都電30系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電30系統跡を歩きます。都電30系統は墨田区の寺島町二丁目から須田町までを結び、その路線は主に国道6号線(水戸街道)・三ツ目通り・浅草通り・雷門通り・並木通り・再び浅草通り・中央通りと靖国通りを通っていました。都心を東西に斜断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。  

都電30系統

都電30系統の全長は6.8kmで、昭和44年10月26日に廃止となりました。

都電30系統の電停(路上の駅)は、寺島町二丁目・寺島町一丁目・向島須崎町・向島三丁目・言問橋・吾妻橋二丁目・吾妻橋一丁目・浅草・雷門・田原町・菊屋橋・清島町・稲荷町・上野駅・上野駅南口・上野公園・広小路・黒門町・末広町・旅篭町・万世橋・須田町でした。


都電30系統の始点だった寺島町二丁目電停はどこにあったのでしょうか?ネットの情報によりますと、戦後まもなくまでは鳩の街通り商店街の入口に位置する現在の東向島一丁目交差点付近に「向島」電停の名称であったらしいです。その後線路が延伸され、国道6号線が明治通りと交差する東向島交差点の手前の墨田川高校前交差点近くに寺島町二丁目電停が設置されたとのことです。寺島町二丁目電停は、町名の変更によって最終的に「東向島三丁目」電停となりました。恐らく、現在の都営バスの「東向島広小路(すみだ生涯学習センター前)」停留所辺りと思われます。明治通りを越えて延伸されなかったのは、現在高架で走っている東武スカイツリー線の線路が明治通りを横断していたからです。



東向島三丁目交差点から墨堤通りを結ぶ通りが地蔵通りです。道路の両側に30店舗ほどで構成される商店街が続いています。「地蔵通り」の名称は、墨堤通りの入口に祀ってある子育て地蔵尊堂に由来しています。お地蔵様の縁日である、毎月4日・14日・24日には各店舗で特売が行われます。4月と10月のバッサリ市ではさらなる特売が行われ、通りは人出で賑わいます。



東向島一丁目交差点から墨堤通りの手前までの狭い路地に鳩の街通り商店街があります。昭和三年に設立された寺島商栄会から続く、90年近くの歴史を持つ古い商店街です。東京大空襲をまぬがれたために、通りの道幅は戦前のままです。昭和初期から続くレトロな商店と新しいお店が混在する個性的な商店街です。昔からの伝統ある商店に加えて、近年では古い建物をリノベーションした個性的な新しいお店も登場し、下町の隠れた観光スポットとして人気を集めています。空きアパートを改装した商店街直営の創業支援施設「チャレンジスポット!鈴木荘」事業など、空き店舗活性化の取組みが評価され、経済産業省の「新・がんばる商店街77選」に選ばれました。

「鳩の街」は、元は現在の向島と東向島の境界付近にあった私娼街(赤線地帯)でした。地理的に「玉の井(戦前から昭和三十三年の売春防止法施行まで存在した私娼街)」と1kmほどの距離しか離れておらず、太平洋戦争末期に東京大空襲で玉の井を焼け出された業者が何軒かこの地で売春宿を開業したのが始まりといわれています。終戦直後は米軍兵士の慰安施設として出発しましたが、兵士が性病に感染することが多かったため、1年も経たないうちに米兵の立ち入りが禁止され、その後は日本人相手の特殊飲食店街(赤線)として発展しました。昭和二十七年(1952年)には、娼家が108軒、接客する女性が298人もいたそうです。

「鳩の街」は、吉行淳之介の小説「原色の街」の舞台となり、永井荷風もこの地を舞台に戯曲「渡り鳥いつかへる」や「春情鳩の街」を書いています。これらの永井荷風の作品は、久保田万太郎の手により構成され「春情鳩の街より渡り鳥いつ帰る」として映画化され、森繁久弥・田中絹代・高峰秀子・岡田茉莉子らの俳優が出演しました。この他にもこの街も訪れる作家や芸能人は多く、安岡章太郎・三浦朱門・近藤啓太郎・小沢昭一などが出入りしていたことが知られています。あくまで小説の題材探しの一環だとは思いますが。

昭和三十三年(1958年)4月1日に売春防止法が完全施行され、鳩の街の全ての業者が廃業し、跡地は商店街やアパートなどの住宅になりました。それも、最近では建物の老朽化による建て替えや改築によって当時の面影は殆どなくなりました。「鳩の街」の象徴として残っていた「旅館桜井」は解体され、空きアパートになっていた「鈴木荘」は改装されて創業支援施設となっています。残念なことに、かって下町らしい活気のあった商店街は、現在ではシャッターを下ろしたお店が目立ちます。



