都電3系統跡コース(2)  

コース 踏破記  

<<都電3系統跡コース(1)の続きです>>  

虎ノ門交差点にやってきました。交差点の角には旧文部省の古風なビルが残っています。昭和八年(1933年)に建設され、登録有形文化財(建造物)に指定されているそうで、霞が関に現存する庁舎としては法務省赤レンガ棟(法務省旧本館)に次いで2番目に古いそうです。今は中央合同庁舎第7号館保存棟になっていて、建物の3階は一般の人向けの文部科学省所管の「情報ひろば」となっていて、旧大臣室なども一般に公開されています。



霞が関ビルの前の歩道脇に「霞ヶ関」の地名の由来を記した案内板が立っています。「霞が関」と「霞ケ関」は違いますが、これは現在の地名である「霞が関」はもともと「霞ケ関」と書いていたものを1967年に「ケ→が」と地名を変更したのですが、それに対応できたものと出来なかったものが混在しているとのことです。霞が関ビルは1965年に起工したので、当時の表記を使ったのでしょう。一方、霞ケ関駅などは書き換えが容易なために新しい表記になったのだと思われます。尚、小文字の「ヶ」が入る「霞ヶ関」は埼玉県川越市にある東武東上線の駅名です。

霞ヶ関

皇居外苑南東端にある外桜田門から港区虎ノ門に至る桜田通りにかけての一帯は、霞が関(昭和四十二年(1967年)に霞ヶ関から改称)といいます。江戸城を守る外郭門のひとつであった虎御門は、江戸時代初期までは遠浅の海(日比谷入江)に面していました。霞ヶ関の名前は古代までさかのぼり、日本武尊が蝦夷の襲撃に備えて、武蔵国に置いた関所「霞ヶ関」から名付けられたといいます。その名前は関所から雲霞を隔てた遠方を望むことができるということに由来し、江戸時代の地図にはすでに、「霞ヶ関」と記したものもあります。江戸時代には、幾多の大名が住む武家地であり、日向延岡藩内藤家(文部科学省・会計検査院・霞が関ビル周辺)、筑前福岡藩黒田家(外務省)、安芸広島藩浅野家(国土交通省周辺)、出羽米沢藩上杉家(法務省旧本館・法曹会館周辺)などの上屋敷がありました。明治維新後、この一帯は政府用地として利用されます。一丁目・二丁目は、明治ニ十年代以後の官庁集中計画に基づいて、赤レンガ造りの官庁が林立し、現在の中央官庁街となりました。警視庁前に残る法務省旧本館の建物はその名残であり、重要文化財に指定されています。三丁目には、明治四年(1871年)、日本初の官立の工業技術教育機関である工部大学校(東京大学工学部の前身)が開校しました。のちには各国の大公使館も置かれ、政治や外交の中心地的印象が強い霞が関ですが、三丁目一帯は近代産業も芽生え、発展してまいりました。

Kasumigaseki

Until the carly Edo Period, this neighborhood faced on the sea on the Hibiya inlet, which has since been reclaimed. The name of the area comes from the fact that from the barrier station (sekisho) located here, one could see faraway through the clouds and mist (kasumi in Japanese). Kasumigaseki today is home to many government ministries.




同じく、霞が関ビルの敷地脇に「国立教育会館」の石碑が置いてあります。そういえば、灘尾弘吉という政治家がいましたね。彼は子供の頃は神童と呼ばれた折り紙付きの秀才で、旧制広島一中・旧制一高・東京帝国大学法学部法律学科を首席で卒業したそうです。

国立教育会館

教育開係者の資質の向上を図り、その指導力の充実を期するためにば、不断の研修が必要であり、このために全国の教育関係者を対象とするのにふさわしい研修施設の必要が痛感されたことから、昭和三十九年6月4日に特殊法人国立教育会館が設立されたものである。その後、行政改革により特殊法人国立教育会館は平成十三年4月1日に解散となった。この碑は、特殊法人国立教育会館の門表であり、元文部大臣灘尾弘吉氏の揮毫によるものである。




その近くにレンガ造りの煙突のような工部大学校阯碑が置かれています。霞ケ関は教育の発祥の場でもあったんですね。

工部大学校阯碑

明治六年(1873年)、この地に工業分野における人材育成を日的とした工学校(工学寮内に設置)が開校します。明治十年(1877年)には、工学寮が工部大学校と改称されました。工部大学校では、土木・機械・造家などの学科が諸外国から招聘された外国人教師によって教授されました。明治十九年(1886年)に帝国大学と合併し、本郷(現在の文京区)に移転します。跡地は、帝室博物館などに使用されますが、大正十二年(1923年)の関東大震災で建物は倒壊してしまいました。そこで、工部大学校出身者たちは、倒壊した建造物の煉瓦などを利用して、昭和十四年(1939年)に「工部大学校阯碑」を建設しました。この碑は、日本最初の工業技術教育機関が設置された場所とともに、関東大震災による被災の歴史を伝えています。

