都電1系統跡コース(2)  

コース 踏破記  

<<都電1系統跡コース(1)の続きです>>  

京橋は、かって江戸城の外濠(現在の西銀座ジャンクション付近)から楓川・桜川の合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)までを流れていた京橋川に架かっていた橋です。現在は埋め立てられた京橋川の跡地に東京高速道路が高架で通っていますが、銀座通りと交差する地点に京橋の親柱が3体保存展示されています。2体は銀座通りの東側、1体は西側に置かれています。この日は西側の歩道を歩きました。親柱の横に案内板が立っています。

京橋の親柱

京橋は、慶長八年(1603年)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和三十八年から昭和四十年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。このうち、二基の石造親柱は、明治八年(1875年)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形をしており、詩人の佐々木支陰の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名が彫られています。また、石およびコンクリート造の親柱は、大正十一年(1922年)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きようはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板プレートが付けられています。明治・大正と二つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。

Main Pillars of Kyobashi

Kyobashi is a historic bridge that was built around the same time when Nihonbashi Bridge was built in 1603. Although Kyobashi was removed due to land reclamation work along the Kyobashi River from 1963 to 1965, two stone pillars and one stone-concrete pillar remain as its vestiges. The two stone pillars were installed when a stone arch bridge was built as Kyobashi in 1875. The pillars take the form of a giboshi (bridge railing-post knob) and follow the tradition of the Edo period with the characters "Kyohashi" written by poet Sasaki Shiin being carved as the name of bridge. The stone-concrete pillar was installed in 1922 during the extension work for building an art deco bridge. The pillar had a modern design with lighting facilities with the installation of a copper plate indicating that it has the name of bridge -"Kyobashi" and "Kyobashi"- and was "built in November 1922". These main pillars installed in the Meiji and Taisho period are registered as Cultural Properties of Chuo-city because they are valuable building structures that show the changing design of modern bridges.




高架の先に小さな広場があり、かっての京橋川と河岸にあった商業施設を解説した案内板が置かれています。

京橋と京橋川

京橋

名称の由来について「新撰東京名所図会」では「京橋川に架する橋にして。日本橋・江戸橋に対して名付けたるものなり」とあり、また、日本橋から東海道を通って京へと向う最初の播にあたることから名付けられたともされる。橋の創架については様々な説があり明らかではないが、「京橋区史」によると「京橋は古来より其の名著はる。創架の年は慶長年間なるが如し」とある。また、「新撰東京名所図会」には「創建は詳かならされとも。其の年月は日本橋と大差なかるべし」とあるので、この橋は慶長年間(1596年〜1615年)に初めて架けられたと考えられる。京橋は、幾度か架け替えが行われ、明治八年(1875年)には橋長11間(約19.8m)・幅員八間(約14.4m)の石造アーチ橋に架け替えられた。その後、市区改正事業に伴い明治三十四年(1901年)に橋長・幅員共に10間(約18m)の鉄橋となった。この橋は大正十一年(1923年)の拡幅工事により架け替えられ、昭和四年(1929年)にも架け替えが行われたが、昭和三十八年〜昭和四十年の京橋川埋め立てに伴い撤去された。なお、京橋の親柱は明治八年のものが橋北詰め東側と橋南詰め西側に、大正十一年のものが橋南詰め東側に保存されている。

