- 都電7系統跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電7系統跡を歩きます。都電7系統は品川駅から四谷三丁目までを結び、その路線は主に国道15号線(第一京浜)・都道415号高輪麻布線・明治通り・外苑西通り・外苑東通りを通っていました。泉岳寺から魚籃坂と天現寺橋から四谷三丁目までは初めての区間となります。沿線には赤穂浪士が眠る泉岳寺、広尾や西麻布といったグルメスポット、広大な敷地に墓石がひしめく青山霊園、緑濃い赤坂御所や神宮外苑などの名所・旧跡が数多くあります。
都電7系統
都電7系統の全長は8.3kmで、昭和44年10月26日に廃止となりました。
都電7系統の電停(路上の駅)は、品川駅・高輪北町・泉岳寺・伊皿子・魚籃坂・古川橋・四ノ橋・光林寺・天現寺橋・広尾橋・赤十字病院・霞町・墓地下・南町一丁目・青山一丁目・権田原・信濃町・左門町・四谷三丁目でした。
品川駅を起点に都電跡を歩くのは、都電1系統跡と都電3系統跡に引き続いて今回で3回目(歩いた順番は異なりますが)となります。品川駅の電停(都電の停留所)は当初都バスの品川折返所がある京急EXホテル品川(通称:SHINAGAWA GOOS)前辺りにあったのではないかと思っていたのですが、当時の映像アーカイブを見ると品川駅高輪口の真ん前にあったように見えます。でも歩いた日にはそんなことは知らなかったので、都営バス折返所から歩き始めることになります。
歩き始めてすぐのバス停に奇妙な形をした派手なバスが停車しています。たまに街中で見かけるのですが、どんなバスなのか知りませんでした。車体に大きな文字で「FUEL CELL BUS」と書いてあります。日本語に直すと、「燃料電池バス」という意味になります。トヨタ自動車が脱炭素エンジンの切り札として発売している燃料電池自動車「SORA」の系統で、遂にバスのような大型車にも燃料電池を搭載したようです。国内で初めて型式認定を受けた量産型の燃料電池バスで、都営バスはSORAを3台と、その前身の「FCバス」を2台、合計5台の燃料電池バスを所有しています。現在、東京駅丸の内南口〜東京ビッグサイトの路線で運行中だそうです。東急バスでも最長路線の東京駅南口〜等々力操車所間の路線で「SORA」を運行しています。SORAは、燃料となる水素を車載の高圧タンクから燃料電池に供給し、そこで空気中の酸素と化学反応させて作った電気でモーターを駆動させ走行します。原理的にCO2を全く排出しない構造になっています。価格は幾らかわかりませんが。
都電1系統・都電3系統は国道15号線を三田まで直進しますが、都電7系統は泉岳寺交差点で左折して都道415号線に入ります。
坂になった道路が右手に大きくカーブするところに赤穂浪士で知られる泉岳寺があります。その参道前に大きな石碑が置いてあり、「四十七義士・・・」と書いてあるように見えます。その右側に「歴史と文化の散歩道」の案内板が立っています。
東海道と泉岳寺
江戸時代、このあたりの東海道は後ろに小高い台地、前に江戸湾を臨む海沿いの道だった。背後の高輪台地には、四十七士で知られる泉岳寺をはじめ由緒ある寺院が多い。また付近には、幕末の頃最初のイギリス公使宿館となった東禅寺がある。台地の上からは眺望絶佳。東海道第一の宿場“品川"も間近に望めた。昭和の文人永井荷風は、この界わいからのながめを次のように記している。
品川の御台場依然として昔の名所絵に見る通り
道行く人の鼻先に浮べる有様・・・(永井荷風「日和下駄」より)
Tokaido Avenue
In the Edo period, Tokaido was the avenue between the Edo Bay and the nearby hills. In the Takanawa heights, there are many Temples such as Sengakuji Temple. In the last days of the Tokugawa shogunate, the minister of the British legation stayed at Tozenji Temple nearby.
