- 都電5系統跡コース(1)
- コース 踏破記
- 今日は都電5系統跡を歩きます。都電5系統は目黒駅から永代橋西詰までを結び、その路線は目黒通り・国道1号線(桜田通り)・都道415号線・都道319号線・日比谷通り・鍛冶橋通りを通っていました。都電2・4系統と重なる区間もありますが、新しい発見もありそうです。
都電5系統
都電5系統の全長は10.3kmで、昭和42年12月10日に廃止となりました。
都電5系統の電停(路上の駅)は、目黒駅・上大崎・白金台町・日吉坂上・清正公・魚籃坂・古川橋・三ノ橋・二ノ橋・一ノ橋・中ノ橋・赤羽橋・芝園橋・芝公園・御成門・田村町四丁目・田村町一丁目・内幸町・日比谷・馬場先門・都庁前・鍛冶橋・京橋・桜橋・八丁堀・越前堀・永代橋でした。
都電5系統の始点は目黒駅前だったようですが、目黒通り上にあったのか目黒駅前広場にあったのかは分りません。独断で目黒駅前広場に電停があったものとします。
目黒駅前の景色は随分と変わりました。目黒通りを挟んだ向かいの奥には都バスの車庫があり、周囲には放置された空き地もあって殺風景な景色が拡がっていました。それが周辺も含めた大規模な再開発によって高層のオフィスビルとマンションに様変わりしたのです。目黒セントラルスクエアは、目黒駅東口の都営バス目黒営業所跡地(約1ha)とその周辺(約2.3ha)の一体的な再開発事業「目黒駅前地区第一種市街地再開発事業」のオフィス棟として建設されたビルです。南側には2棟のタワーマンション「ブリリアタワーズ目黒」が建ち、再開発はこの3棟の超高層ビルで構成されています。区域内には、江戸時代に播磨国三日月藩森家の江戸本邸がありました。
誕生八幡神社は、文明年間(1469年〜1487年)に創建されました。太田道灌が妻の無事出産を祈願するため、筑前国(現・福岡県)の宇美八幡宮より分霊を勧請し、無事に道灌の子を誕生させたことから「誕生八幡神社」と呼ばれるようになり、安産の守り神とされました。神社の両側には銀杏の巨木(いずれも推定樹齢250年〜300年)があり、「夫婦銀杏」と呼ばれています。道路の拡張により現在はコンクリート造りの社務所の上に木造の本殿を移築しています。毎年9月中旬に開催される「目黒のさんま祭り」では、誕生八幡神社が会場の中心となっています。境内には、徳川三代将軍家光が鷹狩りに来た際に重箱(弁当)を供えたことから名付けられた「重箱稲荷」がありますが、これには次のような伝承があります。現在でも重箱を扱う弁当業者などが商売繁盛の祈願に訪れるのだそうです。
三代将軍・徳川家光が当地付近で鷹狩りを行っていた際、放った鷹が帰ってこなくなりました。落胆していた家光はこの稲荷を偶然見つけ、持参していた弁当の重箱を社前に供えて祈願したところ、鷹が戻ってきたそうです。
誕生八幡神社は都心の神社です。ビルの間に窮屈そうに鎮座しています。でも、イチョウの大木には崇敬の念を抱かせます。「目黒のサンマ祭り」では、朝早くから行列に並びました。買えば1匹百円でしたが、3時間並んでサンマの塩焼きを頂けたので時給に換算すると1匹300円となります。イヤイヤ、並んでいる間に高まった旬の味覚への高揚感を思えばお金には換えられません。
誕生八幡神社のイチョウ(1)(2)
本樹は、昭和四十五年に移転改築された八幡神社の本殿入口に向って両側に位置している。これまで道路拡張により三度も移植されたが、よく耐えて旺盛な樹勢をみせている。本社は、文明年間(1469年〜1487年)筑前(福岡県)字美八幡より勧請された。(1)は本殿に向って右側に位置し、幹廻り3.25メートル・樹高14.5メートル。(2)は左側に位置し、幹廻り2.71メートル・樹高11.5メートルで、ともに推定樹齢ニ百五十〜三百年である。双樹とも、目黒通りに面し、ビルに囲まれた中で、樹姿・樹勢ともに良く貴重である。
上大崎交差点で首都高2号目黒線の高架と交差します。その脇に見慣れた歴史と文化の散歩道の案内板が置かれています。東京都庭園美術館についても解説してあります。
庭園美術館