京橋川

外堀から北紺屋町(現在の八重洲二丁目)と南紺屋町(現在の銀座一丁目)との間に分かれて東に流れ、白魚橋先で楓川・桜川(八丁堀)・三十間堀と合流した。延長0.6km。江戸時代には、比丘尼橋・中之橋・京橋・三年橋・白魚橋が架かる。その開削年代は詳らかではないが、家康の江戸入り後、慶長年間(1596年〜1615年)に行われた最初の天下普請で外堀とともに開削された水路であるとされる。比丘尼橋と中之橋間の左岸には薪河岸、中之橋と京橋間の左岸には大根河岸、京橋と白魚橋間の左岸には竹河岸、右岸には白魚河岸があった。京橋川は昭和三十八年〜昭和四十年に埋め立てられて、屋上に東京高速道路株式会社の自動車道路がある細長いビルにかわった。現在、自動車道路の下は飲食店や駐車場になっている。中央通りと交差する京橋跡には「京橋大根河岸青物市場跡」と「江戸歌舞伎発祥の地」の碑(京橋三丁目4番先)、京橋の親柱(京橋三下目5番先・銀座一丁目2番先・11番先)と「煉瓦銀座の碑」(銀座一丁目11番地先)が建っている。

大根河岸

大根河岸は、数寄屋橋辺りに形成されていた青物市場が大災に遭った後、水運の便が良い京橋川の北西沿岸に移転したことに始まるとされる。この河岸地では、大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれて大変なにぎわいを見せていた。しかし、大正十二年(1923年)の関東大震災の後に中央卸売市場が築地に完成したことにより、大根河岸も昭和十年(1935年)に移転した。なお、この地にある「京橋大根河岸青物市場跡」の碑は京橋大根河岸会会員により昭和三十四年(1959年)に建立されたものである。

白魚河岸

京橋川の西沿岸に設けられた河岸で、享保年間(1716年〜1736年)南方に設けられた白魚屋敷にちなんで白魚河岸と呼ばれていた。

薪河岸

京橋川の北西沿岸の比丘尻橋と中之橋との間にある河岸地で、薪炭を扱う問星が建ち並んでいたことから呼ばれていた。

竹河岸

竹河岸は、京橋川の北東沿岸の京橋と白魚橋間にある河岸地で、竹商人が多くいたことから里俗で呼ばれていた。竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に入って来たものや、群馬県から筏に組んで送ったものであったという。青竹が連ねられている竹河岸の様子は、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれており、その光景は目にさわやかな風物詩であった。




京橋地区は建物の建て替えが進んでいますが、真新しい京橋エドグランの1階と2階に「トシ・ヨロイヅカ 東京」が入っています。パテシエの鎧塚氏がオーナーシェフになっているお店です。お散歩の服装では入りがたい高級な雰囲気です。恵比寿の住宅街に小さなお店があった頃に一度ケーキを買ったことがあります。彩りが綺麗でしたね。



日本橋三丁目交差点の角のビルの一画に大きなキリンの銅像が立っています。このビルは元々は漢方薬やバスクリンで有名な津村順天堂のビルでしたが、2006年に社屋を移転し、現在はスターツコーポレーション株式会社の本社になっています。昭和六十三年(1988年)に今のビルに建て替えられ、翌年に高さ6m25cmのキリンの銅像が設置されました。作者は鍛金彫刻家の安藤泉氏です。表情や佇まいがとても穏やかに見える大きなキリンの銅像ですが、何故こんなに大きなキリンの銅像をここに設置したのでしょうか?その理由は3つあるそうです。一つ目は、1976年に津村順天堂の漢方薬が保険医薬品に認定され、テレビCMによってバスクリンが成功するなど業績が好調だったことです。二つ目は、このキリンが王冠を被っているように、キリンは漢方の王様と言われていたことです。三つ目は、このビルの吹き抜けの天井を王冠にある照明器具で照らすために高さが必要だったことです。社屋移転の際にキリンの像も一緒に連れていくことは出来なかったのでしょうか?