参道の奥に門が見えます。中門というのだそうです。昔は総門もあったそうですが、今はその痕跡は残っていません。
中門
元来、泉岳寺には三門といって三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、現在は中門と山門のみが残っています。現在の中門は天保七年(1836年)三十五世大ほう梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和七年に大修理を施されています。「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書です。
Chumon (Middle Gate)
Sengakuji originally had three gates: Somon (Outer Gate), Chumon (Middle Gate) and Sanmon (Main Gate). Chumon and Sanmon still remain at present. The Middle Gate was reconstructed in the late Edo era under the 35th abbot in 1836. The script above the gate "Banshozan" written by a Chinese monk is Sengakuji's mountain name and means "mountain of many pines".
中門を抜けた先には山門があります。本堂かと見間違うほどの偉容です。「泉岳寺」の文字は現代では左から書くのでは?ネットで調べてみましたら、次のような解説がありました。
現代では、日本語の文章は左から右に進む横書きで書かれています。しかし、かつての日本では、右から左に読む横書きが使われていました。縦書きも横書きも左右の進み方が同じでした。では、どうして横書きの向きが変わったのでしょうか?時代をさかのぼると、日本語には縦書きしかなかった時代があります。これが、中国語および漢字の影響だというのは容易に想像がつくでしょう。漢字は本来、縦書きで用いるための形をしているとされています。では、なぜ縦書きは右から左に進むのでしょうか。この理由は明確には分かっていませんが、有力な説のひとつに「巻物に文字を書いていたから」というものがあります。右利きの人なら、巻物を読むとき、左手で巻かれている部分を持ち、右手で引っ張り出すのが自然でしょう。この場合、右から左に文章が書かれているとスムーズに読めます。書くときも右手に筆を持ちながら、左手で紙をずらしていくことになるため、左側に余裕がある必要があります。では、左から右に進む横書きはいつ生まれたのでしょうか。それは、日本人が西洋の言語に触れた江戸〜明治期のことです。左から右に読む横書きの日本語が初めて使われたのは外国語の辞書だったとされています。つまり、横書きの向きの違いは影響を受けた文化の違いに由来していたのです。「横書きはどちらから書くか」という問題は、終戦とともに「左から右へ書く」ということで決着しました。
山門
この門は天保三年(1832年)、三十四世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたものです。二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれています。「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書です。
Sanmon (Main Gate)
Rebuilt in 1832 under the 34th abbot. On the upper floor, there are 16 statues of "Arakan" (Arahats) or Buddhist saints. A bronze dragon can be seen on the ceiling of the ground floor. The script above the gate "Sengakuji" was written by Ono Yakuan, who studied the Zen calligraphy (bokuseki) of China's Jin and Tang periods.
山門の更に奥に本堂があります。
本堂
旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい消失。現本堂は昭和二十八年十二月十四日に落成した鎌倉様式の建築です。ご本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また、大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが祠められています。本堂では座禅・読経などの修行が住職をはじめとした修行僧により厳粛に勤められています。正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指します。
Hondo (Main Hall)
The original building was destroyed in WW II. The present construction was built 8 years later. The main statue is that of Shakyamuni Buddha (the historical Buddha). Also enshrined are statues of Master Dogen and Master Keizan, the two principal "patriarchs" of the Soto Zen sect, and "Marishi-ten (Marici)", the protecting god of Oishi Kuranosuke. It is here in the main hall of Sengakuji that the abbot and training monks regularly practice Zazen (Buddhist meditation), recite sutras and officiate ceremonies. The characters above the central door "Shishi-ku" mean "lion's roar" and refer to the teachings of Shakyamuni Buddha, which were said to have been uttered with the force and courage of a lion.
