- 都電5系統跡コース(2)
- コース 踏破記
- <<都電5系統跡コース(1)の続きです>>
芝公園の中には徳川家の菩提寺である増上寺があります。ここにはいろんな見所が散在しています。仁王像もさることながら、赤門が威風堂々としていますね。
彫刻 木造仁王像 二躯
重要文化財「旧台徳院霊廟惣門」の左右に安置している寄木造り、砥粉地彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐の止に立っています。平成十六年から十七年に行われた修理の際に、体内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、寛政元年(1789年)、弘化三年(1847年)の二度にわたり修理が行われていることがわかりました。さらに安政二年(1855年)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和二十三年(1948年)、同寺三重塔の修理と同時期に三度目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されています。その後の経緯は詳らかではありませんが、昭和三十三年ごろまでにはこの惣門に安置されたと考えられます。本像は十八世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示す貴重な作品です。
像高 阿形243.5センチメートル
吽形247.0センチメートル
一方で、今にも朽ち果てそうな門にも歴史の重みが感じられます。
増上寺旧方丈門(黒門)
増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であったために黒門ともよばれた。四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から十七世紀後半のものと推測される。蟇股(かえるまた)には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。
現在、増上寺では「本堂屋根瓦総葺き替え工事」が行われています。これは、浄土宗の開祖である法然上人(1133年〜1212年)が承安五年(1175年)に立教開宗して以来、850年を迎える令和六年(2024年)に合わせての慶讃事業のひとつとなっています。増上寺の大殿本堂は、昭和四十九年(1974年)の建立以来半世紀を迎えます。長年の風雪に耐えた屋根瓦は傷みが激しく、瓦の総葺き替えが必要不可欠となっていました。今回の総葺き替えでは、瓦の素材に丈夫なチタンを用い、厚さ0.3ミリメートルに加工して瓦を葺くことにより屋根の圧倒的な軽量化を実現し、さらには耐震補強を施して災害に耐えうる安全な本堂を目指しています。増上寺大殿屋根の施工面積は4,235u、チタン瓦の枚数にして約6万枚です。この数はチタン製屋根瓦の葺き替え例としては世界最大規模となります。
入口の横に案内板が2つ立っています。
三解脱門
慶長十六年(1611年)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中井大和守正清によって建立され、元和八年(1622年)に再建されました。この門は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。三解脱門は別名「三門」と呼ばれ、三つの煩悩「貪欲(とんよく・むさぼり)、瞋恚(しんに・いかり)、愚痴(ぐち・おろかさ)」の三悪を解脱する悟りの境地を表しています。建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。その大きさは、間口十間余(約19メートル)・奥行五間(約9メートル)・高さ七丈(約21メートル)の二重建て構造。さらに左右には三間(約5.4メートル)の山廊を有しています。上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が安置されています。
三縁山 広度院 増上寺
浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。開山は明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖西誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明二年(1470年)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。江戸時代初期、増上寺法主第十二世源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護を受けました。慶長三年(1598年)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物・古文書・経典など多数の重要文化財を所蔵しています。
増上寺の裏手には驚くべき数の地蔵尊が立ち並んでいます。帽子・前掛け・風車は常に差し替えられ、信心の高さを物語っています。
千躰子育地蔵菩薩
子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、それぞれのお施主様がお建てになりました。幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐ為の「赤い帽子」・「赤い前掛け」・「風車」をお地蔵さまに奉納しています。地蔵菩薩像には触らないでください。
These are "care guardian deities of children". They are dedicated for the safety growth of children and grandchildren, as well as for the memorial service for still birth or miscarried children. To protect and keep warm their heads, "red hat" "red apron" and "windmill", were dedicated to the guardian deity of children image. Please refrain from touching.
