となって、この海辺を埋立てて本堂が建立された。その後たびたびの災火にあい、関東大震災(1923年)に焼失した。現在の本堂は、古代印度様式といわれ、東京大学教授、故伊東忠太博士の設計によリ、昭和六年松井建設株式会社が施工し、同九年に落成したものである。
THE TSUKIJI HONGANJI IS THE BRAND FOR THE KANTO REGION OF THE NISHI HONGANJI IN KYOTO. THE HEAD TEMPLE OF THE JODO SHINSHU DENOMINATION OF BUDDHISM. THE ORIGINAL BRANCH WAS BUILT IN 1617 IN YOKOYAMA CHO. AFTER DESTRUCTION BY THE GREAT FIRE OF 1657, THE TEMPLE WAS REBUILT ON A SECTION OF A VAST AREA OF LAND RECLAIMED FROM TOKYO BAY BY LOYAL PARISHIONERS (HENCE THE NAME "TSUKIJI", MEANING BUILT LAND). THE PRESENT INDIAN-STYLE STRUCTURE WAS ERECTED IN 1934.
今まで築地本願寺の境内には入ったことがなかったので、立ち寄ってみます。築地本願寺の宗派は浄土真宗本願寺派なので、宗祖は親鸞聖人です。境内の端に親鸞聖人の巨大な像が立っています。その一角には親鸞聖人の歩んだ系統譜が記されています。親鸞は「歎異抄」を著したと学校で習ったような気がするのですが、親鸞の死後に弟子の唯円が書いたみたいですね。親鸞の教えは難解で、実子である善鸞でさえも理解できなかったようです。「歎異抄」とは、親鸞と「異」なる教えがなされたことを「歎」いた本という意味なんでしょうか?
親鸞聖人
〇誕生と幼少期
平安時代も終わりに近い承安三年(1173年)の春、わたしたち浄土真宗本願寺派の宗祖・親鷲聖人は京都にてご誕生になられました。父親は藤原氏の流れをくむ日野有範、母親については現在までよく分かっていません。日野氏は儒学を得意としており、親鷺聖人も六歳頃から漢文の教育を受けていたと推測されます。親鷲聖人は九歳のとき、慈円和尚のもとで出家・得度をされ、範宴と名のられたと伝えられています。
○比叡山での修行
比叡山では、横川で不断念仏などを修する堂僧として、20年の間、厳しい学問と修行に励まれました。しかし建仁元年(1201年)親鷺聖人29歳のとき、比叡山では悟りに至る道を見出すことができなかったことから、ついに山を下り、京都の町中にある聖徳太子ゆかりの六角堂にて100日間の参籠(さんろう:祈願のため神社や寺院などにある期間こもること)をされました。95日目の暁、聖徳太子に関する偶文を唱え終ったところに六角堂の本尊である観音菩薩からの夢告を得て、東山の吉水で本願念仏の教えを説かれていた法然聖人の草庵を訪ねられます。
○吉水での法然聖人との出遇い
その後、自身が浄土往生できるための縁、すなわちその指導を得るために法然聖人の弟子となられました。聞法(もんぽう:仏教の教法を自己をむなしくして聴聞すること)と研学に励まれた親鷲聖人は、法然聖人の特別の信頼を得て聖人の主著である「選択本願念仏集」と真影(肖像画)を写すことを許されています。
○結婚と越後流罪
親鷺聖人は吉水での生活の中で、京都の三善為教の娘である恵信尼さまと結婚されます。そのころ法然聖人の開かれた専修念仏の教えに対して、延暦寺や奈良の興福寺などから激しい非難が出され、ついに承元元年(1207年)に、法然聖人や親鷺聖人などの師弟が罪科に処せられ、親鷺聖人は越後国(新潟県)に流罪となりました。これを機に「愚禿親鷺」と名のられ「非僧非俗」の立場に立たれます。
○関東伝道と「教行信証」の執筆
越後への流罪は、家族を連れての布教活動の始まりとなりました。およそ7年間の流人生活の後、親鷺聖人とその家族は関東へ向かわれることになります。一説には、新興の武士の都である鎌倉での布教を目指したのではないかと考えられています。建保二年(1214年)、42歳の親鷺聖人は家族とともに、下野国(栃木県)・常陸国(茨城県)の大領主・宇都宮頼綱の領地である稲田へと向かわれました。常陸国・稲田に草庵を結んだ親鷲聖人は、そこから約三十数km以内の所へ一泊二日での布教活動をされたと考えられています。また主著「教行信証」もこの地で書き始められました。関東時代後半には鎌倉幕府で行われた一切経校合の事業にも参加されておられ、ここ東京を含む南関東にも多くの由緒を伝える寺院が現存しています。
〇再び京都へ
親鷺聖人は60〜63歳のころ、関東約20年の伝道を終えられて帰洛されます。京都では晩年まで「教行信証」を添削されるとともに、「和讃」など数多くの書物を著され、関東から訪ねてくる門弟たちに本願のこころを伝え、書簡で他力念仏の質問に答えられました。弘長二年11月2日(新暦1263年一月十六日)90歳、親鷺聖人は三条富小路にある弟尋有の善法坊で往生の素懐を遂げられました。
Shinran Shonin
Birth and Childhood
