- 都電2系統跡コース(1)
- コース 踏破記
- 今日は都電2系統跡を歩きます。都電2系統は三田から曙町(現在、東洋大学が立地するあたりの旧町名)までを結び、その路線は主に日比谷通りと白山通りを通っていました。都心を南北に縦断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。
都電2系統
都電2系統の全長は9.3kmで、昭和42年12月10日に廃止となりました。
都電2系統の電停(路上の駅)は、三田・芝園橋・芝公園・御成門・田村町四丁目・田村町一丁目・内幸町・日比谷・馬場先門・和田倉門・大手町・神田橋・錦町河岸・一ツ橋・神保町・三崎町・水道橋・後楽園・春日町・初音町・小石川柳町・八千代町・指ヶ谷町・白山上・曙町でした。
さて、都電2系統の始点である三田電停はどこにあったのでしょうか?普通に考えれば、電車との接続が便利な三田駅前に電停を設置しますよね。でも、ネットにはそういった情報は見つかりません。ある記事では、かって都電の三田車庫があった跡地が港区勤労福祉会館と都営住宅になっているそうです。車庫から三田駅まで戻る訳はありませんから、車庫前が始点だったと考えられます。ということで、国道15号線(第一京浜)と日比谷通りの交点で、港区勤労福祉会館が面している芝五丁目交差点を都電2系統の始点と定めます。ちなみに、日比谷通りは港区芝五丁目交差点が起点になり、千代田区大手町一丁目に位置する神田橋が終点となります。
歩き始めると前方に特徴ある巨大なビルが目に飛び込んできます。NEC(日本電気)本社ビルです。平成二年(1990年)に完成した、高さ180メートル・地上43階・地下4階の高層ビルです。最大の特徴は、「風穴(ウインドアベニュー)」と呼ばれる巨大な開口部がビルの中層階に設けられていることで、建物周辺に吹き降ろしのビル風による風害を生じないように風下に風を逃す風穴としての役割を担っています。
芝園橋の先に芝公園の敷地が拡がっています。公園の中に港区の「ちぃまっぷ」が立っています。
芝地区ちぃまっぷ
芝東照宮
芝東照宮は、都の有形文化財である家康公の座像が安置されています。また、本殿の右手前には、徳川家光が植えたといわれる樹齢300年のイチョウの大木があります。
Shiba-toshogu
The sitting statue of Tokugawa leyasu (the first Shogun who established Edo regime) which is one of the tangible cultural properties of Tokyo is installed. A three hundred year-old big ginkgo tree said to be planted by Tokugawa lemitsu (the third Shogun) is located on the right front of the main shrine.
尾崎紅葉生誕の地
「金色夜叉」などの小説で有名な尾崎紅葉(本名徳太郎)は、慶應三年(1867年)12月16日芝中門前二丁目25番地(現芝大門2−7−4)で生まれました。「紅葉」とは増上寺境内の紅葉山からとって号したものです。
Birthplace of Ozaki Koyo (a famous novelist in Meiji period)
Ozaki Koyo (Ozaki Tokutaro in real name) who is famous with novels such as "Konjiki Yasha" in Meiji period was born on December 16, 1867 in 2-25, Shibanakamon-zen (present 2-7-4, Shibadaimon), His pen name Koyo (meaning autumn red leaves or maple trees) was named after "Momiji-yama (maple tree hill)" in Zojo-Ji Temple, a famous temple in the area.
平和の灯(区立芝公園)
子どもたちからアイディアを募集し、そこから得られたキーワードの「地球」「火」を活用し、「水と緑の地球に、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願う火が灯されている」様子を表現したものとなっています。
Light of Peace (Minato Public Shiba Park)
Minato City collected the ideas from children and picked up the key words, Earth and Fire. By using those key words, the light of peace expresses the state that the wish of ever lasting peace and diminish of nuclear weapon lightens the earth of water and green.