Monument to the Imperial College of Engineering

An engineering college (located within Kogakuryo, the predecessor to the Imperial College of Engineering) opened on this site in 1873 to train new engineers. In 1877, Kogakuryo was renamed Kobu Daigakko (Imperial College of Engineering). Subjects such as house construction and civil and mechanical engineering were taught at the Imperial College of Engineering by foreign teachers who were invited from overseas. The College merged with the Imperial University in 1886 and was relocated to Hongo (current-day Bunkyo City). The site was used for various purposes, including as the Imperial Museum, but the building collapsed in the Great Kanto Earthquake of 1923. Former students of the College later built this monument to the Imperial College of Engineering in 1939 using bricks and other materials from the ruined building. The monument relates the history of this site, where Japan's first educational institution for engineering stood, as well as the devastation of the Great Kanto Earthquake.




都電3系統は溜池交差点で左折し、外堀通りに入っていました。雑居ビルが密集していた交差点東南の角地は大規模再開発により、2017年8月に竣工した赤坂インターシティAIRに生まれ変わりました。3棟の建物が一体化したような独特の形状をしています。「インターシティ」とは“都市を結ぶ”に由来し、日鉄興和不動産の大規模複合型オフィスビルのフラッグシップブランドで、赤坂インターシティAIRは、「インターシティ」シリーズ5番目のプロジェクトになるそうです。AIRは、事業コンセプトである「世界から選ばれる国際都市東京の顔へ」に相応しい緑化率50%以上の広大な緑地に囲まれた“誰もが住みやすく働きやすい居心地のよい街”、即ち緑豊かな街の雰囲気や空に伸びゆく建物をイメージし、AIRは、“Akasaka Icchome Re−development(赤坂一丁目再開発)”の略称でもあるとか。なんかゴロ合わせのような気がしますが。



外堀通りの右手の丘の上に、江戸三大祭のひとつである山王祭が行われる日枝神社があります。道路から幅広い石段を登っていくのですが、足腰の弱った方には階段横にエスカレータが設けられています。香川の金刀比羅宮にも設置すればいいのにね。

日枝神社 旧官幣大社

御祭神大山咋神は須佐之男神の御孫神で、またの御名を山末之大主神と申上げる。山水を司り、萬物の生成發展を守護し給ふ神である。日枝神社の歴史は鎌倉時代初期に秩父重継が江戸貫主を名乗り、その居館に山王社を勧請したことに始まる。文明年間には太田道灌が江戸城築城にあたり川越山王社を再勧請し、更に徳川家康入府以降は城内鎮守の神、将軍家の産土神と崇められ、紅葉山から麹町を経て萬治二年に当地に移遷された。日本三大祭のひとつ、また江戸三大祭の筆頭として知られる山王祭は江戸時代にはその神幸行列が城内に入り、将軍自ら上覧したことから天下祭また御用祭とも称された。明治維新によって江戸城は皇居となり、日枝神社は皇城鎮護の神として、皇室の御崇敬殊に篤く、大正天皇御即位當日には官幣大社の極位に列せられた。昭和二十年五月の空襲によって壮麗を極めた國賽の御社殿は灰燼に歸したが氏子崇敬者の赤誠により昭和三十三年に再建され、星ヶ岡上に再び大社の威容を拜するに至つた。氏子區域は廣く千代田・中央・港・新宿區の七十餘町に及び、生業の隆昌を始め子孫と家門の繁榮を守護し給ふその御神コはまさに宏大無辺である。




外堀通りは赤坂見附交差点で北西に向きを変えますが、交差点に面したエクセル東急の1階にストックホルムというレストランがあります。歩道橋の下辺りにあるため気が付きにくいのですが、1971年創業の日本でただ一つのスウェーデン料理スモーガスボード専門店です。スモーガスボードとはバイキングの元祖で、60種類以上の料理の中から好きなものを好きなだけ食べられるスウェーデンの伝統的な食事スタイルです。本格的で種類豊富なお料理を好きなだけ食べられるので、北欧料理初挑戦の方におすすめです。私は一度行っただけですが、北欧料理の定番ニシンのマリネやノルウェーサーモンのマリネ、スウェーデンのおふくろの味ミートボールなどなど、ワイン2本と共に堪能しました。コロナ禍でディナーはお休みしていたようですが、4月1日から21時までの営業ながら再開したとのことです。



