- 都電4系統跡コース(1)
- コース 踏破記
- 今日は都電4系統跡を歩きます。都電4系統は花の銀座から歓楽街と高級住宅地が同居する五反田までを結び、その路線は国道15号線(中央通り・第一京浜)・都道319号線・都道415号線・国道1号線(桜田通り)を通っていました。五反田駅を発着する唯一の都電で、銀座まで乗り換えなしで行ける貴重な存在でした。沿線の名所・旧跡はさほど多くはありませんが、芝・高輪の歴史に触れることができます。
都電4系統
都電4系統の全長は8.0kmで、昭和42年12月10日に廃止となりました。
都電4系統の電停(路上の駅)は、銀座二丁目・銀座四丁目・銀座七丁目・新橋・新橋五丁目・浜松町・大門・金杉橋・芝園橋・赤羽橋・中ノ橋・一ノ橋・二ノ橋・三ノ橋・古川橋・魚籃坂・清正公・二本榎・白金猿町・五反田駅でした。
銀座の中心は四丁目交差点ですが、都電4系統の始点は銀座二丁目となっています。現在でこそ海外有名ブランドのお店が並んでいますが、都電4系統が走っていた昭和30年代の銀座はどんな風景だったのでしょうか?
銀座の地名には一丁目から八丁目までありますが、松屋本店は住所表記が三丁目、三越銀座店の住所表記は四丁目になっています。隣りあっていますが、路地ひとつで響きが随分と違ってきますね。ちなみに、俺の焼肉銀座9丁目店と俺のやきとり銀座9丁目店の実際の住所表記は新橋一丁目となります。架空の九丁目を店名にするほど銀座ブランドへの拘りがあるんですね。
銀座四丁目交差点に面する銀座和光は、明治十四年(1881年)12月にセイコーの始祖である服部金太郎によって「服部時計店」として創業されました。本館の時計塔は銀座のシンボル的存在になっていて、時計台に設置された鐘楼からは店舗営業時間中の毎時0分にウェストミンスターの鐘を演奏して時刻数の鐘を鳴らしています。私は四丁目交差点は何百回も通りましたが、鐘の音は一度も聞いたことはありません。銀座四丁目交差点の北西側の角に建つ「三愛」の円筒形のビルも銀座の風景を象徴する建物です。三愛ドリームセンターと呼ばれるこの建物が誕生したのは前回のオリンピックの1年前の昭和三十八年(1963年)でした。当初、ビル屋上のネオンサインは三菱のダイヤマークでしたが、いまはリコー(RICOH)のロゴがすっかり定着しています。実は、カメラや複写機器で知られるリコーとファッションの三愛の創業者は同じ市村清なのです。市村は三愛ビルを建てるに際して、奈良県の法隆寺五重塔をヒントに「建物の中心に大きな柱を立ててビル全体を総ガラス化させた円筒型のビル」を考案、名称も一般公募により「三愛ドリームセンター」に決定しました。2003年には「日本におけるモダン・ムーブメントの建築」に選ばれています。
鳩居堂は書画用品・香の老舗専門店です。寛文三年(1663年)に薬種商として創業し、蛇頂石などの民間療法薬を販売しましたが、その後徐々に業態を転換し、香や文房具を扱うようになりました。屋号は儒学者であった室鳩巣が「詩経」の召南の篇にある「維鵲有巣 維鳩居之」より採って命名され、カササギの巣に託卵する鳩の様子から、「店はお客様のもの」という謙譲の心で経営すべきとの意が込められたとのことです。蛇足ですが、路線価(相続税評価額)日本一は毎年変わらず銀座「鳩居堂前」となっています。
銀座には個性的な通りの名前があります。みゆき通りもそのひとつです。銀座にある高級クラブのマダムの名前に因んでいるのかと思っていましたら、全く違っていました。
1964年に開催された東京五輪の頃に、銀座にアイビールックの服を着た男性やロングスカートの女性が大きな紙袋を抱えて歩く「みゆき族」が誕生しました。皇居そばの日比谷公園から、銀座の中心部を抜けて築地市場の手前辺りを結ぶ「みゆき通り(全長約1.2km)」に因んだ名前です。しかしこの通りは元の名前を「山下橋通り」と言っていたそうです。戦争で幻となった1940年の東京五輪招致が決まったその数年前に、東京を世界に通用する美しい街にと考えた画家の藤田嗣治や詩人の西条八十などの文化人らが銀座を美化して世界に恥ずかしくない街にしようと企画しました。その結果、明治天皇が皇居から築地にあった海軍兵学校や海軍大学校の卒業式などに臨席する際に行幸路とされた道路を「みゆき通り」と命名しました。従って「みゆき」の漢字は「御幸」となります。銀座みゆき通りはこういった人々の熱意から生まれ、愛されて根付いた通りなのです。
