都電1系統跡コース(1)  

コース 踏破記  

「東京の河川を歩く」に引き続いて、「昭和の都電跡を歩く」シリーズを始めます。川の次のテーマは何にしようかと考えたのですが、ふと都電の跡を歩いたら面白いのではないかと思いつきました。現在、都内には荒川線(2017年4月28日に「東京さくらトラム」と名称変更になりました)の一系統しか都電は残っていません。では、いつまで都電が運行されていたかと調べてみましたら、昭和47年(1972年)に最後の都電が廃止されたのだそうです。その際、荒川線も廃止路線の対象になったそうですが、大部分の区間が専用軌道であったことと、存続を求める声が多かったことから廃止を免れて生きながらえたとのことです。今となっては昭和の面影を残す数少ない遺産となっています。では、都電にはどのような歴史があったのでしょうか?  

東京都電車は、東京都地方公営企業の設置等に関する条例及び東京都電車条例に基き、東京都(交通局)が経営する路面電車で、通称都電と呼ばれています。現在は、荒川区の三ノ輪橋停留場と新宿区の早稲田停留場を結ぶ総延長12.2kmの荒川線のみが運行されています。前身は明治十五年(1882年)に開業した東京馬車鉄道で、明治三十六年(1903年)から明治三十七年(1904年)にかけて同社が路線を電化して誕生した東京電車鉄道・新規開業の東京市街鉄道・東京電気鉄道の3社によって相次いで路面電車が建設されました。その後3社は明治四十二年(1909年)に合併して東京鉄道となり、さらに明治四十四年(1911年)に当時の東京市が同社を買収して東京市電となり、昭和十八年(1943年)の東京都制施行によって都電となりました。最盛期の昭和三十年(1955年)頃には営業キロが約213kmで、40の運転系統を擁し、一日約175万人が利用する日本最大の路面電車でしたが、その後のモータリゼーションの進展や帝都高速度交通営団(営団地下鉄:現在の東京メトロ)、東京都交通局の都営地下鉄の発達によって採算性が悪化していきました。昭和四十二年(1967年)に東京都交通局が財政再建団体に指定されると、再建策の一環として昭和四十七年(1972年)までに廃止されることになりましたが、昭和四十九年(1974年)に荒川線の恒久的な存続が決定し今日に至っています。  

ネット上には都電に関する多くのHPが開設されています。それらを参考にして「昭和の都電跡を歩く」に挑戦してみたいと思います。尚、掲載の順番は系統番号順となっていますが、実際には適当に系統を選んで歩いたので、前後で季節感とか歩いた際の感想に整合性がとれていないところもあります。さて、最初は都電1系統跡です。1系統の特徴をまとめてみました。  

都電1系統

都電1系統の全長は10.9kmで、昭和42年12月10日に廃止となりました。

都電1系統の電停(路上の駅)は、品川駅・高輪北町・泉岳寺・田町九丁目・札の辻・三田・東京港・金杉橋・大門・浜松町・新橋五丁目・新橋・銀座七丁目・銀座四丁目・銀座二丁目・京橋・通り三丁目・日本橋・室町一丁目・室町三丁目・今川橋・神田駅・須田町・万世橋・旅篭町・末広町・黒門町・広小路・上野公園・上野駅南口・上野駅でした。

東京市電は、明治後半期から昭和前半期までの帝都・東京における都市交通の花形でした。しかし、第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けた後、東京の戦後復興とともに復活し、東京市が東京都へ移行(実際の移行は昭和十八年(1943年)7月1日で、東京市は東京府と統合されて東京都となりました。【なんか、大阪の都構想を思わせます】)したのに付随して「都電」へ衣替えしました。それ以後1960年代半ば頃まで、東京の主要市街地に都電が縦横に走っていました。最盛期の路線系統は41本にも及び、なかでも栄えある「1系統」の名称が与えられていた銀座線(品川駅〜上野駅前:総延長10.9km)は都電を代表する花形路線でした。都電は、やがて高度経済成長時代の幕開けとともに訪れた自動車交通の急激な発展と入れ替わりに路面から姿を消していきました。そんな都電の往年の姿の名残は、今も唯一現役で運行されている都電荒川線からわずかに感じ取ることができます。そして都電銀座線が廃止されたのは昭和四十二年(1967年)12月10日のことでしたが、これが本格的な都電撤去計画の第一弾となりました。