地蔵尊の先には増上寺の鐘楼があります。「ゆく年くる年」で中継される除夜の鐘でお馴染みですが、寛永十年(1633年)に創建された鐘楼堂は、昭和二十年(1945年)の空襲で焼失し、現在の鐘楼堂は戦後再建されたものです。高さ一丈(約3メートル)・重さ四千貫(約15トン)で東日本最大級の大鐘となっており、江戸三大名鐘のひとつとされています。江戸三大名鐘は何を指すのか諸説ありますが、その何れも増上寺の鐘は入っています。
子育地蔵菩薩の向かいに小さな神社が祀られています。増上寺境内に神社とは不思議な気もしますが、かなり特殊な神社のようです。
熊野(ゆや)三所大権現宮 由来記
増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。御神体は
熊野本宮大社 家津御子大神
熊野那智大社 大己貴命
熊野速玉神社 伊弉諾尊
以上の三御神体を記り、故綿貫次郎翁のご指導により「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、護持・奉賛しております。祭禮は毎年三月三日に古式にのっとり行なわれていましたが、近年は四月第三日曜日に定まる。
大本山増上寺熊野みこし講
境内には熊野みこし講に貢献した綿貫次郎氏の記念碑が置かれています。
大本山増上寺 熊野みこし講 綿貫次郎
昭和四十九年(西暦1974年)、故綿貫次郎翁(通称おじいちゃん)は毎日増上寺安国殿に通い、奉仕活動を日課としていました。増上寺の繁栄を顧い、若者達の力でお手伝いをしようと関係のある神輿仲間に声をかけ、「熊野みこし講」を発足し行事に参加する様になりました。増上寺の鬼門である熊野神社の社が老朽化したため、復興を願いみこし講の手づくりにて木の鳥居を建立。少しずつ改修を加え、現在の社殿及び玉垣が完成したのです。江戸の町東京を愛する若者達の結集、これが「熊野みこし講」です。綿貫のおじいちゃんの言葉、「身をもって奉仕する気持」を受け継ぎ、末永く後世につないで行ける様、ここに四十周年を記念し石碑を建立した。
平成二十六年四月吉日
大本山増上寺熊野みこし講
境内には「八咫烏」の言い伝えを記した額を祀った祠もあります。
三本足の鳥「八咫烏」
「神々のお使い」
日本書紀によると
神武天皇が天下統治のため紀の国(和歌山県)の熊野に上陸した際に、東征中の荒れすさぶる中で道に迷った時、日輪の中の天照大神より「天から八咫烏を使わそう。その八咫烏が道案内をするであろう。八咫烏の飛びゆく後ろに付いて行きなさい。」というおさとしがありました。そうして無事山越えを出来たという、まさに神のお導きという言い伝えが残されています。
「日輪の中に三本足の鳥」
ルーツは中国で、太陽の中に三本足の鳥が住む(おそらく黒点であろう)と考えられ、太陽は鳥によって空を運ばれるとも考えられました。鳥の足を三本とするのは、二本足は陰数の為、陽の数である「三」こそが太陽にふさわしいと考えられます。日本に於いても、三本足の鳥が太陽の象徴であると伝わったと推測されます。また時代によっては、「地・仁・勇」或いは「天・地・人」を表すとも言われています。日の神、天照大神の子孫である天皇が三本足の鳥と八咫烏が(を?)習合し、熊野の鳥も三本になったものと考えられます。
「シンボルマーク」
天皇の即位の礼に立てられるのぼりの紋様には八咫烏が使われたそうですし、また天皇の礼服の紋章には、日輪の中に八咫烏の刺繍が施されているそうです。近日身近なところでは、サッカー日本代表が着ているユニフォームの胸に付いておりますマークも八咫烏です。すなはち日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられております。日本サッカーの成長と勝利への導きを願っております。私共大本山増上寺みこし講も、昭和四十九年に発足当時より八咫烏を代紋とさせて頂いております。お祭りの御神輿を通じて、結集した四百余名が大本山増上寺より護国豊穣、天下泰平を導いて頂きたいと祈願しております。このたび、みこし講発足三十年を記念して、熊野神社(境内)修復改修工事をさせて頂きました。今回の工事の際にみこし講の大柱の前に、この水舎に向かって三箇所の鳥の足跡(保存有)が付いていたという縁起のよい事がありました。当熊野神社にも本物の八咫烏がいると信じてみこし講一同も八咫烏のお導きを頂いてより高い志をもって、一層の努力を心掛けてまいります。皆様のご多幸とご発展をお祈りいたします。
