- 都電8系統跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電8系統跡を歩きます。都電8系統は中目黒から築地までを結び、その路線は主に駒沢通り・明治通り・都道415号線(麻布通り)・都道319号線・国道1号(桜田通り)・晴海通りを通っていました。中目黒を発着する唯一の都電でした。
都電8系統
都電8系統の全長は10.2kmで、昭和42年12月10日に廃止となりました。
都電8系統の電停(路上の駅)は、中目黒・下通五丁目・ヱビス駅・渋谷橋・下通二丁目・天現寺橋・光林寺・四ノ橋・古川橋・三ノ橋・二ノ橋・一ノ橋・中ノ橋・赤羽橋・飯倉四丁目・飯倉一丁目・神谷町・巴町・虎ノ門・霞ケ関・桜田門・日比谷・数寄屋橋・銀座四丁目・三原橋・築地でした。
都電8系統の中目黒電停はどこにあったのでしょうか?普通なら、利用客の便宜を考慮して駅近くの場所に電停を設ける筈ですので、中目黒なら東急東横線の中目黒駅近くの山手通り上にあったと思うのですが、ネットの情報では駒沢通りと山手通りが交差する中目黒立体交差交差点付近に電停があったらしいのです。ということで、中目黒立体交差交差点付近を都電8系統の起点となる電停と定めます。交差点の向かいにあるビルには、1970年代に旧富士銀行の事務センター(現在は、みずほ銀行中目黒事務センター)が入っていて、富士銀行のオンラインシステムのコンピュータも設置されていました。そのためか、建物には窓がほとんど無く、外壁は赤茶色のせっ器質タイルで覆われて外熱の遮断効果に配慮されています。竣工から50年近く経ち、老朽化が進んだのかこのビルは建て替えられることになったようで、既に解体工事が始まっています。時代の流れですかね。
中目黒立体交差交差点から恵比寿方向に駒沢通りを進みますと、目黒川に橋が架かっています。幅が広いので普段はあまり気にしませんが、橋の名前は「皀樹橋(さいかちばし)」となっています。「皀樹」とは「皀莢(梍とも書きます)」が転訛したものです。マメ科の落葉高木で、幹や枝に大きな鋭いトゲがある木です。お茶の水に「皀莢坂」という坂道があり、京都にも「皀莢町」なる地名があります。埼玉県の草加市には綾瀬川に架かる「槐戸(さいかちど)橋」がありますが、こちらの槐(本来の読みは「えんじゅ」)も同じマメ科の高木です。恐らく、かってはこの目黒川沿いに皀莢の木が群生していたことでしょう。
駒沢通りは恵比寿方向に向って上り坂になっていますが、その中程に「下通リ五丁目」のバス停があります。恐らく都電8系統の「下通五丁目」電停もこの辺りにあったのでしょう。
都電8系統は恵比寿駅の横で山手線の高架下を通ります。昭和33年頃の恵比寿の電停名は「ヱビス駅」で、廃止された時は「恵比寿駅」だったみたいです。ちなみに、恵比寿駅西口のアトレ前にある「ゑびす像」ですが、プレートをよく見ますと揮毫者が第66代内閣総理大臣「三木武夫」書となっています。なかなか気が付かないですね。昭和五十年11月16日建造とありますので、都電8系統はとっくの昔に廃止されていたことになります。
駒沢通りは渋谷橋交差点で終点となり、都電8系統は交差点を右折して明治通りに入ります。
外苑西通りと明治通りが交差する天現寺橋交差点の手前に細長い広尾公園があります。その植樹の内に都電車庫跡の案内板があります。ここには昭和四十四年(1969年)まで都電の車庫がありました。当時の車庫の敷地は、現在公園に隣接して建っている都営アパートの敷地も含んでいましたので相当に広かったようです。
都電車庫跡