さて、都電1系統の始点となる電停はどこにあったのでしょうか?都電1系統は国道15号線(第一京浜)上にレールが敷設されていたので、品川駅高輪口の周辺を見渡してみます。すると、都バスの品川折返所がある京急EXホテル品川(通称:SHINAGAWA GOOS)前辺りに都電が停まれそうなスペースがあります。都電3・7系統跡を歩いた時はそこが始点だと思っていたのですが、品川駅に行くには国道を渡らないといけないので不便ですよね。その後ネット上に掲載されていた当時の写真を見ますと、品川駅高輪口の前のタクシー乗り場の先の国道上に電停があったように見えます。ここなら品川駅に行くのに国道を渡らなくてもいいので便利ですね。



今日は新橋方向に向って国道15号線の左側の歩道を歩きます。何系統かの都電が重なっていた道路では左側と右側の歩道を交互に歩くと、案内板とか見所が漏れなくカバーできます。最初に見かけたのは「桂坂」と書かれた標柱です。東京には坂が多いのですが、坂の名前にはいろんな由来があります。「かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したから」?ホントかなぁ。

桂坂

かつらざか
むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう。




歩道の脇に猫の額ほどの広場があり、石垣と共に案内板が置いてあります。昔はここまで海が迫っていたんですね。

高輪海岸の石垣石

ここに展示されている石は、江戸時代に高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。平成七年(1995年)、高輪二丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。石垣には、主に相模湾岸から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。発掘調査では三段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積みなおされたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。三段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。




港区では、昔の町名を解説した案内板をあちこちに設置しています。高輪といえば高級住宅地の代名詞のような感じですが、元々は「高台にある縄手道(畦道)」に由来しているそうです。

港区旧町名由来板

高輪

この地は海より眺めて高台の縄手道(であったこと)から「高縄手」と称されていましたが、転じて「高縄」から 「高輪」となりました。古くから海沿いに人家が点在していましたが、江戸初期に幕府が参勤交代のために東海道を整備し、これにより街道沿いに町が広がっていきました。この地域には、高輪大木戸・願生寺・泉岳寺・東禅寺など多くの名跡があります。

Takanawa

This area used to be called Taka-nawate because it was located on a height ("taka") and was running along the "nawate-michi" road. The name Taka-nawate was later shifted to Takanawa. The area was developed early in the Edo era as the Tokaido Highway was improved and maintained. There are several famous sightseeing spots in the area: Takanawa-okido Gate, Ganshoji Temple, Sengakuji Temple, Tozenji Temple, and others.

芝車町

旧江戸の入口のこの地は、江戸初期には下高輪村と呼ばれていました。寛永十一年(1634年)京都の牛持たち(牛車運搬業者)が召し寄せられ、増上寺安国殿普請などで石材の運搬を勤めていました。市ヶ谷辺りの牛小屋に住んでいた牛持たちは御用が済んだ後も帰郷はかなわず、寛永十六年(1639年)三代将軍徳川家光の意向により、諸国から船で届いた荷を運ぶのに都合のよい土地を与えられ移り住んで来たことにより、高輪海辺四町余を車町と唱えるようになりました。明治二年(1869年)頃にはまだ牛小屋が数軒残っていたため通称 [牛町] とも言われ、「高輪牛町十八町、牛の小便長いネ〜」などと童子が唄いながら遊んでいたのもこの頃のことです。

Shiba kuruma-cho

This town area belonged to a village called Shimo-takanawa-mura early in the Edo era. In the 11th year of Kan'ei era (1634) cow carriage drivers were gathered from Kyoto in order to transport stone used for the construction of the Ankokuden Hall of Zojoji Temple. After the construction, however, they were not allowed to go back. Instead, in the 16th year of Kan'ei era (1639) they were ordered, by lemitsu Tokugawa, the third Shogun of the Tokugawa line, to engage in transporting cargoes. So the carriage drivers stayed in the area, therefore the town got its name Kuruma-cho (kuruma meaning "carriages"). Several cow sheds are said to have seen here around the 2nd year of Meiji era (1869).

芝高輪北町

古くは荏原郡下高輪村のうちで、人家は少なく海辺の縄手でしたが、江戸時代に入り街道が整備されて、高輪大木戸から品川宿までの十八町の間は引手茶屋などで賑わっていました。中町・南町に対して北に位置していることから高輪北町と唱え、正徳三年(1713年)町奉行支配となりました。東海道から少し山手に入ると、北町の横に高輪北横町があり、武家屋敷や寺社の地となっていました。明治二年(1869年)に高輪北横町と高輪常光寺門前、明治五年(1872年)には武家地・寺社地を合併しています。

Shiba'takanawa' kita-machi

This town area once belonged to a sparsely populated village called Shimo-takanawa-mura. In the Edo era, however, it developed into a busy town when the near-by highway was improved. Located on the north of Naka-machi (meaning "center town") and Minami-machi (meaning "south town"), it was called Takanawa-kita-machi (meaning "Takanawa north town") and was governed by a town magistrate in the 3rd year of Shotoku era (1713). Adjacent towns including Takanawa-kitayoko-cho were united with this town in the 2nd year of Meiji era (1869) and surrounding samurai estates or temple territories three years later.




