都電3系統跡コース(1)  

コース 踏破記  

今日は都電3系統跡を歩きます。都電3系統は三田から曙町(現在、東洋大学が立地するあたりの旧町名)までを結び、その路線は主に日比谷通りと白山通りを通っていました。都心を南北に縦断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。  

都電3系統

都電3系統の全長は10.3kmで、昭和42年12月10日に廃止となりました。

都電3系統の電停(路上の駅)は、品川駅・高輪北町・泉岳寺・田町九丁目・札の辻・三田二丁目・慶応義塾・赤羽橋・飯倉四丁目・飯倉一丁目・神谷町・巴町・虎ノ門・溜池・山王下・赤坂見附・若葉一丁目・四谷見附・本塩町・市ヶ谷見附・新見附・牛込見附・飯田橋でした。


さて、都電3系統の始点となる電停はどこにあったのでしょうか?都電1系統跡を歩いた際は、ネットの動画をもとに品川駅高輪口前の国道15号線(第一京浜)上を始点と特定しました。でも都電1系統跡を歩いたのは都電3系統跡を歩いた後のことです。都電3系統跡を歩いた時はそこまで調べていませんでした。それで、かっての品川電停がどこに位置していたのだろうかと品川駅高輪口の周辺を見渡してみます。すると、都バスの品川折返所がある京急EXホテル品川(通称:SHINAGAWA GOOS)前辺りに都電が停まれそうなスペースがあります。JR・京浜急行の品川駅に行くには国道を渡らないといけないので不便ですよね。若干の不自然さは感じつつ、都バスの品川折返所を始点と決めました。間違ってはいますが、今となってはまぁいいとしましょう。



品川駅高輪口前から国道15号線を歩き出してしばらくすると、右手に高輪ゲートウエイ駅が見えてきます。令和二年(2020年)に開業した山手線・京浜東北線の最も新しい駅です。駅の周辺はまだ工事中で利便施設は何もありませんが、近くの住民にとっては歩ける距離なので品川駅よりは便利かもしれませんね。



都電1系統跡は国道15号線の左側の歩道を歩いたので、都電3系統跡では右側の歩道を歩くことにします。泉岳寺交差点の先に高輪大木戸跡の史跡があります。高輪大木戸の前身は、江戸時代中期の宝永七年(1710年)に江戸の街の治安維持のため、現在の銀座八丁目の新橋駅付近の東海道の両側に石垣を築き設置されました。現在残っているのは、享保九年(1724年)にそこから4kmほど南西のこの場所に移設されたものです。江戸の各町にあった「町木戸」に対し江戸全体を守る木戸であることから、この門は「大木戸」と呼ばれ、旅人やその送迎客で賑わいました。木戸の幅は約10mで初めは柵状の門があり、明六ツ(おおよそ午前6時)に開門、暮六ツ(おおよそ午後6時)に閉門していました。江戸時代後期には門の機能は廃止され、浮世絵には石垣のみが描かれています。伊能忠敬が日本地図作成のために行った測量の起点がこの高輪大木戸でした。明治元年(1868年)に西側の石垣は取り払われ、現在は国道15号線沿いに東側の石垣だけが残されています。現存する江戸大木戸の遺跡はここだけであり、江戸時代の産業交通土木に関する史跡として貴重な存在と言えます。

史跡 高輪大木戸跡

高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(1710年)に芝口門に建てられたのが起源である。享保九年(1724年)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年(1710年)説・寛政四年(1792年)説など諸説がある。江戸の南の入口として、道幅約六間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。天和二年(1682年)には、札の辻(現在の港区芝五のニ九の十六)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。京登り・東下り・伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4メートル・長さ7.3メートル・高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然紀念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。




高輪郵便局の向かいに笹川記念會舘があります。既に過去の人となった笹川良一氏に因んだ建物です。笹川良一氏は、大正・昭和時代の日本の右翼政治家で、財団法人日本船舶振興会(のちの公益財団法人日本財団)会長を務めました。モーターボート競走創設に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立にも関与しました。これにより、競艇ビジネスは笹川一族の同族経営の色が深まることになりました。座右の銘は「世界一家 人類兄弟」として知られています。