東京都庭園美術館は旧朝香宮邸として、昭和八年に建造された。すっきりと優雅な白亜の外観をもつこの建物は、20世紀はじめにヨーロッパで花開いたアール・デコ様式を随所にとりいれ、昭和五十八年に一般公開されるまでは“幻の建築”とまでいわれた。アンリ・ラバンによる内装の美しさには、しばし目を奪われる。家具・調度・扇から取っ手にいたるまで格調高い細工が施されている。そして優しいカーブを描く窓からは、1万uの西洋庭園が見渡せる。この芝の庭園には、パリ市から贈られたザッキン作「住まい」の彫刻が置かれている。そしてこの建物と庭園に相応しいユニークな企画展が開かれている。美術館として利用される以前には白金迎賓館として外国の要人を迎えたこともあった。
東京都庭園美術館は都立の美術館で、旧朝香宮邸とも呼ばれています。武蔵野の面影を残す国立自然教育園に隣接した同館の敷地および建物は、香淳皇后(昭和天皇の皇后)の叔父にあたる朝香宮鳩彦王がパリ遊学後2年をかけて建設し、1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅でした。鳩彦王は陸軍大学校勤務中の大正十一年(1922年)から軍事研究のためフランスに留学しましたが、当時フランスはアール・デコの全盛期で、その様式美に魅せられた朝香宮ご夫妻は自邸の建設にあたり、フランス人芸術家アンリ・ラパンに主要な部屋の設計を依頼するなど、アール・デコの精華を積極的に取り入れました。また建築を担当した宮内省内匠寮の技師であった権藤要吉も西洋の近代建築を熱心に研究し、朝香宮邸の設計に取り入れました。さらに実際の建築にあたっては、日本古来の高度な職人技が随所に発揮されました。朝香宮邸は、朝香宮ご夫妻の熱意と、日仏のデザイナー・技師・職人が総力を挙げて作り上げた芸術作品と言っても過言ではない建築物なのです。この土地は白金御料地と呼ばれ、近世には高松藩松平家の下屋敷がありました。明治期には一時陸軍の火薬庫が置かれ、後に皇室財産となっています。宮邸は朝香宮一家が退去した後、吉田茂によって外務大臣公邸として、1947年から1950年にかけて使用されました。1950年に西武鉄道に払い下げられ、1955年4月に白金プリンス迎賓館として開業し、国賓・公賓来日の際の迎賓館として1974年まで使用されました。1974年5月からプリンスホテルの本社として使用された後、1981年12月に東京都に売却され、昭和五十八年(1983年)に都立美術館の一つとして一般に公開されました。
その先の自然教育園前交差点の脇には、別の歴史と文化の散歩道の案内板が置かれています。自然教育園には一度入ったことがありますが、園内には都心の目黒・白金とは別世界の森林の風景が拡がっています。緑濃い都会のオアシスですが、近隣の住宅に住んでいる人にはまた別の苦労もあるようです。自然教育園は木々が生茂り、カラスの格好の(←最高のダジャレ!)住処になっているようで、夕方になると住処に帰るカラスの大群の鳴き声で目黒駅周辺は騒然となります。おまけにマンションのベランダには落とし物が。。。
白金台と増上寺八ヶ寺
白金台の国立自然教育園は、都心には数少ない自然の宝庫である。江戸時代高松落主松平讃岐守の屋敷があった広大な園内は、600年前の自然をとどめ、さながら深山幽谷の境。そこここに土塁や堀の跡が残り、室町幹代にあったという白金長者の館をしのばせる。隣接する東京都庭園美術館は旧朝香宮邸。建築と庭園の奏でる佇まいは、ありのままの自然とはまた趣の異なる静寂を醸している。目黒通りの南に広がる寺町は、江戸時代増上寺が寺院を建立したところから増上寺八ヶ寺と呼ばれる。付近の池田山公園はかっては岡山藩主池田家下屋敷跡。端正な回遊式日本庭園は八ヶ寺と共に、往古の静けさをそのまま今に伝えている。
Tokyo Metropolitan Teien Art Museun and National Park for Nature Study
Tokyo Metropolitan Teien Art Museum stands on the premises which belonged to the Asakanomiya. National Park for Nature Study in Shiroganedai is a treasure house of nature still left in the central area of Tokyo.