このあたりには、都電の広尾電車営業所がありました。営業所は、大正七年(1918年)八月に開設され、都電の車庫も兼ねていました。都電の歴史は、明治十五年(1882年)六月に新橋〜日本橋間を走った鉄道馬車が起源といわれています。同三十六年(1903年)八月に動力が馬から電気へと切り替わり、同三十九年三月に信濃町〜天現寺橋までの区間が開通Lました。同四十四年八月に東京市がそれら事業を東京鉄道から買収し、市営化して東京市電が誕生することとなります。順次路線は延び、大正二年(1913年)四月には、天現寺・伊達跡間が開通します。さらに、同十三年五月までに、玉川電気鉄道(のち、東京横浜電鉄に合併)の路線が渋谷から天現寺橋まで開通しました。この渋谷〜天現寺橋間及び渋谷橋〜中目黒間は、昭和十三年(1938年)十月には、経営を東京市に委託(昭和二十三年三月に正式に都に売却)することとなりまLた。同十八年七月の都制施行により、通称を都電と呼ぶようになりました。昭和三十年代に入ると、都電は交通渋滞の誘因ともなったことから、渋谷界隈を走っていた都電も昭和四十二年十二月から順次廃止されていきました。広尾電車営業所は、7系統(四谷三丁目〜泉岳寺前)・33系統(四谷三丁目〜浜松町一丁目)・34系統(渋谷駅前〜金杉橋)の廃止を受けて、昭和四十四年十月にその役割を終えます。
天現寺橋の名前の由来となった多聞山天現寺は交差点の北東にあります。本尊として聖徳太子の作とされる毘沙門天の像が祀ってあり、毘沙門天は多聞山とも称されることから山号が多聞山となっています。天現寺橋は外苑西通りの渋谷川にかかる橋です。余談ですが、橋の南東側に慶應義塾幼稚舎があります。明治の頃、下流の狸橋たもとの狸蕎麦に福澤諭吉がしばしば来店し、この地を愛した福澤は狸橋の南側の地を買収し、それが今日の慶應義塾幼稚舎および北里研究所となりました。
首都高目黒線の天現寺出入口前に光林寺があります。格式の高いお寺とされ、墓地には大名・旗本・大企業の役員などのお墓が多くあります。2018年9月30日、光林寺において女優・樹木希林の葬儀が執り行われ、その後亡くなった夫の内田裕也と一緒に光林寺に埋葬されました。
そんな有名人に混じって、光林寺には幕末時代の外国人のお墓もあります。ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケンという若者で、オランダ人ですが一家でアメリカに渡りアメリカ国籍をとった後、当時の日本がオランダ語を外交時の公用語としていたこともあって、英語とオランダ語がわかる人物としてアメリカ総領事ハリスの通訳として雇われました。ハリスと共に来日した後で日本語も習得し、日米修好通商条約の締結に貢献しました。英語とオランダ語ができる貴重な通訳として、ヒュースケンは各国から通訳を依頼され、プロイセン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、ドイツ統一の中核となった王国)の仕事も引き受けていました。万延元年12月4日(5日という記述もあります)、ヒュースケンは江戸城の周りを馬でまわって(ヒュースケンは乗馬が好きでした)午後6時頃にプロイセン王国の使節宿舎であった芝赤羽接遇所(北区の赤羽でなく、現在の赤羽橋の近くにあった)に到着し、プロイセン王国の使節らと夕食を摂ったあとも夜8時半頃まで雑談に興じ、その後幕府の3名の騎馬役人・従僕ら4人・馬丁2名を警護に付けて善福寺のアメリカ大使館への帰路につきました。しかし、その途中の夜9時頃、芝薪河岸にある中の橋付近で攘夷派「浪士組」所属の薩摩藩士8名に襲撃されました。腸を切断するほどの深手を負い、約200m先で落馬したヒュースケンはアメリカ公使館に運ばれ、ハリスはプロイセン王国使節団の医師と数名を呼び寄せました。また、既に駆けつけていた日本人医師らと懸命な手当をおこないましたが、翌5日(6日という記述もあります)に失血死で28歳の若さで息を引き取りました。ヒュースケンの遺骸はプロイセン王国が用意した棺に納められるとアメリカ国旗で包まれ、善福寺は土葬が禁じられていたために、土葬が可能な光林寺に運ばれて埋葬されました。
ヒュースケン墓
アメリカ総領事ハリスの通訳兼書記官として、安政三年(1856年)七月に下田に到着したオランダ人ヒュースケンは、その仮公使館が設けられるに及び江戸に入り、ハリスの片腕となって困難な日米間の折衝に活躍し、日米修好通商条約を調印にいたらしめ、また、日本と諸外国の条約締結にも尽力した人物である。万延元年(1860年)十二月、ヒュースケンは日本とプロシアとの修好条約の協議の幹旋のため、会場であった赤羽接遇所と宿舎の間を騎馬で往復していたが、五日午後九時ごろ、宿舎への帰路、中ノ橋付近で一団の浪士に襲われ、刀で腹部を深く切られた。その後宿所に運ばれ、プロシア使節団の医師らによる処置が行われたが、六日未明に死亡した。遺体は江戸光林寺に埋葬された。