船舶と水は切っても切れない関係なのでしょうか、建物の前には[水六訓]を記した訓示が掲げられています。

水六訓

一、あらゆる生物に生命力を与えるは水なり。
二、常に自己の進路を求めてやまざるは水なり。
三、如何なる障害をも克服する勇猛心と、よく方円の器に従う和合性とを兼ね備えるは水なり。
四、自から清く他の汚を洗い清濁併せ容るの量あるは水なり。
五、動力となり光となり、生産と生活に無限の奉仕を行い、何等報いを求めざるは水なり。
六、大洋を充し、発しては蒸気となり、雲となり、雨となり、雪と変じ、霰と化してもその性を失わざるは水なり。
水を心とすることが平和と健康と長寿の妙薬であります。




札の辻交差点で国道15号線と別れ、都道301号線に入ります。[白山祝田田町線]というのが正式名称らしいですが、三田二丁目交差点から国道1号線が合流し、桜田通りとなります。その三田二丁目交差点からJR三田駅に延びる路地が慶応仲通り商店街です。狭い通りの両側に飲食店などが建ち並び、雑多な雰囲気ですが慶大生だけでなく近隣のオフィスから繰り出すサラリーマン諸氏の憩いの場ともなっています。



三田といえば慶應大学ですが、正門は三田二丁目交差点の西側にあり、都電3系統の線路に面していたのは東門です。階段の先には古風な赤煉瓦の建物が見えます。キャンパスの配置図によりますと、図書館旧館の八角塔みたいです。東館アーケード入口の上部は見なかったのですが、ペンマークの下には、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を意味するラテン語「HOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR」が記されているそうです。その意味は、「いかなる人もある者の上につくられてはいないし、いかなる人もある者の下につくられてはいない」となり、日本語の「天」がもつ語感を表すため、受身の形かつ否定により表現されているとのこと。慶大生でも読める人はいるのかな?尚、東門の横に「学問のすすめ」という看板が掲げられていますが、本屋さんではなく和菓子の文銭堂本舗というお店が出しているものです。「学問のすすめ」と名前が付けられた最中は、慶應義塾大学の受験者に縁起担ぎで購入されているそうです。最中といっても、箱の中では皮と餡が別々になっていて、食べる直前に竹べらで餡を皮の中に詰め、作りたてのパリッと香ばしい最中の食感を楽しむのだそうです。受験生ではありませんが、一度食べてみたいものです。



春日神社は三田の鎮守で、江戸時代は江戸府内唯一の春日社として徳川将軍家や諸大名から崇敬を集めました。地域の方からは「春日さま」と称され、「学問平和の守護神」として親しまれています。天徳二年(958年)に創建され、武蔵国司・藤原正房が藤原氏ならびに皇室外戚の氏神である「春日大社」第三殿に祀られている天児屋根命の御分霊を勧請したと言われています。



とある公園の前に[芝地区旧町名由来板]が立っています。錦絵の左上に高い櫓が見えますが、これが有馬屋敷の火の見櫓でしょうか?今とは全く違う風景ですね。

芝地区旧町名由来板


The origins of old town names in Shiba area.

This signboard guides the origins of old town names, each of which in most cases represents its own history of the beginning or the location.

三田

平安時代の御田郷の名に由来します。三田は古くから田園として開けていたと考えられており、一説には、古代禁中に年貢を奉っていたため御田と称されたと伝えられています。 御の字を三に改めた年代は定かではありませんが、戦国時代には三田となっていたようです。徳川家康入国(天正十八年、1590年)以来、 虎ノ門より品川宿までの往還のため、町人の往来がしだいに盛んになり、寛文年間(1661年〜1673年)には町奉行支配となって三田の諸町が創設されました。

Mita

The place name Mita (三田) originates in Mita-go (御田郷), the old place name of the Heian era. This place is considered to have developed as farmland early in the history, the people having rendered a tribute to the Court; therefore the place is said to have been called Mita (御田) where crops for the Court were cultivated. Though the time when the different Chinese character was used for the place name is not known, it seems that the word "三田" had already appeared during the turbulent age traced back to the latter half of the 15th century.