芝公園は日比谷通りを挟んだ反対側にも細長く延びています。その中に「松原の復元」と題した案内板が立っています。
松原の復元
芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原と呼ばれています。それは、寛永十七年(1640年)増上寺二十世大増正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百本松原と称したことによるとも伝えられています。松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変りました。ここは江戸時代の番所跡と伝えられ、土塁にはさまれた通路がカギ形をしています。都は園地改修にあたり原形を残すとともに往年の松原を偲ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。
直ぐ先にもうひとつの案内板が立っています。明治維新にあって、日本の初等教育の確立は重要な課題だったのでしょう。
旧跡 日本近代初等教育発祥の地(小学第一校・源流院跡)
わが国の近代初等教育は、明治五年(1872年)の学制発布に先立ち、同三年に東京府が府内の寺院を仮校舎として、六つの小学校を設立したことに始まり、その第一校は、六月十二日に開校した。第一校のおかれた源流院は、江戸時代初期からの増上寺子院で、当時、境内北辺の御成門東側のこの地にあった。大訓導(校長)村上珍休、教師、助教と生徒中の秀才が生徒を教えた。授業は主として句読(音読)・習字・算術で、生徒は八歳から十五歳までとし、机・硯・箱・弁当は各自持参した。この小学第一校は、明治四年に、西久保巴町(虎ノ門三丁目)へ移り、その後、校名も、第一大学区第二中学区第一番小学、鞆絵尋常高等小学校、鞆絵国民学校、鞆絵小学校などと変わった。
新橋四丁目交差点付近に「浅野内匠頭終焉之地」と彫られた石碑が立っています。江戸時代、この辺りは奥州一之関藩(岩手県)田村右京太夫の上屋敷がありました。内匠頭は江戸城松の廊下での刃傷沙汰があったその日の16時頃にこの屋敷に送られました。その1時間後 幕府の正検使役として庄田安利らが田村邸に到着し、出会いの間にて浅野内匠頭に切腹と改易を宣告します。浅野内匠頭が田村邸の庭先で切腹したのは刃傷事件のわずか7時間後のことでした。上野介を打ち取れなかった無念の思いを、辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」に託しています。
史蹟
舊(”旧”の旧字体)・田村右京太夫屋敷跡にして元禄十四年(辛巳三月十四日)に浅野内匠頭の自刃せし所なり
辞世
風さそふ
花よりもなほ
我はまた、春の名残を
如何にとやせん
日比谷通りが環状二号線と交差するところから虎ノ門ヒルズが眺められます。虎ノ門一帯には超高層ビルが続々と建てられていて、これから街の景観は一変することでしょう。
西新橋交差点の手前でド派手な装飾の海鮮居酒屋さんを見つけました。新宿の小滝橋通りで見かけたタカマル鮮魚店の系列のお店のようです。表から見たお店の造りがそっくりです。鮮魚も売っているとのことですが、店先にはお弁当やお握りや魚の惣菜が山盛りになって並べられています。「タカマル鮮魚店」を運営しているのは豊洲市場のまぐろの解体師だそうです。魚市場のことを知り尽くしているからこそ、高級鮮魚を卸売市場内の仲卸業者価格で提供できるのだとか。毎朝、豊洲で仕入れてきた魚介類を刺身・寿司・煮魚・焼き魚などさまざまなかたちで味わうことができます。お得なランチはもちろんのこと、日本酒や焼酎も30種類以上置いていて、なかでも秋田の銘酒「高清水」は樽酒で楽しめるので夜も周辺のオフィスのサラリーマンなどで大変賑わってみたいです。人気のメニューは「タカマル定食」で、ふたつの桶にそれぞれごはんと山盛りの刺身がドンと盛られて登場します。刺身の内容は日替わりでその時々の旬の魚介類を使用していますが、その新鮮さとひとつひとつの分厚さに驚く人も続出しているのだとか。これにあら汁までついて千円位というお値段です。昼も夜もとにかくボリューム満点で、「うにとイクラの巻物」などはもはや「ここは北海道か」と思わせる大盛りです。昼間っからお酒が飲めるので、ランチのサラリーマン諸氏の羨望の視線を気にしつつも昼飲みできます。
日比谷通りと外堀通りが交わる西新橋交差点角には、かって日石本館がその偉容を誇っていました。日本石油(のちの新日本石油、現在のENEOS)が本社を置いていた建物です。平成二十三年(2011年)から解体が始まり、3年後の平成二十六年(2014年)に現在の西新橋スクエアが完成しました。かっての日石本館の建物とは全く異なるデザインでありふれた普通のビルになってしまいましたが、高さが増した分建物の周りに公共スペースができて街の景観的には良くなりました。
内幸町交差点の角にはみずほ銀行の本店ビルが聳えています。入り口前は東京マラソンの給水ポイントにもなりましたね。紙コップに入れた水をテーブルから取るんですけど、走りながらでは一口飲むのが精一杯で残った水はコップもろとも回収容器に捨ててしまいました。ボランティアさんに申し訳なかったです。建物脇の半地下には宝籤売場がありますが、私はジャンボ宝くじで一回も当ったことはありません。