古川には多くの橋が架かっていますが、光林寺の前から麻布十番にかけて五之橋・四之橋・・・一之橋と橋の名前に数字が振られています(間に古川橋が入っていますが)。四之橋の欄干に橋の由来を記したプレートが設置されています。
四之橋の由来
この橋は、高輪の葭見坂(よしみざか)から麻布本村に向かう、古い街道すじにあったという伝承があるので、初めて架けられたのは、江戸時代よりも前のことであろう。江戸時代になって寛永七年(1630年)に、幕府の薬草栽培所が麻布側の坂の西に設けられると、橋は御薬園橋と呼ばれるようになった。その後、薬園に五代将軍綱吉の別荘富士見御殿(白金御殿ともいう)が建設されることになって古川を改修したとき、元禄十二年(1699年)に、一之橋から四番目の橋なので、四之橋と名づけたとされている。なお橋の西北角に土屋相模守の下屋敷があったために、相模殿橋と呼ばれることもあった。
古川橋の南側に山手線内最大戸数の再開発と謳って、白金ザ・スカイというプロジェクトが進行中です。2022年12月下旬に竣工し、2023年3月下旬に入居を開始する予定だそうです。高さ156m・地上45階の東棟と地上19階の西棟で構成され、総戸数1247戸の超高層マンションになるとか。憬れのシロカネーゼが大量に誕生して希少価値が下がるかも。
古川橋で左折し、麻布通りに入ります。麻布通りは都道415号高輪麻布線のうち、古川橋交差点から六本木二丁目交差点までの区間に付けられた名称です。ちなみに、明治通りは古川橋交差点で終点(道路行政上は起点)となります。
麻布通りを進むと、左手に麻布十番の駅があります。麻布十番駅には南北線と大江戸線の2本の地下鉄が通っています。地下鉄なので、地上にはガラス張りの出入口しかありません。出入り口の両側は長〜く延びる商店街になっていますが、大規模なビルや商業施設は少なく、雑居ビルや商店が多く建ち並んでいます。以前は鉄道の駅がなく「陸の孤島」とも呼ばれていましたが、現在では麻布十番駅もでき、複合施設や六本木ヒルズが近いなど人気の高い街となっています。ちなみに、「麻布」の地名は、その昔この一帯で麻を多く植えて布を織っていたことに由来し、麻がよく育つ土地という意味で「麻生」になり、これが転じて「麻布」となりました。「十番」の地名は諸説ありますが、元禄十一年(1698年)に五代将軍徳川綱吉の白金御殿を建築する際、土運びをする人足(労働者)が一番から十番のグループに編成され、この地域の人々が十番目に当たっていたことに由来するという説が有力です。
新一の橋交差点を右折し、古川沿いに赤羽橋に向かい、赤羽橋交差点を左折して国道1号(桜田通り)に入ります(ここから虎ノ門交差点までの区間は都電3系統と重なります。重複するところもありますが、写真は新しく撮ったものです)。交差点の先に、「芝地区ちぃまっぷ」の案内板が立っています。もみじ谷は都会の中とは思えないほど木々に囲まれた急峻な地形になっています。
もみじ谷
東京タワー眼下の都立芝公園にある「もみじ谷」。モミジやケヤキに囲まれた谷の地形には滝から落ちた小川が流れ、都心にいるのも忘れてしまうほどの癒しの空間です。
Momiji-dani (Maple tree valley)
Located in the area of Shibakoen Park and owned by the Tokyo Metropolitan Government, the Momiji-dani (Maple Tree Valley) is a healing valley with a flowing stream from a waterfall surrounded by Maple and Zelkova trees.