赤羽町

江戸時代初期は赤羽川(古川)の灌漑を受けた田園でしたが、明暦年代(1655年〜1658年)以来筑後久留米藩有馬氏の屋敷となり、明治四年(1871年)に工部省所属製作所の敷地となりました。明治五年(1872年)、赤羽橋の傍にあることから赤羽町と名づけられました。赤羽の名は、麻布飯倉あたりを土器町と称していたころ、赤羽橋付近は土器職人が多数住居していたので赤埴(赤い素焼の人形)と呼ばれ、これが転じて赤羽となったと伝えられています。江戸の力士小野川喜三郎が火の見櫓の上で怪猫を退治したという伝説「有馬の猫騒動」で名高い有馬屋敷のあったところです。

Akabane-cho

In the 5th year of Meiji (1872) this place was named Akabane-cho because there was the Akabane-bashi bridge near the place. In the vicinity of the bridge many artisans for earthenware-making lived, and Agahani (unglazed red pottery doll) was well known among their products. It is said that the word Akabane originated in a corruption of Agahani.

三田功運町

寛永十七年(1640年)三田聖坂にそれまで江戸城近くの桜田にあった功運寺が移り(現三田中学校のあたり)、門前町となったことに由来しています。芝方面から三田台に続く細長い聖坂は、一説に高野聖が開いたといわれています。明治二年(1869年)、三田功運寺門前は三田功運町と改称されました。町名の由来となった功運寺は、大正十一年(1922年)に現在の中野区へ移転しましたが、町名はそのまま残りました。

Mitakoun-cho

In 1640 Koun-ji Temple moved from Sakurada near the Castle of Edo to this place called Mita-hijirizaka. It became a temple town and both names, Mita and Koun, were combined.




古川に架かる赤羽橋の手前から見た東京タワーの全景です。先端まで伸びた美しい双曲線状のフォルムと鮮やかな赤色が青空に映えますね。ちなみに、塔全体が赤色で塗装されているわけではなく、赤と白が交互に7段(下から赤、白、赤・・)で構成されています。これは航空法による規定によるもので、建てた人の好みで紅白にしているわけではありません。



赤羽橋の袂にやってきました。橋のちょっと手前に昔の親柱が保存されています。今の橋は昭和四十九年(1974年)に架けられましたが、それ以前に架かっていた赤羽橋の親柱とのことです。現在の飾り気のない橋と比べると、何とも古風で趣があります。



赤羽橋の先に、[芝地区ちぃまっぷ]の案内板が立っています。もみじ谷は都会の中とは思えないほど木々に囲まれた急峻な地形になっています。

もみじ谷

東京タワー眼下の都立芝公園にある「もみじ谷」。モミジやケヤキに囲まれた谷の地形には滝から落ちた小川が流れ、都心にいるのも忘れてしまうほどの癒しの空間です。

Momiji-dani (Maple tree valley)

Located in the area of Shibakoen Park and owned by the Tokyo Metropolitan Government, the Momiji-dani (Maple Tree Valley) is a healing valley with a flowing stream from a waterfall surrounded by Maple and Zelkova trees.

長柏園跡の碑

長柏園とは、近代の造園界の先覚者である長岡安平翁邸の称です。独学で造園を修め、地域の自然特色を活かす設計手法で数多くの公園を設計しました。「もみじ谷」も翁の設計によるものです。

Former Chohaku-en

Chohaku-en is another name for the residence of the revered and elderly Mr. Nagaoka Yasuhei, a pioneer of modern landscape architecture. He studied landscape architecture by himself and designed many parks by actively applying the original characteristics of nature uniquely to each location. Momiji-dani was also designed by him.