国道6号線からスカイツリーが間近に見られます。今は丁度この場所が”日食”状態になっています。



国道6号線は言問橋東交差点で直角に向きを変え、言問橋で隅田川を渡ります。都電30系統は言問橋東交差点を直進して、交差点から始まる三ツ目通りを進みます。三ツ目通りの正式名称は都道319号環状三号線です。環状三号線は港区の海岸二丁目の東京ガス前交差点から江東区辰巳二丁目の辰巳交差点まで、都内を環状に半周する道路です。”ただ、環状三号線は未だ継ぎ接ぎの状態です。全線が繋がっていないので、繋がっている区間毎に通称名が使われています。なので、辰巳交差点から言問橋東交差点までの区間を三ツ目通りと呼んでいます。



源森橋の直ぐ手前の歩道脇に、日本で最初の女性医師といわれる荻野吟子が開業した医院跡の案内板が立っています。ちなみに、オギノ式避妊法を考案した荻野久作は同姓ですが、つながりはありません。案内板では触れられていませんが、一回目の結婚の後で病気になったのは、夫から淋病を移されたためです。女医の必要性を痛感したのは、当時治療を行ったのは男性の医師だけで、淋病の治療を受ける際に、女性にとっては何ものにも耐え難い羞恥と屈辱を感じ、同性の人々に自分と同じ思いをさせてはならないということから医師になることを強く決意したのです。

萩野医院跡 −日本女医第一号 荻野吟子開業の地−

荻野吟子は、嘉水四年(1851年)三月三日に武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在の熊谷市俵瀬)の名主荻野綾三郎の五女に生まれました。幼い頃より向学心が強く、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年に師事して学問を身につけました。医師を志したのは一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治十二年(1879年)、私立医学校「好壽院」に入学しました。そして、女性であることを理由に二度にわたって試験願書を却下されながらも決して諦めず、同十八年三月、ついに医術開業試験に合格したのです。時に吟子三十五歳。早くもその年の五月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。しかし、開業後間もなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す十四歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治二十七年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めてこの地に開業したのは志方と死別して間もない明治四十一年十二月、五十八歳の時でした。晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました。大正二年(1913年)六月二十三日、六十二歳で亡くなりました。




源森橋はスカイツリーの絶好のビューポイントとして知られています。橋の袂に源森橋の橋名の由来を記した石碑が置かれています。

源森橋の名前の由来は、現在の枕橋(本橋から約二百メートル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになったことによるものである。その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈半十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森(側でなく川)(現在の北十間川)に架けられた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋・新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。その後、水戸屋敷内への掘は理められ、新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった本橋を源森橋と公称した。現在の源森橋は、昭和三年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約八十年経過し、老朽化したため、平成十九年三月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたものである。



源森橋を渡った先の吾妻橋交番前交差点を右折して浅草通りに入ります。浅草通りに面して、「アミューズメントスペース ル・モンド」というゲームセンターがあります。建物の壁が黄色に塗られていて、路地側の壁には「だまし絵」が描かれています。遠目には、壁がくりぬかれていて、吾妻橋の橋台の間からモーターボートが突進してきているような錯覚に陥ります。それにしても遠近感がハンパないですね。



道なりに進むと吾妻橋一丁目交差点が始点となる清澄通りに入りますが、都電30系統は吾妻橋に向かう狭い通りに入ります。通りの中程に芋きんで知られる浅草満願堂のお店があります。運が良ければ、きんつば(寒天で固めた餡子に小麦粉をまぶして焼いたもの)を焼いているところがウインドウ越しに見られます。独特の触感と和菓子のほんのりとした甘さで好きな人が多いですね。



吾妻橋の手前にアサヒビールの本社があり、その手前に金の炎のオブジェで有名なスーパードライホールを背にして、アサヒビール直営のレストラン「フラムドール」が入ったアサヒビールアネックスビルが建っています。壁には美味しそうな肉料理の写真とアサヒビールのジョッキが並んだメニューが貼ってあります。残念ながら、今(歩いた当時)はコロナ渦の営業自粛で休業中となっています。



