- 都電4系統跡コース(2)
- コース 踏破記
- <<都電4系統跡コース(1)の続きです>>
妙定院の隣りに小さな地蔵尊が祀られています。妙定院の開創当時から境内に地蔵堂があり、木造寄木造丈六金箔置の大地蔵尊坐像が安置されていました。相貌は崇高な中にも温容慈光が参詣者の心を打ち、延命子育・利益広大と言い伝えられてきました。のち、「江戸南方四十八所地蔵尊参」(寛政六年(1794年)撰)の第二十七番に列せられ、多くの参拝者でにぎわいました。昭和二十年(1945年)の東京大空襲で消失しましたが、惜しむ声多く、唯一残った守護札版木をもととして石像で再建され、霊験あらたかと親しまれています。
災除地蔵尊縁起
延命・子育災除地蔵尊は、古くより「江戸南方四十八所地藏尊参」の第二十七番として列せられ、戦災に遭うまで、木造丈六の大像で本院境内の地蔵堂に祀られ、霊験あらたかで、災除・安全・延命・子育を祈る善男善女の参拝が絶えなかった。大戦後、その焼失を惜しむ声多く、唯一焼け残った同地蔵尊の守護札版木をもとに石像として再建立され、境内別所にあったものを、台座の改築を経て、より多くの方々にそのご加護あらんと、此地に移遷座されたものである。往来の道すがら、合掌され、地蔵尊のお慈悲に触れられんことを願うものである。
赤羽橋の次に中ノ橋が古川に架かっています。昭和六十年に架け替えられたのだそうですが、古風な親柱は以前の橋のものを保存しているのでしょうか?「中ノ橋」の橋名は、赤羽橋と一之橋の間に架かっていたのでこの名前になったといわれています。
新一の橋交差点手前に、高級食品を扱うNISSHINのお店があります。場所柄外国人の買い物客が多く、店内は欧米のスーパーのような雰囲気です。2階はワインなどのお酒類、3階は食品の売場となっています。お肉のパッケージには巨大なものが多く、コストコの売場みたいです(テレビでしか見たことはありませんが)。日本国内では滅多に見かけないような珍しい食品も沢山並んでいて、見るだけでも楽しいです(見ただけですが)。
新一の橋交差点の直ぐ脇にコーヒーの専門店があります。1階が直売所になっていて、2階が工場(焙煎室)になっているようです。店先に立ててあった「今月のオススメ珈琲 ブラジル・モジアナ」に惹かれます。私は初めて目にしましたが、モジアナ地区は世界最大のコーヒー大国ブラジルの中でも特に上質なコーヒーが採れる産地として有名らしいです。
This month's special Brazil Mogiana Coffee
高品質なコーヒーとして有名なモジアナ地区のコーヒー。豊かな土壌に恵まれて育ったコーヒー豆は全体のバランスも良く、チョコレートのような風味・甘みが感じられます。とてもマイルドで飲みやすいお味です。
店内を見ますと先客のあばさんが長々とお店の方と話しています。店内には一組しか入れませんので、暫し外で待ちます。ようやっとおばさんが出てきたので、お店の中に入ります。いつもコーヒーを買っているカルディとは大分雰囲気が違います。看板に出ていた珈琲を買おうとしたら、先ほどのおばさんが買い込んでもう今月分は売り切れになったのだとか。代わりにコロンビアの珈琲を勧められました。こちらも良さげです。注文すると2階の焙煎室から出来たてのコーヒー豆を持ってきてくれました。帰ったら早速飲んでみましょう。
Colombia Magdalena Organic coffee Bioコロンビア 2021
コロンビア北部マグダレナは、シエラネバダ・デ・サンタ・マルタ山地のすそのにあり、5000世帯以上の農家がアグロフォレストリー(自然に近い農法)で植えられたコーヒー栽培で生活しております。豊かな土壌で栽培された香高く甘い珈琲をお試し下さい。
都電4系統は新一の橋交差点で左折し、都道415号線に入ります。右手には麻布十番の商店街が延びています。毎年8月の終わりには去りゆく夏を惜しんでお祭りが行われるのですが、今年はどうなるのでしょうか?