自然教育園を含む白金台地は、洪積世(20〜50万年前)海食によって作られました。いつ頃から人が住み着いたかは不明ですが、園内から縄文中期(紀元前約2500年)の土器や貝塚が発見されていることから、この時代には人々が住んでいたようです。平安時代には目黒川・渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていました。室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。この館の主が誰かは不明ですが、白金の地名は永禄2年(1559年)の記録に初めて現れ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されています。また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っています。江戸時代になると、増上寺の管理下に入りましたが、寛文四年(1664年)には、徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は当時の庭園の名残であろうと思われます。明治時代には火薬庫となり、海軍省・陸軍省の管理となり、大正六年(1917年)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれました。その後、昭和二十四年文部省の所管となり、「天然記念物及び史跡」に指定され、国立自然教育園として広く一般に公開され、昭和三十七年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っています。
目黒通りの脇に、「港区旧町名由来板」が立っています。白金の住民に「シロガネ」と言ったらバカにされたことがあります。ハイソな人は濁音が苦手なんですね。
港区旧町名由来板
白金
古来このあたりの地名は、銀(しろかね)・白銀(しろかね)とも書かれました。室町時代より武蔵野に栄えた豪族の中に白金長者と称される人がおり、白金の地名の起こりとなったといわれています。白金の台地部分を白金台と称し、江戸時代には大名の下屋敷や寺社などが多く、その一部が自然教育園や瑞聖寺などとして残され、緑豊かな歴史と文化を感じさせる地になっています。
Shirokane
The area name Shirokane comes from "shirokane-choja" (rich person named "shirokane-choja"), the title of a powerful family that had been prosperous in Musashino region (present Tokyo) since the Muromachi period (14-16C). An elevated part of Shirokane area is called Shirokane-dai where there were many daimyos' (feudal lords') suburban residences or temples and shrines in the Edo period (17-19C). The site of the Institute for Nature Study, National Science Museum or Zuishoji temple, etc. covered with rich green are survivals into our day, reminding us of old history and culture.
芝白金三光町
この辺りは、江戸時代には諸大名の下屋敷の間に田畑が点在する郊外の風景が広がっていました。明治の初めに白金錦町・白金上三光町・白金下三光町ができました。明治二十四年(1891年)これに旧白金村の字名光・東名光・西名光・卒古台(蜀江台)・松久保・雷神下を合併し白金三光町としました。三光の名は町内の三光坂からとられましたが、蛍の名所であった名光・東名光・西名光の三光に由来したとも考えられています。
Shiba-shirokane-sanko-cho
There had been daimyos' suburban residences with cultivated fields among them in this town area until the end of the Edo period. Early in the Meiji period three towns with the word "Shirokane" prefixed to the town name appeared, and then in 1891 three towns and vicinity were united into a town named Shirokane-sanko-cho. The part of the town name "Sanko" comes from the Sanko-zaka slope in the town; however, some say that it comes from the three ("san" in Japanese) places, Meiko, Higashi-meiko and Nishi-meiko, noted for their fireflies.
芝白金台町
古来一帯は草深い武蔵野台地の一部でした。江戸時代に入り、白金村のうちの相模街道(現在の目黒通り)に沿った地域が増上寺領となりました。人家が少なく物騒な地であったので、慶安四年(1651年)商人町屋にしたいと願い出て許されました。町名は白金の台地上にあるため白金台町とし、一丁目〜十ー丁目に分けられましたが、明治五年(1872年)一丁目〜五丁目と寺地を合わせて白金台町一丁目、六丁目〜十ー丁目と武家地を合わせて白金台町二丁目としました。
Shiba-shirokane-dai-machi
The town area was a part of the grassy Musashino Plateau in old times. In the Edo period the area along the Sagami-kaido (current Meguro-dori street) in Sirokane-mura village became the territory of Zojoji temple. As the territory was less-populated and insecure, dwellers petitioned the authorities for using the territory as a tradesman's quarter, and the request was granted. The town was named Shirokane-dai-machi because it extended on an elevated part ("dai") of Shirokane area.