吾妻橋で隅田川を渡って雷門通りに入ります。吾妻橋は架橋当初は「大川橋」と呼ばれました。これは隅田川が「大川」と呼称されていたことに因んでいます。しかし、江戸の東にあるために町民たちには「東橋」と呼ばれ、後に慶賀名として「吾妻」になったという説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説があります。明治九年(1876年)に木橋として最後の架け替えが行われた際に正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名されました。



吾妻橋交差点の角に浅草松屋が入る東武浅草駅のレトロな建物が建っています。ネオ・ルネサンス様式で、日本のアール・デコ建築の代表的なもののひとつに数えられる名建築です。東武浅草駅ビルは、昭和六年(1931年)に関東では初めてとなる百貨店併設のターミナルビルとして開業しました。ビルの2階部分に配された、17スパンにわたる半円アーチの大窓の内側が東武浅草駅となっています。昔は古ぼけた外観でしたが、平成24年(2012年)5月22日の東京スカイツリーの開業に合わせ、外壁のリニューアル工事が完成、お洒落な外観に変身しました。東武線の浅草駅直結の商業施設ということで、「EKIMISE」と名付けられました。「EKIMISE」は、下町・浅草の象徴のひとつである「仲見世」の活気ある商店を意味する“見世”と、「浅草駅」という立地特性を表現する“駅”を掛け合わせた造語です。7階のテーマゾーン「駅見世小路」においては、日本の良さを感じられる手作りの小物や土産の店舗を揃えたほか、屋上にはスカイツリーを一望できる「展望デッキ」や休憩スペースを設けた「浅草ハレテラス」を設置し、浅草の新たな観光スポットを目指しています。



浅草松屋に向かい合って、交差点角に神谷バーがあります。日本最初のバー(酒の味を楽しむことを目的とし、最低限の接客をしているだけの酒場で、イギリスのパブに相当する)といわれ、浅草の文豪たちにも愛された「電気ブラン(神谷バーの創業者である神谷伝兵衛が作った、ブランデーベースのカクテル)」で知られています。飲めば電気のように感電するという意味ではなく、当時最新のものに対して「電気○○」と呼称するのが流行っていたので、ブランデーの「ブラン」を掛けて電気ブランという名前になったのです。私は飲んだことはありませんが。尚、バーは雷門通りに面した1階にあり、2階はレストラン「カミヤ」、3階は割烹「神谷」となっています。値段を見ますと、そこそこしますが無茶苦茶高いというほどでもないですね。私には手が届きませんが。。。



雷門は浅草のシンボルです。深紅の山門に吊された大提灯は、浅草を訪れた観光客が例外なく大提灯をバックにして写真に収まっている筈です。浅草寺の雷門は、慶応元年(1865年)に火災により焼失しましたが、松下電器の創業者である松下幸之助によって昭和三十五年(1960年)に再建されました。その後は、約10年ごとに大提灯の修復が行われてきました。現在の大提灯は、令和二年(2020年)4月17日に掛け替えられたものです。大提灯は約1年かけて造られ、高さ3.9メートル・重さ約700kgの大きさです。雷門の前の広場の入口には浅草寺の案内板が立っています。英語表記の案内文を最後まで読んだ外国人はまずいないでしょう。

聖観音宗総本山 金龍山 浅草寺(あさくさかんのん)

御本尊 聖観世音菩薩(御秘仏) 慈悲の仏さま 浅草寺ご本尊の観世音菩薩さま

観音さまは、多くの仏さまの中でも最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。特に浅草寺ご本尊の観音さまのご利益・ご霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで千四百年近くにわたり計り知れぬほどの人々を救われ、ご加護なさってきました。観音さまのご信仰とは、観音さまに「慈悲」のお心を頂いて生きること、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過すことと申せましょう。
*ご参拝の際には合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えしましょう。

縁起(由来)

時は飛鳥時代、推古天皇三十六年(628年)三月十八日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟は江戸(隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司土師中知(名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。大化元年(645年)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(794年〜864年、浅草寺中興開山・比叙山天台座主三世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所とされてからは、堂塔勝の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約三千万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。

SENSO-JI (Asakusa kannon Temple)

History and Mission of Senso-ji

In 628, Japan's capital was at Asuka (present-day Nara Prefecture) and what would become Tokyo was still mostly uninhabited grasslands. Two fishermen, Hinokuma Hamanari and his brother Takenari, were on the Sumida River one day when they heard a command from the heavens to cast their net. When they brought the net up, they saw that they had caught a golden statue of Bodhisattva Kannon.