大本山増上寺熊野みこし講
港区役所前交差点の先、東京プリンスホテルの前に中世鎌倉時代を思わせる赤門が聳えています。
有章院(徳川家継)霊廟二天門
現在の東京プリンスホテル敷地には、戦前、六代将軍家宣の文昭院霊廟と並んで、七代将軍家継の有章院霊廟がありました。プリンスホテル正面の二天門は有章院霊廟の惣門です。霊廟は八代将軍吉宗が享保二年(1717年)に建立しました。その結構(全体の構造や組み立て・構成の意)は日光に劣らぬと伝わる程でしたが、昭和二十年(1945年)に東京大空襲で焼失しました。この焼け残った二天門は銅板葺・切妻造りの八脚門で、左右に仏法守護の役目を持つ広目天・多聞天の二点が祀られています。焼けた文昭院霊廟の門に持国天・増長天が置かれ、合わせて四天王として祀られていました。
芝公園の隅っこに「開拓使仮学校跡」の石碑が置かれています。大志を抱いた明治の青年達はここから蝦夷の地に旅立ったことでしょう。
開拓使仮学校跡
北海道大学の前身である開拓使仮学校は、北海道開拓の人材を養成するために増上寺の方丈の25棟を購入して、明治五年3月(陰暦)この地に開設されたもので、札幌に移し規模も大きくする計画てあったから仮学校とよばれた。生徒は官費生・私費生各60名で、14歳以上20歳未満のものを普通学初級に、20歳以上25歳未満のものを普通学2級に入れ、さらに専門の科に進ませた。明治五年9月、官費生50名の女学校を併設し、卒業後は北海道在籍の人と結婚することを誓わさせた。仮学校は明治八年7月(陽暦)札幌学校と改称、8月には女学校とともに札幌に移転し、明治九年8月14日札幌農学校となった。
芝公園は、明治六年(1873年)に芝公園1号地−25号地に分割されました。その芝公園4号地に枯れ木のような銀杏の大木が立ち、その脇に案内板が置かれていました。
空襲の記憶と芝公園4号地
Memories of the Air Raids and Lot 4 of Shiba Park
時代とともに
Through the Ages
芝公園4号地は園内北側に位置し、江戸時代は増上寺方丈でした。後の明治五年〜明治九年頃(1872年〜1876年頃)に北海道大学の前身である開拓使仮学校、明治二十二年〜明治四十三年頃(1889年〜1910年頃)は海軍水路部、大正五年〜大正十二年(1916年〜1923年)JR東京総合病院の前身である鉄道省東京鉄道病院などの変遷を経て、関東大震災による病院の焼失以降、公園施設が設置され始めました。第二次世界大戦中の昭和十八年頃(1943年頃)には本格的な防空壕が造成されるなど様々な地歴のある園地です。
Located in the northern end of Shiba Park, Lot 4 was the site of residences for the priests of Zojoji during the Edo period. Since then, this part of the park has undergone many transformations that mark significant historical events: For example, from around 1872 to 1876 it was the site of Kaitakushi Tentative School (the predecessor of present-day Hokkaido University), then it housed the Hydrographic Department of Imperial Japanese Navy from around 1889 to 1910, and from 1916 to 1923 it was the site of Tokyo Railway Hospital (modern-day JR Tokyo General Hospital). After the hospital burned down in the fires that followed the Great Kanto Earthquake, park facilities began to be built. Around 1943, during World War II, full-fledged air raid shelters were constructed here.