芝白金今里町
今里は白金村の東南に続いた地で、名前の由来は延宝三年(1673年)新たに開墾された里だからとも、元禄八年(1695年)白金村より分離したからとも言われ、元禄の頃には村名になっていました。村の中心を多摩川上水から分水した三田用水が流れており農業用水として利用されていました。明治二十四年(1891年)旧白金村の字今里と玉縄を合わせて白金今里町としました。
Shiba-shirokane-imazato-cho
Adjoining the southeastern part of Shirokane-mura village, Imazato (meaning "new village")area was newly cultivated in 1673. Water for irrigation called Mita-yosui ran through the center of the area. The area, uniting adjacent Tamanawa area, developed into a town named Shirokane-imazato-cho in 1891.
芝白金猿町
むかし相模国に続く中原道が二本榎通りから分かれ、五反田方面に向かう街道筋にできた町がもととなりました。猿町の由来は白金台町を「去る」の意味、または、この辺りに新田義貞が武運長久を祈り安置した帝釈天の庚申信仰から庚申様と言われ、申町・猿町となったという説もあります。
Shiba-shirokane-saru-machi
A new town was formed along the Nakahara-michi highway running in the direction of Gotanda, branching off from the Nihon-enoki-dori street. In the 14th century a warlord Nitta Yoshisada enshrined a Buddhist image around here to pray for his success in war, and the image began to be called "Koshin-sama". The town name "saru-machi" is said to have come from the homophone of the Chinese letter "koshin".
外苑西通りは、昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックに向けて着工された通りで、目黒通りと靖国通りとを結ぶ南北方向の都道です。新国立競技場の前を通るほか、青山霊園や神宮外苑・新宿御苑など都心の中でも落ち着いた地域を抜ける道路で、環状4号線に属しています。外苑西通りのうち、白金六丁目交差点から白金台交差点までの緩やかな坂道は、「プラチナ通り」との愛称でも呼ばれています。この愛称は、白金(プラチナ)に因んでいますが、町名の「白金」は正しくは“しろかね”と読み、銀(シルバー)の意味です。誰もが憧れる白金のプラチナ通りですが、シルバー通りが相応しいかも。シルバー世代といえば、巣鴨の原宿通りですね。これからは巣鴨のプラチナ通りと呼びましょう!
東京大学医科学研究所は、明治二十五年(1892年)に北里柴三郎博士により設立された大日本私立衛生会附属伝染病研究所を前身とし、昭和四十二年(1967年)に医科学研究所に改組されました。現在はがん・感染症やその他の難治疾患を対象にした最先端の研究と医療を進めることを目的とする東京大学の附属研究所になっています。略称は「医科研」・「東大医科研」・「白金医科研」で、旧名称である伝染病研究所から「伝研」という古い略称で呼ばれることもあります。研究所敷地内には附属病院を有し、時計台のある3階建てのゴシック様式風の本館は、大正十二年(1923年)の関東大震災のすぐあとに、内田祥三が耐震・耐火建築研究の実績に立って設計したものです。多様な研究成果の社会実装に必要な最重要課題に取り組むセンター・施設として、生命科学に特化した国内最大の演算性能をもつスーパーコンピュータ(SHIROKANE)を擁するヒトゲノム解析センターや先端医療研究センター等の8センター・5研究施設が設置されています。
