- 都電6系統跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電6系統跡を歩きます。都電6系統は汐留駅から渋谷駅までを結び、その路線は外堀通り・六本木通り・骨董通り・青山通り(国道246号線)を通っていました。
都電6系統
都電6系統の全長は6.1kmで、昭和42年12月10日に廃止となりました。
都電6系統の電停(路上の駅)は、汐留・新橋・田村町一丁目・南佐久間町・虎ノ門・溜池・福吉町・今井町・六本木・材木町・霞町・高樹町・南町・青山六丁目・青山車庫・渋谷駅でした。
都電6系統の始点となる電停は何回か変更されています。昭和四十二年の廃止時には新橋(現在の新橋交差点辺り?)だったのですが、昭和三十年代にはひとつ手前の汐留だったみたいです。汐留駅は旧国鉄の駅でしたが、その周辺に電停があったと思われます。明治五年(1872年)に日本初の鉄道が横浜との間に開設された際、起点となる新橋駅が汐留に建設されました。しかし、大正三年(1914年)に東京駅が完成し、東海道本線の起点が東京駅に変更されたため、元の新橋駅は汐留駅に改称し、貨物専用駅に変更されました。貨物専用駅の近くに電停を設置しても利用者がいたのかと疑問に思いますが、そのあたりの事情はわかりませんので深追いしないことにします。ということで、現在は汐留シオサイトの中に展示・保存されている旧新橋停車場にやってきました。高層ビルの谷間に駅のホームが再現されています。
プラットホームの下には一部ですが線路も敷設されています。
0哩標識
明治三年3月25日(1870年4月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。昭和十一年(1936年)に日本の鉄道発祥の地として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。昭和三十三年(1958年)10月14日、旧国鉄によって「0哩標識」は鉄道記念物に指定され、昭和四十年(1965年)5月12日、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に認定されました。
Mile Marker Zero
This spot is where the first stake was driven at the survey starting point on 25 April 1870. In 1936, the government railways reproduced Mile Marker Zero with a short section of the original track as the birthplace of Japanese railways. The former Japanese National Railways (JNR) designated Mile Marker Zero as a Railway Memorial on 14 October 1958. On 12 May 1965, the government designated it as a national historic site called the Original Starting Point of the Former Shimbashi-Yokohama Railway.
創業時の線路
創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対照のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。 双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われたあと、新潟県柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社・新日本石油加工株式会社の両社からご寄贈いただきました。
Original Railway Track
The original track was formed of symmetrical double-headed I-section wrought-iron rails secured to wooden sleepers by chairs and buried in a mixed ballast of sand, gravel, and earth. Unlike modern tracks, only the head of the rail appeared above ground level. The rails in this restoration were manufactured in Darlington in Great Britain in 1873. After use by the early government railways, they spent long years in service as industrial tracks in an oil refinery in Kashiwazaki City, Niigata Prefecture, before being generously donated to this exhibition by Nippon Oil Corporation and Nippon Petroleum Processing Co., Ltd.
プラットフォームには鉄骨の屋根というか覆いがあります。見た感じは現代的というか、未来的な形状です。
ブラットホーム(Platform)
構造
プラットホームは「盛土式石積」という構造で作られています。両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩勝坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり、4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。
Structure
The platform was built with a compacted earth retaining wall structure. A trench was dug directly below both platform edges and filled with small river boulders. Courses of cut stone were laid on top of this foundation to build retaining walls and the space between the two parallel walls was filled with compacted earth. Stone from the foundations of the abandoned on-site residences of Lord (daimyo) Wakisaka of the Tatsuno fief and Lord Date of the Sendai fief was recycled for use in the platform foundations. The platform walls were six courses of stone high including the capstones but only the top three courses were visible above ground. The lowest course is composed entirely of header stones running at right angles to the row. Stretchers and headers are laid alternately from the second course. However, the regular alternation is sometimes inconsistent-there are sections of continuous headers in the second and third courses, and sections of continuous stretchers in the fourth and fifth courses.