本堂の横に泉岳寺の縁起が書かれた案内板が立っています。まともに読んだ人はいるのかと思われるような大変な長文です。
萬松山泉岳寺の縁起
当萬松山泉岳寺は、慶長十七年(1612年)、コ川家康が幼年、身を寄せた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田の地に創建し、門庵宗関和尚(1546年〜1621年)を迎えて開山となした。宗関和尚は永平寺の道元禅師によって開かれた曹洞宗の第四代瑩山禅師開創の総持寺の門派である太平山大中寺(栃木県)の十一世建室宗寅和尚(義元の実弟)の高弟であり、今川義元の孫と云われる人物で、度々登城を請われ法問を聴取されたと伝えられている。当寺の萬松山は松平の松より、松萬代に栄ゆるの意から、寺号泉岳寺は、徳川に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと旧梵鐘の銘に記されている。将軍によって建立された当寺も、寛永十八年(1641年)の大火によって伽藍が焼失、三代将軍家光(1604年〜1651年)の命により現在の高輪の地に移転再建された(一説に移転は正保年間(1644年〜1648年)とも)。この移転に際しては、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名が尽力して完成し、その因縁により以後この五大名が共に檀越(だんおつ:寺や僧に布施をする信者)となり外護の任に当った。江戸時代当寺は曹洞宗の江戸三ヶ寺(青松寺・総泉寺と泉岳寺)の一つとして、大僧録たる関三刹(埼玉県龍穏寺・千葉県総寧寺・栃木県大中寺)の下、特に本寺大中寺の下て触頭として曹洞宗の行政面の一翼を担った。また、吉祥寺旃檀林・青松寺獅子窟とならぶ江戸三学寮の一つとして重きをなし、宗内外の碩学によって仏典・租録・漢籍等か講じられ、曹洞宗僧侶の養成に大いに寄与した。山門から中門の両側には出身地別の九棟の寮舎が並び、常時二百名程の学僧が修学していたという。また、赤穂藩主浅野家の菩提寺であったことから元禄十五年の義挙(1702年12月14日)の後は、赤穂四十七義士の墓所としても知られ、討入り約五十年後より上演された歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の興行が盛んになるに伴って一層多くの参拝者が訪れるようになった。現存する山門は天保年間に当寺三十四世大道貞均和尚によって建立され、二階には釈迦三尊及び十六羅漢が安置され、一階中央天井には我が国彫金の名匠、関義則の龍蟠(地面にうずくまってとぐろを巻きまだ天に昇らない龍)が嵌め込まれている。明治初期には廃仏毀釈の余波を受けて、やや荒廃を余儀なくされたが、当寺四十世圓頓霊巖和尚の地道な努力と創意工夫とによって本堂・庫院を恢興し、また煉瓦造りの義士宝物館を創設し、既存の石巒師資制作の義士像を展示する木像堂と共にこれらを公開することによって広く衆望を集めて寺運の再興を果し、次代の四十一世普天霊明和尚がこれを継承して関東大震災に崩壊せる義士宝物館を再建し、書院を新築して、寺域の拡張・整備に努め、明治・大正・昭和に跨る当山の隆昌期が築かれた。然るに先の第二次世界大戦の戦火に遭遇し、山門義士館(旧義士館=現講堂)以外の諸堂が焼失し、歴代の功業は大いに削かれてしまった。しかし次の四十二世祖天準爾和尚は戦後の苦境の中に諸堂の再興を発願し、遂に昭和二十八年(1953年)に本堂の再建を果し、以後これが継承されて現在に至る伽藍・境内等の整備が戦後復興の一環として続けられている。先年義士討入り三百年を記念し、浄財を募って浅野家の塋域(史蹟)を整備し、新たに赤穂義士記念館(平成十三年開館)を建設して、寺宝と共に大石良雄の書状をはじめとする赤穂義士関係の資料を展示して、赤穂義士の己むに已まれぬ心情を伝承することに資している。平成十六年、江戸期の学寮の伝統と戦前に宗門の宗義自覚の発露であった道元禅師鑽仰会の活動等を再興すべく、泉岳寺学寮講座を開設し、漢学・仏教学・宗学の各講座を毎週開講し、また参禅会を公開して道俗の好学の士の渇望に応えている。
境内には立派な台座の上に大石内蔵助良雄の銅像が立っています。手には何かの書物を持っているように見えますね。お散歩しながら本でも読んでいるのかと思いましたら、手に持っているのは書物ではなく、連判状の巻物とのことです。同志の決意を記した連判状を広げてその思いを受け止めつつ、吉良氏のいる江戸の方角の空をじっと睨んでいる姿を表わしているんですね。
境内には赤穂義士に因んだ幾つかの遺物が残されています。
主税梅
大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅と伝えられています。
Chikara Plum Tree
Oishi Kuranosuke's eldest son, Chikara took part in the attack on Kira Kozukenosuke at the age of 16. This plum tree was said to have been transplanted from the house where he subsequently committed seppuku (hara-kiri).