Shinran Shonin, the founder of the Jodo Shinshu teaching, was born in Kyoto in the spring of Joan 3 (1173), at the close of the Heian Period. His father was Hino Arinori of the Fujiwara clan. Little is known about his mother. Since the Hino family was acquainted with Confucianism, it is assumed that Shinran had been taught Chinese classics since early childhood. At the age of 9, Shinran entered the Buddhist priesthood under the guidance of Jien and received the name Han' nen.
Ascetic Training in Mt. Hiei
In the Yokawa area of Mt. Hiei, Shinran practiced fudan nembutsu (lit., "continuous recitation of the name of Amida Buddha" ) as a doso monk and devoted himself to strict studies and training for 20 years. Unable to find the way to enlightenment however, he descended Mt. Hiei in Ken' nin 1 (1201) at the age of 29. In search of the Way, for 100 straight days, he commuted to Rokkakudo, a temple in the city of Kyoto, which is dedicated to Prince Shotoku. At dawn of the 95th day, as he was finishing the chanting of a verse that praises Prince Shotoku, an illusion of Kannon Bosatsu, or Bodhisattva Avalokitesvara, the principal image of the temple appeared to him sending a message. Following the words he received, he visited Honen Shonin who was residing in the Yoshimizu area of Kyoto, where Honen was expounding the teaching on the Primal Vow of Amida Buddha and the Nembutsu.
Encounter with Honen in Yoshimizu
Shinran continuously visited Honen, seeking guidance for attaining birth and emancipation in the Pure Land and was finally approved to become a disciple of Honen. Through his dedication and unending devotion, Shinran was granted approval by Master Honen to copy his main work, Senjaku Hongan Nembutsu Shu (Passages on the Nembutsu Selected in the Primal Vow) and to make a portrait of Honen. Historically, such privileges were granted to only a few.
Marriage and Exile to Echigo
While living in Yoshimizu, Shinran married Eshinni, who was a daughter of Miyoshi Tamenori, an aristocrat in Kyoto. In those days, the teaching of senju nembutsu (lit. "sole practice of the recitation of Amida Buddha' s name") which was spread by Honen had been criticized by some traditional Buddhist schools including Enryakuji on Mt. Hiei and Kofukuji in Nara. The oppression of the Nembutsu teaching hit its peak in Jogen 1 (1207) when Honen and his disciples including Shinran were punished and exiled to different regions throughout Japan. Shinran was exiled to Echigo (present Niigata prefecture) where he then gave himself the name gutoku (lit., "foolish and stubbled-headed"). This was his way of expressing that he had taken the stance as a hiso hizoku (neither a monk nor one in worldly life).