帝国ホテルと日比谷U−1ビルの境目の壁に「鹿鳴館跡」の碑が埋め込まれています。明治初期の外務大臣であった井上馨は、不平等条約の改正を早めるためには日本人が西欧文化を受け入れている様子を外国人に伝えることが必要だと考え、政府や貴族の社交場として鹿鳴館の建設を主張しました。イギリス人のジョサイア・コンドルが設計した鹿鳴館は、11,255平方メートルという広大な敷地を誇るレンガ造り二階建ての洋風建築として明治十六年(1883年)に完成しました。館内には、宴会場だけでなく洋式ホテルも併設されていたそうです。開館後は政府や貴族が外国の使臣(君主の代理または国家の代表として外国に派遣される使者で、大使・公使など)や紳商(教養・品位を備えた一流の商人)を招待し、連日のように園遊会や舞踏会・夜会・バザーなどの催しが開かれました。この華やかな生活が展開された時代は、後に「鹿鳴館時代」と称され、鹿鳴館を中心にした外交政策は「鹿鳴館外交」と呼ばれることになります。このような欧化主義が広まっていく一方で、自国民の文化や伝統を守りたいとする国粋主義の動きが盛んになり、条約改正反対に対しての熱が高まりました。その結果、井上馨の条約改正は失敗に終わり、鹿鳴館は明治二十七年(1894年)に華族会館として払い下げられることになります。その後、昭和二年(1927年)には現在の大和生命保険に売却され、昭和十五年(1940年)に建物は解体されました。
鹿鳴館跡
ここはもと薩摩の装束屋敷(琉球使節一行が将軍拝謁のため江戸にのぼった折に装束を整えるための屋敷)の跡であってその黒門は戦前まで国宝であった。この中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった。
帝国ホテル正面入り口の真ん前の歩道上に「農産陳列所・蚕病試験場跡」という案内板があります。ここは東京農工大の発祥地のひとつです。東京農工大は戦後の昭和二十四年(1949年)に東京農林専門学校と東京繊維専門学校が合併して新制大学として発足し、それぞれが農学部と繊維学部になりました。しかし、繊維学部の中心課題だった養蚕が日本では産業としては消滅状態になり、工学部となりました。しかしこれらふたつの学校は実はそのルーツを辿っていくと、明治七年(1874年)に今の新宿御苑に設置された内務省勧業寮内藤新宿出張所の農事修学場と蚕業試験掛に行き着きます。最初のルーツは同じ場所だったことになります。
農産陳列所・蚕病試験場跡
明治政府は農業振興のため明治七年(1874年)、内藤新宿勧業察出張所(現在の新宿区)に蚕業試験掛と農業博物館を設立しました。蚕業試験掛では蚕糸業の振興と蚕病研究を目的として試験や研究が行われ、博物館では農産物や農業関係の物品を収集・展示しました。明治十六年(1883年)、麹町区内山下町(現在地)に博物館の業務を継承する農産陳列所が設置され、その翌年に農商務省農務局の一分課として蚕病試験場が設置されました。陳列所では水陸の産物の他、関係の図書なども合めて5,000点近くが展示されていました。明治十九年(1886年)に北豊島郡滝野川村西ケ原(現在の東京都北区)へ移転して農務局蚕業試験場・東京高等蚕糸学校となり、研究が続けられました。さらに昭和十五年(1940年)、北多摩郡小金井町(現在の小金井市)へ移転し、戦後に東京農工大学繊維学部(現在の東京農工大学工学部)となり現在に至ります。
Remains of Agricultural Museum and Sericulture Laboratory
The Meiji government established a sericulture laboratory section and agricultural museum at the Naito Shinjuku Branch of the Division for the Promotion of Industry, (current-day Shinjuku City) in 1874 to stimulate agricultural industry. Experiments and research were conducted at the Sericulture Laboratory Section to stimulate the sericulture industry and to research silkworm diseases, while the museum collected and exhibited agricultural products and agriculture-related objects. In 1883, a new museum was established in then-Uchiyamashita-cho, Kojimachi-ku (current