国道15号線の右手(海側)に真新しい高輪ゲートウエイ駅の駅舎が見えます。山手線では、昭和四十六年(1971年)に開業した西日暮里駅以来の新駅です。駅舎のデザインは建築家の隈研吾氏が担当し、「和(日本)」をイメージして木材を多用したものとなっています。駅舎に入ったことは未だありませんが、いくつか先進的な試みがなされているとのことです。



歩道脇から延びる参道の奥に立派な社が見えます。高輪神社は明応年間(1492年〜1501年)に稲荷神社として創建され、高輪村一円の総鎮守社として崇敬を集めました。「稲荷社」とも「高輪稲荷」とも称され、境内社には聖徳太子を祀る「太子宮」も鎮座しています。昭和四年(1929年)に稲荷神社から高輪神社に改称し、現在の社殿は昭和五十五年(1980年)に造営されました。都営浅草線沿線の八社による「東京福めぐり」の一社にもなっています。令和二年(2020年)に開業した高輪ゲートウェイ駅は高輪神社の氏子地域で、東京五輪に合わせて再開発される一帯の守り神としても信仰を集めています。



APAホテルは都内あちこちで見かけますが、このアパホテル品川泉岳寺駅前はなんか活気がみられません。現在は一般客の宿泊を停止しているそうです。



国道の反対側(海側)に高輪大木戸跡の土塁が見えます。大木戸とは、江戸時代に街道上の江戸内外の境界に設置された簡易な関所です。人間や物品の出入りを管理するのが目的でした。木戸は江戸市中の町境などにあった防衛・防犯用の木製の扉で、その大規模なものが大木戸と呼ばれていました。

高輪大木戸跡

宝永七年(1710年)、東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡です。元和二年(1616年)に札の辻に芝口門と高札場が設けられましたが、その後現在の場所に移転し、大木戸となりました。芝口門のあった場所は元札ノ辻と呼ばれ、最初は街道の両側に築かれた幅約20メートルの土塁の間に木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて治安の維持と交通規制の役割を果たしました。現在は、長さ五間(9メートル)、幅四間(7.2メートル)、高さ一丈(3メートル)の石垣が片方のみ国道15号(第一京浜)の海側に保存されています。幕末期には伊能忠敬がここを全国測量の基点としたとされます。




三田地区に入り、歩道脇から長く続く参道の先の階段の上に御田八幡神社が鎮座しています。約1300年の歴史を誇る古社です。勝運の神と出世の神が祀られ、企業戦士に御利益のある神社とのことです。氏子にはそうそうたる企業や、「世界一家 人類兄弟」の座右の銘で知られるかってのモーターボート業界のドンの名前も連なっています。なお、御田とは三田の旧名です。



札の辻交差点の脇に、「札の辻」の名前の由来を解説した案内板が立っています。

札の辻

江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられて布告法令などが掲示されたところから、札の辻と呼ぶようになりました。元和二年(1616年)には、芝口門をここに建てて、江戸正面入口としての形式を整えました。この門は「日暮御門」といわれましたが、これはこの東がすぐ江戸湾に接し、海を隔てて房総の山々を望む、一日眺めてもあきない景色であったためといわれます。その後高札場は、天和三年(1683年)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されました。また、宝永七年(1710年)に、芝口門は新橋北側に建替えられ、ここは「元札の辻」と呼ぶようになりましたが、明治維新後はまた「元」を略して「札の辻」と呼んでいます。




その横に芝地区の旧町名を解説した案内板も立っています。

芝地区旧町名由来板

横新町

むかしは荏原郡上高輪村と呼ばれていました。町の起立の年代は不明ですが、田町大通りに町屋が起立した後に家が建ちはじめ、通新町の横町にあたるので横新町と呼ばれるようになりました。町屋となった後もしばらく代官支配が続きましたが、寛文二年(1662年)に町奉行支配となりました。

Yokoshin-cho

This area was called Kamitakanawa-mura (village) in the Ebara district in old times. It is unknown when the town was established, but it is said that houses were constructed after a trademan's house appeared along the Tamachi-odori (main street). The town was located at the bystreet (yoko-cho) connected to Torishin-machi and therefore got the name Yokoshin-cho.

