- 都電2系統跡コース(2)
- コース 踏破記
- <<都電2系統跡コース(1)の続きです>>
神田橋で日比谷通りは終点となり、神田橋交差点を左折して一ツ橋河岸交差点までは外堀通りを進みます。神田橋の名前は、かつてこの付近にあった神田明神に由来します。江戸城の増築により外神田に移転した神田明神跡には神田御門と土井大炊頭利位の屋敷が設けられました。寛永時代の地図では「大炊殿橋」の名前で記されています。神田橋から上野広小路を通り寛永寺へと通じる道は歴代の徳川将軍が寛永寺に参詣する際に通ることから「御成道」と呼ばれました。現在でも、天皇皇后が車で北関東方面に向かう際にここを通ることから、「御成道」の名が残っています。
神田橋交差点の次は錦町河岸(にしきちょうがし)交差点になります。交差点の直ぐ近くには日本橋川に架かる錦橋があり、神田錦町と皇居前方面を結んでいます。神田錦町の語源は、付近に一色姓の武家屋敷が2軒並んでいたことから「二色町」となり、それが転じて「錦町」になったといわれています。江戸時代中盤から明治初期にかけては、この錦町のあたりは通称「護持院ヶ原」と呼ばれた広大な火除地で、非常に寂しいところとして知られていました。
一ツ橋河岸交差点を右折して白山通りに入ります。
交差点の角には如水会館の建物があります。如水会館は、一橋大学の後援等を目的とする一般社団法人如水会(じょすいかい)が所有しています。「如水会」の名は、「礼記」の「君子交淡如水」(君子の交わりは淡きこと水の如し:才徳のある者の交際は水のようにさっぱりしており、濃密ではないが長続きする)に由来し、会員同士の良き交流が継続することを期して付けられました。命名者は大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、新一万円札の顔としても注目される渋沢栄一です。渋沢栄一は如水会の名誉社員にもなっています。
白山通りに面して「東京外国語学校発祥の地」の石碑が置かれています。
東京外国語学校発祥の地
東京外国語大学の起源は安政四年(1857年)に創設された藩所調所まで遡るが、直接の前身である東京外国語学校が開設されたのは明治六年(1873年)11月1日、この地(当時の東京府神田区一ツ橋通町一番地)においてであった。東京外国語大学はこの日を建学記念日として、ここに碑を建立する。
如水会館に隣接して共立女子学園があります。鳩山春子などの当時の教育者34人により、明治十九年(1886年)に「共立女子職業学校」という技芸学校として設立されました。共立女子学園の講堂(通称、神田共立講堂)では、著名人を招き講演などが行われています。また1970年代には日本のフォークシンガーの聖地とされ、ここでは吉田拓郎・かぐや姫・アリス・ガロなどがコンサートを開催しました。現在は学校関係者以外には貸し出していませんが、2009年7月20日、再結成したアリスが一夜限りのライブを行いました。
共立学園の向かいには学士会館の建物があります。一般社団法人学士会が運営し、旧帝国大学系大学の出身者等を主な会員とする大学の枠を超えた同窓会組織となっています。学士会は、明治十九年(1886年)に帝国大学(現在の東京大学)の卒業生の同窓会組織として創立されました。名称に「学士」とありますが、会が創立された当時は学士の称号を与えられたのは帝国大学の卒業生に限られたためです。学士会館の館内には、会議室・飲食店・美容院などの設備があります。現在の建物は1937年に竣工しました。斬新かつモダンで重厚な雰囲気は90年近くを経た今も大切に継承されており、平成十五年(2003年)に国の登録有形文化財となりました。ドラマ「半沢直樹」などのロケ地にもなっています。また、敷地内には「東京大学発祥の地」や「日本野球発祥の地」や「新島襄先生生誕の地」の記念碑があります。
学士会館の建物の前には、館内レストランの案内が掲示されています。学者の先生はグルメだといわれますが、メニューにもそれが表われているようです。
学士会館の脇に「我が国の大学発祥地」と書かれた石碑と、いわれを説明した巨大なプレートが置かれています。
我が国の大学発祥地
当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。すなわち、明治十年(1877年)四月十二日に神田錦町三丁目に在っに東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の四学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町三丁目の当地に設けられていた。明治十八年(1885年)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治十八年までに本郷への移転を完了した。徒って、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。明治十九年三月束京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の六分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。更に、明治三十年(1897年)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。爾後明治四十年に東北帝国大学、明治四十四年に九州帝国大学、大正七年に北海道帝国大学、昭和六年に大阪帝国大学、昭和十四年に名古星帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正十三年に京城帝国大学、昭和三年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。昭和二十二年(1947年)に至って、右の七帝国大学はそれぞれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。明治十九年七月創立の学士会は以上の九大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当っている。
学士会館の敷地の外れに「日本野球発祥の地」と題したモニュメントが置かれています。ボールを握った手は手首で途切れており、何か不気味な感じがします。
日本野球発祥の地