銀座の外れの八丁目に位置する東京銀座資生堂ビルは、銀座という伝統的な地にあって特異な外観と外壁をしています。現在の建物は2001年に建替えられたものですが、それには経緯があります。1919年に制定された市街地建築物法により、建築物の高さは31mに制限されていました。1963年の建築基準法改正により、容積率による規制に変更されましたが、この規制により大きな容積率をもつ多くの建物が既存のままでは不適格となり、老朽化してもそれまでよりも容積率の低い建物にしか建替えることが出来なくなりました。1998年に中央区と銀座通連合会との協議により、中央通りをはじめとする主要道路沿いの建築物の高さを最高56mとすることが決定されました。東京銀座資生堂ビルは、この「地区計画銀座ルール」の適用第一号となりました。尚、外壁の赤レンガ色は、設計者であるスペイン出身の建築家リカルド・ボフィルの案とは異なる色彩案が採用されたそうです。彼は外壁にどんな色彩を提案したのでしょうね?
銀座と新橋の境界は汐留川ですね。現在は川は埋め立てられて高速道路が高架で通り、高架下は店舗街になっています。中央通りと交差する地点の高架の側壁には「銀座新橋」と書かれています。ここが銀座と新橋の境界になるのでしょう。中央通りの両側には橋の欄干らしき構造物が見えます。ここに旧新橋が架かっていたのでしょう。こうして見ると、汐留川は随分と川幅が広かったようです。ちなみに、江戸時代の慶長九年(1604年)に汐留川に架けられた”新しい橋”が「新橋」と名づけられたことが地名の由来になったと言われています。
国道15号線は、新橋交差点で中央通りから第一京浜に道路の愛称名が変わります。その先の道路上空には、ゆりかもめの新橋駅を兼ねた連絡橋が架かっています。次の駅である汐留駅とは僅か400mの距離です。汐留駅はゆりかもめの開業当初はなかったのですが、汐留地区の再開発に合わせてあとから新設された駅です。
道路脇に港区の「ちぃまっぷ」が立っています。旧新橋停車場跡にある鉄道歴史展示室は資料が豊富で、鉄道マニアでなくても十分楽しめる展示になっています。
旧新橋停車場 鉄道歴史展示室
開業当時の駅舎基礎石の遺構や改札鋏の現物などが展示されています。デジタル設備も充実し、「旧新橋停車場データベース」で、鉄道史や汐留の歴史、旧新橋停車場などに関するディープな情報も検索・閲覧できます。
Old Shimbashi Station Railway History Exhibition Hall
The foundation of the old station, the old wicket punch, and other items used at the opening time of the station were exhibited. Equipped with various digital facilities and by using the "old Shimbashi Station Data Base", you can research and take a look at the history of railway and Shiodome area and other interesting and detailed information about the old Shimbashi Station.
新橋駅前SL広場
テレビの街頭インタビューでお馴染みのSL広場は、一日中たくさんの人でにぎわう新橋の代表的スポットです。正午と15時、18時の1日3回、それぞれ数秒間にわたり「汽笛一声」を告げています。
SL Square at Shimbashi Station
The SL Square is the very popular and familiar place in which we see the TV reporters to interview people. It is also the most famous place to represent Shimbashi area with many people bustling all day long. The sound of SL whistle blows three times a day at noon, 3 p.m., and 6 p.m..
「新橋」の由来〈親柱跡〉
新橋という地名の由来は、かつて汐留川に架けられたアーチ橋「新橋」(「芝口橋」とも呼ばれた)の名前がもとになったという説が有力です。
The origin of the name "Shimbashi"
It is said that the name "Shimbashi" most probably came after the arch-shaped bridge named "Shimbashi" on the Shiodome-gawa River (also called "Shiba-guchi Bridge").