location with its address notation changed) to take over the work of the previous museum, and the next year the experimental station for silkworm diseases was established as a division of the Agriculture Administration Bureau in the Ministry of Agriculture and Commerce. The museum displayed nearly 5,000 items, including fisheries and agricultural products as well as related books, etc. In 1886, it moved to Nishigahara, Takinogawa-mura, Kitatoshima-gun (current-day Kita City, Tokyo) to become the Agriculture Administration Bureau's Experimental Station of Silkworm Diseases and Tokyo Imperial College of Sericulture, where the research continued. It moved again in 1940 to Koganei-machi, Tama-gun (current-day Koganei City), then after WWII, it became the Faculty of Textile in the Tokyo University of Agriculture and Technology (current-day Faculty of Engineering, Tokyo University of Agriculture and Technology) and continues to this day.
東京の御三家ホテルといえば、帝国ホテルとホテルオークラとニューオオタニですよね。最近の報道によりますと、ホテルオークラに次いで帝国ホテルも建て替えることになったようです。建て替えの対象となるのは、本館とタワー館と駐車場ビルで、新タワー館は2024年度から2030年度にかけて、新本館は2031年度から2036年度にかけて建て替え、それぞれオフィス・商業・サービスアパートメント・グランドホテルとして営業することになるそうです。尚、建て替え期間中もホテルの営業は継続するとのことです。帝国ホテルは、明治二十三年(1890年)に開業し、130年の歴史があります。これまでに数回の建て替えを行い、三代目の本館は竣工から50年を経過しているほか、1983年に開業したタワー館も竣工から38年を経過するなど、老朽化が進んでいます。帝国ホテルの建て替えといえば、(私は見たことはありませんが)フランク・ロイド・ライトが設計に携わったライト館が思い起こされます。大正十二年(1923年)7月に竣工しましたが、9月1日の開館式典の直前に関東大震災が発生しました。周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりする中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていたライト館はひときわ人々の目を引きました。昭和四十三年(1968年)に現在の新本館建設のため解体されましたが、震災にも空襲にも耐えたライト館の存続を訴える大規模な反対運動が起こりました。恐らく、今回の建て替えでは起きないでしょう。
東京宝塚劇場といえば、NHKの紅白歌合戦を思い出しますね。現在は、その跡地に二代目劇場を保有する東京宝塚ビルが建っています。屋上から延びる尖塔が象徴的ですね。
都電2系統は日比谷交差点を直進して更に日比谷通りを北上します。
日比谷交差点の先には、帝国劇場が入っているビルがあります。初代の建物は横河民輔の設計によるルネサンス建築様式の劇場として、明治四十四年(1911年)に竣工しました。現在の複合ビルディング形式のビルは谷口吉郎の設計で昭和四十一年(1966年)に落成しました。昭和四十四年(1969年)から昭和五十九年(1984年)までの歌謡曲全盛期には「日本レコード大賞」の発表会も行われました。
日比谷には真新しい高層巨大ビルが目立ちますが、東京ミッドタウン日比谷に続いて、旧富士ビルヂング・旧東京商工会議所ビル・旧東京會舘の3棟が一体で建て替えられた丸の内二重橋ビルも工事が完了しました。低層階には東京會舘丸の内本館が入居し、格調高い宴会場や結婚式場やレストランは健在です。また、日本外国特派員協会(プレスクラブ)も有楽町電機ビルから移転してきています。ビルの正面入口の右側には木製の重厚な扉があるのですが、中は何になっているのでしょうか?秘密の会員制クラブ?