赤穂義士の墓所は周囲から隔離された一角に集められています。入口の石柱には「赤穂義士墓所」と書かれています。
墓所に向う通路にも縁(ゆかり)のある遺物が残されています。この水琴窟は大石内蔵助を偲んで置かれたものなのでしょう。
水琴窟(すいきんくつ)
日本庭園で手水鉢や蹲踞(つくばい)の流水を利用して、地中に伏瓶をした空洞にしたたり落ちる水が反響して、琴の音色に聞こえるようにした装置で、江戸時代の庭師が考案したものと言われている。
Suikinkutsu
The water trickling down at bottom of the basin echoes and sounds like the koto (Japanese harp) playing. This device was created by a gardener during the Edo Period.
義士への鎮魂
大石内蔵助による元禄十四年(1701年)の赤穂城明渡しは実に手際よく、見事なものであったと言う。歴史によればその六年前に備中高梁の松山城がお世継ぎ不在のために改易となり、明渡しの労をとったのが大石であった。備中高梁には水琴窟を考案した小堀遠州が国奉行として慶長九年(1604年)から滞在し、遠州の手になる頼久寺庭園が今も残されている。内蔵助も執務のかたわら水琴窟の妙なる音色に耳を傾け、疲れた心を癒していたのではないだろうか。主君に忠誠を尽くして散った四十七士の崇高な精神に心から敬意をこめて、水琴の音を捧げたい。
赤穂義士が切腹したのは早春の元禄十六年2月4日 (旧暦) のことだったこともあるのか、梅の木があちこちに登場します。
瑶池梅
義士の墓守をしていた堀部妙海法尼が瑶泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものと伝えられています。
Yochi Plum Tree
The nun who took care of the graves of Ako Gishi was said to have received this tree from Yozeiin, the wife of Asano Naganori.
浅野内匠頭が切腹したのは旧暦の元禄十四年3月14日(新暦では4月21日)のことですから、既に梅の花は散っていたことでしょう。血が花にかかったか、葉にかかったかでは印象が随分と違いますね。
血染の梅・血染の石
浅野内匠頭が田村右京太夫邸の庭先で切腹した際、その血がかかったと伝えられている梅と石です。
Chizome (blood stained) Plum Tree and Stone
Story has it that when Asano Naganori committed seppuku in the garden of Tamura Ukyodayu's residence, his blood gushed out staining this tree and stone.
生首を洗うということは残酷な気もしますが、当時としては普通のことだったのでしょうね。後日談ですが、吉良上野介の首はその後箱に詰められて泉岳寺に預けられ、寺では僧二人が吉良家へと送り届けました。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が上野介の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、上野介は菩提寺の牛込の萬昌院(大正期に「万昌院」と改名)に葬られました。
首洗い井戸
義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。
Kubi-Arai (head washing) Well
After the retainers accomplished their avenge by killing Kira, they marched to Sengakuji to report to their lord's grave. When they arrived, they first washed Kira's decapitated head (kubi) at this well and then laid it in front of their lord's grave and announced their success.
墓所に入る門の階段下には簡単な案内板が立っています。階段を上がった門の右手にも案内の木柱が立っています。
義士墓入口の門
この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。
Gate to Ako Gishi Graves
This gate was originally at Asano's residence but was relocated to the present location during the Meiji era.