長柏園跡の碑
長柏園とは、近代の造園界の先覚者である長岡安平翁邸の称です。独学で造園を修め、地域の自然特色を活かす設計手法で数多くの公園を設計しました。「もみじ谷」も翁の設計によるものです。
Former Chohaku-en
Chohaku-en is another name for the residence of the revered and elderly Mr. Nagaoka Yasuhei, a pioneer of modern landscape architecture. He studied landscape architecture by himself and designed many parks by actively applying the original characteristics of nature uniquely to each location. Momiji-dani was also designed by him.
緩やかな坂道を上がった飯倉交差点の手前に熊野神社が鎮座しています。以前来たことがあったなと思い出してみますと、お正月に港七福神を歩いた際に立ち寄った恵比寿神の神社でした。旧飯倉村の鎮守であり、飯倉熊野神社とも称されています。元禄十六年の火事で全ての記録が焼失し、熊野神社の勧請・縁起は今ではわからないとのことです。ここ数年はこの神社に新しいご利益が加わり、サッカーのお守りが授与されるようになりました。熊野神社の神紋である3本の足のある八咫烏(やたがらす)がJリーグのシンボルマークになっていることから参拝する人が増えたそうで、選手本人というより家族やサポーターの方が多いとのことです。サッカー協会公認の「サッカー御守」は白と青で塗り分けられ、恵比寿さまの土鈴とともに有難味を醸し出しています。
飯倉交差点の先に、芝地区ちぃまっぷの案内板が立っています。
西久保八幡神社の貝塚
今から約3700年前の縄文時代後期のものといわれる貝塚が境内にあり、当時は東京湾がこの付近まで入り込んでいたことが感じられます。港郷土資料館内でこの貝塚の展示を見ることができます。
A shell mound at Nishikubo-hachiman Jinja Shrine
It is believed that the shell mound in the shrine is approximately 3700 years old from the latter half of the Jomon period. During that period, Tokyo Bay was larger than today. The exhibition of the shell mound is open to the public at the Minato City Local History Museum.
金地院(近藤周斎の墓)
徳川家康に招かれ、幕府の政策に関与したことから「黒衣の宰相」と称された崇伝が建立した寺です。新撰組局長近藤勇の養父である近藤周斎の墓があり、それを目当てに訪れる人もいます。
Konchi-in Temple (A tomb of Kondo Shusai)
Suuden, a monk called "a prime minister with black robe", established the temple. He was asked to take part in the government's administration by Shogun Tokugawa lyeyasu. There are also some people who visit the tomb of Kondo Shusai, the father of Kondo Isami. Kondo Isami was the head of Shinsen-gumi in which they promoted exclusionism.
工事用の塀が日比谷線の神谷町駅を取り囲むように連なり、塀の中の広大な土地にはクレーンが林立しています。「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」という名称の工事で、区域面積は約8.1ヘクタールに及ぶそうです。住宅・事務所・店舗・ホテル・インターナショナルスクール・中央広場・文化施設などが建てられる計画で、その延床面積は約86万平方メートルになるとか。第二の六本木ヒルズになることでしょう。
虎ノ門三丁目交差点の手前に芝地区旧町名由来板が立っています。この辺りは起伏が激しかったようで、愛宕神社が鎮座する愛宕山は標高が25.7mであり、自然の山としては23区内の最高峰となっています。
芝地区旧町名由来板
The origins of old town names in Shiba area.
This signboard guides the origins of old town names, each of which in most cases represents its own history of the beginning or the location.