規模
プラットホームの全長は151.5m、幅は9.1mありました。再現されたのはそのうち駅舎寄りの25mです。遺跡指定の範囲に残されているプラットホームの遺構は35mです。
Size
The length of the unearthed platform is 151.5 meters with a width of 9.1 meters. The first 25 meters of the platform behind the station building have been reproduced. Another 10 meters of the original platform remains buried within the designated historic site.
プラットホームの先には新橋停車場を復元した建物があります。煉瓦造りの立派な建物です。
旧新橋停車場
この建物は、明治五年(1872年)10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。新橋停車場駅舎は、アメリカ人R・P・プリジェンスの設計により、明治四年(1871年)5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。大正三年(1914年)年、 新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの鳥森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、大正十二年(1923年)9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、昭和九年(1934年)から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。昭和六十一年(1986年)、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ理蔵文化財の発掘調査が平成三年(1991年)から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とブラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。平成八年(1996年)12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡「旧新橋停車場跡」として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の往時を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。
Old Shimbashi Station
This building reproduces the external appearance of the first Shimbashi Station, the Tokyo terminus of Japan's first railway line opened on 14 October 1872, as faithfully as possible on its original site. The first station building was designed by the American architect R. P. Bridgens (1819-91). Construction started in May 1871 and was completed in December of the same year. Western-style buildings were still rare in Tokyo at that time, but the station's imposing design symbolized Japan's modernization in tandem with the westernized rebuilding of Ginza Dori soon after the opening of the railway. The passenger-terininal functions of Shimbashi Station were transferred to the new Tokyo Station when it was opened in 1914 and Shimbashi Station was renamed Shiodome Station and became a freight terminal. The Shimbashi Station name was transferred to Karasumori Station, which still remains as today's Shimbashi Station. In its new role as a freight terminal, Shiodome played a pivotal part in Japan's subsequent economic growth. Unfortunately, the magnificent old station building in Shiodome, which had symbolized Japan's westermization movenent during the Meiji period (1868-1912), was destroyed by fire following the Great Kanto Earthquake on 1 September 1923. Renovation works in Shiodome freight terminal from 1934 onwards resulted in the demolition of the old reinaining platforms and original structures not destroyed by the 1923 fire. Following the closure of Shiodome freight terminal in 1986, archacological excavations in 1991 led to the discovery of the station site and the unearthing of the platforms and foundations of the first Shimbashi Station bulding. On 10 December 1996, the Japanese government designated the remains of the station building and part of the platform as the Old Shimbashi Station Historic Site. This reproduction of the first station building has been built to conserve and display these historic remains and to commemorate the birthplace of railways in Japan. The deted Jine shows the extent of the government-designated Old Shimbashi Station Historic Site.
鉄道歴史展示室では様々な催しが行われています。私が来館した時は「走るレストラン」という展示がされていました。現在では殆ど(というか全て?)姿を消してしまいましたが、昭和30年〜40年代は急行以上の列車には食堂車なるものが連結されていました。人は列車に乗るとき、船に乗るとき、飛行機に乗るときは食欲が増すものです。特に、ガタゴトと列車に揺られながら外の景色を眺めていると無性にお腹が空きます。そんな訳で決してお安くはなかったのですが、食堂車には立ち寄らざるを得ませんでしたね。館内には食堂車にまつわるいろんな展示があったのですが、残念ながら撮影禁止ということでお伝えは出来ません。
国道15号第一京浜の脇に芝地区旧町名由来板が立っています。案内板は全部で20ヶ所あるそうですが、幾つかは見ましたが他にはどこにあるのだろう?
芝地区旧町名由来板
The origins of old town names in Shiba area
This signboard guides the origins of old town names, each of which in most cases represents its own history of the beginning or the location.