赤坂見附交差点の右手にある弁慶掘に弁慶橋が架かっています。当初は神田松枝町と岩本町の間を流れる藍染川下流に架けられていましたが、明治十八年(1885年)に藍染川が下水道工事で埋められると弁慶橋も不要となり撤去されました。しかし、このまま名橋が失われるのは惜しいということで、明治二十二年(1889年)に紀尾井町から元赤坂一丁目に通じる道筋にある江戸城外堀に元の弁慶橋の廃材を利用して架橋されました。堀は橋にちなんで弁慶堀と呼ばれるようになり、橋が無くて困っていた両岸の住民は大いに喜んだということです。弁慶橋は江戸城普請に携わった大工の棟梁であった弁慶小左衛門が架けた橋に始まり、彼の名から「弁慶橋」と名付けられたと伝えられています。



赤坂見附から外堀沿いにゆるやかな長い坂道を上っていきます。坂道の左側は、江戸時代に紀州徳川家の上屋敷でした。外堀通りからは赤坂御所の正門がチラッと見れます。何年か前に青山通りを歩いていたら、御所の門が開いて前後の黒塗りの車に挟まれた1台のワゴン車が出てきました。開いていた窓からは子供が身を乗り出していました。危ないなと思ったら、その子は悠仁親王殿下でした。結構ヤンチャなんですね。



赤坂御所の向かいには客室棟が三方向に張り出した形のニューオオタニの回転展望レストラン付きの本館が建っています。東京交通会館15階にも同じような回転レストランがありましたが、こちらは昨年末をもって営業を終了しています。余談ですが、250席もあるレストランの床ごとスムーズに回転させる技術は戦艦大和の主砲の砲座を回転させる特殊な車輪を応用することによって実現させたのだそうです。これが日本各地に回転展望レストランをオープンさせるきっかけとなりました。



上智大学と外堀通りを挟んで柵に囲われた迎賓館の敷地が拡がっています。現在の迎賓館は昭和四十九年(1974年)3月に完成し、最初に宿泊したのはアメリカ合衆国大統領として初来日したジェラルド・フォードでした。徳仁天皇の即位に伴って迎賓館が一般公開された折に内部を見学する機会を得ましたが、正に東京のベルサイユ宮殿でした。



外堀通りと新宿通りが交差する四谷見附交差点にやってきました。都電3系統は直進してなおも外堀通りを進みます。



四谷見附交差点の先に飲食店が密集するしんみち通りがあります。大して長くはないのですが、細い通りの両側には大衆的な飲食店や居酒屋、アジアや南米料理の店などがずらりと並び、ランチ時はサラリーマン諸氏の胃袋を満たし、夜は飲んべえの喉を潤しています。今でこそ飲食店が建ち並んでいますが、東京オリンピック以前は八百屋・魚屋・履物屋・床屋ありのちょっとした商店街で、新宿通りよりはるかに賑わいがあった通りだったそうです。東京オリンピックを機に何が変わったのでしょうか?



外濠公園の脇に、その歴史を記した案内板が立っています。土木工事のための重機がなかった江戸時代に起伏に富んだ地形を平らにするには大変な苦労があったことでしょう。

国史跡江戸城外堀跡(市谷濠地区)

National Historic Sites Site of Edo Outer Castle Moat (Moat of Ichigaya)

江戸城外堀跡は、寛永十三年(1636年)に江戸城内郭と城下を取り巻くように造られた延長約14kmの濠のうち、史跡指定された約4kmの範囲です。この説明板は、400年におよぶ江戸・東京の歴史を示す文化財を周知するために設置しました。

牛込門から赤坂門に続く江戸城外堀は、寛永十三年(1636年)に三代将軍徳川家光の命により東国の大名52家が分担して開削したものです。この部分の外堀は、起伏のある山手の地形を巧みに取り入れ、北側の牛込から市谷付近では神田川から延びる谷筋を、南側の喰違から赤坂門にかけては溜池から延びる谷筋を利用しています。しかし、市谷から喰違付近、現在の外濠公園から上智大学真田濠グランドの一帯は高台となるため、最大13メートルも地面を掘り下げています。そして、掘り出された大量の土は、周辺の谷に運ばれ武家地や町地の造成に利用されたと考えられます。この土木工事はすべて人力で行われましたが、堀工事の約1/7を分担した仙台藩伊達家では、5,700人の人足を動員した記録が残されています。

外堀水面の高低差

江戸城外堀跡は、現在一部が理め立てられていますが、かつては湧水や玉川上水の水を満々と湛えた水堀でした。起伏のある山手に位置する外堀では、堀の水深を一定に保つため、牛込・市谷・四谷門橋と喰違土橋に堰が設けられ水位が調整されていました。このため、水位の最も低い神田川につながる牛込門東側と水位の最も高い真田濠では水面に約20mもの差がありました。