西久保巴町
愛宕山の西北麓に位置する町域です。慶長十三年(1608年)に天徳寺門前、および元禄年間(1688年〜1699年)に下谷町と車坂町の代地となり、西久保新下谷町・西久保車坂町と唱えました。明治五年(1872年)、浜田藩松平右近将監屋敷・西久保新下谷町・西久保車坂町・天徳寺地・同門前町および幕士の屋敷を合併して、新たに西久保巴町となりました。町名は、町内が南は神谷町境に延び、東は北西に屈曲し巴の形によく似ていることに由来します。
Nishikubotomoe-cho
Consisting of both Nishikuboshinshitaya-cho and Nishikubokurumazaka-cho during the Genroku period (1688-1699), the town area was situated at the northwestern foot of Atagoyama hill. In the 5th year of the Meiji period (1872) both the towns were united to develop into a single town named Nishikubotomoe-cho, including near-by samurai residences, a temple territory and its town. "Tomoe" of the town's name meaning a comma-shaped heraldic design, it got the name because its area shape resembled the design.
葺手町
西久保巴町と西久保城山町とに挟まれ、西方は赤坂区および麻布区に接しています。 むかしは幸橋門外の二葉町の続きにありましたが、元禄四年(1691年)に用地を召し上げられ、西久保の土取場に代地を与えられました。土取場とは土木用の土砂を取り崩した場所をいい、葺手町と城山町の間の道を入った崖下にありました。町名の由来はあきらかではありませんが、町の状況から屋根職人の人が多く居住した町と推測されます。
Fukide-cho
The town moved to this substitute land in the 4th year of the Genroku period (1691) because the original site was seized by authority. It was sandwiched in between Nishikubotomoe-cho and Nishikuboshiroyama-cho, adjacent to Akasaka Ward and Azabu Ward in the west of the town. It is unknown how this town got its name. However, judging from the town's name or according to other information available, many roofers seem to have resided in this town.
西久保城山町
西久保通りから葺手町と神谷町との境の道路に入ると、左手に西久保城山町があります。もとは、葺手町の土岐邸から町内へかけてを俗に城山と呼び、むかし、ここに熊谷次郎直実、あるいは太田道灌が城砦を築いたという伝承があります。 明治五年(1872年)に池田甲斐守・小堀大膳・大久保隼人等、諸幕士の屋敷を合併して、新たに町名を西久保城山町としました。
Nishikuboshiroyama-cho
Legend has it that Kumagai Jiro Naozane or Ota Dokan constructed a castle (shiro) here in old times, and therefore this place was popularly called "Shiroyama" (castle mountain). In the 5th year of the Meiji period (1872) it was formally named Nishikuboshiroyama-cho, uniting near-by samurai residences.
虎ノ門ヒルズは平成二十六年(2014年)6月11日に開業した地上52階建てで、高さが247mの超高層ビルです。環状二号線が建物の地下を通り、1階は道路が貫通する構造になっています。昔だったら考えられない構造です。六本木ヒルズの直ぐ近くには、令和二年(2020年)6月6日に日比谷線の六本木ヒルズ駅が暫定開業しています。日比谷線が中目黒〜北千住間で全線開通した昭和三十九年(1964年)以来56年ぶりの新駅とのことです。
愛宕通りから見た虎ノ門ヒルズは普通の建物ですが、桜田通りから見ますと1階部分にトンネルの開口部があります。築地虎ノ門トンネルの出入り口です。周辺は未だ工事中のところが多いのですが、全ての工事が終わった暁には東京の新たなランドマークになることでしょう。
虎ノ門交差点の手前に虎ノ門金刀比羅宮(ことひらぐう)があります。金刀比羅宮は万治三年(1660年)、讃岐丸亀藩の藩主京極高和が芝・三田の江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請し、その後延宝七年(1679年)に丸亀藩江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に遷座しました。香川県にある総本宮の金刀比羅宮は「さぬきのこんぴらさん」という愛称で呼ばれ、長く続く参道の石段は本宮まで785段、奥社までだと1368段あるそうです。丹沢の大山阿夫利神社の男坂といい勝負ですね。
虎ノ門金刀比羅宮縁起
創祀は万治三年(1660年)讚岐丸亀城主
京極高和の時邸を愛宕下に移し