汐留
昭和七年(1932年)、汐留町一・二丁目および新銭座町の一部を合併して設立された町で、当時は町域のほとんどが元汐留駅の構内に含まれており、北東に汐留川、東に浜離宮を控えた場所にありました。汐留川は土橋で掘止まりのため潮汐の干満は外堀には通じず、汐がこの堀で止まることから汐留川と呼ばれるようになりましたが、いつの頃からかこの辺りの地名のようになったとのことです。
Shiodome
This town was born in the 7th year of the Showa period (1932), from the union of Shiodome-cho 1-chome, 2-chome and a part of Shinsenza-cho, In the northeastern part of the town flows Shiodome River, after which this area is named.
芝口
かつての豊島郡芝村(後に本芝、現在の芝四丁目)を中心として「芝」と呼ばれる広い地域へ通じる場所ということから芝口と称されるようになったようです。宝永七年(1710年)には、一時期江戸の南の出入口として機能した芝口門がたてられ、門の南側の日比谷町一・二・三丁目は芝口ー・二・三丁目と改称されました。文政年間(1818年〜1830年)、芝口三丁目の名主を勤めた長兵衛の十一代前の先祖長兵衛は芝口の前身、日比谷町の開拓者と伝えられています。
Shibaguchi
The extensive area corresponding to Shiba-mura village (the present Shiba 4-chome) in Toshima district and its neighborhood was called "Shiba". The name Shibaguchi means "the entrance to Shiba", as this place was so located. In 1710 Shibaguchi-mon gate was constructed to work as the south gate of the Edo city for a certain period of time.
源助町
源助町は江戸時代のはじめ、名主役の無浪源助が創設した町屋です。その頃、源助町横丁の桑山家屋敷内には水が赤く、飲料にもならない「油の井」と称する井戸がありました。あるとき、この井戸から弁財天の像を一体掘り出したところ、美しい清水が湧き「弁天の井」と称するようになりました。この弁天様は明和六年(1769年)、当時芝口三丁目にあった日比谷稲荷へ相殿して祭られるようになったそうです。
Gensuke-cho
This town was established by the headman Muro Gensuke early in the Edo period. To honour this great founder, it was named after him.
錦絵の説明
汐留より蒸気車御開業祭礼之図 (昇斎一景 明治五年(1872年)
A colored woodblock print titled "the first railway in Japan at the former Shimbashi Terminal (Shiodome yori Jokisha-gokaigyo Sairei no Zu)" by Shosai Ikkei, 1872
新橋交差点で外堀通りに入ります。恐らく、この辺りに新橋電停があったものと思われます。JRの高架を抜けた先にかって田村町がありました。現在では田村町という町名は存在しませんが、昭和四十年(1965年)の住居表示実施の際に、港区はそれまでの芝田村町を中心とする区域を田村町とせず、新橋の西側に位置することから西新橋と命名しました。ただ、現在でも田村町という名前は地域に根付いているみたいです。西新橋近くに田村町再開発なる案内板が立っています。外堀通りから一歩入った奥に、巨大なビルが全容を現しています。日比谷フォートタワーというのだそうです。日比谷フォートタワーは、三井物産都市開発が参加組合員として参画する新橋田村町地区市街地再開発組合が東京都港区西新橋一丁目地内に新設する地上27階、地下2階、高さ138.4m、延べ面積105、633uの超高層ビルです。 2021年6月に竣工する予定なのだとか。
虎ノ門交差点の先の緑地にふたつのモニュメントが置かれています。
新聞創刊の地
洋学者子安峻らが 当時虎の門外琴平町一番地の旧武家長屋に わが国初の本格的な大衆啓発紙読売新聞を創刊したのは 明治七年(1874年)11月2日である
江戸時代の情報伝達形式であった「読売瓦版」から名をとって題号と漢学にふりがなを施した平易な新聞として出発した 創刊のころ漢字教育を与えられていなかった市民から 町名番地にちなんで「千里を走る虎の門 ことにひらがなは一番なり」と歓迎された
維新後の東京に発祥した開明的な大衆紙から 今日に至るまで題号を変えず全国紙に発展したのは わが国新聞史上類例のないことである
溜池櫓台跡
溜池櫓台跡は、江戸城外堀に3つ設けられた隅櫓のうちの1つです。江戸城隅櫓はいずれも主要な道に面した場所につくられていました。残る2つの隅櫓は、筋違門と浅草門に所在していましたが、どちらも取り壊されており、唯一この石垣だけが現存しています。ただしこの櫓台も、以前は西側に溜池落口の櫓がもう1つあり、一対だったようです。一対の溜池櫓台は、寛永十三年(1636年)に因幡鳥取藩(現在の鳥取県)藩主池田光仲によって構築されたという記録が残っています。かつて、この地点は近世初期には外桜田門を起点とする小田原道が通り、溜池上水の起点にもなるなど、江戸城の防備と都市政策の両方にとって重要な地域でした。地形の上でも、この地点は西側に広がっていた溜池一常を見下ろすことができる位置にありました。溜池及び周辺の堀は明治時代に埋められましたが、近隣の文部科学省構内には3か所の石垣が残っており、かつての外堀の姿をしのぶことができます。
Tameike Tower Base Remains