馬場先門にやってきました。ここを右折すると鍛冶橋通りに繋がっています。寛永六年(1629年)に江戸城外堀に面して鍛冶橋門が築造され、門に附属する鍛冶橋は現在の丸の内二・三丁目と中央区の八重洲六丁目を結んでいました。「鍛冶」の名称は、外堀の門外の町名が南鍛冶町(現在の中央区八重洲二丁目・京橋二丁目)であったことに由来しているそうです。
和田倉門交差点にやってきました。東京駅丸の内中央口から皇居前内堀通りまでを結び和田倉門交差点で日比谷通りと十文字に交差する道路は、天皇が行幸するため東京駅までの移動に利用した道路であるところから行幸通り(「ぎょうこうどおり」または「みゆきどおり」)と呼ばれています。和田倉門交差点から東京駅前の東京駅中央口交差点までの区間は、正式には東京都道404号皇居前東京停車場線と呼ばれる特例都道となっています。幅員約74mというこの都道の内側の車線はふだん通行止めになっていますが、皇室行事と外国大使の信任状捧呈式の馬車列が東京駅がら皇居に向かうときだけ使われています。
和田倉噴水公園に繋がる和田倉橋の先に、最近建て替えられた銀行会館のビルがあります。ビル前の植樹スペースに設置された石碑の上にプレートが置かれています。前回の建て替えから30年も経っていないんですね。
東京銀行集会所(東京銀行協会ビルヂング)の原位置と部材保存について
東京銀行集会所は、大正五年(1916年)に竣工した横河工務所設計によるイギリスのヴィクトリアン・カントリーハウスのイメージをもつネオ・ルネッサンス・スタイルの建築(地下1階地上3階、レンガ造)でした。平成五年(1993年)には、外壁と内装の一部を保存しつつ東京銀行協会ビルヂングとして建て替えられました。その際、西面外観は一部に当初部材を再利用しながら再現され、南面外観は西面と調和するデザインがなされていました。今回の建て替え(2020年竣工)においては、当初の東京銀行集会所の原位置を外構舗装に示すとともに、西面2階のバルコニー手摺に使われていた石材と東京銀行協会ビルヂングの濃赤色タイルの一部を保存展示しました。
Tokyo Bankers' Association (Tokyo Ginko Shukaisho) was a Neo-Renaissance style building (1st basement / 3rd floor, brick construction) with the image of a Victorian Country House in the United Kingdom designed by Yokogawa Engineering Office completed in 1916 (Taisho 5). In 1993 (Heisei 5), it was rebuilt as a building of the Tokyo Bankers Association Building. At that time, the exterior of the west surface was partially reproduced by reusing the original materials, and the exterior of the south surface was designed in harmony with the west surface. In this rebuilding (completed in 2020), the original location of the Tokyo Bankers' Association (Tokyo Ginko Shukaisho) was shown on the exterior pavement, and we saved and exhibited a part of the stone used for the handrail on the second floor of the west side and part of the dark red tiles of the Tokyo Bankers Association Building.