通新町

むかしは荏原郡上高輪村と呼ばれていました。江戸時代のはじめに町家が建ちはじめ、町となった後も代官支配が続きましたが、寛文二年(1662年)、町奉行支配となりました。三田通りが町の南北を貫き、田町開設の後に新たに開けた町であることから、通新町と称されるようになったと伝えられています。明治五年(1872年)、久留島安房守上屋敷および付近の土地を合併して、通新町となりました。

Torishin-machi

This area was called Kamitakanawa-mura (village) in the Ebara district in old times. Trademen's houses came to appear early in the Edo period, and then the town fell within the jurisdiction of a town magistrate in the 2nd year of the Kanbun period (1662). With the Mita-dori street running from north to south of this newly established town, it was named Tori-shin-machi (literally"street-new-town").

田町

むかしは荏原郡上高輪村と呼ばれていました。芝浦の渚に近い田畑が町家と変わっていったので芝田町と称されるようになりました。寛文二年(1662年)、町奉行支配となって一丁目から九丁目に分けられ、安永五年(1776年)には海を埋め立てて町域を拡げました。明治五年(1872年)、武家屋敷だったところや寺社地を合併しました。江戸の頃は、東海道を行き来する人々でにぎわい、諸大名の浜屋敷が多くあったところです。

Tamachi

This area was called Kamitakanawa-mura (village) in the Ebara district in old times. As fields near the Shibaura beach changed over to a residential area for trademen, the town came to be called Shiba-tamachi. In the 5th year of the An'ei period (1776) its area was spread by recovering land from the sea. During the Edo period the town was alive with much traffic on the Tokaido highway and many seashore villas of daimyos were built.




国道15号と三田通りが交差する札の辻交差点の角地に、総工費1620億円を投じて進める再開発事業が2018年から本格的に始まりました。計画では、核となる複合ビルはエリア最高の高さ215メートル、その他にマンションなどの住宅棟が2棟ともうひとつの複合棟の計4棟が建設されるとのことです。全体の延べ床面積は22万5500平方メートルにもなります。三田地区の新しいランドマークになることでしょう。



港区では、旧町名の案内板の他に、エリアの地図に名所・旧跡などの情報を付加した「ちぃまっぷ」という案内板もあちこちに設置されています。こちらは観光案内板のような感じです。

芝地区ちぃまっぷ

西郷南州 勝海舟会見地

碑には「江戸開城 西郷南州 勝海舟会見之地西郷吉之助書」とあります。慶応四年(1868年)薩摩藩蔵屋敷にて、江戸城無血開城へむけての2回目の会見が行われたと言われています。

Meeting place of Saigo Nanshu and Katsu Kaishu

It is written that "the place where Saigo Nanshu and Katsu Kaishu had a meeting to surrender the Edo Castle enscribed by Saigo Kichino-suke" on the monument. It is said that the second meeting to surrender the Edo Castle without bloodshed was held at the warehouse of Satsuma-han (Satsuma feudal clan) in 1868.

雑魚場跡(本芝公園内)

本芝公園は、江戸時代には東京湾でとれた小魚を水揚げした場所で、雑魚場(ざこば)といわれていました。水揚げされた魚は「芝肴」と称せられ、江戸の人々に賞味されました。

Former Zakoba (Landing point of small fish) (Honshiba Park)

Honshiba Park was called "Zakoba", where fishermen land the small fish in Tokyo Bay in Edo period. The small fish landed were called "Shiba Zakana" (Fish of Shiba) and appreciated by the people in Edo.




ちぃまっぷにも載っていた「西郷南州 勝海舟会見地」のモニュメントは、日比谷通りの起点である芝五丁目交差点角のビル前に置いてあったのですが、現在はビルが建て替え工事中のために別の場所で保管されているとのことです。代わりに、そのコピーが工事用の壁に貼られています。なかなか良心的な処置ですね。

江戸開城
西郷南州
勝海舟
會見之地


慶應四年三月十四日
此地薩摩邸に於て西郷・勝両雄會見し、江戸開城の圓満解決を図り、百萬の民を戦火より救ひたるは其の功誠に大なり。平和を愛する吾町民深く感銘し、以て之を奉賛す。

田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内

この敷地は、明治維新前夜慶応四年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。現在は、鉄道も敷かれ(明治五年)、更に理め立てられて海までは遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。




芝四丁目交差点から旧海岸通りが延びています。トレンディなテレビドラマの舞台にも度々登場した道路です。都会的でお洒落な響きですが、実際のところはどうなんでしょう?



また別の「芝地区ちぃまっぷ」が立っています。篤姫は薩摩藩一門の家に生れたんですね。NHK大河ドラマ「青天を衝け」にも登場するそうですが、篤姫を演じるのは鹿児島出身の上白石萌音さんです。私は名前が似ているので、今まで乃木坂46のメンバーだった白石麻衣さんと混同していました。

芝地区ちぃまっぷ

七曲がり

篤姫が江戸にやってきて最初にくらしたという薩摩藩上屋敷。カクカクと曲がっている「七曲がり」の形状は当時の上屋敷と西應寺との境の記憶を現在にとどめています。

Nana-magari (Seven corners)

The residence of Satsuma-han (Satsuma feudal clan) in which Atsu-hime (Prince Atsu), the wife of the 13th Shogun Tokugawa lesada, lived when she first came to Edo. The shape of Nana-magari (seven corners) remains the memory of the border between the former residence of Satsuma-han and the Saio-ji Temple.