ゆかしの杜は緑豊かな白金台に開設され、郷土歴史館をはじめ、がん在宅緩和ケア支援センター・子育てひろば・区民協働スペースなど、港区の「ゆかしい」施設が集まる複合施設であることから、「杜」という言葉を添え「ゆかしの杜」と名付けられました。「ゆかし」は「ゆかしい」の文語表現(または古語)で、その語意は「心ひかれ、そこに行きたいと思う」です。「ゆかしい」には、「気品・情緒などがあり、どことなく心がひかれるようである」・「なつかしく感じられる。昔がしのばれる様子である」・「好奇心がそそられる。見たい、聞きたい、知りたい、ほしいなどの気持ちを表す」の三義があります。
郷土歴史館
郷土歴史館は、誰もが歴史や文化をとおして港区を知り、探求し、交流できる拠点となる施設です。常設展や特別展を開催する展示室やコミュニケーションルーム・図書室の他、ミュージアムショップやカフェも併設しています。誰もが楽しみ、学び、くつろげる場所です。
「ゆかしの杜」の入口に奇妙な「だまし絵」が描かれています。写真で見ても通路面上に立体的なオブジェがあるように思えます。港区民にとっては、非日常を体験するのにいいかも。
みなと歴史のトリックアート
「港区」ときいてあなたは何を思い浮かべますか? 東京タワー・お台場・増上寺・勝海舟・・・。芸術家の傍嶋賢さんによる、現代から古代まで歴史をさかのぼるタイムトラベルへあなたを誘うトリックアート作品が目黒通りからの歴史館アプローチに登場します。
八芳園は、1万2000坪の敷地内に庭園のあるレストラン・結婚式場です。明治学院大学・シェラトン都ホテル東京と近接しています。庭園の名称は「四方八方どこを見ても美しい」に由来します。江戸時代前期には譜代の江戸幕府旗本・大久保忠教(彦左衛門)の屋敷(現在の園全域ではなく一部が彦左衛門の屋敷地)でしたが、その後薩摩藩の抱屋敷、島津氏(松平薩摩守)の下屋敷を経て、明治時代に渋沢喜作の手に渡りました。大正四年(1915年)、実業家の久原房之助邸宅時に現在の建物と庭園が整備されました。戦後久原(当時公職追放中)は銀座や築地で料亭などの経営を手がけていた長谷敏司に海外からの旅行者(賓客)向けに日本庭園を活かした本格的な料亭の共同経営を持ちかけ、自ら「八芳園」と命名し昭和二十五年(1950年)に八芳園を創業しました。
目黒通りは国道1号線(桜田通り)に合流する清正公前交差点に向って下り坂になっています。この坂は日吉坂ですが、それには次の伝説があります。
日吉坂
能役者日吉喜兵衛が付近に住んだためと伝える。ほかに、ひよせ・ひとせ・ひとみなどと書く説もある。
清正公前交差点で国道1号(桜田通り)に入ります。国道1号には五反田方面から都電4系統が通っていましたので、線路はこの地点で合流・分岐していたのかも。
清正公前交差点の脇に覚林寺があります。戦国時代の武将である加藤清正を祀ったお寺です。
清正公堂及び山門
覚林寺は弘化二年(1845年)の大火で全焼し、山門は安政三年(1856年)、清正公堂は慶応元年(1865年)に再建されたものです。清正公堂は拝殿・幣殿・本殿からなる権現造形式です。拝殿は間口三間奧行三間、幣殿は間口一間奥行三間。本殿は土蔵造で明治中期頃の再建と考えられますが、伝統的な意匠をもちます。山門は覚林寺の表門で、木造・銅板葺の薬医門であり、両側に脇戸が付きます。斗((ます)に皿斗(さらと:建築用語で、斗の下端に付けた皿状の部分)が付くほかは装飾的要素の少ない簡素な門です。清正公堂は本殿部分を土蔵造とする権現造で、近世の建物構成を継承しています。拝殿・幣殿は本格的な禅宗様形式を採用し、本殿も伝統的な意匠を引き継いでおり、近世以来の技術を伝えるものとして高く評価されます。また山門は現在の境内において最古の建築であり、同時期の建設になる清正公堂とともに、近世以来の境内の構成を伝えている貴重な建造物です。
境内には清正公にまつわる由緒書きを記した案内板が立っています。
覺林寺略縁起
通称、白金の清正公さまと呼ばれる当山は最正山覚林寺と号し、ェ永八年(1631年)可観院日延上人(韓国の王族)によって開創されたお寺であります。開創と同時に上人によってご奉安申し上げられた清正公大尊儀は古く江戸時代より開運の神さまとして霊験まことにあらたかで広く庶民大衆に崇敬されてまいりました。毎年五月四日・五日の両日に行われる清正公大祭は人生の苦悩に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与され、東都における清正公信仰のみなもととして、今もなお各界の参詣祈願者でにぎわいます。ご神徳を仰ぎ謹んでご拝礼ください。