道路に面してワインのお店があります。気軽に入れるような雰囲気ではありませんが、高そうなシャンパンが窓辺に並んでいます。ワインクーラーに入れておいた方が良さそうですが。
道路に面してトーテムポールのような木造彫刻が2体並んで立っています。何のおまじないかと思っていたら、在日韓人歴史資料館の入口のようです。
資料館の前には黒光りする石碑が置かれています。漢字を拾い読みしますと、どうやら朝鮮動乱時の在日青年学校義勇軍を讃えた韓国動乱参戦記念碑と忠魂碑みたいです。ハングル文字で文章の意味は分りませんが、朝鮮語って漢字も使うんですね。
古川橋交差点の近くで都内でも有数の規模のマンション新築工事が行われています。「SHIROKANE The SKY(白金ザ・スカイ)」という名称で、総戸数1,247戸の45階超高層タワーレジデンスを主体とした山手線内最大の大規模複合再開発なのだそうです。シロガネーゼが大量に誕生しますね。ちなみに、港区の「白金」は「しろかね」なのに、なぜそこに住む人を「シロガネーゼ」と呼ぶようになったのでしょうか?実は、女性誌によって作り出された「シロガネーゼ」という造語は、白金(しろかね)と牛込の白銀(しろがね)を取り違えた誤認で呼ばれはじめたらしいです。古くからの住民は「シロガネーゼ」に対して冷ややかな見方をしている人も多いので、あえて訂正の声をあげる必要性を感じなかったのでしょう。造語した女性誌の当事者も間違いに気づいても訂正するような不細工なことは出来なかったというのがオチのようです。
白金高輪駅の前で国道1号線に入ります。清正公前交差点で目黒通りが分離しますが、こちらにも目黒駅から永代橋までの区間を繋いでいた都電5系統が走っていました。ちなみに、清正公前交差点の名前は戦国時代の武将であった加藤清正に由来します。加藤清正は豊臣秀吉と同郷で今の名古屋市出身です。地元ではそれほど人気が高くなく、領地だった熊本県で絶大な人気があります。民政家としても優秀だった清正は領民から大層慕われましたが、息子の忠広の代に江戸幕府によって取り潰しに遭います。これを悼んだ領民たちが清正が祟りを起こさないようにということで、清正公(せいしょうこう)と呼び、神として祀ったのです。清正公交差点の脇に清正公を祀った覚林寺がある理由は、元々この地に加藤氏の後に熊本を拝領した細川氏の藩邸があったからです。新しい領地に赴任した細川家の殿様の細川忠利は領民が清正を慕う姿を見て、領民と融和を図るため清正公信仰を応援し、江戸屋敷の敷地内にも覚林寺を建立して清正公を祀ったのです。
清正公前交差点の先に源昌寺があります。入口の横に案内板が立っています。増田甲斎って聞いたことがありませんが、波瀾万丈な人生を送ったみたいですね。
都旧跡 増田甲斎墓
遠州掛川(静岡県)の藩士であったが脱藩した。砲術に秀で諸藩主から求められたが固辞して応じなかった。一時博徒の頭目となり数度獄に投ぜられたが悟る所あって仏門に入り、池上本門寺の幹事に挙げられたが、やがて身を雲水に寄せ、伊豆に逗留中ロシア船の入港にあい、ここからロシアに渡った。彼は口シアの外交官となり幕府の使節が来た時その接遇係を命ぜられた。彼はヨーロッパ各国およびインドを巡回した。明治六年(1873年)岩倉具視がモスクワに来た時、甲斎に帰国をうながしたため帰朝した。帰国後直ちに隠退、庵を結んで世塵をさけ、明治十八年(1885年)五月三十一日没した。年六十五。
源昌寺の斜め向かいに明治学院大学の古風な建物が見えます。明治二十三年(1890年)に建てられたネオゴシック様式の明治学院記念館でしょうか?ちなみに、明治学院大学を創設したヘボン博士は、ヘボン式ローマ字を創始したことでも知られています。
国道1号線は高輪台交差点で南西方向に向きを変え、五反田駅までの長い坂を下ります。昔は坂の途中にセメダインの本社があり、五反田駅からも屋上の社名の看板が目立っていました。今は大崎に移転し、跡地はマンションになったらしいです。