オランダ公使宿館跡(西應寺)

安政五年(1858年)、幕府とオランダとの間に結ばれた日蘭修好通商条約によって、最初のオランダ公使宿館が西應寺に設置されました。しかし慶応三年(1867年)の薩摩屋敷焼打ち事件の際に一緒に全焼し、貴重な記録も失われてしまいました。

The place where the official accommodation for the first legation of the Netherlands was located (Saio-ji Temple)

As the result of the Treaty of Amity and Commerce between Japan and the Netherlands, the first official accommodation for the minister and the legation was placed in the Saio-ji Temple. All the valuable records, however, were burned completely when the premises of Satsuma-han (Satsuma feudal clan) was attacked in 1867.




またまた芝地区旧町名の由来を解説した案内板が立っています。ちょっとマイナーな町名ですね。

芝地区旧町名由来板

湊町

寛文七年(1667年)、金杉橋の北側に多門を建設するため公用地となり土手を築きましたが、元禄九年(1696年)、多門建設計画の中止と共にこれを取り払い、その跡地は幕府御坊主の拝領町屋敷に下され、一時は同朋町と呼ばれました(当時、幕府御坊主を同朋と称した)。宝永年間(1704年〜1711年)以降、隣町の金杉同朋町をはじめ各所に同朋町があったので、海浜に接することから芝湊町と改称しました。また、俗に金杉川汐入の口にあるので潮尻とも称されました。

Minato-cho

This town site was seized by authority in the 7th year of the Kanbun period (1667), and thereafter became the residence for Bakufu Obozu (generally called D0b0; tonsured waiters with the duty to serve tea in the castle). Therefore the town would generally be called Dobo-cho. In the Hoei period (1704-1711) it was renamed Shibaminato-cho after its location near the sea (minato meaning "harbor") in order to be distinguished from other Dobo-choes that existed in several places.

土手跡町

将監橋と金杉橋との間、金杉川の北側に沿ったごく小域の町です。寛文七年(1667年)、金杉橋の北側に多門が建てられることになり、同年、芝浜松町四丁目・芝中門前三丁目・芝片門前二丁目の南の地先に土手ができました。その後、多門建設計画の中止に伴い、貞享二年(1685年)、土手は取り払いとなって、その跡地へ町屋を開設し、土手跡町と唱えるに至ったと伝えられています。

Doteato-cho

In the 7th year of the Kanbun period (1667) a scheme of building Tamon gate on the north side of the Kanasugibashi bridge was made, and a bank was built for a future gate. Thereafter the scheme was suspended and then in the 2nd year of the Jokyo period (1685) the bank was cleared away. It is said that trademen's houses were constructed at the bank site that where to develop into this town named Doteato-cho (doteato meaning "bank site").

新網町

むかしは芝浦と唱えた土地の一部で、漁業の盛んな地域でした。寛永三年(1626年)より、ここから幕府に白魚を献上したので、その褒美として同七年(1630年)、名主惣十郎の先祖伝右衛門を召し出し、海岸の百間四方の地を網干場に与えられました。同十一年(1634年)、町奉行に漁夫の住居にすることを願い出て市街地となり、網干場に与えられた地所なので新網町と称するようになりました。

Shin'ami-cho

Fishery was extensively carried out in this area. The fishermen had presented icefish to the shogunate government since the 3rd year of the Kan'ei period (1626), and consequently they were given an area of 3.3 square kilometers for drying nets as a reward in the 7th year of the same period (1630). Thereafter they were allowed to live in the area which eventually developed into this town, named Shin'ami-cho, meaning literally "new-net-town", because the land was originally given for drying nets.