Hearing of this from the Hinokuma brothers, village headman Haji Nakatomo decided that he would become a devout believer in Bodhisattva Kannon. He took vows as a Buddhist priest, remade his home into a temple and spent the rest of his life practicing Buddhism. This episode marks the birth of Tokyo's oldest temple and the start of Senso-ji's history.

In 645, the renowned Buddhist priest Shokai visited Asakusa and built a hall for the worship of Bodhisattva Kannon; that makes him the actual founder of Senso-ji. After having a mysterious dream one night, Shokai decided that Bodhisattva Kannon should be hidden from human view, and it has remained so ever since. Word of blessings bestowed by Bodhisattva Kannon spread far and wide, and many people who had heard of this came to worship at Senso-ji from all over Japan. As a result, Asakusa flourished and grew into a large district.

In the mid-ninth century, Ennin (794-864), the highest-ranking priest of Enryaku-ji, the head temple of the Tendai School of Buddhism, visited Senso-ji, created a statue of Bodhisattva Kannon identical to the hidden one and called its spirit into the new statue. Senso-ji, thus further developed by Ennin, attracted devout faithful not only among commoners but also famous samurai and persons of culture. Designated a sacred site of prayer for the shogunate by shogun Tokugawa Ieyasu (1543-1616), founder of the Edo shogunate, Senso-ji reached a peak of prosperity.

Over the intervening centuries until today, Senso-ji has remained a center of culture and worship in Tokyo. It continues to be influential in people's lives, and with millions of people visiting it every year, it is one of Japan's most familiar temples.

Senso-ji and Asakusa are intimately linked. The two names are written using the same Chinese characters (浅草) but pronounced differently, "senso" being the Chinese pronunciation and "asakusa" the native Japanese pronunciation.

About Bodhisattva Kannon

Over the years, Buddhism, which originated in the fifth century BCE, diverged into two main branches: Hiinayaana (today called Theravaada), which holds that adherents should faithfully follow the teachings of founder Buddha Shakyamuni to reach enlightenment themselves, and Mahaayaana, which teaches that the faithful should not only seek their own enlightenment but also help the suffering. Mahaayaana Buddhism spread from India to China and Korea and eventually to Japan. In that process, according to various interpretations of the Buddha's teachings, various figures of worship emerged, such as Buddhas, who had already achieved enlightenment, Bodhisattvas, who were the people's saviors as they continued religious practice in order to attain enlightenment and become Buddhas, and so on. Believers in Buddhism gave these figures concrete forms, creating sculptures of them which they worshipped.

Bodhisattva Kannon is one among many Bodhisattvas, and since early times has been widely worshipped by Japanese in particular. Bodhisattva Kannon is also the most merciful of the Bodhisattvas, sent to relieve human misery on earth. Many Japanese believe that their hopes and pleas will reach this deity.

In particular, the Bodhisattva Kannon worshipped at Senso-ji has been an unparalleled source of benefits and miracles over the centuries, and has saved and protected countless people since its appearance in this world.

Faith in the Bodhisattva Kannon, which has supported Senso-ji and drawn many people to this temple, consists of opening one's heart and living by the merciful spirit of Bodhisattva Kannon and at the same time showing mercy to others in daily life. We hope that visitors to Senso-ji will join their hands in prayer, receive the merciful spirit of the Bodhisattva Kannon into their hearts and pray that they can bestow that mercy upon others.




都電30系統は雷門交差点を左折し、並木通りに入っていました。並木通り上には都電22系統の支線の駒形二丁目〜雷門の電停もありました。



駒形橋西詰交差点で並木通りは終点となり、都電30系統は右折して、駒形橋を経由してきた浅草通りに再び入ります。



交差点の角に喜多方ラーメンのお店があります。私はあまりラーメン店に入ることはありませんが、どんな焼豚なんでしょうね?

喜多方御清水 「坂内食堂」

当店は喜多方で最大の人気を誇る「坂内食堂」の姉妹店です。ご当地ラーメンの草分け、北海道・九州・喜多方と、今や日本三大ラーメンに位置されています。会津・磐梯山、向に飯豊山、恵まれた自然と水に育まれ、生まれた喜多方ラーメンは日本中を轟かせています。「坂内食堂」は焼豚が大人気の店。当店は「坂内食堂」の姉妹店として老舗の味と伝統を守るため、従業員一同、地域の皆様に愛される店として努力いたす所存です。