左手にふたつの神社が並んでいます。袖ヶ崎神社は保延元年(1137年)に創建され、江戸時代には神社の周辺に各藩の江戸下屋敷が多かったことから、多くの各藩関係者が参詣に訪れたそうです。
袖ヶ崎神社御由緒
当神社は東五反田一・三丁目、四丁目の一部の鎮守社で元忍田稲荷大明神(しのだいなり)と称し保延元年(1137年)京都稲荷山より奉斎されました。其後康永三年(1344年)越前国丹生郡小川村の鎮守八幡宮の神主山口直可の次男直正が東国へ下向し、当社の神主となり爾来現在まで二十二代累代宮司として奉仕して居ります。真正が神主となった時、神明宮を社の南の方へお祀りして当所の地名を以って袖ヶ崎神明宮と奉称、又八幡宮を祀り其後元禄年中に天満宮を正徳年中に塩竃大神をお祀りしました。又厳島大神(弁天様)は東都歳時記に言う御府内弁財天百社番外の四番でありました。明治維新の際、袖ヶ崎神社と改称されました。当社は徳川三代将軍家光公を初め伊達家細川豊前守等多数諸侯の崇敬あり、古蹟社と称されて寺社奉行直支配でありました。御社殿は江戸時代以来大東亜戦争罹災まで四度類焼、昭和二十二年氏子諸氏の奉賛により仮社殿が竣工、昭和四十二年六月社前の中原街道の拡幅に伴い境内整備と共に社殿其他を新築しました。末社祖霊社、真正神社、神社祭祀に功のあった山口直正命が祀られております。
その隣には雉子神社があります。神社の名前は、徳川三代将軍家光によって命名されたそうです。
雉子神社御由緒
当社鎮座の起源は古く、御社号は元荏原宮、文明年中には大鳥明神山神社とも称して居りましたが、慶長年間に徳川三代将軍家光公が鷹狩の折に一羽の白雉が社地に飛び入ったのを希な目出度いしるしであるとして雉子宮と名付けられて江戸の社寺名所にその名を連ね、明治維新に雉子神社と改められて現在に及んでいます。当社は武蔵国荏原郡上大崎村・下大崎村・谷山村・永峯町・六軒茶屋町、現在の品川区上大崎東五反田の全域と西五反田一、二、三丁目一圓の氏神鎮守であります。神域は昔から現在の処で、社前の中原街道(国道一号線)が明治三十八年以来三度横幅改修されて次第に狡隘となりました。明治以前は白雉山宝塔寺が別当職でありました。明治五年村社と定められ、明治四十三年上大崎村に鎮座の三島神社を合祀して現在に及んでいます。
雉子神社の狭い境内にはイチョウの老木があります。枝を落としているのはちょっと可哀想ですね。
雉子神社のイチョウ
イチョウはイチョウ科に属する落葉の高木で、高さは三十メートルにもなり、葉は扇形で秋に黄葉する。雌雄(めすとおす)それぞれ別の木となる。本樹は雌樹で、幹の囲りは約四メートル、高さは十八メートルあり、推定の樹齢は百五十年から二百年である。木の勢いも盛んで、樹姿も整っており、本区内のイチョウの中でも代表的な巨木である。本樹は、本社境内の樹木景観の中で中心的な存在となっており、美しい姿を見せている。
五反田駅手前に東京オイスターバーがあります。ブルーの看板はよく目立ち、通る度についメニューを見てしまいます。本来ならば牡蠣のシーズンなのですが、コロナ禍ではどうなっているのでしょうか?
東京オイスターバーの左手には、五反田有楽街に続く路地が延びています。五反田有楽街は山の手線沿線有数の歓楽街として知られています。国道1号線の向かい側には、旧正田邸もあった城南五山(池田山・島津山・御殿山・花房山・八ツ山)のひとつである池田山の高級住宅地が拡がっています。両者のコントラストが際だっていますね。
終点の五反田駅前広場に着きました。今はバスやタクシーの乗り場になっていますが、都電4系統の発着所があった頃はどんな風景が拡がっていたのでしょうか?
ということで都電4系統跡を歩き終えたのですが、思いの外歴史的な名所・旧跡に出会えて面白かったです。次の路線ではどんな発見があるのでしょうか?
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