Mission in the Kanto region and Kyogyoshinsho
Shinran began his propagation efforts since being exiled to Echigo. He and his family lived in Echigo for seven years before being pardoned. Rather than returning to Kyoto however, he and his family moved to the Kanto area. A theory has it that Shinran aimed to spread the Nembutsu teaching among samurai warriors, which was an emerging class in the region at the time. There are also records that show that in Kempo 2 (1214), Shinran at the age of 42 and his family arrived in Inada (Ibaraki prefecture), which was then governed by a powerful feudal lord who ruled Hitachi (present-day Ibaraki) and Shimotsuke (present-day Tochigi). During his time in Inada, it is said that Shinran propagated within a 30 kilometer radius from his home, allowing him to return home the next day. It was during this time that Shinran began writing his main work, the Kyogyoshinsho (The True Teaching, Practice and Realization of the Pure Land Way), while also taking part in the project of proofreading the complete Buddhist canon sponsored by the Kamakura feudal government. Stories telling of Shinran' s life while in the Kanto region have been handed down to us, many of which mention temples that are still in existence today.
Returning to Kyoto
Shinran returned to Kyoto in his early 60s after propagating in the Kanto region for about 20 years. Fellow Nembutsu followers in the Kanto region then visited Shinran in Kyoto, where he would answer their questions and he also corresponded with them through letters. In his later years, he devoted much of his time to revising the Kyogyoshinsho and composing wasan (Japanese poems) in addition to working on many other writings. On the twenty-eighth day of the eleventh month in Kocho 2 (January 16, 1263 based on the western calendar), Shinran Shonin at the age of 90, passed away at Zempobo, the temple of his younger brother Jin' u, which is believed to have been located at the corner of Sanjo and Tominokoji streets.
境内に球体の石碑が置かれています。最近は一般のお墓でも様々な形の墓石が見られますが、案内板には「台湾物故者・・・」と書いてあります。遠い異国の地で亡くなった方々の霊も祖国の地で安眠できることでしょう。
台湾物故者遺骨安置所建設の由来
太平洋戦争敗戦とともに、台湾在留の日本人は引き揚げたが、台湾に残された日本人物故者の墓地には誰一人訪れる人もなく放置されていた。これら台湾における日本人物故者を悼む多くの方の強い願いによって、昭和三十二年、当時の日本及び中華民国、両国政府の合意に基づき、台湾各地に散在する日本人墓地の整理が開始された。昭和三十六年にこれが完了とともに、台北・台中・高雄の三か所に日本人遺骨安置所がつくられ、一万三千余人の遺骨が納められた。その後、これら全員の分骨を故国に持ち帰ることができ、これを安置するため昭和三十八年三月「台湾物故者慰霊塔建設会」により、本願寺築地別院(当時)に遺骨安置所が建設された。爾来、その維持管理および年次法要は一般財団法人台湾協会がその掌にあたっている。さらに、その後台湾物故者の強い希望もあって戦後故国へ引き揚げて亡くなった方あるいは台湾縁故者で戦前故国へ帰還して亡くなった方の遺骨も、昭和六十年九月以降ここに納めている。なお、境内整備に伴い、現在、遺骨は合葬墓に納められている。
Mausoleum for the Ashes of Japanese Deceased in Taiwan
At the end of the Pacific War, many Japanese who were residing in Taiwan returned home while some remained. The gravesites of the Japanese in Taiwan had since been neglected and unmaintained. Responding to the many concerns received, in 1957, the then governments of Japan and Republic of China mutually agreed to conduct a survey to locate the graves of Japanese who were interred throughout Taiwan. When the survey was completed in 1961, mausoleums were built in three Taiwan cities including Taipei, Taichung and Kaohsiung, to house the remains of approximately thirteen thousand deceased Japanese. Approval was later granted to bring a portion of each person' s remains back to Japan and in March 1963, columbarium was built by the Association for the Building of a Memorial Monument Remembering the Japanese Deceased in Taiwan. Since then, the Mausoleum has been maintained by the Japan-Taiwan Association, which also conducts annual memorial services for the deceased. In accommodating request made by their relatives, beginning September 1985, it was approved that the remains of those who died after returning to Japan either before or after the war also be interred in the mausoleum. Following the ground development around the west gate, their ashes have since been relocated to the joint cemetery.