駒形一丁目交差点の先の建物の壁に、「紙漉町跡」と記したプレートガ掲げられています。この辺り一帯は紙漉き(かみすき)を業とする人たちが多く住んでいたことから、紙漉町と呼ばれていました。トイレットペーパーが普及する以前まで使われていたネズミ色をしたチリ紙(「落とし紙」とか「便所紙」とか言いました)のことを「浅草紙」と呼びますが、紙漉町は「浅草紙」の発祥の地です。

紙漉町跡

この付近は、江戸時代、紙漉町といい、江戸における最初の紙漉きが行われた場所である。江戸時代を通じて盛んに製紙業が行われ、その産紙は浅草紙と呼ばれて土地の特産物だった。延宝四年(1676年)版の「江戸絵図」には田原町一丁目の西側の道に「カミスキ丁」と記され、貞享四年(1687年)刊「江戸鹿子」にも「紙すき町」の名が見える。また、安永二年(1773年)に成立した「江戸図説」によると、田原町のほかに橋場・鳥越や足立区千住方面でも生産されていたという。明治時代になると、浅草紙の製造工場は橋場や南千住の方に移り、浅草付近では作られなくなる。わずかに紙漉きの名残をとどめているのは、以前山谷堀に架かっていた「紙洗橋」の名の交差点表示である。浅草紙は、不要になった古紙を手で漉き返して再利用する、今でいうリサイクルペーパーである。

KAMISUKICHO RUINS

'Kamisuki' means 'making paper'. This neighbourhood was named after the very first Paper factory in Edo that was here and prospered from the late 17th Century through the 19th Century. Here paper produced was called "Asakusa paper" and was in fact made from recycling old and used paper.




菊屋橋交差点から北に延びる道路に沿って、かっぱ橋道具街があります。近年、外国人観光客にも人気で、飲食店関係者はもちろん、料理好きの人達にも重宝されています。ちなみに、菊屋橋という名称は、下谷と浅草を結ぶかっての新寺通り(現在の浅草通り)と、南北に流れていた新堀川が交差するところに架かっていた菊屋橋に由来します。



菊屋橋交差点の角に面して、「ニイミ」というテーブルウエア・調理機器・厨房用什器備品を扱う専門店のビルが建っています。店名は知らなくても、屋上に巨大なコックさんの像が鎮座するお店といえば分かるでしょう。コックさんの正式な名称は、「ジャンボコック像」で、高さ11m・重さ10tもあるそうです。ちなみに、コック像のモデルとなったのは、ニイミ店の二代目店主だそうです。現在の三代目社長室には、1/10サイズのオリジナルモデルが置かれているとのこと。巨大な像をどうやって屋上に取り付けたのでしょうかね?



地下鉄稲荷町駅の出口に面した永昌寺の前に「講道館柔道発祥之地」の案内板が立っています。境内には石碑も建っているそうですが、見逃しました。

講道館柔道発祥之地

明治十五年(1882年)、講道館柔道の創始者嘉納治五郎(1860年〜1938年)が 友人や門弟とともに稽古をはじめたところが、当下谷永昌寺の書院であった。これが今日、 世界各国に普及し国際的な広がりを持つ講道館柔道の発祥とされている。道場となった書院の広さは十二畳、初年の門弟は九人であった。同年夏、当時の住職朝舜法(1837年〜1914年)の協力を得て、玄関脇の空地に、十二畳のバラック建て道場を新築したが、翌十六年(1883年)神田に移った。永昌寺は、浄土宗で永禄元年(1558年)下谷長者町に創建、寛永十四年(1637年)現在地に移転した。大正十二年の大震災により当時の建物は焼失している。境内の「講道館柔道発祥之地」と刻む自然石の記念碑は、昭和四十三年十月、嘉納治五郎没後三十周年を記念し、講道館が建立した。

BIRTHPLACE OF KODOKAN JUDO

In 1882, it was here in the study of Eisho-ji temple in Shitaya, that Kano Jigoro (1860-1938), the founder of Kodokan Judo, started training with his friends and followers. This temple's study is regarded as the birthplace of Kodokan Judo. It has gained international popularity and has spread to various countries around the world. The study first used as a training hall, was just 12 tatami mats big and the first year saw just 9 followers join. In the summer ot 1882. Kano Jigoro obtained the cooperation of Asahi Shunpo (1837-1911) the chief priest of Eisho-ji temple, and constructed a temporary drill hall. The drill hall was the size of 12 tatami mats and was situated in the vacant area next to the temple entrance. In 1883, the hall was relocated to Kanda in Chiyoda City. In 1558, Eisho-ji temple was first established in Shitaya Choja Machi, by the Jodo seel of Buddhism and was moved to its current position here in 1637. ln 1923, the temple burul down in the fires of the Great Kanto Earthquake. In October 1968, a monument made of stone. was created by kodokan in the former position of the drill hall, with the inseription "Birthplace of Kodokan Judo" to commemorate the 30th anniversary of the passing of Jigoro Kano.