桜田通りに面して「KAMIKAZ TAP ROOM」という看板を掲げたお店があります。「TAP ROOM」とは、ホテルや宿屋のバーといった意味です。「KAMIKAZ」とは、徳島県の上勝町の町名です。昔はビールを販売するには年間最低2千キロリットル以上を造らなければならなかったのですが、1994年の法律改正によって年間最低60キロリットル以上を造ればよいことになって、全国各地に小規模なビール工場が誕生しました。これらで造られるビールは、「地ビール」または「クラフトビール」と呼ばれています。地ビールは、どちらかといえば生産地を重視したもので、クラフトビールは「職人技がこもったビール」という意味合いが強いようです。このお店は、「RISE & WIN Brewing CO.」というビール醸造所( マイクロブルワリー)の東京店らしいです。上勝町の特産である柑橘の「ゆこう」の皮を再利用したフルーティーなルーヴェンホワイトをはじめ、上勝町仕込みのオリジナルビールや、徳島の野菜や食材を使用したBBQ料理を中心に、「和牛ビーフバーガー」や「ラムチョップのグリル」「しらすと青ネギのピザ」などのバラエティー豊かなメニューが楽しめるとのことです。この醸造所は資源の再利用によってゴミの量を減らし、環境への取り組みが熱心な企業として知られています。ビールを飲んで応援できるのなら大いに協力したいものです。



土蔵風の建物の壁に「野田岩」の看板が掛かっています。いわずとしれた鰻の名店です。一見さんには敷居が高いので、私は入ったことはありません。鰻の蒲焼きを出すだけのお店かと思ったら、「温故創新」の取り組みの下で、志ら焼(白焼:たれを付けずに焼いた鰻)とキャビアの組み合わせとかワインとあわせた洋風の新しいメニューも供されているとのことです。じゅるるっつ。。。



飯倉交差点の手前に熊野神社が鎮座しています。以前来たことがあったなと思い出してみますと、お正月に港七福神を歩いた際に立ち寄った恵比寿神の神社でした。旧飯倉村の鎮守であり、飯倉熊野神社とも称されています。元禄十六年の火事で全ての記録が焼失し、熊野神社の勧請・縁起は今ではわからないとのことです。ここ数年はこの神社に新しいご利益が加わり、サッカーのお守りが授与されるようになりました。熊野神社の神紋である3本の足のある八咫烏(やたがらす)がJリーグのシンボルマークになっていることから参拝する人が増えたそうで、選手本人というより家族やサポーターの方が多いとのことです。サッカー協会公認の「サッカー御守」は白と青で塗り分けられ、恵比寿さまの土鈴とともに有難味を醸し出しています。



外苑東通りと国道1号線(桜田通り)が交わるのが飯倉交差点です。飯倉交差点といえばロシア大使館ですね。昔はソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)大使館でしたが、道路の車止めやパトロールの警察官など警備が厳重で近づきがたい雰囲気です。ソビエト連邦といえば、交差点の傍に「ミンスクの台所」という日本で唯一のベラルーシ家庭料理のレストランがあります。地理的に近いロシア料理やポーランド料理と類似していますが特徴的なお料理もあります。ビーツやそばの実・ジャガイモ・パプリカといった野菜と肉を中心に使い、サワークリームやハーブ・ニンニクなどをふんだんに使用し、毎日でも飽きないヘルシーな料理を通してベラルーシの家庭のぬくもりを伝えたいということで、レシピに日本人向けのアレンジはせず、日本人の味覚に合う本場のメニューだけを提供しているとのことです。名物は野菜を重ねた「ニシンとビーツのサラダ」やジューシーな「パプリカの肉詰め」など家庭の味を再現しています。スタッフは全員旧ソビエト連邦諸国の出身で、カウンターとテーブルで構成された店内では、木・金曜に民族楽器のライブも開催されています。珍しいグルジアやモルドバのワインとかロシアのウォッカを飲みながら、賑やかに食事が楽しめるそうです。



飯倉交差点の先に、芝地区ちぃまっぷの案内板が立っています。

西久保八幡神社の貝塚

今から約3700年前の縄文時代後期のものといわれる貝塚が境内にあり、当時は東京湾がこの付近まで入り込んでいたことが感じられます。港郷土資料館内でこの貝塚の展示を見ることができます。

A shell mound at Nishikubo-hachiman Jinja Shrine

It is believed that the shell mound in the shrine is approximately 3700 years old from the latter half of the Jomon period. During that period, Tokyo Bay was larger than today. The exhibition of the shell mound is open to the public at the Minato City Local History Museum.