The Tameike Tower base remains are from one of three corner towers built along Edo Castle's outer moat. Edo Castle's corner towers were all built in locations facing major roads. The other two corner towers were at Sujikai-mon and Asakusa-mon Gates, but both have been torn down, with these being the only remaining corner tower stone blocks. It seems, however, that this was only one of a pair of tower bases, and that in the past there was another tower on the west side at Tameike Ochikuchi. Surviving records show that Ikeda Mitsunaka, the feudal lord of the Inaba Tottori Domain (current-day Tottori Prefecture), built the pair of Tameike Tower bases in 1636. This area was once important for both the defense of Edo Castle and urban development, the pond being a source for the Tameike Waterworks, and by the fact that Odawara Road, which started at Soto-Sakurada-mon (Outer Sakurada Gate), passed through this spot in the early modern period. The lay of the land gave this spot a good view over the reservoir ("tameike") which stretched westward. In the Meiji Period, the reservoir and nearby moats were filled in, but stone blocks remain in three locations on the grounds of the neighboring Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology, giving a glimpse of the outer moat in its past form.
霞が関ビルは、地上36階・地下3階・地上高147mの日本最初の超高層ビルとして知られています。昭和四十三年(1968年)4月12日にオープンし、耐震設計として鋼材を組み上げた柔構造を採用しています。日本の超高層ビルの先駆けとなった建物です。2001年からの霞が関三丁目エリアの再開発「霞が関コモンゲート」にともなって、隣接する霞が関ビルでも低層部の増築や改装などが行われ、ビル単体に止まらず地域全体の付加価値の向上が図られています。外堀通りから一段高くなった高架広場はまるで地面のようです。
歩道の脇の植え込みに工部大学校跡のモニュメントが立っています。
工部大学校阯碑
明治六年(1873年)、この地に工業分野における人材育成を目的とした工学校(工学寮内に設置)が開校します。明治十年(1877年)には、工学寮が工部大学校ど改称されました。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科が諸外国から招聘された外国人教師によって教授されました。1886年に帝国大学と合併し、本郷(現在の文京区)に移転します。跡地は、帝室博物館などに使用されますが、大正十二年(1923年)の関東大震災で建物は倒壊してしまいました。そこで、工部大学校出身者たちは、倒壊した建造物の煉瓦などを利用して、昭和十四年(1939年)に「工部大学校阯碑」を建設しました。この碑は、日本最初の工業技術教育機関が設置された場所とともに、関東大震災による被災の歴史を伝えています。
Monument to the Imperial College of Engineering
An engineering college (located within Kogakuryo, the predecessor to the Imperial College of Engineering) opened on this site in 1873 to train new engineers. In 1877, Kogakuryo was renamed Kobu Daigakko (Imperial College of Engineering). Subjects such as house construction and civil and mechanical engineering were taught at the Imperial College of Engineering by foreign teachers who were invited from overseas. The College merged with the Imperial University in 1886 and was relocated to Hongo (current-day Bunkyo City). The site was used for various purposes, including as the Imperial Museum, but the building collapsed in the Great Kanto Earthquake of 1923. Former students of the College later built this monument to the hoperial College of Engineering in 1939 using bricks and other materials from the ruined building. The monument relates the history of this site, where Japan's first educational institution for engineering stood, as well as the devastation of the Great Kanto Earthquake.