浅野長矩及び赤穂義士墓所門
切妻造、本瓦葺、一間一戸棟門で、もとは赤穗藩浅野家の鉄砲州上屋敷(現中央区)の裏門として建築されたものです。大石良雄が屋敷を訪れる際によく出入りした門といわれ、明治初年に取り払われる際に、この場所に移築されました。大名屋敷の江戸藩邸門の様式を残す遺構として貴重です。
墓地には討ち入り後に預けられた大名家毎に分かれて四十七士の墓石が整然と並んでいます。大石内蔵助だけは屋根付の墓石になってますね。浅野内匠頭と奥方のお墓は四十七士とは別区画になっています。
義士墓解説
赤穂城主浅野内匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刀傷に及びし咎により即日切腹を仰せ付けられた。家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に四十七士が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄十五年(1702年)十二月十四日本所吉良邸に討ち入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。義士一同は、十二月十五日夕刻細川家(十七名)、松平家(十名)、毛利家(十名)、水野家(九名)の四家に預けられた。翌元禄十六年二月四日、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々四家に分けて葬られた。
附記 遂道退身信士(寺坂吉右衛門)、刃道喜劔信士(萱野三平)の墓は供養墓で在る。
About the graves of Ako Gishi (loyal samurai retainers of Ako)
Asano Naganori, the feudal lord of Ako, was driven to assault his advisor and protocol official Kira Kozukenosuke with his sword at the solemn Edo Castle when he could no longer tolerate how Kira treated him with no respect for the way of the samurai. Consequently, the shogunate punished Asano with an order to kill himself by seppuku (hara-kiri) on the very same day. His retainers could not accept the judgment and 47 of them were united under the chief retainer, Oishi Kuranosuke Yoshitaka, with a mission to avenge the death of their master. On December 14, 1702, they raided Kira's residence in the Honjo area of Edo and made up for the humiliation suffered by their lord. They reported their accomplishment to Asano's grave by presenting Kira's decapitated head and turned themselves in to authorities to seek justice. On the evening of December 15, four other lords (Hosokawa, Matsudaira, Mori and Mizuno) were entrusted with the custody of the loyal retainers. After weeks of difficult deliberation, the shogunate sentenced them to seppuku on February 4,1703, saving their dignity as samurai: they were spared outright execution by beheading. They were immediately buried beside the grave of their master, separated into four blocks according to the residences where they had been accommodated.
Note: Terasaka Kichiemon and Kayano Sanpei are honored with cenotaphs.
浅野内匠頭の墓所の中に小さな石碑が置かれています。浅野内匠頭の墓所は赤穂藩の筆頭家老だった大石内蔵助の墓よりも段違いに立派ですね。
素願成就の梅「八ッ房の梅」謂われ
元禄十五年 赤穗浪士 頭領 大石内蔵助良雄 間瀬久太夫正明 兵庫 明石の人磨山月照寺に素願成就を念じ参拝 併せ 持参の「八ッ房の梅」を祈念し月照寺に託すと伝承 爾来 珍重して三百有余年 時を得て八房一門により大殿の墓前へ献じ奏る
泉岳寺の直ぐ先に(少なくとも正面から見ると)窓のない大きな建物があります。NHK交響楽団(通称N響)の本部です。建物の中にオーケストラの練習場(高輪演奏所)がありますので、防音を兼ねて窓を付けなかったものと思われます。NHK交響楽団というくらいなので、私はてっきりNHKの一部門かと思っていましたが違うんですね。N響は公益財団法人で、1926年に東京で日本放送協会の援助のもとに「新交響楽団」として発足し、1942年には「日本交響楽団」と改称、第二次世界大戦後は日本放送協会との関係を深め1951年8月に「NHK交響楽団」と改称し、今年で創立90周年を迎えたオーケストラです。NHKから受信料を財源に交付金を受け、楽団側は定期演奏会とか大河ドラマのテーマ曲などの演奏の放送で事業に協力しています。NHKは別途、東京放送管弦楽団など放送用専属オーケストラを主要放送局ごとに持っており、紅白歌合戦などの歌番組や娯楽番組でNHK交響楽団が演奏することはありません。
N響の先で坂道は左にカーブしていますが、この坂は伊皿子坂と呼ばれています。名前の由来には諸説がありますが、案内柱の解説だけではよくわかりませんね。”いいさらふ”ってどんな意味でしょうか?