ここにある戦災イチョウ
The War-Damaged Gingko Tree Here
このイチョウ(の木)は銀杏坂(現在の芝公園三丁目3・4周辺、東京プリンスホテル北西側)にあったものが、関東大震災後に新設された4号地に移植されたものと伝えられています。昭和二十年(1945年)5月25日の東京大空襲で被災し、木肌にはその時の焼け跡が残っています。芝公園周辺は空襲により焼け野原となり、このイチョウを含め何本かの樹木が当時の記憶を語り継いでくれています。現在では、焼け焦げた樹皮を包み込むように成長し、巨木になっています。保全のため定期的に樹木医による診断や、負担を軽減する剪定などを行なっています。
It is said that this gingko tree originally grew at Ichozaka (around present day 3-3 and 3-4 Shiba Park, on the northwest side of Tokyo Prince Hotel), but was replanted in Lot 4, which was newly established in the wake of the Great Kanto Earthquake. It was damaged In the Bombing of Tokyo on May 25, 1945. The burn scars from the firebombing are still present on the bark. The area around Shiba Park was completely burnt to rubble, and some of the trees, including this one, still seem to tell us of their memories of that time. The tree has become gigantic, and has grown in such a way that it is wrapping itself over the burnt bark. To preserve it, the tree is regularly examined by tree doctors and trimmed to reduce the weight of the branches it supports.
西新橋交差点で外堀通りと交差します。昔、このあたりは田村町と呼ばれていました。日比谷シティは、昭和四十八年(1973年)7月末限りで「NHK放送センター」となって渋谷区神南に移転した旧日本放送会館の跡地に昭和五十六年(1981年)に開業しました。富国生命ビル・日比谷国際ビル・日本プレスセンタービルで構成され、ショッピングモールはこれら3つのビルにまたがる地下街となっています。日比谷シティ広場「サンクンガーデン」は現在に至るまで都内で唯一の屋外イベントスペースがあるオフィス空間として存在しています。かつては冬季になるとニューヨークのロックフェラーセンターのようなスケートリンクが広場に出現し、都内では珍しくビル街にスケートリンクがありました。現在このリンクはやはり冬季に日比谷シティフットサルとして利用されています。
内幸町交差点の左先に、都心では最大の面積を誇る日比谷公園の敷地が拡がっています。
日比谷公園 HIBIYA PARK
幕末までは松平肥前守等の屋敷地で、明治初期には陸軍練兵場となっていたところでした。当初から近代的な「都市公園」として計画・設計・造成された本格的な公園であると同時に、日本初の「洋式庭園」として明治三十六年(1903年)6月1日に開園しました(開園面積:161,636u)。文化の先駆者としての公園設計者(本多静六等)の意気込みが随所に感じられまず。そして、それは今日に伝えられ、広く利用されています。今日に至るまでに、関東大震災や太平洋戦争により改修等をおこなってきましたが、心字池・第一花壇や雲形池周辺は開園当時の面影がそのまま残っています。花壇には一年中、色鮮やかな四季の花が咲き、公園を訪れる人々の憩いの場になっています。
Summary of Hibiya Park
There were several daimyo (feudal lord) mansions including that of Lord Matsudaira Hizen-no-kami on this site until the end of the Edo Era. In the early Meiji Era, it was used as an army drill ground. Hibiya Park was open on June 1, 1903 as the first Western-style Park in Japan, and it was planned, designed, and constructed as a modern city park of the time (Area when opened : 161,636 square meters). The enthusiasm of the Park architects (such as Seiroku Honda), who led the culture of the era, can be found everywhere. Their aspirations have been fulfilled, for the Park is now very popular. Although the Tokyo Earthquake of 1923 and the Pacific War forced the Park to undergo some renovation, the areas around Shinji-ike Pond, Flower Garden #1, and Kumogata-ike Pond still look as they used to when the Park first opened. Various colorful species bloom in the flower gardens throughout the year, giving pleasure to those who visit the Park.
