都電9系統跡コース(延長運転)  

コース 踏破記  

<<都電9系統跡コース(通常運転)(2)の続きです>>  

浜町中ノ橋から都電9系統の延長区間を歩きます。といっても、都電9系統跡(通常運転)コースと同じ日に歩いたのではありません。渋谷から浜町中ノ橋までは1月10日に歩いたのですが、その後都電9系統に延長運転区間があることを知り、2月9日に浜町中ノ橋から森下町までを歩こうとしたのです。ところが森下町電停がどこにあったのか分らず、住吉二丁目交差点まで歩いてしまいました。それで、森下町電停の場所を確認してから翌日の2月10日に歩き直した次第です。



歩き出してすぐの歩道に人形町の名所・旧跡の案内板が立っています。一部蛎殻町一丁目の案内板と内容が重複しています。

日本橋人形町二丁目 名所・旧跡案内
Nihonbashi-ningyocho 2-chome Scenic Spots and Places of Historical Interest Information

玄冶店跡
The Remains of Genyadana

「玄冶店」の地名は、江戸時代、京都の医者で、将軍秀忠の医官として隔年に江戸に下った岡本玄冶(1587年〜1645年)が住んだことに由来し、歌舞伎「与話情浮名櫛」の舞台となる。
日本橋人形町3−8

鉄造菩薩頭
A head of a Buddhist saint made of iron

総高170cm、面幅54cmの鋳鉄製。鎌倉の新清水寺に存した観音像であったが火災に遭い、頭部のみ掘り出されたのち明治九年現在地に安置された。関東特有の鉄仏の中でも優秀な遺品。
日本橋人形町1-18-9

谷崎潤一郎生誕の地
Junichiro-Tanizaki's Birthplace

明治十九年(1886年)、人形町に生まれた。日本的な伝統美に傾倒し、和辻哲郎と「新思潮」を創刊し、短編小説・戲曲を発表して王朝文化の息吹を現代に生かした新しい境地を開いた。
日本橋人形町1−7−10

町名案内
Information on Land Names

日本橋人形町
Nihonbashi-ningyocho

江戸時代、多くの人形師が住んでいて、人形を作り、売る店が並んでいたので、俗称で人形町と呼ばれていたのが、正式町名になりました。

旧)日本橋浪花町
Fomer) Nihonbashi-naniwacho

このあたりは慶長(1596年〜1614年)の頃、大阪方面からの回船が多く着き、町名は謡曲の難波に由来します。明治四年に難波町と同裏河岸を合併して浪花町と改称しました。

旧)日本橋北新堀町
Fomer) Nihonbashi-Kitashinhoricho

新堀川の北側に沿った町なので、この名がつきました。

旧)日本橋芳町
Fomer) Nihonbashi-yoshicho

江戸時代の初めごろまで、ヨシなどの群生する所で、町名は江戸期の俗称です。




浜町中ノ橋交差点で清洲橋通りと交差します。左手に進めば明治座があります。東京マラソンで脱落者収容バスと競争しながら走ったところです。



最初の新大橋は江戸時代に隅田川3番目の橋として架橋されました。「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。その後、明治十八年(1885年)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、更に明治四十五年(1912年)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わりました。竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など特色あるデザインが見られました。現在の橋は。昭和五十二年(1977年)に架け替えられたものです。

新大橋 由来

新大橋は、隅田川に架かる3番目の橋として元様六年(1693年)に架けられました。この橋の架設により江戸市中との交通が便利になり、 深川の発展に大きく影響しました。初めは、現在地より約200mほど下流に架けられていましたが、明治四十五年(1912年)7月鉄橋となり現在地に架替えられました。昭和五十二年、現在の新大橋に架替えられ、旧鉄橋は明治の面影をとどめる橋であることから、愛知県の明治村へ移され保存されています。




新大橋は人助け橋とも呼ばれていました。橋の手前にその理由を記した2つの案内板と巨大な石碑が立っています。

「人助け橋」のいわれ

大正十二年(1923年)九月一日、突如として起こった関東大震災は随所で火災を誘発し、そのため各所で橋が焼け落ち多数の痛ましい犠牲者を出した。しかし幸いにも明治四十五年に建造された新大橋だけは火災からまぬがれ、逃げ惑う一万有余の尊い生命を救い、かつ、遮断された各方面への交通を一手に引き受けて、避難橋としての重責を十分に果たした。そのため、新大橋は多くの人々から「人助け橋」と呼ばれ永く親しまれるようになった。なお、当時久松警察署の新大橋西詰派出所に勤務する羽鳥源作・三村光・今給惣克巳・植木機禅・伊藤盛雄・浅見武雄ら各警察官は一致協力して多数の避難者を誘導し、さらに携行してきた荷物を橋詰で適切にさばいて人災の防止と避難路の確保のために活躍されたという。一身を顧りみず沈着勇敢に行動されたその功績は、永く後世に称えられるべきものである。