伊皿子坂
中国人(いんべいす)が住んでいたと伝えるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりとも”いいさらふ”(意味不明)の変化ともいう。
明治時代には、坂上の伊皿子交差点付近に高山歯科医学院(東京歯科大学の前身)がありました。東京歯科大学と日本歯科大学って、いつも混同してしまいます。
歯科医学教育発祥之地
高山紀斎は米国留学で得た理想を基にここ束京芝区伊皿子町70番地に明治二十三年(1890年)一月。わが国最初の歯科医学校として高山歯科医学院を設立した。この学院には後の世界的細菌学者野口英世も教壇に立っている。その後、血脇守之助がこれを継承し。東京歯科医学院東京歯科医学專門学校・東京歯科大学として現在に至っている。この地に端を発した近代歯科医学教育の精神は高山歯科医学院開設以来百有余年、脈々と今に引き継がれている。
魚籃坂は、伊皿子坂上から三田・白金方面に下る坂です。魚籃坂の「籃」は「くさかんむり」ではなく「たけかんむり」です。また、「魚籃」とは魚を入れる籠すなわち「魚籠(びく)」のことです。坂の中腹に魚籃寺があることから名付けられました。
魚籃坂
坂の中腹に魚籃観音を安置した寺があるために名づけられた。
魚籃坂を少し下った先に英国風カレーのお店があります。ここを通るたびに気にはなっていたのですが、未だに入ったことはありません。古くから知る人ぞ知るというカレー専門店のサンラインです。水を一切出さないということで知られています。カレーの種類は英国風ビーフカレーのみとなっていますので、自動的に英国風ビーフカレーが出てきます。
魚籃坂の中程に赤い門が際立つ魚籃寺があります。魚籃寺という寺号の由来となった本尊の「魚籃観世音菩薩」は秘仏のため普段は本堂内の御厨子に安置され、年に一度五月の第二土曜日の「大施餓鬼法要会」の時のみ一般に開帳されるそうです。
魚籃寺境内には水子地蔵・塩地蔵・薬師如来・馬頭観世音菩薩も安置されています。
- 水子地蔵尊
- 母親の胎内で流産した胎児や、そのほか色々な事情により流れた胎児に救いを与える仏様。
- 塩地蔵尊
- その昔、高輪の海中から出土されたお地蔵様。願をかけ、その願いが叶ったら、御礼にお塩を供えて感謝御礼いたします。
- 薬師如来
- 医王として人びとの病気を癒し、諸々の苦悩を救う仏様。
- 馬頭観世音菩薩
- 六観音の一尊。「馬頭」という御名から畜生(動物)を救う観音様としてペット全般をお救いくださる仏様。
魚籃坂下交差点で国道1号線(桜田通り)と交差し、古川橋交差点を左折して明治通りに入ります。天現寺橋の手前に半円形の建物が見えます。ニュー山王ホテルは港区南麻布にある在日米軍の施設で、アメリカ海軍が管理しています。アメリカ軍関係者が東京を訪問する際の宿泊施設・在日米軍勤務者の保養所・社交場として使用され、駐日アメリカ大使館関係者も利用することがあります。施設内は英語とアメリカ合衆国ドルが用いられています。週末には満室になることもあります。ニュー山王ホテルにはある思い出があります。ある年のお正月に目黒区役所あたりを散歩していましたら、短パンにサンダル履きのアメリカ人が近寄ってきました。どうやら浅草あたりに遊びに行き、帰りにタクシーに乗ったところ、運転手と意思疎通ができなくなり、ここで下ろされたらしいです。手に持ったメモにはニュー山王ホテルの住所が書かれています。場所は天現寺交差点の近くみたいですが、私には初耳のホテルです。近くに人はおらず、このまま放っておくわけにもいかないのでホテルまで連れていくことにしました。でも、歩いて行くにはかなり距離があります。とりあえず中目黒駅まで行き、地下鉄に乗って広尾駅で下車してからホテルを探すことにしました。地下鉄の中で話を聞いてみますと、米海軍の軍属らしく、帰国の途中で東京に立ち寄ったみたいです。広尾駅で下りて天現寺方向に歩いていったのですが、なかなか見つかりません。彼も見知らぬ日本人に連れ回されて少し警戒しているようでした。ようやくニュー山王ホテルが見つかった時は安堵の表情がみてとれました。「今夜はビールが旨いぞ!」とか言っていましたが、こんなところに米軍の施設があるとは夢にも思いませんでした。
天現寺橋交差点で右折して外苑西通りに入ります。
外苑西通りには飲食店が多くあります。広尾学園の向かい辺りの路地にバッキンガム宮殿の衛兵みたいな格好をした人形が立っています。煉瓦の壁には「Captain cook street, city of hiroo」と書かれたプレートが嵌め込まれています。ロンドンの街中の地番表示みたいな感じです。お店の名前は、プレートにある「CAPTAIN COOK」です。何のお店なのかガラス越しには分りませんが、人の気配が感じられません。帰ってから調べてみましたら、広尾で人気の英国料理のお店らしく、食べログには好意的なレビューが多くみられます。ですが、残念なことに今年の3月15日で閉店したそうです。やはりコロナ禍による休業で持ちこたえられなかったのでしょうか?