金地院(近藤周斎の墓)

徳川家康に招かれ、幕府の政策に関与したことから「黒衣の宰相」と称された崇伝が建立した寺です。新撰組局長近藤勇の養父である近藤周斎の墓があり、それを目当てに訪れる人もいます。

Konchi-in Temple (A tomb of Kondo Shusai)

Suuden, a monk called "a prime minister with black robe", established the temple. He was asked to take part in the government's administration by Shogun Tokugawa lyeyasu. There are also some people who visit the tomb of Kondo Shusai, the father of Kondo Isami. Kondo Isami was the head of Shinsen-gumi in which they promoted exclusionism.




工事用の塀が日比谷線の神谷町駅を取り囲むように連なり、塀の中の広大な土地にはクレーンが林立しています。「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」という名称の工事で、区域面積は約8.1ヘクタールに及ぶそうです。住宅・事務所・店舗・ホテル・インターナショナルスクール・中央広場・文化施設などが建てられる計画で、その延床面積は約86万平方メートルになるとか。第二の六本木ヒルズになることでしょう。



虎ノ門三丁目交差点の手前に芝地区旧町名由来板が立っています。この辺りは起伏が激しかったようで、愛宕神社が鎮座する愛宕山は標高が25.7mであり、自然の山としては23区内の最高峰となっています。

芝地区旧町名由来板

The origins of old town names in Shiba area.


This signboard guides the origins of old town names, each of which in most cases represents its own history of the beginning or the location.

西久保巴町

愛宕山の西北麓に位置する町域です。慶長十三年(1608年)に天徳寺門前、および元禄年間(1688年〜1699年)に下谷町と車坂町の代地となり、西久保新下谷町・西久保車坂町と唱えました。明治五年(1872年)、浜田藩松平右近将監屋敷・西久保新下谷町・西久保車坂町・天徳寺地・同門前町および幕士の屋敷を合併して、新たに西久保巴町となりました。町名は、町内が南は神谷町境に延び、東は北西に屈曲し巴の形によく似ていることに由来します。

Nishikubotomoe-cho

Consisting of both Nishikuboshinshitaya-cho and Nishikubokurumazaka-cho during the Genroku period (1688-1699), the town area was situated at the northwestern foot of Atagoyama hill. In the 5th year of the Meiji period (1872) both the towns were united to develop into a single town named Nishikubotomoe-cho, including near-by samurai residences, a temple territory and its town. "Tomoe" of the town's name meaning a comma-shaped heraldic design, it got the name because its area shape resembled the design.

葺手町

西久保巴町と西久保城山町とに挟まれ、西方は赤坂区および麻布区に接しています。 むかしは幸橋門外の二葉町の続きにありましたが、元禄四年(1691年)に用地を召し上げられ、西久保の土取場に代地を与えられました。土取場とは土木用の土砂を取り崩した場所をいい、葺手町と城山町の間の道を入った崖下にありました。町名の由来はあきらかではありませんが、町の状況から屋根職人の人が多く居住した町と推測されます。

Fukide-cho

The town moved to this substitute land in the 4th year of the Genroku period (1691) because the original site was seized by authority. It was sandwiched in between Nishikubotomoe-cho and Nishikuboshiroyama-cho, adjacent to Akasaka Ward and Azabu Ward in the west of the town. It is unknown how this town got its name. However, judging from the town's name or according to other information available, many roofers seem to have resided in this town.

西久保城山町

西久保通りから葺手町と神谷町との境の道路に入ると、左手に西久保城山町があります。もとは、葺手町の土岐邸から町内へかけてを俗に城山と呼び、むかし、ここに熊谷次郎直実、あるいは太田道灌が城砦を築いたという伝承があります。 明治五年(1872年)に池田甲斐守・小堀大膳・大久保隼人等、諸幕士の屋敷を合併して、新たに町名を西久保城山町としました。

Nishikuboshiroyama-cho

Legend has it that Kumagai Jiro Naozane or Ota Dokan constructed a castle (shiro) here in old times, and therefore this place was popularly called "Shiroyama" (castle mountain). In the 5th year of the Meiji period (1872) it was formally named Nishikuboshiroyama-cho, uniting near-by samurai residences.