浅草通りに面して下谷神社の深紅の大鳥居が聳えています。毎年5月の初旬に行われる「下谷神社大祭」は、東京の下町で一番早い夏祭りとして知られ、祭り好きの人々の人気を集めています。期間中は神社周辺に100を超える露店が立ち並び、多くの見物人で賑わいます。千年以上の歴史を持つ神社のお祭りだけあって、神輿渡御も盛大です。若い担ぎ手が多く、かなり荒っぽいですが。



現在は東上野という町名になっていますが、今も地下鉄の駅名に残る稲荷町の町名案内板が歩道脇に立っています。

下町まちしるべ 旧 北稲荷町

明暦三年(1657年)の江戸大火後、江戸各地の寺院がこの付近に移転してきた。そして唯念寺や・成就寺・宗源寺・西蓮寺の各門前に町屋が形成された。この頃、唯念寺の門前町屋は町内に稲荷神社があったので、俗に稲荷町一丁目と呼ばれていた。また、成就寺の門前町屋は稲荷町といっていた。明治二年(1869年)これら門前町屋は、隣接する辻番屋敷を合併して下谷稲荷町と名付けられた。稲荷神社とは、現在の下谷神社のことである。明治五年、下谷稲荷町は現在の浅草通りで南北に分けられるとともに、この地は永昌寺・広徳寺ほか六ケ寺の寺地を合併して下谷北稲荷町が誕生した。そして明治四十四年に下谷の二字をはずして北稲荷町となった。「永昌寺」は講道館柔道発祥の地である。創始者の嘉納治五郎は明治十五年に東大を卒業すると永昌寺に下宿し、学習院の教師をしながら寺の一室で柔道を始めた。




浅草通りからちょっと外れて、台東区役所横にある広徳公園に立ち寄ります。ここは国史跡に指定されている廣徳禅寺遺趾になります。廣徳禅寺遺趾は、昭和四十六年までこの地にあった禅宗広徳寺の趾です。広徳寺は、早雲寺の子院として元亀・天正の頃(1570年〜1592年)に小田原で創建された寺院で、小田原城落城の後、徳川家康が神田に再興し、寛永十二年(1635年)この地に移転してきました。江戸庶民からは「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれるほど広大な敷地を擁し、会津藩主松平氏・柏原藩主織田氏・阿波藩主蜂須賀氏などの菩提寺として、江戸屈指の禅林と仰がれていました。明治維新後は檀家としての諸大名がなくなり、さらに関東大震災により堂宇を悉く焼失し、荒廃してしまいました。台東区から区役所敷地として懇望され、広徳寺は塔頭円照院のあった練馬区へ移転しました。公園内に置かれた石碑には、練馬区への移転に際して住職雪底和尚の詠んだ句が刻まれています。句の意味は案内板に詳述されています。

廣徳禅寺遺趾

  頌 日
高掲法幢三百載
己憂斯地累兒孫
無邊廣大先人徳
纔勤碑陰去故園

廣徳三十世 雪底謹織




石碑の横に、雪底和尚が詠んだ句の解説と廣徳寺移転の経緯を記した案内板が立っています。

廣徳禅寺遺趾

この地は、昭和四十六年まで廣徳寺があった場所で、この石碑は、練馬別院に移転の際に、廣徳三十世雪底和尚によって詠まれた七言絶句を記したものです。また、石碑の裏側には、廣徳寺が移転した理由が記されています。なお、この解釈にあたっては、廣徳寺海雲和尚のご協力を賜わったものです。

【七言絶句】

高掲法幢三百戴   タカク ホウトウヲカカゲテ サンビャクネン
         (禅宗を掲げて下谷の地に移って、300年が経った)

已憂斯地累兒孫   スデニ コノチヲウルエテ ジソンニツナグ
         (時代の移り変わりや環境の変化もあったが今日まできた)

無邊廣大先人徳   ムヘンコウダイナル センジンノトク
         (未来永劫受け継がれるためにも、代々、世のため人のためにおこなってきた)