間新六は高輪泉岳寺にもお墓がありますが、実際は築地本願寺に埋葬されたんですね。他の四十七士と一緒になるよう泉岳寺にも供養墓が置かれたのでしょう。
間新六供養塔
間新六光風(1680年〜1703年)は赤穂藩主浅野家臣間光延の次男として生まれます。元禄十四年(1701年)三月藩主浅野長矩が殿中刃傷事件を起こし、藩は改易となります。新六は父及び兄光興とともに仇討ちに加わり、元禄十五年十二月十四日(1703年1月30日)に吉良上野介を討ち取り(赤穂事件)、麻布の長府藩毛利邸へ預かりとなり、初腹します。赤穂義士の墓は主君長矩の墓のある高輪泉岳寺にありますが、新六は義兄中堂又助により、築地本願寺に埋葬されました。泉岳寺にも新六の供養墓がありますが、本願寺に葬られた理由は、檀徒であったのか、生前の意志によるものなのか、不明です。現在のものは、火災により焼失したものを天保五年(1834年)に羽佐間宗玄が再建したものです。
Hazama Shinroku Kuyoto (Hazama Shinroku Monument)
Hazama Shinroku Mitsukaze (1680-1703) was the second son of Hazama Mitsunobu, who was a retainer of the Asano, the lord of Ako Domain. In March 1701, the lord Asano Naganori drew his sword in the Edo Castle and the domain was confiscated. Shinroku joined the retainers of the Asamo to avenge their lord with his father and the elder brother Mitsuoki. The retainers killed Kira Yoshihisa on January 30, 1703 (Ako Incident), and they committed seppuku at the residence of the Mori Clan of Chofu Domain in Azabu. The graves of the Ako Warriors are located at Takanawa Sengaku-ji Temple, where their lord Naganori's grave is located, but Shinroku was buried by his brother-in-law at Tsukiji Hongan-ji Temple. The current grave is rebuilt by Hazama Sogen in 1834 after the original grave was lost by fire.
佃島というと佃煮ですね。江戸時代、徳川家康は名主森孫右衛門に摂津国の佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の腕の立つ漁師を江戸に呼び寄せるよう言い、隅田川河口・石川島南側の干潟を埋め立てて住まわせました。佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていました。雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれ、保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及し、さらには参勤交代の武士が江戸の名物・土産物として各地に持ち帰ったため全国に広まりました。現在では佃島のあった勝どき・月島には超高層マンションが林立していますが、昔は佃島というくらいですから島だったんですね。佃島は隅田川の河口にあたり、川から運ばれてくる砂と小石で、砂し(海中に細長くできる砂の陸地)ができていました。そうなると大きな船が入ってこられなくなります。そこで明治時代の中ごろになると河口付近の川底にたまった砂や小石を取り除き、大きな船が入ってこられるようにしました。さらに、その砂や小石で隣りの石川島との間の砂の陸地を埋め立て、新しい島を造成しました。島を築いたため、読んで字のごとく「築島(つきしま)」と命名されましたが、後に築地と区別するために「月島」と改名されました。月島の名物はもんじゃ焼きですね。埋め立てが進むにつれ、沿岸の鉄工所や機械工場などで働く労働者が次々と移り住むようになり、人口が急増したことで子供の数も増えてきました。子供相手の駄菓子屋では、当時東京の下町で広く食べられていた「文字(もんじ)焼き」と言われるお菓子が人気を博していて、これが月島名物の「もんじゃ焼き」になったということです。佃煮ともんじゃ焼きは親類関係だったんですね。