同時遷座 延寶七年(1679年)なり
爾来御神威愈々広く
大衆の信仰として親しまれ
豊漁満帆 海陸安穩 福徳守護の
御神徳は当宮の御神紋丸金と共に
益々篤きものなり
虎ノ門交差点にやってきました。交差点の角には旧文部省の古風なビルが残っています。昭和八年(1933年)に建設され、登録有形文化財(建造物)に指定されているそうで、霞が関に現存する庁舎としては法務省赤レンガ棟(法務省旧本館)に次いで2番目に古いそうです。今は中央合同庁舎第7号館保存棟になっていて、建物の3階は一般の人向けの文部科学省所管の「情報ひろば」となっていて、旧大臣室なども一般に公開されています。
霞が関の官庁街を抜けると、桜田門の手前にクラシックな赤煉瓦の建物が建っています。ドイツ人建築家ベックマンとエンデ両氏の設計になるドイツ・ネオバロック様式のもので、7年余りの歳月を費やして明治二十八年12月に司法省として竣工しました。その後、昭和二十年3月、戦災のため煉瓦壁を残して屋根・床などを焼失したため、昭和二十三年から昭和二十五年にかけて復旧工事が行われ、屋根などの形状や材質が一部変更されていますが創建当時の姿に復原され、平成六年に重要文化財に指定(外観のみ)されました。近代史をテーマにした映画やドラマのロケに使用されることも多い建物です。
庁舎の植え込みの中に案内板が置かれています。文化財の世界では、「復元」は遺跡で発掘される建物の痕跡(遺構)から上部構造を考えることを意味します。これに対して「復原」は、文化財建造物の修理の際に用いる言葉で、長い年月の間に増改築や改造が行われた建物の改造の痕跡をもとに、改造前の姿に戻すことを意味しています。
重要文化財 法務省旧本館
この建物は、明治政府が招聘したドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンが設計し、実施設計・工事管理には河合浩蔵が参画し、明治二十八年(1895年)に旧司法省庁舎として完成した。その後、大正十二年(1923年)の関東大震災では、れんが壁が鉄材で補強されていたため、ほとんど被害を受けなかったが、昭和二十年(1945年)の東京大空襲により、れんが壁を残して焼失した。そのため、屋根を天然スレートから瓦にするなどの改修工事が行われ、昭和二十五年(1950年)法務省本館として再び利用されるようになった。中央合同庁舎第6号館の整備に伴い、村松貞次郎・堀内正昭両氏の監修のもと建設大臣官房官庁営繕部により、平成六年(1994年)外観が創建時の姿に復原され、法務総合研究所及び法務図書館として活用されることとなった。本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上貴重で歴史的価値が高いため、平成六年(1994年)12月27日に重要文化財の指定を受けた。
Important Cultural Property -Old Ministry of Justice Building-
This building, designed by two German architects, Hermann Ende and Wilhelm Bockmann who were invited by the Government of Japan in the Meiji era, was constructed in 1895 with the participation of a Japanese architect, Kozo Kawai, in the stage of its planning and supervision of construction. Later, at the time of the disastrous Kanto Earthquake in 1923, the building suffered almost no damage because the brick walls had been reinforced with iron pillars, but it was burnt down in 1945 by a heavy air raid in Tokyo, leaving only the brick walls intact, so it was reconstructed in 1950 for use as the main building of the Ministry of Justice, replacing the natural slates of the roof by tiles. Pursuant to the completion of Central Government Buildings No. 6, the Ministry of Construction restored the exterior of this brick building to its original condition in 1994 under the supervision of Dr. Teijiro Muramatsu and Dr. Masaaki Horiuchi, and the building is now used by the Research and Training Institute of the Ministry of Justice and the Ministry's Library. Characterized by its authentic German neo-Baroque exterior, this building is a magnificent piece of urban scenery and also, being historically valuable, it was designated among the Important Cultural Properties of Japan on December 27, 1994.