浜松町にある芝エクセレントビル前で、「濱松町 町名の由来」という文字が剥げかかった案内板を見かけました。ふ〜〜〜ん、浜松町という地名は浜松市から由来したものですかぁ。

濱松町 町名の由来

武蔵野の東南端、広く海に面したこの辺りは、その天然資源も豊かなる為、古くより人間生活が営まれ、古墳時代の遺跡として今も芝公園台上に残る、大古墳跡に見られる如く集落を形成。漁業を中心とする活動が盛んであったと思われ、その関係か古く由緒ある社寺(芝大神宮等)が近隣に現存する。その後乱世を向かえ太田道灌、平川城(江戸城の前身)を築く頃には、町らしき形態に成長したと考えられ、天正十八年(1590年)徳川家康の江戸城入場を見、城下町計画に着手。慶長三年(1598年)その菩提寺増上寺を麹町より現在地に移転、更に武家を中心に町年寄・特権商人・地元住民による東側海浜地帯の埋立工事完成。慶長六年(1603年)東海道を現国道15号線上に定め、此の東西両側には日常生活用品から産業用資材まで各種商人が軒を連ね商業地域の中心となり、その両後背に大名屋敷が並ぶ江戸の町が出現した。当時此の町は増上寺代官と兼任であった。名主奥住久右衛門の支配下で、「久右衛門町」と呼ばれ、元禄年間には遠江(静岡県)浜松出身の権兵衛と言ふ名主と交替した事より、これ以後「濱松町」に改名され、明治・大正・昭和・平成と受継がれ現在に続いている。江戸では歴史のある数少ない「古町」のひとつである。尚、当町内には多くの史跡・旧跡(慶応義塾跡・新銭座跡・東京市電車庫第一号跡等)が点在している。




新橋駅手前に環二通り(環状二号線)が国道15号線と交差しています。90年以上も前に計画された道路ですが、全線の開通(暫定ですが)は2014年のことです。このうち、新橋〜虎ノ門間は「新虎通り」とも呼ばれますが、この区間はかって「マッカーサー道路」とも呼ばれていました。現在は沿道が整備中ですが、将来的にはパリのシャンゼリゼ通りのようなお洒落な街作りを目指しているのだそうです。本当にそうなるのかは分りませんが。



交差点の角地に真新しい朱色の鳥居が印象的な日比谷神社が鎮座しています。元々は現在の日比谷公園内の大塚山に鎮座していましたが、慶長年間の江戸城の拡張に当たり、氏子とともに芝口(現在の東新橋)に移され、明治時代に鉄道(東海道線)の敷設に当たり新橋四丁目に遷座しました。その境内地全域が計画道路の予定地にかかっていたことから、平成二十一年(2009年)7月31日に東新橋二丁目の国道15号線沿いに遷座しました。別名を「鯖稲荷」といい、元々は大塚山にあった頃、苦しむ旅人達に社務所を開放して無病息災の祈願を受けさせたところ霊験があったことから、「旅泊(さば)稲荷明神」と呼ばれていました。新橋移転以降は「鯖」の字を当てた鯖稲荷となり、虫歯に苦しむ人が鯖を断って祈願すると霊験があるとされ、成就すると鯖を奉納する習わしでした。「旅泊」とおう文字に「サバ」というルビが振ってあったことから、鯖に転じたとのことですが、「旅泊」はどうサバを読んでも鯖にはなりませんよね。



新橋にやってきました。国道の上にはゆりかもめ線の駅舎が道路を跨いでいます。汐留地区との連絡橋の役割も果たしています。その先の新橋交差点で国道15号第一京浜は国道15号中央通りに名前を変えます。花の銀座の始まりです。



かって汐留川が流れていた跡地に造られた東京高速道路の高架手前に広場があり、銀座柳の石碑が置かれていて、西条八十作詞・中山晋平作曲の「銀座の柳」の歌碑が刻まれています。明治二十年頃に街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となりました。その柳を歌ったこの歌は全国を風麗し、これを記念して昭和二十九年4月1日にこの歌碑が建立されました。

銀座柳の碑

植えてうれしい銀座の柳
江戸の名残りのうすみどり
吹けよ春風紅傘日傘
今日もくるくる人通り




広場には、かって汐留川に架かり地名の由来ともなった新橋の親柱も保存されています。

新橋親柱

新橋親柱は、かつて新橋と銀座の間を流れていた汐留川に架けられていた橋で、昭和三十八年(1963年)、川の埋め立て工事とともになくなりました。現存する新橋親柱は、大正十四年(1925年)に、長さ20m・幅27mの鉄筋コンクリートで作られた橋の一部です。地域名の由来を今に残す貴重な遺構です。

Minato City Cultural Asset Pillar of the Shinbashi Bridge

This cultural asset is a pillar of Shinbashi Bridge. This area is called Shimbashi, which is the origin of this bridge. With the urban development of the Tokyo-Olympics held in 1964, the river was buried and the bridge disappeared.