この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。明治五年(1872年)学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(1843年〜1927年)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌七三年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが「日本の野球の始まり」といわれている。1876年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、1871年九月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日。1877年7月に東京大学が発足した後に満期解約し帰国した。同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。2003年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。
The Birthplace of Baseball in Japan
Here in 1872 at the First Middle School of the First University District (which developed into Tokyo University in 1877), Horace Wilson, an American teacher, taught his students how to play baseball 1873, when it was re-named Kaisei Gakko and a playing ground was built, he reportedly enjoyed playing baseball with them. This is acknowledged as the beginning of baseball in Japan in 1876, they played a game with a foreign team comprised of Americans living in Tokyo snd Yokohama. Horace Wilson (1843-1927) was born in Gorham, Maine, in the U.S. After participating in tho Civil War as a volunteen, he made a teaching contract with the Japanese Goverment in San Francisco in 1871. He taught English and mathematics. His term of cotract was officially expired in July, 1877. In 2003, be was inducted into the Japanese Beseball Hall of Fame for his great contribution to Japanese baseball as the introducer of the game.
神保町はカレーの聖地であると共に、古本屋が立ち並ぶ街でもあります。神保町の旧町名の表猿楽町は、能楽の旧名称である猿楽に由来していたんですね。渋谷にも猿楽町という町名がありますが、これは古墳時代末期の円墳である猿楽塚に由来するのだそうです。もともと大小2基の塚があり、間を鎌倉街道が通っていました。大正時代に朝倉家がそのうちのひとつを打ち壊したところ武具が見つかり、その後当主と作業をした親方が奇病に取り付かれました。武具を埋め戻したところまもなく快復したことから、残された塚の上に猿楽神社が創建され、現在はヒルサイドテラス内に残っているとのことです。あんまり関係はありませんが。
千代田区町名由来板
(旧表猿楽町)神田神保町一丁目
神田神保町一丁目北部のうち、このあたりは、江戸時代には一橋通小川町と呼ばれ、東側は表猿楽町と呼ばれていました。「猿楽」とは能楽の古称です。高名な猿楽師であった観阿弥・世阿弥父子によって芸術性を高めた猿楽は、江戸幕府の「式楽」(儀式に用いる音楽・舞踊)に指定されました。それが、観世座・宝生座・金春座・金剛座、および喜多流の「四座一流」です。このうち観世座は、徳川家康と縁が深かったこともあり、筆頭の地位を得ていました。その家元観世太夫や一座の人々の屋敷がこの界隈にあったことから、「猿楽町」という町名が生まれたとされています。明治五年(1872年)、この一帯に猿楽町という町名が付けられました。当時、このほかに猿楽町一〜三丁目・裏猿楽町・中猿楽町という町名があり、現在の神田神保町一〜二丁目から西神田一〜二丁目まで、その趣のある名を冠した町が広がっていたのです。明治四十四年(1911年)、猿楽町はいったん表猿楽町となりましたが、関東大震災後の区画整理の際に、西神田一丁目と神保町一丁目に変わりました。神保町という町名は、江戸時代に神保長治という旗本が住んだことに由来しています。また、この区画整理で、町割も変わりました。道路を中心にしてその両側が町域になる、「両側町」という伝統的な方式が採用されました。そのため、靖国通りをはさんで南に奇数、北に偶数の番地が交互に振られているのです。
Kanda-Jimbocho 1-chome (formery Omote-Sarugakucho)
This area used to be known as Omote-Sarugakucho. "Sarugaku" is the name that was once used for Noh theater, one of Japan's traditional performing arts. The master and members of one of the famous schools of the art once had their residences in this area. Omote-Sarugakucho was later divided, and one section was renamed Jimbocho 1-chome, a name that derives from a well-known samurai who lived in the neighborhood.