山手線・京浜東北線・東海道線・東海道新幹線が通るガード下を抜けますと、築地方面と虎ノ門を結ぶ環状二号線が国道15号線と交差します。といっても、この区間は地下トンネルになっているようですが。
大門交差点の奥に世界貿易センタービル(40階、高さ152m)が建っています。昭和四十五年(1970年)3月に竣工しましたが、その時点で日本初の超高層ビルである霞が関ビル(36階、高さ147m)を高さで5m上回り、1971年6月に西新宿に建てられた京王プラザホテル(47階、高さ169m)が竣工するまでの間、日本一の高さを誇っていました。建てられてから50年が経過し、現在建て替え計画が進んでいます。既に、40階にある展望施設「世界貿易センタービルディング展望台シーサイドトップ」は、再開発によるビル解体のため2021年1月31日に閉鎖されました。建物本体は2021年度中に解体が始まる予定で、国内における最も高いビルの解体工事となるそうです。後継となるビルは、地上37階・地下3階・高さ約200mの超高層ビルになる予定で、2025年12月に竣工するとのことです。超高層ビルが林立する東京では、もはや展望室を設けることはないでしょうね。
国道15号線からはかなり離れていますが、参道の奥に東京十社のひとつである芝大神宮が鎮座しています。東海道の沿線で江戸市中と市外の境界線上に位置し、増上寺も隣接していたことで江戸時代に入って参詣者が増え、江戸から出府する旅人は道中無事を祈願し、入府する旅人は道中無事の報賽(祈願が成就したお礼に神仏に参拝すること )を行うことが慣わしでした。さらに江戸時代にはお蔭参りといわれる伊勢神宮への参拝が数多く見受けられましたが、高額な旅費と長期間の旅程を要し、容易に行うことは難しかったため、代わりに伊勢神宮の祭神を祀り江戸市中に鎮座する芝大神宮(当時は芝神明宮と呼ばれていたみたいです)への参詣者が増え、参道は大いに賑わいました。
都電4系統は金杉橋北交差点で右折し、国道15号線から首都高都心環状線沿いに芝公園方向に向います。金杉橋は、古川に架かる国道15号線の橋で、現在の橋は1971年に架替えられたものです。江戸時代に橋が架けられた際、近くにあったセンダンの木が光って見えるようであったことから金杉橋と名づけられたそうです。橋の下は東京湾で営業を行う屋形船の係留場所となっていて、川面には様々な船が浮かんでいます。橋の南側には都電4系統(都電金杉線)の金杉橋停留所がありました。
金杉橋の近くに芝地区旧町名由来板が立っています。案内板の挿絵には、橋の上に既にレールが敷かれているように見えます。明治三十五年(1902年)の芝金杉橋と表記されていますので、軌道式の乗合馬車か何かが通っていたようです。
芝地区旧町名由来板
This signboard guides the origins of old town names, each of which in most cases represents its own history of the beginning or the location.
湊町
寛文七年(1667年)、金杉橋の北側に多門を建設するため公用地となり土手を築きましたが、元禄九年(1696年)、多門建設計画の中止と共にこれを取り払い、その跡地は幕府御坊主の拝領町屋敷に下され、一時は同朋町と呼ばれました(当時、幕府御坊主を同朋と称した)。宝永年間(1704年〜1711年)以降、隣町の金杉同朋町をはじめ各所に同朋町があったので、海浜に接することから芝湊町と改称しました。また、俗に金杉川汐入の口にあるので潮尻とも称されました。
Minato-cho
This town site was seized by authority in the 7th year of the Kanbun period (1667), and thereafter became the residence for Bakufu Obozu (generally called Dobo; tonsured waiters with the duty to serve tea in the castle). Therefore the town would generally be called Dobo-cho. In the Hoei period (1704-1711) it was renamed Shibaminato-cho after its location near the sea (minato meaning "harbor") in order to be distinguished from other Dobo-choes that existed in several places.