溜池交差点の手前に特許庁の庁舎が建っています。工業所有権関連の事務を所管する役所で、発明・実用新案・意匠及び商標に関する事務を行っています。
赤坂インターシティAIRは、溜池交差点に近接する敷地に整備された超高層ビルで、2017年9月29日にオープンしました。所在地周辺には江戸時代に溜池があり、周囲は緑豊かな地域でしたが、明治時代に埋め立てられました。今回、「緑と潤いを復活させたい」と高層棟を六本木通りに面した西側に寄せ、5000uに及ぶ緑地を作り出し、構築された緑地は里山のようなものを目指して南東側に緑道に沿って溜池の歴史に由来する水辺空間を設けたそうです。
溜池交差点から六本木通りに入りますと、かって右手に赤坂ツインタワーが建っていました。NHKの「プロフェッシオナル 仕事の流儀」でも紹介されましたが、赤坂ツインタワーは苦労の末解体され、跡地を中心とした再開発が始まっています。跡地には、地上43階・地下3階、総延床面積約22万uの複合施設が2024年8月に開業する予定です。
六本木四丁目の辺りにはビルが沢山立ち並んでいたと思うのですが、いつの間にか広大な空き地が出現しています。一向に工事を始める様子がないので、何が建つのか不思議に思っていました。ネットの情報では、「ベルザ六本木」や「六本木ことぶきビルディング」などの既存ビルが解体され、跡地に香港の高級ホテルチェーン「ランガム」が超高層ホテルを建設する計画なのだそうです。隈研吾さんが設計した外観デザインは衝撃的で、海外にありそうな低層部が細く上層部が太くなる斬新な建物になるのだとか。麻布にも似たような形状のマンションはありますが、地震で倒壊しなければよいのですが。
六本木交差点の手前にKENTOSの看板が立っています。コロナ禍で営業はままならないとは思いますが、貴重な50’sポップミュージックの灯りを絶やさないよう頑張ってほしいものです。
六本木交差点の手前には俳優座劇場もあります。俳優座劇場は、劇団俳優座の創立10周年事業として1954年4月20日に開場しました。客席は1フロアのみで、総席数300席となっています。全席どこからでも舞台上の演者の爪先まで見られるそうです。
六本木交差点の東京ミッドタウン寄りの角に少女像が立っています。待ち合わせ場所としても使われているそうです。ブロンズ像の名前は「奏でる乙女」で、製作者は北海道に多くの作品が展示されている本郷新氏。平和と協力の象徴とのこと。昭和二十年、ようやく終わった戦争の爪痕は六本木の地にも深く残りました。ようやく訪れた"平和"ではありますが、やるべきことは山積みです。終戦と時同じくして六本木の復興計画は幕を開けました。建物の移転や道路・公園・水道などのインフラ整備。これらの整備にやっと一区切りがついたのは終戦から9年が経った昭和二十九年のことでした。区画整理事業が完了して街としての機能が備わり、その記念碑として建てられたのが「奏でる乙女」の像でした。当時はもちろん首都高速はありません。六本木通りの中央には緑地帯がありました。当初、「奏でる乙女」はその緑地帯に建てられたのですが、昭和三十七年に地下鉄日比谷線の工事のため、近隣の三河台公園に移転し、このとき、不幸にも腕などの一部が壊されてしまう憂き目に遭いました。しかし、この像を守り抜きたい想いを強くした関係者の尽力により、昭和五十年に再建されました。「奏でる乙女」は、当初のセメント製からより堅強なブロンズ製に変わって再び六本木交差点へ移転されました。さらに1990年代の後半に差し掛かると、次は都営地下鉄大江戸線の工事で再び移転。平成十二年になってようやく、元の"定位置"に還ってきました。台座のプレートに何やら説明文がありましたが、読み取れません。いつか再訪してじっくり読んでみたいものです。