麻布十番駅横の路上に奇妙なモニュメントが置いてあります。「微笑みのモニュメント 父と息子」なんだそうです。結構インパクトが強くて驚きました。何のために設置してあるのでしょうか?これは、麻布十番商店街が12ケ国の大使館の協力を頂き、「微笑み」をテーマにして作成されたものなのです。この「父と息子」はジンバブエ共和国の出展なのだそうです。
新一の橋交差点を右折し、首都高都心環状線に沿って古川の北岸を進みます。赤羽橋交差点を直進し、芝公園の南端に沿って進みますと、左手にザ・プリンスパークタワーのマンション風の建物が見えます。プリンスホテルグループにおいて最上級グレードの宿泊施設である「ザ・プリンス」シリーズのひとつです。芸能人の結婚披露宴が多数行われていることでも知られています。相田翔子さん・小池栄子さん・松本人志さん・市川海老蔵&小林麻央さん・東貴博&安めぐみさんなどなど。
芝公園グランド前交差点を左折し、日比谷通りに入ります。ここからは都電2系統とルートが一部重なります。
交差点の先に芝東照宮があります。芝東照宮は徳川家康を祭神とし、日光東照宮・久能山東照宮・上野東照宮と並ぶ四大東照宮のひとつとされています。芝公園の一角にあり、元来は増上寺内の社殿でした。徳川家康が慶長六年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を自身が駿府城に於いて祭祀していました。元和二年(1616年)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言しました。同年10月に着工し翌元和三年(1617年)2月に竣工しました。この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」より「安国殿」と呼ばれました。これが芝東照宮の起源となっています。その後、三代将軍家光により寛永十年(1633年)に新社殿が造営され、旧社殿は開山堂となりました。寛永十八年(1641年)には移転改築がなされました。駿府城より移築された惣門・福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、本殿の周囲に拝殿・唐門・透塀が造営され豪奢な社殿が整いました。明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となりました。昭和二十年(1945年)5月25日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失しました。昭和四十四年(1969年)に現在の社殿が再建されました。
御由緒
御祭神 徳川家康公 御神像
慶長六年元旦 御年六十歳の時 家臣に命じ
之を彫刻せしむ 東京都重要文化財指定
御鎮座年月
永世国家を守護し国民の繁栄を祈願せんとの
仰せにより元和三年三月に当地に奉安す
祭日
例大祭 四月十七日(御逝去日)
月次祭 毎月一日 十七日
社殿
権現造り 昭和四十四年八月完成 鉄筋コンクリート
旧社殿は国宝なりしが戦災により焼失す
公孫樹
ェ永十八年三代将軍家光公の手植
昭和五年文部省指定天然記念物
以上
芝東照宮
道路脇に港区の「ちぃまっぷ」が立っています。
芝地区ちぃまっぷ
芝東照宮
芝東照宮は、都の有形文化財である家康公の座像が安置されています。また、本殿の右手前には、徳川家光が植えたといわれる樹齢300年のイチョウの大木があります。
Shiba-toshogu
The sitting statue of Tokugawa leyasu (the first Shogun who established Edo regime) which is one of the tangible cultural properties of Tokyo is installed. A three hundred year-old big ginkgo tree said to be planted by Tokugawa lemitsu (the third Shogun) is located on the right front of the main shrine.