銀座八丁目の中央通りに面した敷地に、地上12階建ての耐火木造ビルが建設されています。完成は2021年秋の予定で、高さ約56m、延べ面積2451uの商業テナントビルになります。耐火木造で12階建ての商業施設は日本初とのことです。デザイン監修は高輪ゲ−トウエイ駅を手がけた隈研吾氏が担っています。銀座に木造の高層ビルとは素敵ですね。



銀座でビアホールといえば、銀座ライオンですね。ビールの本場ドイツ流のホールには格調高い雰囲気があります。お店の前にビアホールの歴史が解説してあります。

生ビールの殿堂としての風格

この建物は、昭和九年、当時の大日本麦酒株式会社の本社社屋として新築され1階でビヤホールを開店しました。建築設計者は、新橋演舞場などを設計した菅原栄蔵氏で、1階の内装は、直営ビヤホールということで特に力を入れて、独特の工夫をこらし、完成時には、建築の専門家を含めて多くの人々から絶大な称賛を受けました。壁面と柱に使用した2種類の色タイルは当時類例を見ないものであり、カウンター周りは、ドイツから輸入した大理石が使われています。正面と左右壁画には、初めて我が国でつくられたガラスモザイクの壁画を大小10面取り付けました。正面の大壁画は、タテ2.75m・ヨコ5.75m、約250色のガラスモザイクが使われています。ひとつひとつの小さなガラスモザイクの制作は、色調を整えるのに苦心をし、数百回の工程を経て約3年の日時を費やしたと言わ れています。この壁面に描かれているものは、ビール麦の収穫をする婦人たち、幸せの象徴であるアカンサスの花、そして遠くに見える煙突は当時の恵比寿ビール工場であると語られており、古代と現代を織り交ぜた、不思議かつ大変縁起の良い作品と言われています。戦後、約6年間米軍に接収され、米軍専用ビヤホールとして使用されましたが、昭和二十七年1月接収解除となり、再び庶民に愛されるビヤホールとして営業を再開しました。

This building was built in 1934. This beer hall was designed by Mr.Eizou Sugawara who was one of the best architects in Japan and it took three years to finish its construction. Colored tiles used for the walls and pillars were innovative in those days and marble imported from Germany was used for the counter. Ten wall paintings on both sides and the large painting in the front, for which glass mosaic tiles were used, were made after much trial and error. This beer hall, which has preserved the interior decoration of those days, has come to be loved as a symbol of "beer culture". This building was taken over by U.S. Army for 6 years and used as a designated beer hall for them until 1952. After the release, it restarted as a beer hall loved by all common people.




旧松坂屋が建っていた敷地が再開発され、新しい商業施設のGINZA−SIXが誕生しました。オープン時に買い物ではなく見物に行ったのですが、あまりの豪華さに圧倒されました。屋上の遊歩道を備えたテラスからの銀座の街の眺めは格別です。



GINZA−SIXの前の歩道上に「商法講習所碑」と書かれた小さな石碑が置かれています。一橋大学の前身である商法講習所は明治八年9月、森有礼の私塾という形で渋沢栄一と福沢諭吉らが力を合わせて始めたもので、当初は現在のGINZA−SIXの近くの銀座尾張町にありました。

商法講習所

明治八年(1875年)この地に
商法講習所を開設す
これ現在の一橋大学の発端なり
昭和50年9月24日
百年記念に当り
一橋大学之を建つ




花の銀座四丁目交差点にやってきました。晴海通りを境に京橋寄りの北側一帯が「銀座四丁目」にあたり、交差点の名称はこれに由来しています。晴海通りの新橋寄りの南側一帯は「銀座五丁目」となり、旧町名は「尾張町」でした。銀座四丁目交差点は、江戸時代は「尾張町四ツ辻」、昭和初期までは「尾張町交差点」と呼ばれていました。交差点を取り囲みように三越・和光本館・三愛ビル・銀座プレイスが建っています。



銀座プレイスの1階は日産自動車のショールームになっていて、常にコンセプトカーも含めて最先端の車が展示されています。この日の展示車は「NISSAN GT−R 50 by Italdesign」というテストカーです。GT−Rは私も知っていますが、「Italdesign」って何でしょうか?帰ってからネットで調べてみましたら、イタリアのカーデザイン会社の名前のようです。