首都高速3号渋谷線の高架下を走る六本木通りで、六本木ヒルズから西麻布交差点に向かう下り坂が霞坂です。都電が運行されていた当時、現在の西麻布交差点にあった電停の「霞町」は、2路線が交差する乗換駅でした。両側に霞坂と笄坂というふたつの上り坂に挟まれた窪地(谷底)にあたる霞町では、坂を下ってきては逆側に登っていく路面電車の様子が見られたといいます。
霞坂
明治初年に霞山稲荷(現在の桜田神社)から霞町の町名ができ、そこを貫通する道が明治二十年代に開かれて霞坂と呼んだ。
高樹町交差点を右折して骨董通りに入ります。骨董通りは正式には「南町通り」ですが、かつては「高樹町通り」と呼ばれ、アンティーク通りという表記も見られます。六本木通りと青山通りとを繋いでいますが、六本木通りに青山学院下のトンネル(青山トンネル)が開通する前には、渋谷と六本木を繋ぐ主要路としても機能していました。当時は都電も渋谷駅から青山通りを青山六丁目(現南青山五丁目交差点)で右折してこの道路を走っていました。
骨董通りの入口に案内板が立っています。
青山高樹町の由来
本町域は、かつての下渋谷村のうちであるが、徳川家康の入国直後から武家地となつたものである。江戸府内中心部より遠い割合にはたいへん早い。すなわち現町域の大部分は丹南藩高木邸、南の一角は牛久藩山口邸の一部であつて、高木氏賜邸は天正十八年(1590年)中と推定されている(武家地となった時期?)。元禄十年(1697年)には高木邸内一万坪を幕臣への給地のため上げ地とした。それでも広い屋敷で、この屋敷から切り出す薪は毎日七十駄におよんだなどとある。現在の電車通りは当時屋敷内を北方の百人組屋敷より来る道であつて、里俗に主水町(高木主水正による)と呼んでおり、また姓の方をとつて高木町と呼ぶこともあつた。明治五年七月、木の字を改めて高樹町という一町を起立した。主水町の俗称は明治になつても残り、そのあたり多少商店ができたが、だいたい閑静な住宅街となつた。この町況は今日も変わりなく、区内でも代表的な邸宅街となつている。ただ電車通りぞいは商店などが並んでいる。
青山五丁目交差点を左折し、青山通り(国道246号線)に入ります。
青山通りの右手に「俺のフレンチ・イタリアン青山店」があります。「俺の〜」で唯一ランチブッフェを行っているお店です。そのためか、コロナ禍でもランチ時はほぼ満席の盛況となっています。以前はランチでも結構優雅な雰囲気だったのですが、今は(緊急事態宣言発令の前ですが)お客さんの大半は大食いの猛者達で、ゆっくり食事を楽しむ雰囲気が薄れているように感じます。前菜・パスタ・ピザ・メイン・デザートから一品ずつ選べばアラカルトには量的に劣るものの、一応コース料理が頂けるようになっています。ですが、デザートの後にパスタとかメインとか、ワインなしに水だけとか、ちょっと品を疑うような食べ方をされるお客さんが多いように感じます。モトを取るのも大事でしょうけど、もちょっと優雅に食事を楽しみましょうよ!