佃島初代名主 佃忠兵衛報恩塔
正保元年(1644年)に埋め立て造成された個島(現在の佃一丁目)は、将軍の命で摂津国西成郡佃村・大和田村から江戸に下った漁師たちによって築島されました。島内の地所は、先達を務めた個村の庄屋・森孫右衛門・実弟九左衛門・従弟(九左衛門の娘婿)忠兵衛をはじめ、摂津国からの移住漁師三十数名の割り当て所有となりました。その後、孫右衛門は本国佃村で没し、九左衛門は日本橋の本小田原町で魚問屋(「佃屋」)を開いたため、一族の衆望を担った忠兵衛が個忠兵衛を名乗って佃島の初代名主役を務めました。初代名主の佃忠兵衛は、将軍・幕府への御用漁や佃島の開発とともに、明暦三年(1657年)の大火で焼失した本願寺の替地の埋め立て(築地)と御堂の再建にも尽カしました。境内に立つこの石塔は、佃島の開祖である初代名主・佃忠兵衛の遺徳を称えて、文久元年(1861年)の二百年忌に十代名主・森幸右衛門勝鎮(九左衛門家が絶家のため七代目から森姓を継承)と親族の佃宇右衛門寛敏が建立した報恩塔です。正面には忠兵衛の法名と没年(「篤行院釋久西居士」/「寛文二年壬寅四月四日享年九十有四歳」)、側面には、開祖の遺徳や代々名主を奉職してきた歴史が刻まれています。なお、これまで石塔正面の法名は「森孫右衛門」のものと判断されてきましたが、名主家伝来の記録などから「佃島初代名主 佃忠兵衛」であることが明らかになりました。
築地本願寺には時代・身分・職業の異なるいろんな人のお墓があります。講談や映画・歌舞伎・舞台などで知られる「男の花道」は、三代目中村歌右衛門と玄碩をモデルとする眼科医土生玄硯との友情物語です。2006年には、滝沢秀明主演の時代劇ミュージカル(滝沢演舞城)の演目の一つにもなりました。
土生玄碩墓(はぶげんせきはか)
土生玄碩(1762年〜1848年)は江戸時代後期の眼科医で安芸国吉田で生まれました。名を義寿といい、桑翁と号しました。文化七年(1810年)奧医師を拝命し、同十三年法眼に叙されました。文化五年には十二代将軍徳川家慶の眼疾を治療しました。文政十二年(1829年)、シーボルトから眼病治療法を教授された謝礼に将軍拝領の紋服を贈ったことで、シーボルト事件に連座し、改易となり、江戸を追放されました。嘉永元年(1848年)八月十七日、八十七歳で死去し、土生家の菩提寺である築地本願寺中眞龍寺に葬られましたが、昭和三年(1928年)十二月区画整理のため改葬されました。墓標には「桑翁土生君之墓」とあります。著書には、「銀海波抄」・「指談録」・「獺祭録」などがあります。
Habu Genseki Haka (The grave of Habu Genseki)
Habu Genseki (1762-1848) was an ophthalmologist in the late Edo period. He was born in Yoshida Akinokuni (currenty Hiroshima pref.). Genseki became a shogun's personal doctor in 1810 and was bestowed currently with the title of Hogen in 1816. Genseki presented Siebold with a montsuki (a haori marked with a crest) given from the Shogun, as gratitude of the professor of oculistics. Therefore he was implicated in the Siebold Affairs on 1829 and banished from Edo. On August 17 in 1848, he died at 87.He wrote "Ginkaihasho, " "Shidanroku", "Dassairoku" and so on.