土手跡町
将監橋と金杉橋との間、金杉川の北側に沿ったごく小域の町です。寛文七年(1667年)、金杉橋の北側に多門が建てられることになり、同年、芝浜松町四丁目・芝中門前三丁目・芝片門前二丁目の南の地先に土手ができました。その後、多門建設計画の中止に伴い、貞享二年(1685年)、土手は取り払いとなって、その跡地へ町屋を開設し、土手跡町と唱えるに至ったと伝えられています。
Doteato-cho
In the 7th year of the Kanbun period (1667) a scheme of building Tamon gate on the north side of the Kanasugibashi bridge was made, and a bank was built for a future gate. Thereafter the scheme was suspended and then in the 2nd year of the Jokyo period (1685) the bank was cleared away. It is said that trademen's houses were constructed at the bank site that where to develop into this town named Doteato-cho (doteato meaning "bank site").
新網町
むかしは芝浦と唱えた土地の一部で、漁業の盛んな地域でした。寛永三年(1626年)より、ここから幕府に白魚を献上したので、その褒美として同七年(1630年)、名主惣十郎の先祖伝右衛門を召し出し、海岸の百間四方の地を網干場に与えられました。同十一年(1634年)、町奉行に漁夫の住居にすることを願い出て市街地となり、網干場に与えられた地所なので新網町と称するようになりました。
Shin'ami-cho
Fishery was extensively carried out in this area. The fishermen had presented icefish to the shogunate government since the 3rd year of the Kan'ei period (1626), and consequently they were given an area of 3.3 square kilometers for drying nets as a reward in the 7th year of the same period (1630). Thereafter they were allowed to live in the area which eventually developed into this town, named Shin'ami-cho, meaning literally "new-net-town", because the land was originally given for drying nets.
都電4系統は金杉橋から芝公園方向に向っていた筈なのですが、古川の北側を通っていたのか南側を通っていたのかがはっきりしません。芝公園グランド前交差点に通じる北側の道路を通っていたのであろうと判断しましたが、本当にこの狭い道幅の道路を都電が通っていたのでしょうか?
道路のちょっと奥に小さな祠があります。石塔と祠の関係がよく分りませんね。
有形文化財 元禄七年銘 納経石塔
前面右側に観音菩薩、左側に不動明王の二尊を浮彫りにした石塔で、元禄七年(1694年)に造立されたものです。この時期の石造物としては比較的大きく、観音菩薩・不動明王の二尊像は、ほとんど風化せずに良く残っています。背面にはこの石塔の由来を示す136字からなる銘文が刻まれています。それによると、元禄六年に大蔵経を納める経蔵の蔵司の居処を定め、その地を護るために蔵司の発願で翌年この石塔を造立したことがわかります。このように、この石塔は増上寺への納経に関わって造立された石造物として貴重なものです。
背 面 銘 文
武州増上教寺者浄家十八叢林冠首幕下将軍累世帰依之霊場也
東照神君家康公命近臣今納三大蔵経矣元禄六癸酉□秋□貞譽大和尚
通宮家以此地永須辨職蔵司者為居處也余有□願彫刻於観世音不動
明王之石像擁護遐代祈之頌
示現二尊雄 眞心法界宮
譫敬離悪趣 福寿垂無窮
元禄七甲戌歳二月廿八日 三縁山蔵司 自信謹詰
金杉橋を渡った先の最初の交差点の名前が将監橋(しょうげんばし)となっています。何かいわれのありそうな名前だなぁと思って帰ってから調べてみましたら、橋名の由来は岡田将監(おかだしょうげん)の屋敷が近くにあったからという説、岡田将監が橋を掛けたためその名がついたという説、金森将監(かなもりしょうげん)の屋敷があったので呼び名となったとか諸説があるようです。
芝公園グランド前交差点を渡り都道319号線に入ります。環状三号線の一部となっているようですが、全体のつながりはよく分かりません。芝公園の南端沿いに進みますと、赤羽橋交差点の手前に妙定院というお寺があります。門の横に案内板と2本の角柱が立っています。
妙定院
妙定院は、コ川九代将軍家重公の大導師を勒めた、搶緕寰l十六世妙誉定月大僧正によって、家重公菩提のため「御中陰の尊牌」を安置して、宝暦十三年(1763年)、幽水閑雅だったこの地に開創された。増上寺の別院として位置づけられ、明蔵(一切経)を有し仏典研究の中心的存在でもあり、のち浄土宗の准檀林の寺格を持つ、念仏道場・学問研究の名利として知られてきた。法然上人御直作で熊谷直実の念持仏と伝える法然上人像をまつり、「円光大師(法然上人)東都二十五霊場」の第一番とされた。また十代将軍家治公の尊牌も納められるなどその後の幕府の帰依も厚く、多くの什宝物が寄進された。「法然上人伝絵詞」など現在文化財に指定されているものも多く、「熊野堂」・「上土蔵」の二建造物は国の登録有形文化財となっている。元伯爵・萬里小路家、明治の殖産興業の先覚者・前田正名翁などの墓所がある。
Myojoin
Myojoin Temple was erected here on a secluded piece of land in 1763 by the 46th Chief Abbot of Zojoji Temple, Ven. Jogetsu, for the purpose of installing the memorial tablet of the 9th Shogun of the Tokugawa Family Iyeshige for whom Ven. Jogetsu performed his funeral. As an attached temple of Zojoji, Myojoin held the Ming Dynasty Era complete collection of Buddhist texts and so became a central place of study as an attached seminary for Jodo Shu. As such, it became well known as an academic center and practice center for the nenbutsu.