纔勒碑陰去故園   ワズカニ ヒインヲオサメテ コエンヲサル
         (碑陰(石碑の裏面)を記して この地を去ります)

【石碑裏面】

廣徳寺は、希叟宗罕禅師が明叟和尚を小田原に招き、創建したとされ、その年代は、元亀天正の頃と推定される。天正十八年(1590年)に豊臣秀吉により小田原城が落城し、その際、廣徳寺も焼失した。その後、徳川家康が江戸の神田(昌平橋付近)に再興。そして寛永十二年(1635年)に下谷に移っておおよそ300年が経った。当時は、江戸屈指の禅林と仰がれた。昭和四十五年9月、台東区より敷地を新庁舎建設用地として懇望され、時代の情勢を鑑み、これを受託し、練馬の別院へ移すことにした。この地を去るにあたり、先人達の深い恩に感謝し、石碑を建て移転の経緯を記し、後世に残すものである。

Former Site of Kotokuzenji Temple

Kotokuji Temple stood here until 1971 when it was moved to Nerima. In its place was erected this stone monument engraved with a 4-line poem that was written with 7 characters per line by the 30th head priest of the temple, Settei Osho. The reason why the temple was moved is explained on the back of the stone monument. The poem was translated with the cooperation of the priest of Kotokuji Temple, Kaiun Osho.




上野駅は、古くから「東京の北の玄関口」として発展してきました。上野駅といえば、井沢八郎の「あゝ上野駅」が浮かんできます。この歌は、作詞を行った関口義明が上野駅で見かけた集団就職の少年たちを題材に詞を書き、農家向け家庭雑誌「家の光」の懸賞に応募して1位入選を果たして生まれた曲です。歌手を志して青森県から単身上京し、当時無名だった井沢八郎自身の人生も重なり、発売後まもなく「金の卵」と呼ばれた集団就職者などから支持と共感を得て、高度成長期の世相を描いた代表的ヒット曲となりました。いわゆる団塊の世代を中心に「心の応援歌」として多くの人々に勇気と感動を与えた楽曲です。初めて知ったのですが、歌手の工藤夕貴って、井沢八郎の娘さんなんですね。現在は「半農女優」として、静岡県富士宮市に広大な土地を購入し、農業をしながら自給自足の生活を送っているとのこと。また、自宅の隣には「カフェ ナチュレ」を経営しているそうです。



上野公園の山下口階段下に「川柳の原点」と題した案内板が立っています。

川柳の原点 誹風柳多留発祥の地

川柳は、江戸時代に江戸で生まれた十七音の庶民文芸として今日に伝わっています。川柳の名称は、宝暦七年(1765年)に浅草新堀端にはじまりましたが、明和二年(1765年)七月、呉陵軒可有という人が、初代川柳評の前句付万句合の勝句(入選句)から十七 音の付句のみで鑑賞でき、深い笑いのある句を選び、今日<川柳の原点>とも呼ばれる「誹風柳多留」を刊行しました。このことにより川柳は、<十七音独立文芸>として確立され、後に全国へと広がっていきました。この付近には、「誹風柳多留」版元・星運堂(花谷久次郎)があり、誹諧書などを刊行するかたわら、三代にわたり、「誹風柳多留」を通じて<川柳風>の隆盛に貢献、川柳を「江戸文芸」の一つにまで育てました。「誹風柳多留発祥の地」は「文芸川柳発祥の地」でもあります。記念碑の「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」の句は、「木綿」を号とした「誹風柳多留」の編者・呉陵軒可有の作です。

The Birthplace Of Haifu Yanagidaru

Senryu (literally "River Willow") is a Japanese poem structurally similar to Haiku, but treating human nature, was founded at Asakusa Simboribata. Haifu Yanagidaru well known as the best collection of satirical and humorous poems selected by Karai Senryu, the founder, was first published by Goryoken Kayu in 1765 with the help of Hanaya Kyujiro, and since then it has not only gained great popularity througout Japan, but has been handed down as one of the Edo period literature.

Ducks try in vain to fly
As if they had respectable wings.

The above is one of the senryu poems composed by Goryoken Kayu.