その先に「日本歯科大学発祥の地」の石碑が立っています。日本歯科大学発祥の地って、高輪の伊皿子でも見かけたような。。。と思って調べてみましたら、伊皿子にあったのは「東京歯科大学発祥の地」の石碑でした。こちらにも我が国最初の歯科医学校と書いてあります。設立が明治二十三年(1890年)だそうですから、東京歯科大学の方が先かも。
日本歯科大学発祥の地
中原市五郎は、この地に、明治四十年(1907年)六月公立私立歯科医学校指定規則に基づく、わが国最初の歯科医学校として、私立共立歯科医学校を創立した。わが国の歯科医療は黎明期にあり、「学・技両善にして人格高尚なる歯科医師の養成」を建学の目的とした。国民の生命と健康を守るため。歯・顎・口腔の医学を教導し、数多くの歯科医師を輩出し、歯科医療の発展と患者の福祉に尽力した。明治四十二年に現在の千代田区富士見一丁目に移転し、日本歯科医学専門学校を経て昭和二十二年に日本歯科大学に昇格した。日本歯科大学は、私学として「自主独立」という建学の精神を継承し、生命歯学部と新潟生命歯学部の二学部をはじめ、大学院二、附属病院三、短期大学二、博物館一を有する世界最大の歯科大学となった。
大手町といえば、東京箱根間往復大学駅伝競走のスタート/ゴール地点にもなっている讀賣新聞本社ビルですね。建物の高さは200メートルで大手町タワーを上回り、大手町地域の最も高い建物になっています。讀賣新聞関係だけでなく、低層部には薬局・保育施設・多目的ホール・診療所などの施設が入居しています。一部はテナントフロアとして貸し出されているそうです。1階のエントランスには、横山大観の「霊峰富士」が展示されているそうですが、ちょっと入りずらいですね。
日本橋川に架かる神田橋手前に大手町川端緑道が新設されています。
日本橋川環境絵巻
大手町川端緑道は、UR都市機構が進める大手町土地区画整理事業(施行面積:約17.4ha)の一貫として、日本橋川沿いに整備された延長約780mの歩行者専用道です。ここでは親水空間を取り巻く4つの「環境」(自然・都市・歴史・生活)をキーワードとして快適な歩行空間の創出が図られています。「自然環境」の面では、皇居から隅田川を経由して東京湾へ至る水と緑のネットワークの一部となる緑量を確保し、また皇居やその周辺に生息する生き物の中から出現頻度の高いチョウ類や鳥類を誘致指標種に設定し、食餌植物を織り交ぜた植栽計画で歩行者専用道内への誘致を試みています。「都市環境」の面では、保水性舗装の導入や浸透桝の設置、ポールスポット灯による木漏れ日のような夜間照明などにより、光や陰・温度や湿度などが快適にコントロールされる空間づくりを試みました。「歴史環境」の面では、江戸小紋をモチーフにした石張舗装、江戸後期の地図と現在の地図を重ねて表示した案内サインなどにより、まちの地歴を景観要素として活用することを試みています。「生活環境」の面では、周辺のオフィス街の人々に安らぎを提供する場として、四季の季節変化が楽しめる植栽や昼食時にキッチンカーが進入できる空間の整備などを行っています。そして、これら4つの「環境」と歩行者専用道内で想定される様々なアクティビティをちりばめた街の風景を一幅の絵巻物「日本橋川環境絵巻」として紡ぎ出すことを目指しました。さらに、その絵巻物を緩やかに蛇行する敷地形状と立地特性をきっかけにして丁寧に「折り込む」ことで、総延長が長い歩行者専用道空間のアクセントとして、賑わい拠点となる十箇所の見所をしつらえました。また、事業区域内で先行して整備される歩行者専用道は、上位計画に基づく街づくり展開を地区全体へリレーするための基盤として、一貫した整備水準を持続する軸空間としての役割を果たしています。今後、歩行者専用道で試みた様々なデザインは、連歌のように各街区に引き継がれ、事業区域全体が仕上がっていくことになります。
<<写真多数のため、都電2系統跡コース(2)に続きます。>>
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