神保町交差点の先に日本大学経済學部の校舎があります。何本か並んだ大きな柱にはプレートが埋込まれ、その中にアダム・スミスの肖像と著作である国富論について述べた彼の言葉(?)が併記されていました。何と書いてあるのかは読み取れませんでしたが。
白山通りが外堀通りと交差する水道橋交差点にやってきました。神田上水を歩いた時にも通りましたね。
水道橋
水道橋の名は、江戸名所図会によれば、この橋の少し下流にかけ樋があったことに由来します。
交差点の左手先には後楽園遊園地があります。コロナ禍は未だ収まりませんが、ジェットコースターからは悲鳴が聞こえてきます。ウイルスが飛び散らなければいいのですが。
交差点の右手先には東京工芸高校があります。都立高校にしては大きな校舎です。通常、工業高校は男子生徒の在籍率が高いのですが、ここはデザイン系の学科が多い関係上、在籍する生徒の約8割が女子生徒で占められているとのことです。卒業生には芸術関係の有名人が多いですね。東京工芸高校の裏手は高台になっていて、その上に桜蔭学園の校舎が建っています。中高一貫の女子校で、中学入試では女子学院中学校・雙葉中学校と共に「女子御三家」といわれています。
春日町交差点の先で行なわれている春日・後楽園駅前地区市街地再開発事業は竣工間近なようです。地上40階建ての高層ビルの巨大さには圧倒されます。ビルによる日陰の影響は出ないのでしょうか?
都電2系統電停にもあった指ケ谷町の町名は、現在では白山一丁目〜五丁目(三丁目は除く)になっています。家光の話はウソっぽいですね。
文京区 旧町名案内 旧指ケ谷町(昭和四十一年までの町名)
古くは、小石川村に属した。元和九年(1623年)伝通院領となった。寛永(1624年〜1644年)のころには、木立の茂った谷地であった。ある時、三代将軍家光が鷹狩に来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名ができたといわれる。ェ永十一年(1634年)町屋ができ、指ヶ谷一丁目・二丁目・指ヶ谷南片町と称した。明治二年、白山前町の内、千川屋敷・円乗寺・蓮華寺・浄雲寺・正福院などの門前を併せて指ヶ谷町とした。
白山通りは、白山下交差点で白山通りと旧白山通りに分岐します。旧白山通りは昭和五十九年(1984年)までは白山通りでしたが、現在の白山通りが名称を引き継いだために、白山下交差点から千石駅前交差点までの区間は旧白山通りと名称変更になりました。
旧白山通りは急な坂道になっていて、しかも坂の上で左に急カーブしています。おまけに道幅も狭く、都電の運転手は苦労されたことでしょう。
都電2系統の終点である旧曙町電停は現在の東洋大学の前にあったみたいです。巣鴨駅にも遠く、こんな中途半端なところを終点にしたのは何か理由があったのでしょうか?
ということで、都電2系統跡を歩き終えました。都心を通っていただけあって、新旧の見所が多かったですね。日比谷通りと白山通りはこの他の路線でも何回も歩くことになります。また新たな発見に出会えるといいのですが。
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