京成上野駅コンコースの壁に「風月延年」という陶板レリーフ(壁画)が取り付けられています。制作者はメキシコの著名な画家であるルイス・ニシザワ氏です。この作品の制作のために来日したルイス・ニシザワ氏は日本各地を意欲的に巡り、伝統文化や地方の風習に強い関心を示し、とりわけ鮮やかな色彩の鯉のぼりと風車は彼の創造力を強く刺激しました。背景の素材には日本の伝統的な瓦を用い、鯉のぼりの本体には登窯で焼成された陶板レリーフを使用しています。最初見たときはシーラカンスかと思いましたが。。。



上野恩賜公園は「上野の森」、若しくは、武蔵野台地末端の舌状台地「上野台」に公園が位置することから「上野の山」とも呼ばれ、約53ヘクタールもの広大な敷地を占めています。明治六年(1873年)に日本初の公園に指定されました。彫刻家高村光雲作の西郷隆盛像は上野公園のシンボルになっています。また、ソメイヨシノの名所としても有名で、「日本さくら名所100選」に選定されています。桜の開花時期になると大勢の花見客が押し寄せ、公園内はドンチャン騒ぎの坩堝と化します。コロナ渦の前までは。。。



アキバにほど近い中央通りに面したビルの角に案内板が立っています。ここに日本初の喫茶店があったそうです。

日本最初の喫茶店「可否茶館」跡地

明治二十一年(1888年)4月13日、日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(別名・西村鶴吉)によりこの地に設立された。二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館であった。一階には「トランプ、玉突き、クリケット、碁、将棋」を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室・化粧室・シャワー室・調理場などの設備の他に、「内外の新聞、雑誌類、その他和漢洋書、書画を蒐集縱覧に供す」部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル・角テーブルを配置、椅子は籐であった。コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理・パン・カステラなども出していた。ちなみに当時、「もりそば」は八厘であった。設立者の鄭永慶は、近松門左衛門作の「国性爺合戰(こくせんやかっせん)」で有名な鄭成功の弟、七左衛門を先祖にもち、庶民のためのサロンとして、また知識も学べる広場(コーヒーハウス)とすることを理念としての開店であった。




神田川を万世橋で渡ります。現在の万世橋は架橋後100年近くになろうとしていますが、親柱は重厚そのもので威風堂々とした趣があります。

万世橋

現在の万世橋と昌平橋の間に江戸城の見附の一つである筋違門がありました。明治五年(1872年)に門が撤去され、その石材を用いて架けられたのが萬代橋(萬世橋)です。石造アーチの形状は眼鏡橋と通称され、東京名所として錦絵などにも描かれました。明治三十六年(1903年)、現在の位置に新たに万世橋が架橋された後、石造の萬世橋は1906年に撤去されました。現在の橋は関東大震災後の昭和五年(1930年)に架けられました。甲武鉄道(後の中央線)のターミナル駅として万世橋駅が明治四十五年(1912年)に開業すると、橋の周辺は交通の要衝として大変な賑わいを見せました。

Manseibashi Bridge

Sujikai-mon Gate, one of the outer gates of Edo Castle, stood between current-day Manseibashi Bridge and Shoheibashi Bridge. The gate was demolished in 1872, and the stone used to build Yorozuyobashi Bridge (Manseibashi Bridge). The stone arch structure, popularly known as a meganebashi ("spectacles bridge" or two-arched bridge), has been depicted in color prints as a Tokyo sightseeing spot. In 1903, Manseibashi Bridge was rebuilt in its current-day location before the stone Manseibashi Bridge was demolished in 1906. The current-day bridge was built in 1930, after the Great Kanto Earthquake. After Manseibashi Station opened as the Kobu Railway (later the Chuo Line) terminal station in 1912, the area around the bridge became a very busy transport hub.




都電30系統の終点である須田町交差点にやってきました。都電全盛期には10系統もの路線が須田町電停を発着していました。須田町電停は進行方向によって、南北方向と東西方向の2ヶ所に電停が設けられていました。都電30系統は、都電1系統(品川駅前〜上野駅前)・都電19系統(王子駅前〜通三丁目)・都電20系統(江戸川橋〜須田町)・都電24系統(福神橋〜須田町)・都電40系統(神明町車庫前〜銀座七丁目)と共に、南北方向の中央通りに敷設された電停を使用していました。この他、都電10系統(渋谷駅前〜須田町)・都電12系統(新宿駅前〜両国駅前)・都電25系統(西荒川〜日比谷公園)・都電29系統(葛西橋〜須田町)は東西方向の靖国通りに敷設された電停を使用していました。



ということで、都電30系統の歩きを終えます。都電30系統は都電24系統(福神橋〜須田町)と重なる区間がありますが、新しい発見も多かったです。歩く度に違った景色が見えるもんですね。だからお散歩は楽しい!




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