It is the first of 25 sacred sites in the Tokyo area associated with Honen Shonin, the founder of Jodo Shu, and houses the statue of Honen made by himself and given to a samurai follower Kumagai Naozane as an object of veneration and practice.
The Tokugawa Family eventually became devoted members of Myojoin and donated the memorial tablet of the 10th Shogun Iyeharu and numerous valuable artifacts. Myojoin also houses the pictorial biography of Honen called the Honen Shonin den ekotoba and other designated, cultural properties, as well as the two mud buildings of the Kumano-do Shrine and Jodo-zo Library which are national registered cultural properties.
The graves of well known families such as those of Count Madenokoji and Baron Masana Maeda, who was a pioneer of industrial development in the Meiji Era, are also located at Myojoin.
港区指定有形文化財・彫刻 銅造阿弥陀如来及両脇侍立像
本像は岩百合善光寺式三尊にあたる三尊一具像の遺例です。その祖形は信濃善光寺の根本仏として伝えられる像にあるとされ、欽明天皇十三年(551年)に百済からもたらされた長さ1尺5寸の阿弥陀如来と同一尺の観音・勢至菩薩で、金で鋳造された霊験像であるといいます。今日、善光寺本尊は秘仏ですが、之を模刻して崇める記録は平安時代後期からみられ、鎌倉時代のち模像の遺例はにわかに増えて各地に及び、その間細部の形式に異同も生じています。本像の像高は中尊が41.4cm、左脇侍30.7cm、右脇侍30.3cmで通例の法量を示しています。三尊とも銅鋳し鍍金を施しています。中尊は細面の長身に作られ、著しい伏目の面相は親しみやすく、江戸時代前期頃の作風を表しているのに比べ、両脇侍は肩を張った体躯と丸みのある頭部が形姿を整えており、制作年代は両脇侍がやや先行するものと思われます。このように本三尊像は一具同作とは認めがたいものですが、善光寺式三尊像の遺制をよく伝えた作例として、また三尊が均衡を得た構成を示している作例としても貴重です。
港区指定有形文化財・絵画 琴棋書画図屏風 狩野探雪筆
古来、中国では、琴・棋・書・画の四芸を士大夫・教養人の嗜みとして尊重しました。わが国でも、ことに漢詩文学に傾倒し、隠逸を愛した五山僧の間にこれを習おうとするところが多く、絵画に表されたのは少なくとも室町時代初期にまで遡ることができます。以後、公武の愛好も得て、琴棋書画図は唐人物を描く際の画題として、江戸時代に至るまで長く制作され続けました。筆者の狩野探雪(1655年〜1714年)は、幕府御用絵師として活躍した狩野探幽(1602年〜1674年)のニ男です。父探幽は、探信・探雪の二子を深く愛したため、兄探信が鍛冶橋狩野家の家督を継ぐにあたっては、その所領を両分し、別に一家を立てたと言います。探雪も幕府の絵師として多くの仕事を行い、天和二年(1682年)及び宝永六年(1709年)の二度にわたって来日中の李氏朝鮮使節に贈る屏風を制作しています。本図は、父探幽の画風を忠実の祖述したもので、いかにも御用絵師らしい筆による謹厳な画面が作り上げられています。江戸初期における武家好みのアカデミックな狩野派様式を知るための貴重な作品です。
<<写真多数のため、都電4系統跡コース(2)に続きます。>>
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