虎ノ門ヒルズは平成二十六年(2014年)6月11日に開業した地上52階建てで、高さが247mの超高層ビルです。環状二号線が建物の地下を通り、1階は道路が貫通する構造になっています。昔だったら考えられない構造です。六本木ヒルズの直ぐ近くには、令和二年(2020年)6月6日に日比谷線の六本木ヒルズ駅が暫定開業しています。日比谷線が中目黒〜北千住間で全線開通した昭和三十九年(1964年)以来56年ぶりの新駅とのことです。



愛宕通りから見た虎ノ門ヒルズは普通の建物ですが、桜田通りから見ますと1階部分にトンネルの開口部があります。築地虎ノ門トンネルの出入り口です。周辺は未だ工事中のところが多いのですが、全ての工事が終わった暁には東京の新たなランドマークになることでしょう。



虎ノ門交差点の手前に虎ノ門金刀比羅宮(ことひらぐう)があります。金刀比羅宮は万治三年(1660年)、讃岐丸亀藩の藩主京極高和が芝・三田の江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請し、その後延宝七年(1679年)に丸亀藩江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に遷座しました。香川県にある総本宮の金刀比羅宮は「さぬきのこんぴらさん」という愛称で呼ばれ、長く続く参道の石段は本宮まで785段、奥社までだと1368段あるそうです。丹沢の大山阿夫利神社の男坂といい勝負ですね。

虎ノ門金刀比羅宮縁起

創祀は万治三年(1660年)讚岐丸亀城主
京極高和の時邸を愛宕下に移し
同時遷座 延寶七年(1679年)なり
爾来御神威愈々広く
大衆の信仰として親しまれ
豊漁満帆 海陸安穩 福徳守護の
御神徳は当宮の御神紋丸金と共に
益々篤きものなり




境内には神殿の前に銅鳥居があります。

銅鳥居

この銅鳥居は、虎門外の讃岐丸亀藩京極家(約五万石の大名)の江戸屋敷に勧請された金昆羅宮(現金刀比羅宮)の鳥居です。文政四年(1821年)十月に奉納された明神型鳥居で、「金刀比羅大神」の扁額が掲げられています。円柱には青竜・玄武・朱雀・白虎の霊鳥・霊獣が飾られ、下部には奉納関係者の名前が刻まれています。願主・世話人の多くは芝地域の商人と職人でしたが、江戸市中の地名・人名もみられま寸。江戸では諸藩邸内の神仏を一般に公開し、賽銭収入も期待されていたようです。江戸庶民の信仰を反映したこの派手な鳥居は、当時の人々の宗教的・文化的活動の実態を示す貴重なものです。




銅鳥居の脇に百度石が置いてあります。神社の境内などには、似たような名前で力石があります。こちらは主に力試しに用いられ、そのルーツは石占いにあったといわれています。神社・寺院に置かれた特定の石を持ち上げて重いと感じるか軽いと感じるかによって吉凶や願い事の成就を占うものでした。それが転じて娯楽や鍛錬のための力試しになったとのことです。

百度石

百度石は、いわゆる「お百度参り」の際に用いられたもので、神殿とこの石の間を往復して願掛けをしました。願掛けの一種である「お百度参り」は、江戸時代に盛んに行われましたが、特に都市部に目立つ個人祈願の一形態で、その多くは病気治癒の願掛けであったといわれます。正面に「百度石」、背面には「大願成就 願主□心道 元治元甲子年(1864年)十二月吉日」の銘があり、願がかなえられたお礼に建てられたものであることがわかります。こうした百度石が保存されているのは区内では非常に珍しく貴重です。




<<写真多数のため、都電3系統跡コース(2)に続きます。>>



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