イタルデザインは主に自動車のデザインや開発を手がける会社として、イタリアの工業デザイナーであるジョルジェット・ジウジアーロと技術者のアルド・マントヴァーニによって1968年に設立されました。現在は、自動車のデザイン・コンセプト策定・設計・プロトタイプ(試作車)の製作・テスト・チューニング・コンサルタントなど、自動車メーカーと協力しながら車両開発のあらゆる段階に関わるサービスを提供しています。これまで、スポーツカーだけでなくセダンやコンパクトカーやSUVなどあらゆるジャンルの開発を行い、イタリアならではのデザインセンスと機能性を両立させた魅力的なモデルを数多く誕生させてきました。その一方で、自動車新興国の中国やマレーシアのメーカーの自動車開発も手がけています。この車は「50」という数字のとおり、今年がイタルデザイン誕生から50周年、そして来年はスカイラインGT−Rの誕生から50周年ということを記念して誕生した特別なコラボモデルです。日産GT−R NISMOをベースに、イタルデザインが開発・設計・製造を担当し、外装・内装デザインは、日産デザインセンターが担当しています。基本的なシルエットはGT−Rと同じですが、鋭いラインのLEDヘッドライトや張り出したフロントグリル、低くなったルーフ、昇降式のリアスポイラー、そしてGT−Rらしく丸型ながらも空洞をLEDで囲む、まるでジェットエンジンの出口のようなデザインのテールライトがただならぬ雰囲気を醸し出しています。ボディカラーは、リキッドキネティックグレイという専用色で、フロントグリルやリアエンドまわりはエナジティックシグマゴールドという鈍い輝きの金色がアクセントに使われています。インテリアもベーシックなGT−Rと雰囲気が異なり、カーボンファイバーや黒のイタリアンレザーを基調に、ゴールドのアクセントが施されています。エンジンは、3.8L V6ツインターボがニスモ(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル株式会社:日産自動車の連結子会社でモータースポーツ向け自動車部品の設計・製造・販売・レースへの参画などを行う会社)の手作業により組み立てられ、最高出力は530kW(720ps)、最大トルクは780Nmとなり、ベースモデルに比べて大幅にスペックが向上しています。このビッグパワーに対応するため、新たなサスペンションとブレーキが採用されています。GT−R 50は、50台限定で販売される可能性があり、価格は90万ユーロ(約1億1700万円)からと予想されています。



銀座通り(中央通り)に面して沢山の有名店が建ち並んでいますが、ミキモトもそのひとつです。お店の前にはミキモトの創業者である御木本幸吉翁の記念碑が立っています。ショーウインドウに飾られた真珠の首飾りは高貴なご婦人方を魅了していることでしょう。

真珠王記念碑 銀座文化碑

御木本幸吉翁は本年九十五歳養殖真珠の創始者で真珠王の名は全世界に及んでいる當處南北十間の地は翁の店舗の場所である




ミキモトの隣はフレンチのレカンのお店になっています。隣といっても、お店はミキモトビルの地下にあります。ミキモトビルの建替えによって一時閉店していましたが、2017年に再オープンしました。お料理もさることながら、ワインの品揃えも素晴らしく、シャトー・ラ・ドミニクの奥深い味は今でも忘れられません。



とあるビルの外壁に1枚のプレートが埋込んであります。明治十五年(1882年)、大倉財閥の設立者である大倉喜八郎は「電灯がいかなるものか」を庶民に知ってもらうことが急務であると考え、日本で初めての電気街灯(アーク灯)を銀座二丁目の大倉組商会前に建設しました。この アーク灯は一般人が見た初めての電気の灯りでした。二千燭光といわれるその光源の明るさは大きな話題を呼び、「一にお天道様、二にお月様、三に銀座のアーク灯」と例えられるほどで、大勢の見物客が連夜つめかけたと言われています。その後、昭和三十一年(1956年)に電気街灯建設の地の記念灯としてアーク灯が復刻され、以降1972年・1986年と老朽化による改装を重ね、大倉本館ビルの建て替えに合わせ4年ぶりに再建されたのがこの4代目の記念灯となります。ブロンズのプレートに彫り込まれているのは、当時の様子を描いた錦絵「東京銀座通り電気灯建設之図」です。

東京銀座通り電気灯建設之図

明治十五年11月、ここに初めてアーク灯をつけて不夜城を現出した当時の錦絵を彫刻してその記念とする



左がプレートに彫られた錦絵、右がオリジナルの錦絵です


銀座一丁目の外れ近くにきらびやかなビルが建っています。銀座・有楽町の商業施設の建設ブームの先駆けとなり、2014年10月30日にオープンした「KIRARITO GINZA(キラリトギンザ)」という名前の商業施設です。「ブリリアント ライフステージ」というキーワードを軸に、人生において「キラリと輝く瞬間」である結婚式の式場が入る商業施設として「銀座で最も幸せな場所」となる願いを込めて命名されました。銀座通りの建物では前例がない100平方メートルのオープンテラスを4階部分の通り沿いに設け、エリア最大の屋上ガーデンが設けられています。ダイヤモンドのブリリアンカットをモチーフに、光の反射で時間とともに表情を変えるファサード(建物の正面)とし、建物全体がキラキラと輝く演出が施されています。地下一階には、「俺のフレンチ」と「俺のイタリアン」のお店が向かい合っています。気分によってフレンチかイタリアンが選べていいですね。



<<写真多数のため、都電1系統跡コース(2)に続きます。>>




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