公園の中には様々なモニュメントが展示されています。中には、他から移されたものもあるようです。
烏帽子岩
この石は、江戸時代、江戸城外郭市ヶ谷御門の石垣の中にあったもので、形が鳥帽子(昔、元服した男子のかぶりものの一種)に似ていたため、人々から鳥帽子石と呼ばれて珍重されていたものです。明治時代、道路拡張に伴い石塁が取りこわされた際、永く保存するためこの公園に移されました。
Eboshi Stone Monument
This stone was located inside the Ichigaya-mon Gate, one of the gates of the Edo Castle outer stone wall, during the Edo period. Because its shape resembles that of eboshi, a black headwear worn many years ago by coming-of-age men, people lovingly called the stone the "Eboshi Stone Monument", and treated it with good care. When the stone mound of the castle was demolished to accommodate road extension work in the Meiji period, "the Eboshi Stone Monument" was moved to the park to preserve it for long.
市政會舘は、日比谷公園内に位置する鉄骨鉄筋コンクリート構造の多目的建築物です。かつては同盟通信社や、その後身の時事通信社が本社を置いたことで知られています。大正九年(1920年)12月に東京市長に就任した後藤新平は、地方自治についての調査・研究を行う独立公正の機関の新設を構想しました。後藤はニューヨーク市政調査会を範として、大正十一年(1922年)2月に東京市政調査会(後に後藤・安田記念東京都市研究所に改称)を設立し、自らは初代会長に就任しました。後藤は初代安田善次郎から350万円の寄付を受け、日比谷公園内に本拠を置きました。当初は公園の北東部に建築される予定でしたが南東部に変更され、建築物の北側部分は公会堂(日比谷公会堂)、残りは会館となりました。公会堂は東京市が、会館は東京市政調査会がそれぞれ管理することとなりました。
モニュメントの中には日比谷公園とは無縁のようなものもあります。石貨が現在でも使えるとするなら、この石は大正時代には千円の価値があったわけですから、現在の貨幣水準では約50万円ということになります。50万円の札束が石貨の代わりに置いてあるんなら、とっくになくなっていますよね。
石貨
この円形の石は、南太平洋ヤップ島(現ミクロネシア連邦)でお金として使われていた石の貨幣で、石貨と呼ばれるものです。石貨は小さいもので直径6cm位から、大きいもので直径3mに達するものまであります。一般に、
1.直径の大小
2.表面が滑らかか粗いか
3.形のよしあし
4.運搬の難易
によって価値が決められました。この石貨は長径1.35m・短径1.00mのほぼ円形で、大正十三年(1924年)頃、1000円位で通用したと言われています。
大正十四年1月ヤップ島支庁長 寄贈
Stone Money
This round stone was used as money in Yap Island (the present Federated States of Micronesia) in the South Pacific. Such stone money varies greatly in size from about 6cm to 3m in diameter. In general, the value was decided based on four characteristics: 1) diameter, 2) surface texture (smooth or rough), 3) shape, and 4) difficulty of transportation. This stone money is approximately circular, measuring 1.35m across its longest axis and 1.0m across its shortest. It was regarded to be worth about 1,000 yen in 1924.
(Contributed by the Mayor of Yap Island Branch Office in January 1925)
日比谷公園には南極の石も展示しています。これがもし「月」の石だったら。。。
南極の石
この石は、南極昭和基地から4kmの地点にある、東オングル島の慎太郎山(標高40m)で、日本の南極観測隊が採取しました。重さは150kgの片麻岩です。南極観測船「ふじ」が持ち帰り、昭和41年4月14日、この公園に設置されました。
Antarctic Stone
This piece of gneiss weighing 150kg was taken by the Japan Antarctic Research Expedition from Mt. Shintaro (40m above sea level) in East Ongul Island, which is Iocated 4km from the Showa Base. The stone was carried back to Japan aboard the Icebreaker Fuji, and placed in this Park on April 14, 1966.