国連大学は1969年に当時の国際連合事務総長ウ・タントが構想を提案し、開発途上国を中心に支持を受け、1973年に国際連合大学憲章が国際連合総会で採択されて設立されました。青山に本部が置かれ、国連およびその加盟国が関心を寄せる緊急性の高い地球規模課題の解決に取り組むため、共同研究・教育・情報の普及・政策提言等を通じて寄与することを使命としています。国連システムおよび国連加盟国のシンクタンクとしての機能を持っています。現在国連大学が建つ場所は、青山通り沿いに隣接するこどもの城(既に閉館されています)やオーバルビルなどとともに、かつては都電の青山車庫でした。
国連大学の隣の広場に見たことのあるような大きなオブジェが立っています。大阪万博の会場にもあった奇妙な形のモニュメントに似ています。作者はやはり岡本太郎で、テーマは「こどもの樹」だそうです。どう見ても太陽の塔にしか見えませんが。ここには「旧こどもの城(正式名称は国立総合児童センター)」という施設がありました。都電青山車庫に隣接し、都電廃止後は都バス車庫として使用され、再開発によってこどもの城や国連大学が建設されました。空調や電源設備の更新のほか耐震補強など改修を行う場合に巨額の費用がかかることと、自治体における児童館の整備も進んだことから、平成二十七年(2015年)に閉館しました。現在は敷地全体が工事用の板塀に囲まれています。今後は複合スペース「都民の城(仮称)」として、「遊び・学び・仕事を通じて、子どもをはじめとした都民が交流・成長できる場」をコンセプトに100億円以上をかけてリノベーションし、2023年から活用されるとのこと。ただ、6年後には取り壊されることになりそうとのこと。勿体ない。。。
青山通りは青山学院大学の先で二手に分岐します。右手に延びるのが宮益坂、左手に延びるのが金王坂(こんのうざか)です。「金王」という地名は、近くに金王八幡宮があることに由来します。余談ですが、平安時代の終わりごろ、このあたりの領主は河崎重家でした。河崎重家は京都の御所に侵入した賊を捕えました。この賊の名が渋谷権介盛国だったことから、朝廷は河崎重家に「渋谷」の姓を与えました。河崎重家の死後、息子の渋谷金王丸がこの城の城主になりましたが、大永四年(1524年)の北条氏綱による関東攻略の際に城は後北条氏の別働隊によって焼失し、渋谷氏は滅びました。渋谷金王丸は、現代に渋谷と金王八幡宮の名を残したことになります。
宮益坂
ふじみ坂、または渋谷新町とも呼ばれていました。この坂に沿う家並を途中の御岳権現にあやかって正徳三年(1713年)から渋谷宮益町と称し町奉行管下になりました。
金王坂
明治大正昭和と波瀾万丈の過程を経て市区改正。町名変更に伴ない先輩諸氏の築かれた幾多の功績をたたえ由緒ある金王の地名を保存し、ここに金王坂と命名する。
宮益坂を下って終点の渋谷駅に着きました。どこに起終点となる電停があったのでしょうか?実は、都電6系統は渋谷駅付近で往路と復路の線路が別ルートだったのです。元々は宮益坂を複線で行き来していましたが、1957年からはこの線路を単線とする代わりに、昭和五十四年に町名変更で金王町の名が消えたのを惜しんで名づけられた金王坂を下り、六本木通りから明治通りに曲がって渋谷駅前電停(現在の渋谷ヒカリエ前)で終点となり、ここを始点として出発する際は宮益坂下交差点を右折して元のルートである宮益坂を上って坂上で再び合流するループ状のルートになりました。
ということで、都電6系統を歩き終えました。渋谷駅近辺でルートを間違えましたが、まぁ良しとしましょう。六本木の「奏でる乙女像」の説明書きには何て書いてあるのだろう?気になるなぁ。
戻る