桜田門交差点で右折し、内堀通りに入ります。といっても、桜田門から日比谷交差点までは国道1号と重なっています。
桜田門交差点の角の法務省庁舎隅にカラフルな石碑は置かれています。俯瞰図を見ますと、桜田門の真正面に上杉藩の江戸藩邸が位置していたことが分ります。恐らく、その跡地全体が現在の法務省庁舎の敷地になっているのでしょう。
米沢藩 上杉家江戸藩邸跡
関ヶ原の戦いの後、上杉景勝はコ川家康によって出羽米沢三十万石に移封されました。慶長八年(1603年)、桜田門外の当地(現法務省の一部)に建てられた上杉家の江戸屋敷は「桜田屋敷」と呼ばれ、幕末まで江戸藩邸として中心的な役割を果たしました。左の絵図は江戸時代初期に制作された「江戸図屏風」に描かれた藩邸周辺の様子です。
法務省の敷地の隣りに年代物の建物があります。法曹会館は、昭和十二年(1937年)に司法界の社交場として建てられた倶楽部建築の建物です。お濠端という場所にふさわしい静謐な趣を生み出すよう配慮されたデザインで尖塔屋根のある塔屋や正面にはめ込まれたステンドグラス、それに瀟洒な車寄などが特徴です。全面に薄いグレーのタイルが貼られ、両側に尖塔屋根のある塔屋のあるシンメトリーな様式になっています。中央に車寄せがあり、外観は教会を思わせるようなアーチ窓があるほどのおとなしいデザインですが、内装は正面にステンドグラスがはめ込まれており、深紅の絨毯が敷き詰められた階段など、昭和レトロの雰囲気を感じさせます。現在も結婚式場・バンケットルームとして営業されています。その建物横の石積みの中に案内板が立っています。
「上杉弾正屋敷跡から出土した庭石」
この庭石は、現法曹会館新築基礎工事の際(昭和十一年12月竣工)、当地の地下十数尺(数メートル)より出土したものです。石の出所は明かではありませんが、当地は、米沢藩江戸屋敷桜田邸跡に建築されだ経緯から、当時の御庭の庭石ではないかと伝えられ、かの小杉放庵画伯が、「一見無類の名石」と激称し、写生を加えた原画が、法曹会館落成記念の絵はがきのモチーフとなりました。勤倹貯蓄(よく働いて倹約し、お金を貯めること)をモットーにした上杉鷹山公が、上屋敷の御庭で手植えの萩の花の宴を催し、家中の上の者も下の者も「上和下睦」の麗しい遊びをした、という逸話が残されています。
萩の花の宴賜ふ事
江戸の上御屋敷の御座之間御庭の廣ければ萩を多く植ゑさせ給ひ、花の盛りになれば御家老より足軽・仲間・又者の輩に至るまで、一年中の気詰(きづまり)を少しは慰めよと花見の宴をぞ賜ひける。御庭の此處彼處に薄縁布き渡し、其の處々に酒肴或は姻草の火などまで設け置かせ給ひければ、各群々打ちつどひて或は詩を作り歌を讀み、或は 發句など楽しむもあれば、酔うて歌ひ舞ふもあり、耳を引きて酒を勧むるもあり、其の興云ふも更なり、貴賤残らぬ花見なれば。其の相應々々の並方を組合はせて、花のさき初めしよりうつろひ散るまでの花見なりしは、楽しくあり難き事なり。諸士の花見の宴には折々障子押しあけて臨ませられ、興に乗じさせ給ひては御座をも設け給ひで、御親らの詩歌をも見せ給ふ。下々の宴には折節御障子を細めて其のさまを御覧ぜられ、楽しみ給ふ御よそほひ亦筆の及ぶべきにはあらず。
日比谷公園の脇を通って日比谷交差点にやってきました。交差点の向かいにはペニンシェラホテル東京の特徴ある建物が建っています。この場所にはかって日活社長であった堀久作によって建てられた日活国際会館(1952年竣工)があり、上層階は日活国際ホテルとして営業していました。しかし、日活の経営悪化により1969年に三菱地所に売却され、ホテルは閉館しました。建物は日比谷パークビルと改称し、旧ホテル部分もオフィスに改装して平成十五年(2003年)まで使用されましたが、建て替えのため解体され、跡地にペニンシェラ東京が誕生しました。