展示の極めつけは「スカンジナビア碑」ですね。
古代スカンジナビア碑銘譚
スカンジナビアの人々が1957年2月24日ヨーロッパより北極経由で日本への空路を開拓しました。この碑は北極航路開設10周年を記念して寄贈されたもので、スカンジナビアのバイキングの古代北欧文字碑を模したものです。
Ancient Scandinavian Epitaph Translation
The Scandinavians explored an air route from Europe to Japan via the North Pole on February 24, 1957. This monument was given in commemoration of the tenth anniversary of the Arctic air route. It uses the ancient Nordic epitaph of the Scandinavian Vikings as a motif.
ホセ・リサール(正式な名前は、ホセ・プロタシオ・メルカード・リサール・アロンソ・イ・レアロンダ)はフィリピンの革命家・医師・著作家・画家・学者で、フィリピン独立運動に取り組んだことから「国民的英雄」と称されています。リサールは1888年2月28日に横浜に到着し、駐日スペイン公使館邸や日比谷の東京ホテルに宿泊し、2か月間日本に滞在しました。本来は経由地として船の乗り継ぎのために2日間滞在する予定でしたが、スペイン公使館に滞在中に近所で見かけた元旗本で貿易商の娘「おせいさん」こと臼井勢似子に声をかけたことにより親しくなりました。英語とフランス語がある程度できた勢似子とリサールは二人で歌舞伎を見物に行ったり日光や箱根に逗留し、リサールは日本の文化と言葉を学びながら滞在は延びて二か月近くに及びました。リサールは生前、勢似子のことを誰にも話さなかったためにその存在は知られることはありませんでしたが、没後にリサールの遺族が遺品を整理した際に勢似子の写真が一枚発見されました。また、日記には「あなたのように私を愛してくれた人はいなかった」と記されていました。勢似子もまた誰に話すこともなく、所有物はその後の太平洋戦争の空襲被災で多くを失ったために文物もほとんど残っていません。リサールの死は日本でも多く報道されましたが、その翌年の1897年に勢似子は30歳で英国人男性アルフレッド・チャールトン(学習院大学講師)と結婚し、昭和二十二年(1947年)に80歳で亡くなりました。雑司ヶ谷霊園に勢似子の墓がありますが、毎年リサールの誕生日にフィリピン大使館により花が供えられているそうです。
DR. JOSE RIZAL NATIONAL HERO OF THE PHILIPPINES STAYED IN 1888 AT TOKYO HOTEL LOCATED AT THIS SITE.
フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール博士、1888年この地東京ホテル(現在の帝国ホテル)に滞在す。
日比谷交差点の脇にザ・ペニンシュラ東京があります。運営は香港&上海ホテルズ社で、スエズ運河より東側で最高のホテルをキャッチコピーに1929年に第一号ザ・ペニンシュラ香港を開業しました。平成十九年(2007年)9月に開業し、客室数は47のスイートルームを含む314室あります。最も標準的な客室である「デラックスルーム」は54平方メートルの広さで、最高級の「ペニンシュラ・スイート」は347平方メートルの広さです。2019年に「The Okura Tokyo」内に730平方メートル(どんだけぇ!)の「インペリアルスイート」が完成するまでは都内最大級の部屋面積でした。館内のレストランとしては、24階にあるメインダイニング「Peter」の外、2階の中国料理「ヘイフンテラス」と地下1階の和食「つる家」があります。1階の正面玄関脇には、オールデイダイニングとしても機能するロビーラウンジ「ザ・ロビー」があり、午後はペニンシュラ名物のアフタヌーンティーが楽しめます。屋上にはヘリポートがありますが、これは一般の高層ビルの屋上にある非常用ヘリポートではなく、成田空港との間でヘリコプターによる送迎を行うことを想定して設置されたものです。そのため、豪華な内装を施した乗客用待合室なども用意されています。しかし、営業用のヘリポートとしての使用許可が下りていないため、まだ使用されてはいません。
都電5系統は、馬場先門を右折して鍛冶橋通りに進みます。
明治生命は業務の拡大に伴い、新社屋を昭和九年(1934年)3月31日に竣工しました。しかし、太平洋戦争の終戦と共に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、アメリカ極東空軍司令部として使用されました。昭和三十一年(1956年)、アメリカ軍から返還され今日に至っています。明治生命館は5階分のコリント式列柱が並ぶ古典主義様式に則ったデザインになっていて、戦前の面影を残す丸の内の数少ない建物のひとつになっています。
丸の内地区にはオフィスビルだけでなく、海外ブランドのお店も増えてきています。ジョエル・ロブションもそのひとつで、恵比寿ガーデンプレイスにあるガストロノミー ジョエル・ロブションは別格として、丸の内にもお店があります。ケーキとかパンとかサンドイッチなどを販売していますが、併設のカフェでも頂けるようです。ワインも飲めるのかな?