お墓巡りにも疲れてきました。最後は「酒井抱一」のお墓です。
酒井抱一墓
酒井抱一(1761年〜1828年)は名門酒井雅楽頭家の姫路藩主酒井忠仰の次男として生まれました。明和四年(1767年)忠因(ただなお)と名乗ります。大名家の習いとして、武術・絵画・俳諧・狂歌などにも親しみました。寛政九年(1797年)、三十七歳で西本願寺文如上人に随い出家し、「等覚院文詮暉真」と称します。浅草千束に移住し、抱一と号します。抱一は寛政年間後半ころから尾形光琳の画風に傾倒し、文化十二年(1815年)には、文化六年に移り住んだ下根岸の新居(後の雨華庵)で光琳百回忌を営みました。抱一は、琳派の画風に諸派の技法を取り入れた独特な作風を確立し、粋で瀟洒な江戸琳派を完成させます。代表作として「光琳百図」・「四季花鳥図屏風」・「夏秋草図屏風」などがあります。文政十一年、雨華庵で亡くなり、築地本願寺に葬られました。
Sakai Hoitsu Haka (The grave of Sakai Hoitsu)
Sakai Hoitsu is a painter in the late Edo period. Hoitsu was the second son of Sakai Tadamochi, the lord of Himeji Domain. He was familiar with arts, painting and poetry as is often the case in the lord family. After he became a Buddhist priest in 1797, he changed his name to Hoitsu. Hoitsu studied the work of Ogata Korin extensively and is known as a founder of Edo Rinpa School. There are "Korinhyakuzu", "Shiki kachozu byobu"and"Natsu-akikusazu byobu" as his masterpieces. In 1828, he died at Ugean, and buried at Tsukiji Honganji Temple.
今日は日曜日なので定休日なのでしょうか、生憎とシャッターが閉まったお店の前に石塔が立っています。「佃茂」という文字が彫ってありますので、佃屋さんなのでしょう。帰ってから調べてみましたら、築地の老舗の佃煮屋さんみたいです。
創業安政三年〜元祖佃煮處 佃茂の佃煮
佃煮は天保年間(1830年頃)隅田川河口佃島において創製されたと伝えられております。その昔佃島は漁師町として江戸名所図会にも記された風光明媚な観光の地でございました。この佃島の漁師が、網にはいった雑魚等を生醤油で煮しめて保存し、家庭での副食としておりましたものが、たまたまこの地を訪れる観光客の見出すところとなり、そのさらっとした味覚と保存のきくことが江戸人士の好みにあい、次第に商品化されたと記録されております。佃茂の佃煮も百年以上の昔から祖先の研鑽のうえ創製され、以来数十年にわたり改良を重ね、幸い現代お客様方のお好みにも適い、古くから東京名物として御定評を賜っている次第でございます。佃茂の佃煮は新鮮な素材に極上の醤油・砂糖・味醂のみにて味付けしてございます。
入船橋で築地川を渡ります。といっても、当時も埋め立てが進んでいて水は流れていなかったと思いますが。橋を越えると入船三丁目になります。道路脇にこの付近の名所・旧跡を紹介した案内板が立っています。入船川は関東大震災後に造成された新大橋通りの工事のために埋め立てられ、現在はその跡地に細長く連なってビルが建っています。
入船三丁目 名所・旧跡案内
Irifune 3-chome Scenic Spots and Places of Historical Interest Information
芥川龍之介生誕の地
Ryunosuke-Akutagawa's Birthplace
夏目漱石門下で「鼻」・「羅生門」・「河童」などの名作で知られる文豪芥川龍之介(1892年〜1927年)は、明治二十五年3月1日、現在の明石町で生を受けました。
明石町10聖路加国際病院前
浅野内匠頭邸跡
The Remains of Asano-takuminokami's Residence
播州(兵庫県)赤穗藩主浅野内匠頭の江戸本邸跡。大石内蔵助をはじめとする家臣四十七士が元禄十五年(1702年)12月14日本所松坂町吉良邸に討入り亡君の仇を報じる忠臣蔵で名高い。