晴海通りに入り、数寄屋橋にやってきました。数寄屋橋は、もともとは寛永六年(1629年)江戸城外濠に架けられた橋でした。、関東大震災後の帝都復興事業によって、昭和四年(1929年)に石造りの二連アーチ橋に架け替えられ、北側に日劇と朝日新聞社、南側に銀座東芝ビルと泰明小学校を臨む風景は東京の代表的な水辺の景観でした。現在は、晴海通りと外堀通りの交差点名として残っているほか、周辺の建物に数寄屋橋の名を付しているものが多くみられます。「有楽町で逢いましょう」もこの地だったのかもしれません。
数寄屋橋の碑
寛永六年(西暦1629年)江戸城外廊見附として数寄屋橋が初めて架けられた時は幅四間長三間の木橋であった。橋名は幕府の数寄屋役人の公宅が門外にあったのに依るという。見附の城門枡形は維新の際に撤去され、ついで大正大震災後の復興計画によって完成を見た近代的美観を誇る石橋が銀座の入口を扼する(やくする:要所を占める)ことヽなった。爾来三十年、首都交通の激増はこの界隈を更に変貌させた。外壕上を高架車道が地下には地下鉄が走るようになって橋も姿を消し、こヽは渾然たる大銀座の一劃となった。本会は茲に旧橋の遺材を以て碑を建て、感慨深い東京文化の変遷を偲ぶよすがとした。
今日は成人の日の祝日で、銀座四丁目交差点はコロナ禍以前よりかは少ない人出ですが、多くの「銀ぶら(大正時代からの俗語で、銀座の街をぶらぶら散歩すること)」の人達で歩行者天国は賑わっています。交差点角に位置する三越デパートの正面入口に置かれたライオン像には三越特製のマスクがかけられています。去年の今頃のマスク逼迫の時でしたらあっという間に持ち去られていたことでしょう。
東銀座の名所はなんといっても歌舞伎座でしょう。明治二十二年(1889年)に創立され、歌舞伎の殿堂として繁栄し、大正三年(1914年)からは松竹が経営を取りしきっています。大正十年(1921年)の漏電火災・その再建途中の大正十二年(1923年)九月一日の関東大震災のおける羅災・昭和二十年(1945年)の第二次大戦中の東京大空襲と、三度焼失しました。昭和二十六年(1951年)に開場した建物は平成十四年(2002年)に有形文化財に登録されましたが、平成二十二年(2010年)四月に老朽化による建て替えで閉鎖され登録抹消となりました。平成二十五年(2013年)四月、建物の意匠を踏襲したまま、地下鉄東銀座駅と直結した第五期歌舞伎座を29階建てのオフィスビル「歌舞伎座タワー」を併設して、歌舞伎の公演を専門とする新劇場が開場しました。東銀座駅への出入り口横には小さな神社が祀られています。歌舞伎稲荷神社という名称で、もともとは歌舞伎座の中にあり、歌舞伎俳優や劇場関係者、歌舞伎座の観客しか参拝することができませんでした。しかし、歌舞伎座の改装により、今の場所に遷座されました。これにより一般の方も自由に参拝できるようになりました。毎年十月下旬から十一月初旬にかけて開催される「オータムギンザ」の一環として、銀座各所に祀られる小祠を巡るというイベント「銀座八丁神社めぐり」が実施されますが、歌舞伎稲荷神社もこのイベントに参加しています。
かっては晴海通りと交差するように築地川が流れていました。都電8系統も築地川の流れを見ながら走っていたことでしょう、現在は築地川は埋め立てられて川底だったところに首都高都心環状線が通り、この付近の上部は築地川銀座公園になっています。
終点の築地電停はどこに位置していたのでしょうか?旧築地市場の入口にあたる築地四丁目交差点手前かと思ったのですが、ネットで調べますと現在の京橋郵便局前辺りに位置していたらしいことがわかりました。なので、京橋郵便局前の都営築地バス停留所を都電8系統の終点と定めます。ここから先、軌道はどうなっていたのでしょうね?
ということで都電8系統跡を歩き終えました。日比谷線が開通する前は電車で築地に行くことができなかったので、年の暮れには城南地区から築地にお正月用の買い出しに行くのに都電8系統を利用された方も多かったのではないかと思います。半世紀以上も前の光景ですが。
戻る