鍛冶橋通りに面してJR京葉線の東京駅があります。駅舎もなく地下への入口だけですが、京葉線は鍛冶橋通りの地下を通っていますので、乗り場としてはここが一番近いのです。成田新幹線の施設を転用した地下4階のホームは海抜マイナス29mでJRでもっとも低い駅となっています。
かっては何系統かの都電が発着していた都庁前の電停ですが、今や都庁も電停もその痕跡すら残さず、東京国際フォーラムの巨大な建物に変わっています。どこに電停が位置していたのでしょうか?
鍛冶橋通りは、皇居の二重橋前交差点から永代橋西交差点までの区間を結ぶ道路です。東京国際フォーラム(旧東京都庁)に面し、鍛冶橋通りの地下深くを東方向に京葉線が走っていて、京葉線東京駅と八丁堀駅はこの通りに面しています。江戸城外堀の外側に鍛冶屋職人が暮らしていたため鍛冶橋と名づけられたそうですが、徳川幕府の御用絵師として著名な狩野探幽もこの御門のほぼ正面に屋敷を構えていたそうです。
国立映画アーカイブ(National Film Archive of Japan, NFAJ)は、独立行政法人国立美術館が運営する日本で唯一の国立映画機関です。東京国立近代美術館フィルムセンターから2018年4月に改組し、日本で6館目の国立美術館・国立映画アーカイブとして開館しました。「映画を残す、映画を活かす(どこかで聞いたようなフレーズ?)」をミッションに、映画を保存・公開する拠点としての機能、映画に関するさまざまな教育拠点としての機能、映画を通した国際連携・協力の拠点としての機能を三つの柱として活動を行っています。映画フィルムや映画関連資料を可能な限り収集し、その保存・研究・公開を通して映画文化の振興をはかることを目的とする日本最大のフィルムアーカイブです。
八丁堀は、江戸時代にこの地に開削された堀の長さが約八町(約873m)あったために「八町堀」と呼ばれ、その堀名に由来して町名がつけられました。その後、「町」が略字の「丁」となって、現在の八丁堀になりました。。
八丁堀の与力・同心組屋敷跡
江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、はじめは寺町でした。寛永十二年(1635年)に江戸城下の拡張計画が行われ、玉円寺だけを残して多くの寺は郊外に移転し、そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。八丁堀といえば捕物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた江戸町奉行配下の与力・同心の町でした。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。着流に羽織姿で懐手、帯に差した十手の朱房もいきな庶民の味方として人々の信頼を得ていました。初期には江戸町奉行板倉勝重の配下として与力10人、同心50人から始まってのち、南北両町奉行が成立すると与力50人、同心280人と増加し、両町奉行所に分かれて勤務していました。与力は知行200石、屋敷は300〜500坪、同心は30俵二人扶持で、100坪ほどの屋敷地でした。これらの与力・同心たちが江戸の治安に活躍したのですが、生活費を得るため町民に屋敷地を貸す者も多かったようです。与力で歌人の加藤枝直・千蔭父子や医者で歌人の井上文雄などの文化人や学者を輩出した町としても知られています。
新川に入ると、交差点の角のビルに「越前堀薬局」と表示されています。越前堀?ひょっとして昔の掘割の名前かと思って地図を見ますと、近くに越前堀の名前が付いた公園があるみたいです。早速行ってみます。すると、公園の中に大きな石を積んだモニュメントと案内板があります。
出土した越前掘の石垣石