明石町12先
新富座跡
The Remains of Shintomiza Theater
江戸三座森田座の後身。明治五年(1872年)猿若町より新富町に移る。当時流行のガス灯を最初に使用した劇場で、団十郎・菊五郎・左団次などの名優を集めて、演劇界を風びした。
新富2−6−1
町名案内
Information on Land Names
旧)入舟町
Fomer) Irifunecho
町の西側に入船川があったので、入船町の名がつき、昭和四十六年1月の住居表示実施により入船となりました。
旧)湊町
Fomer) Minatocho
江戸時代商船が隅田川から上がってきて、ここに荷を揚げたり、はしけの入ったり出たりする港町であったことから、湊町となったようです。昭和四十六年1月の住居表示実施により湊になりました。
明石町
Akashicho
江戸時代に播州(兵庫県)明石の漁師が、この地に移住したためとも、風景が明石浦に似ていたためともいわれます。
旧)新富町
Fomer) Shintomicho
明治四年、現在の新富内の西側にあった大富町に対してつけられたという説と、新島原の「新」と大富町の「富」とを合わせてできたという説があります。昭和四十六年1月の住居表示の実施により新富となりました。
築地
Tsukiji
明暦の大火(1657年)後に埋め立てられたところで、文字どおり海岸に築いた土地ということで築地となりました。
新大橋通りの西側にビルの谷間にポッカリと空いた空間があります。旧桜川の水路跡です。その延長線上の新大橋通りの東側には桜川公園が長く続いています。こうしてみますと、桜川の川幅は相当に広かったことが見て取れます。
茅場町一丁目交差点で永代通りと交差します。永代通りには多くの都電の路線がありましたので、都電同士がここで交差していたことでしょう。交差点の手前に「地図御用所跡」の案内板が立っています。芭蕉もそうですが、伊能忠敬も山の手ではなく下町が好みだったようです。
地図御用所跡
地図御用所は、実測による初めての日本全図を作製したことで知られる伊能忠敬(1745年〜1818年)の住居に設けられていました。伊能忠敬は、五十一歳の時に下総国佐原(現在の千葉県佐原市)から江戸深川黒江町(現在の東京都江東区)に居宅を移し、幕府天文方高橋至時の門に入って天文学を学び始めました。寛政十二年(1800年)からは本格的に日本全国の測量をはじめ、以降十七年間にわたって日本全国の沿岸を測量し、その総距離は約四万キロメートルにも及んだといいます。文化十一年(1814年)、九州地方の測量から帰った忠敬は、深川黒江町から八丁堀亀島町と呼ばれていた現在地付近へ転居しました。この屋敷の敷地は百五十坪ほどでしたが、忠敬の居住地としてだけではなく、測量図を作製するための地図御用所として利用されていました。忠敬は地図が完成する前の文政元年(1818年)に亀島町の居宅で死去してしまいましたが、その後も忠敬の居宅は地図御用所として使用され、文政四年(1821年)門弟や天文方の下役等の手により「大日本沿海奥地全図」が完成しました。
茅場橋で日本橋川を渡ります。日本橋川は埋め立てを免れましたが、船運の要所だったからかもしれません。茅場橋の欄干には小舟に乗って川を渡る一行を描いたレリーフが取り付けられています。茅場橋の橋名は町名の茅場町からとったようですが、茅場町の町名は、徳川家康の江戸城築城の際に神田橋門外にいた茅商人をこの辺りに移住させて市街地(町人地)としたことに由来するようです。江戸時代には瓦葺きよりも茅葺き屋根の方が圧倒的に多かったでしょうから、茅商人もそれなりに多くいたのでしょう。
蛎殻町(かきがらちょう)交差点の東側に、ビルに挟まれた「とうかん掘通り」という道路があります。「掘」と付くからにはかっての掘の後にできた道路と思われます。「とうかん」って変な名前ですね。調べてみましたら、漢字で「稲荷」と書くんだそうです。「とうかん掘通り」とは「稲荷掘通り」のことだったんですね。
ネットに稲荷掘のことが書いてありました。
稲荷堀