西麻布交差点で六本木通りと交差します。その先で外苑西通りは左に分岐、都電は右手の都道319号線に進みます。都道319号線は環状3号線の一部で、外苑東通りと同じ道路番号ですが、この区間では別々の道筋になっています。
都電7系統は青山墓地の東側を通っていたのですが、そこに「墓地下」という電停がありました。お洒落な西麻布と青山の間にある電停の名前としてはちょっと合いませんね。
この道路は、星条旗通りとも呼ばれています。道路に沿ってフェンスに囲まれた東京23区唯一の米軍赤坂プレスセンターの施設があり、その中に星条旗新聞という米軍の機関紙の極東支社があることに因んでいます。
国立新美術館は、東京大学生産技術研究所跡地に日本で5館目の国立美術館として平成十九年(2007年)1月に開館しました。黒川紀章が設計した最後の美術館です。
青山霊園の一角に青山葬儀所があります。都区部にある葬儀式場としては大規模な葬儀が可能な公営の葬儀式場です。別名で青山斎場とも呼ばれることがあり、一般的に斎場というと火葬場を連想させますが、火葬場は併設されておらず、都心の一等地に立地するため大規模な葬儀が可能となっています。そのために芸能人や著名人の葬儀会場として使用されることが多いことでも知られています。施設の老朽化が激しいことから、2021年4月1日から施設の使用を休止しています。都では建て替えを検討しているそうです。参列者が多数集まる盛大な葬儀ができる代わりの斎場はどこにあるのでしょうか?
青山ツインビルの裏側に細長い公園があり、その西端に赤坂消防署発祥之地碑があります。白い石に金属プレートが貼り込まれ、上に赤銅色の立方体の彫刻が乗ったユニークな形をしています。火消しの纏(まとい)をかたどったものだそうです。
赤坂消防署発祥之地
赤坂消防署は、この地に大正十五年に誕生し、以来昭和三十年までの間地域と一体となって、協力と和のもとに防災の拠点としてその任務を果たした。
青山一丁目交差点を直進し、外苑東通りを進みます。右手には赤坂御所の石垣が延々と続いています。
権田原交差点の角に、明治神宮による結婚式場として知られる明治記念館があります。建物は明治初頭に建てられた赤坂仮御所の別殿で、ここで大日本帝国憲法や皇室典範の草案審議の御前会議が行われました。その後、この建物は憲法制定の功績で明治天皇から伊藤博文に下賜されることになり、大井の伊藤邸内に移築されました。伊藤の死後、明治神宮外苑に再移築され、この時に「憲法記念館」となりました。昭和二十二年(1947年)11月1日に、リコーグループの創始者である市村清の主導で憲法記念館を「明治記念館」として開館しました。現在は、結婚式の会場のほか、宴会場・会議施設としても利用でき、レストラン等も併設されています。
外苑東通りは中央線の上を陸橋で跨ぎ、信濃町駅の脇を通ります。外苑東通りの左手には慶應大学病院があります。歴史ある都内屈指の大病院で、石原裕次郎・夏目雅子・藤子不二雄・岡本太郎・遠藤周作・田中角栄・坂井泉水など多くの芸能人・著名人・政治家が利用しました。1981年5月8日、47歳の石原裕次郎は胸部大動脈瘤という難病で倒れ、慶応病院に運ばれました。生存率5%もない手術に15人の外科医が病院の威信をかけて挑みました。手術は成功し、その後石原裕次郎は慶応病院の屋上に姿を見せ、手を振った姿が印象的でしたね。
そのまま直進して四谷三丁目交差点の手前に到着します。都電7系統の終点の電停はどこにあったのでしょうか?新宿通りには別の系統の都電の路線がありましたので、都電7系統はその線路に合流していたのかもしれません。とりあえず、四谷三丁目交差点の手前を終点と定めます。
ということで、都電7系統跡を歩き終えました。何といっても、泉岳寺が一番の見所でした。都電とは全く関係ありませんけど。
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