外濠公園付近から外堀に沿って市谷八幡下に向って下っていくのが外堀通りの高力坂です。四谷門から市ヶ谷門へ向かう途中に、幕臣高力小次郎の邸があり、高力邸にあった松が高力松と呼ばれて有名になって、高力坂と呼ばれるようになったそうです。石碑に添えられた銅板のレリーフ画には、よく見えませんが都電が走っている様子が見て取れます。東京電車鉄道の外濠線とは、都電3系統の前身なのかもしれません。隣を走っている荷物を満載したリヤカーとか沿道の着物姿の女性の様子からすると、相当に昔の風景のようです。

高力坂

新撰東京名所図会によれば「市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の邸あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり、東京電車鉄道の外濠線往復す」とある。すなわち,高力邸にあった松が高力松と呼ばれ有名だったので、その松にちなんで、坂名を高力坂と名付けたものと思われる。




都電3系統は市ヶ谷見附交差点を直進し、飯田橋方向に進みます。市ヶ谷橋の脇には釣り堀が設けられています。お客さんは少ないようですが、何が釣れるのでしょうか?



神楽坂下交差点の手前に「CANAL CAFE」の入口があります。東京水上倶楽部が運営するカフェで、外堀を間近に眺めながらイタリアンのお洒落なお料理が楽しめます。

東京水上倶楽部

創業1918年 東京で最も古いボート場です。当時は十人以上も乗れる大型の船をはじめ、100艘もの船が浮かんでいました。600mのお堀の周りに明かりを灯し、夜間の営業・蛍・花火・灯篭流し・ラムネ・かき氷・江戸情緒を残したボート場は、都民の憩いの場でした。現在、東京水上倶楽部[CANAL CAFE]は、浄化活動に取り組み、2009年に、このお堀で蛍が生まれるまでになりました。今後も、皆様の協力と共に、以前のような美しい外堀を目指し再生に取り組んでまいります。




早稲田通りは、神楽坂下交差点から神楽坂上交差点までの区間が神楽坂と別称されています。神楽坂は、神社やカフェ・雑貨店におしゃれな商業施設など、歩いていて飽きることのない通りです。新宿という大都会にありながら、ひとつ細い路地に入ると、江戸時代の面影を今に残しています。奥まった裏通りには粋な名店が並び、通好みの隠れ家になっています。



牛込橋から飯田橋までは、かって水を湛えた濠になっていました。現在は埋め立てられてセントラルプラザというショッピングモールと植栽を施した親水公園になっています。その植え込みの中に手書きの案内板が立っています。

飯田濠

ここから飯田橋まで現在ビルが建っている一帯全部が以前は深い濠になっており、飯田濠と呼ばれていた。飯田濠は市ヶ谷濠・牛込濠から神田川にかけて続いている江戸城外濠のひとつであった。昭和四十七年に都の市街地再開発事業としてビル建設が決定され、飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存して欲しいという都民の強い要望から飯田濠の一部を復元した。この道路脇の石垣は江戸時代のものである。




暗渠となった飯田濠には五つの橋が架けられています。ひとつは「みやこ橋」で、セントラルプラザの2階相当にあり、フリーマーケットや神楽坂のイベントの催場となっています。残りの四つの橋は外堀通りに面した親水公園にあり、「さくらばし」・「けやきばし」・「かえでばし」・「ひいらぎばし」という四季折々を代表する樹木の名前が付けられています。



植え込みの中には、牛込揚場の石碑も置かれています。江戸市中に張り巡らされた掘を通って、海からここまで大量の荷物が運び込まれていたとは驚きです。

牛込揚場

江戸時代には海からここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米・味噌・醤油・酒・材木などがこの岸で荷揚げされたので、この辺は揚場と呼ばれた。昭和四十七年(1972年)に都の市街地再開発事業として、ビル建設が決定され飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望から、ビルの西側に飯田壕の一部を復元すると共に、以前水面があったことにちなんで約230メートルのせせらぎを造った。外濠の水は、このせせらぎの地下水路を通って昔のとおり神田川に注いでいる。

絵に添えられた説明書き

牛込御門外北のかた船河原橋より、南のかた町武の第宅軒を並べ、東南のかたは御堀にて材木および米噌はさら也。酒醤油始め諸色を載てここに集へる。船丘をなせり。故に揚場の名は負けらし。これより四谷赤坂辺まで運送す。因てこの所の繁華山の手第一とせり。




さて、飯田橋電停はどこにあったのでしょうか?現在の飯田橋交差点は、首都高速の高架と目白通り・外堀通りに加え、交差点を一周する歩道橋によって複雑な構造になっています。なので、飯田橋交差点の手前辺りに都電3系統の電停があったのだろうと私なりに結論付けました。



ということで都電3系統跡を歩き終えたのですが、思いの外歴史的な名所・旧跡に出会えて面白かったです。次の路線ではどんな発見があるのでしょうか?




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