石碑には古めかしい字体で長文の追想文が書かれていますが、書き取るには難しいのでネットに掲載されていた文章を使わさせて頂きます。

避難記念 貴族院議員正四位伯爵 有馬頼寧 篆額

思い起こすだけでも鳥肌が立つほど恐ろしいのは大震火災の時の状況である。時は大正十二年9月1日、場所は新大橋の橋の上である。火災を避けて来た数万の市民が九死に一生を得たのは神と人の力が一致したためではないであろうか。この時、橋の両側より狂ったような紅蓮の炎と煙が刻一刻と迫り、進むも火、退くも火の状況で、身を河に投じようにも濁流に飲み込まれるだけであり、進退窮まった。絶叫が満ちて、その惨状は目も当てられない状況であった。この時市民は、橋の上に避難されていた水天宮や小網稲荷神社・玄冶店橘神社のご神体を伏して拝むとともに警察や在郷軍人その他有志の人々は着火しそうな荷物をことごとく河に捨てさした。中には貴重な物であるので泣いて拒む人もいたが人の命には替えられない。この素早い断固たる処置は的を射たものであった。人事を尽くして天命を待っていたところ夜も明けて火も鎮まり、市民はやっと正気を取り戻して互いに生還したことを喜び合った。また、五大橋の中でこの橋だけが災害から免れることが出来たのは神のご加護と人の力であった。その後、法木徳兵衛が呼びかけ、森田恒一・加藤肆郎・庄野又兵衛が賛同して発起人となり、この橋の上で災いを免れた人々が集まり、大震火災新大橋避難記念会を組織した。毎年当日水天宮にお参りし、橋の上に集まって当時を追想してきたが、本年は十周年になるので、思いで深い新大橋西側の一隅に碑を建て、建碑趣旨を刻み永久に記念とする。




中央区の案内板が一番わかりやすいですね。

震災避難記念碑

隅田川に架かる現在の新大橋は、中央区と江東区を結ぶ長さ約173メートルの斜張橋です。江戸幕府が編さんした地誌「御府内備考」によれば、橋の創設は元禄六年(1693年)にさかのぼり、新大橋という名前は、既に架けられていた千住大橋に対して付けられたといいます(両国橋を大橋とし、それに対する名だとする説もあります)。当初は幕府が管轄する公儀橋でしたが、後に町人が維持管理を行うようになりました。明治四十五年(1912年)になると、新大橋は上流に場所を移して木造橋から鋼製のトラス橋へと架け替えられました。この橋は大正十二年(1923年)に発生した関東大震災の折、隅田川の橋の多くが焼け落ちる中、大きな損壊等を被ることなく、橋上に避難した大勢の人の命を救いました。また、近隣の水天宮や小網神社のご神体も新大橋に避難したことが幸いし、難を逃れたといわれています。そのため、通称「お助け橋」と呼ばれるようになりました。その後、橋上で被災を免れた人々により新大橋記念会が結成され、昭和八年(1933年)、震災から十年目を記念して橋詰に「震災避難記念碑」が建立されました。なお、この橋は太平洋戦争による空襲にも耐えましたが、橋台の沈下が激しく、昭和五十二年(1977年)に現在の橋に架け替えられています。

Earthquake Refuge Monument

The Shin Ohashi is a 173-meter cable-stayed bridge over the Sumida River, connecting the Chuo and Koto cities. According to a gazetteer of Edo compiled by the Edo shogunate in the 19th century, construction of the first bridge with that name goes back to 1693. The name Shin Ohashi (New Great Bridge) may have been chosen because another "great bridge," the Senju Ohashi had already spanned the same river, or possibly because the Ryogokubashi bridge over the river was considered a great bridge. The Shin Ohashi was initially the public bridge under the jurisdiction of the Edo shogunate, but later, the local merchants came to maintain and manage the bridge. In 1912, the wooden Shin Ohashi was replaced with a steel-truss bridge with the same name, moved upriver from the original location. During the Great Kanto Earthquake in 1923, while most of the other bridges over the Sumida River were destroyed by fire, the Shin Ohashi survived without serious damage, saving the lives of many people who took refuge on the bridge. Sacred objects from two local shrines, Suitengu and Koami Jinja, were also saved from the disaster by seeking refuge there. The bridge therefore became commonly known as Otasuke-bashi (Saving Bridge). Survivors who had evacuated to the bridge established the Shin Ohashi Memorial Association, which erected the Earthquake Refuge Monument at one end of the bridge in 1933 to commemorate the tenth anniversary of the disaster. Although the Shin Ohashi survived the air raids of the Second World War, sinking of the bridge piers led to its replacement with the current structure in 1977.




新大橋の中程にある主塔に新大橋の由来を記した銅板が埋込まれています。

新大橋の由来

新大橋は、元禄六年(1693年)十二月七日に現在地よりやや下流に、はじめて木の橋が架けられた。両国橋が、万治二年(1639年)に架けられて、その当時「大橋」と呼ばれていたので、その下流に新しく架けられたこの橋を「新大橋」と称した。その頃、新大橋近くの深川に住んでいた俳人松尾芭蕉は、新大橋の架橋を喜んで次の句をよんだ。

    初雪やかけかかりたる橋の上
    ありがたやいただいて踏む橋の霜

以来、新大橋はたびたび架けかえられたが、明治四十五年(1912年)七月十九日、現在位置に鉄橋の新大橋が誕生した。この鉄の橋は、関東大震災(1923年)および太平洋戦争の大空襲(1945年)にも耐え、橋上において多くの人々の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになった。その鉄橋は、六十有余年の間、道路橋としての使命を十分に果たして、昭和五十二年三月二十七日、現在の橋に架けかえられた。なお、その鉄橋の一部は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されている。




江戸時代の木橋の様子と明治時代に掛け替えられた鉄橋のレリーフも添えられています。橋の幅が全然違いますね。十分な橋梁架設技術も資材もなかった江戸時代に隅田川に木の橋を架けるのは困難だったことでしょう。架設後も20回以上も破損・流出・焼落を繰り返していたそうですから、橋の維持管理にも莫大なお金がかかったといわれています。



新大橋を渡ると、すぐに森下町電停があったであろう都営地下鉄新宿線・大江戸線の森下駅前に到着します。森下町電停には都電23・36系統が通っていましたので、その接続も行われていたのかもしれません。



ということで、都電9系統跡を歩き終えました。途中、日比谷公園と築地本願寺で寄り道をしたために長文になってしまいました。次は都電9系統(変更後)跡を歩きます。短めにまとめたいのですが、こちらも写真が多数ありますねぇ。。。




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