小網町と蛎殻町一丁目の境にあたるこの辺一帯は、昔は掘割になっていました。その河岸の端に稲荷神社があったことから、稲荷を音読みで「とうか」とか「とうかん」と読んで、堀をとうかん堀と呼んだと伝えています。この地域は、この堀を利用して、各種の荷物が船で運ばれたために問屋が集り、特に瀬戸物問屋の多かった所です。堀の出入口にあった行徳河岸は、寛永九年(1632年)以来、この堀と下総(千葉県)行徳村とをむすんできました。この水路は行徳からの塩の受入地となり、また江戸から下総への唯一の交通路となって、行徳行きの人と塩などを積んだ船が出入りする賑やかなところでした。この堀は、最古の江戸図といわれる「寛永江戸図」にも、見られます。また、この堀にそって酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷があり、幕末までありました。姫路藩十五万石の藩主として知られています。酒井家の屋敷の一部は、明治維新の後、明治六年(1873年)十月まで西郷隆盛の屋敷となりました。なお、東華小学校(現、日本橋小学校)の校名は稲荷堀の稲荷(とうか)をとって東華(とうか)と名付けられたといわれています。
一説には蛎殻町交差点の直ぐ先にある「銀杏八幡宮=銀杏稲荷」が「稲荷掘」の名前の由来になったのではないかとも言われています。
この辺りは海に近かったことから、蛎殻町の町名は牡蠣(蛎)の殻が大量にあったことに由来するのだろうとは容易に想像できます。「地名は由来を表わす」ってよく言ったものです。
日本橋蛎殻町一丁目 名所・旧跡案内
Nihonbashi-kakigaracho 1-chome Scenic Spots and Places of Historical Interest Information
谷崎潤一郎生誕の地
Junichiro-Tanizaki's Birthplace
明治十九年(1886年)、人形町に生まれた。日本的な伝統美に傾倒し、和辻哲郎と「新思潮」を創刊し、短編小説・戲曲を発表して王朝文化の息吹を現代に生かした新しい境地を開いた。
日本橋人形町1−7−10
鉄造菩薩頭
A head of a Buddhist saint made of iron
総高170cm、面幅54cmの鋳鉄製。鎌倉の新清水寺に存した観音像であったが火災に遭い、頭部のみ掘り出されたのち明治九年現在地に安置された。関東特有の鉄仏の中でも優秀な遺品。
日本橋人形町1-18-9
町名案内
Origin of Town Name
日本橋人形町
Nihonbashi-ningyocho
江戸時代、多くの人形師が住んでいて、人形を作り、売る店が並んでいたので、俗称で人形町と呼ばれていたのが、正式町名になりました。
旧)日本橋浪花町
Fomer) Nihonbashi-naniwacho
このあたりは慶長(1596年〜1614年)の頃、大阪方面からの回船が多く着き、町名は謡曲の難波に由来します。明治四年に難波町と同裏河岸を合併して浪花町と改称しました。
旧)日本橋芳町
Fomer) Nihonbashi-yoshicho
江戸時代の初めごろまで、ヨシなどの群生する所で、町名は江戸期の俗称です。
日本橋蛎殻町
Nihonbashi-kakigaracho
昔は漁師の小網の干し場であり、牡蠣の殻の堆積した海浜であったらしいのですが、町名の由来は明らかではありません。
水天宮前交差点で水天宮通りと交差します。水天宮通りにも都電13・21系統が走っていました。
都電9系統には通常運転区間と延長運転区間がありました。浜町中ノ橋は通常運転区間の終点になります。延長運転では、この先新大橋を渡り、森下町まで運行されていました。「浜町」と「中ノ橋」の名前にはどんな由来があるのでしょうか?実は、「浜町」は「浜町川」に由来し、「中の(ノ)橋」は浜町川に架かっていた橋なのです。浜町川に竜閑川かぁ。「東京の河川を歩く」って、ちっとも東京の河川を網羅していませんね。
浜町川(はまちょうがわ)は、かつて千代田区岩本町から中央区日本橋浜町まで流れていた運河です。神田川から箱崎川を経て隅田川に通じていました。江戸時代初頭に隅田川側から開削が始まり、1691年に竜閑川と接続し、L字型の流路となっていました。元吉原遊廓の「おはぐろどぶ(遊女が逃げぬよう遊郭の周りをぐるりと囲んだ水路で、名前の由来は遊女が使用したお歯黒を流すからと言われています)の役割がありました。明治十六年(1883年)に竜閑川接続点から神田川までを新規開削し、隅田川とつながる運河となりました。そのため船運の利用が多くなりましたが、1948年から1950年にかけて北から小川橋まで暗渠化され、残りが1972年に埋め立てられました。跡地は浜町緑道(グリーンベルト)となっています。
<<都電9系統跡コース(延長運転)に続きます。>>
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