尾崎紅葉生誕の地
「金色夜叉」などの小説で有名な尾崎紅葉(本名徳太郎)は、慶應三年(1867年)12月16日芝中門前二丁目25番地(現芝大門2−7−4)で生まれました。「紅葉」とは増上寺境内の紅葉山からとって号したものです。
Birthplace of Ozaki Koyo (a famous novelist in Meiji period)
Ozaki Koyo (Ozaki Tokutaro in real name) who is famous with novels such as "Konjiki Yasha" in Meiji period was born on December 16, 1867 in 2-25, Shibanakamon-zen (present 2-7-4, Shibadaimon), His pen name Koyo (meaning autumn red leaves or maple trees) was named after "Momiji-yama (maple tree hill)" in Zojo-Ji Temple, a famous temple in the area.
平和の灯(区立芝公園)
子どもたちからアイディアを募集し、そこから得られたキーワードの「地球」「火」を活用し、「水と緑の地球に、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願う火が灯されている」様子を表現したものとなっています。
Light of Peace (Minato Public Shiba Park)
Minato City collected the ideas from children and picked up the key words, Earth and Fire. By using those key words, the light of peace expresses the state that the wish of ever lasting peace and diminish of nuclear weapon lightens the earth of water and green.
芝公園の前に芝地区旧町名由来板が立っています。
芝地区旧町名由来板
The origins of old town names in Shiba area
This signboard guides the origins of old town names, each of which in most cases represents its own history of the beginning or the location.
栄町
正徳三年(1713年)に幕府が御霊屋御掃除人に与えた土地で、芝御霊屋御掃除屋敷と呼ばれていました。明治二年(1869年)、芝御霊屋御掃除屋敷と金地院拝領町屋敷を合併して芝栄町となりました。明治五年(1872年)、さらに近傍の旧鯖江藩邸・武家地・寺社地等を合併しました。栄町とした理由は不明ですが、町の繁栄を願ってつけたのではないかと考えられています。
Sakae-cho
In the 2nd year of Meiji (1869) this place was named Shiba' sakae-cho (sakae meaning a prosperity), and later in the 5th year (1872) the neighboring area was annexed to the town. The origin of the town's name is uncertain. Some hold that it was named so, the prosperity of the town wished.
芝公園
慶長三年(1598年)、徳川家康によって現在の場所に移された三縁山増上寺の境内で、上野の寛永寺と並び称される江戸名所の一つでした。一時、三縁山の名を取って三縁町と称されていましたが、明治六年(1873年)、宮内省の管轄地となって公園地に編入され、芝公園と定められました。有史以前より人が住む土地であったと考えられ、貝塚や古墳等が残っています。
Shiba-koen
This place was formerly the precincts of the San'enzan Z0joji Temple, which had been moved here in the 3rd year of Keicho (1598), once called San'en-cho after the temple's name. In the 6th year of Meiji (1873) it was renamed Shiba-koen (meaning Shiba Park) when it was incorporated into the park area under the jurisdiction of the government.
新掘河岸
古川南岸の赤羽橋から将監橋の間にあたる河岸地域で、江戸時代はとくに町名はなく、荷揚げ場などに使われていました。薩摩鹿児島藩の荷揚げ場があったことから、俗に薩摩河岸とも呼ばれていました。新堀河岸といつごろから呼ばれたのかは不明ですが、おそらく明治時代になってからの里俗名と思われます。舟運の便があるため、木材・石材・竹材・米塩・薪炭などの商店が多くあったようです。
Shimbori'gashi
During the Edo era this place had no official name, popularly called Satsuma' gashi (literally "Satsuma riverside") because there was the landing place for the Satsuma clan's use. The time when the place began to be called Shimbori gashi (literally "new canal riverside") is not known. It seems that the name has popularly been used since the Meiji era.
錦絵の説明
紅葉館舞台開ノ図 楊州 周延 明治十四年(1881年)
Koyokan-butaibiraki-no-zu An Ukiyoe by Yoshu Chikanobu, 1881
紅葉館は東京大空襲により焼失し、現在跡地には東京タワーが建っています。
Koyokan was burnt down at the time of the Tokyo Air Raid; at present the Tokyo Tower stands on the site.
<<写真多数のため、都電5系統跡コース(2)に続きます。>>
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