ここに展示した石は、「石垣石」と呼ばれる越前堀の護岸に用いられたものです。平成十八年、新川二丁目で行われた遺跡の発掘調査で見つかりました。その一部を、ゆかりのある当公園内の堀跡付近に移設しました。江戸時代、この辺りは越前国福井藩主・松平越前守の屋敷地でした。屋敷は三方が堀に囲まれ、これが「越前堀」と通称されていました。越前掘の護岸は石積で、今でも上木工事や遺跡の調査中に出士することかあります。堀の幅は12〜15間(20〜30m程)もあり、運河としても利用され、荷を積んだ小舟が通っていたようです。明治になり、屋敷の跡地が「越前堀」という町名となりましたが、堀は次第に埋め立てられていきます。大正十二年(1923年)の関東大震災以後、一部を残して大部分が埋め立てられ、わずかに残っていた隅田川に近い部分も、戦後完全に埋め位てられました。その後、町名が改められ、「新川」となって現在にいたります。今では住時をしのぶ「越前堀」の名は、この区立越前堀児童公園にみられるのみとなりました。なお、この公園は、関東大震災後につくられた「帝都復興小公園」の一つである「越前堀公園」からはじまります。
公園の片隅にもうひとつの案内板がたっています。この辺りはもともと隅田川の中洲で、江戸中島と呼ばれていたのだそうです。江戸時代の初期に、霊厳というお坊さんが霊厳寺を建立し、これが「霊岸島」という旧町名の由来となりました。霊岸島には2つの堀がありました。ひとつは「新川」です。現在の永代通りの南側にあった堀ですが、新川は徳川家康の江戸普請の際に開削された掘割(江戸城防衛のための堀)であるという説と、豪商・河村瑞賢が物資の陸揚げ用に開削した堀であるという説があるようです。この「新川」という名称が現在の地名の由来となっています。もう一つは越前堀です。霊岸島には福井藩の中屋敷がありました。この屋敷を囲むように堀があり、これを「越前堀」と呼んだそうです。
霊巌島の由来
当地区は、今から三百七・八十年前に江戸の城下町が開拓される頃は一面の沼地葭原であった。ェ永元年(1624年)に、雄誉霊巖上人が霊巖寺を創建して、土地開発の第一歩を踏みだし、同十一年(1635年)には、寺地の南方に、越前福井の藩主松平忠昌が、二万七千余坪におよぶ浜屋敷を拝領した。邸の北・西・南三面に船入堀が掘られて後に越前堀の地名の起る原因となった。明暦三年(1657年)の江戸の大火で、霊巖寺は全焼して深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町々が替地として集団的に移ってきた。明治大正年間には富島町・浜町・四日市町・塩町・大川端町・川口町・長崎町・霊岸島町・銀町・東港町・新船松町・越前堀・南新堀の十三町にわかれ、多額納税者も多数居住して検潮観測所もあり、湾内海運の発着地・倉庫地帯として下町商業の中心てあった。大正の大震災により全部焦土と化し、昭和六年七月区画整理によって、ゆかり深い町名も新川一丁目・新川二丁目、霊岸島一丁目・霊岸島ニ丁目、越前堀一丁目・越前堀二丁目・越前堀三丁目と改称され、更に昭和四十六年住居表示制度の実施により新川一丁目・新川二丁目となった。江戸時代からの歴史を象徴する懐しい遺跡も消えつつあるのを憂慮してこの記念碑を建立する。
永代橋西交差点までやってきました。永代通りにも都電は走っていましたので、恐らくこの辺りで線路が合流していたのでしょうけど、今となってはその痕跡を見いだすことはできません。私的には、永代橋西交差点の手前辺りを都電5系統の終点にしたいと思います。
というわけで都電5系統跡を歩き終えました。芝増上寺と日比谷公園で幾つかの新発見がありましたね。東京の歴史は奥が深いです。
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