日本橋交差点の手前に高島屋があります。三越と並び称される老舗のデパートです。地下の食品街にはよく行きましたね。ワインの贈り物をする際は、やはり高島屋の包み紙でないとね。



かって日本橋交差点の角には白木屋(しろきや)百貨店が建っていました。白木屋は、越後屋(現三越)・大丸屋(現大丸)と並び、江戸三大呉服店のひとつでした。日本の百貨店の先駆的存在のひとつでもありました。江戸時代から昭和にかけて営業しましたが、昭和四十二年(1967年)に東急百貨店に買収され、「東急百貨店日本橋店」へと改称されました。その後、平成十一年(1999年)1月31日に閉店し、336年の歴史に幕を閉じました。跡地にはCOREDO日本橋が建設され、平成十六年(2004年)3月30日に開業しました。



COREDO日本橋の隣には京都西川が入っていたビルがありましたが、現在はその周辺一帯を含めて大規模な再開発が行なわれています。再開発事業の全体概要は、敷地面積1万8990平方メートルで、A〜C街区の一体的な都市再生が行なわれます。日本橋川に面するA街区には、1930年に竣工した日本橋野村ビル旧館の外観を保存しつつ、4階建てのオフィス・商業施設にリニューアルされます。隣接するB街区には、地下2階・地上7階の店舗と住宅から成る複合ビルが建設されます。A/B街区と街路を挟んだC街区には、地下5階・地上52階建てで、低層階に大規模カンファレンス施設(会議室)やビジネス支援施設、中層階にオフィスビル、高層階にウォルドーフ・アストリア東京日本橋ホテルが入ります。再開発事業の総延べ床面積は38万300平方メートルで、完成は2025年度になるとのことです。日本橋に52階建てのビルが建ったら景観はどうなるのでしょうか?



日本橋にやってきました。もう何回目でしょうかね?見慣れた案内板ですが、今回はじっくりと読んでみたいと思います。

道の起点としての日本橋

中央区日本橋一丁目〜港区新橋一丁目

日本橋は古来街道の起点として広く親しまれ現在も交通の要衝として知られている。慶長八年に日本橋が架設されて以来、火災などによって改築すること19回を経て、明治四十四年3月石橋の名橋として現在の橋に生れ変った。また日本橋から銀座にかけての中央通り一帯は近代的な街並で日本経済の中心地として今なお活況を呈している。



日本橋の橋詰には5つの広場が設けられています。それぞれの広場の命名は公募により行なわれ、「滝の広場」・「花の広場」・「乙姫広場」・「元標の広場」と決まりました。

日本橋橋詰の愛称

日本橋の歴史は、慶長八年(1603年)に家康の江戸幕府開府の際、南北の交通路として木橋が架設されて以来、幾度の変遷を経て、現在の石橋が明治四十四年4月に完成し平成三年4月には80才を迎えました。これを記念し、平成二年7月から平成三年5月にかけて広場の整備を行い、平成三年5月には完成式典が行われました。整備にあたっては地域の方々の意見をもとに、日本橋橋詰を都心のオアシスとして、人々の待ち合わせや地域の活性化になればと考え実施しました。この整備工事に合わせ、愛称を一般募集するとともに、その愛称を末長く親しんでいただくため、記念碑として保存することとしました。




「花の広場」には屋根付きの立派な案内板が置かれています。銅板に彫られた江戸時代の風景画と碑文は年代物のようで、錆びてとても見づらいですね。

日本橋由来記

日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ




日本橋の欄干には獅子をモチーフにした立派なブロンズ像が照明灯と共に君臨しています。今は機能一辺倒でこのような装飾はされませんが、昔の人は美的感覚があったんでしょうね。



橋詰めに立っている案内板には、「元標の広場」に置かれている東京市道路元標の柱が都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていたと書かれています。それはいくら何でもやり過ぎでしょう。

日本橋 附東京市道路元票(一基)

日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奧州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気ある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。現在の日本橋は、明治四十四年(1911年)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長49.5メートル、幅員27.5メートルの橋には、照明灯のある鋳銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています。中でも、建築家・妻木頼黄の考案に基づく麒麟や東京市章を抱えた獅子のブロンズ像(原型制作・渡辺長男、鋳造・岡崎雪声)は、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。また、附指定(つけたりしてい:国宝や文化財として国から指定されている物件の価値を補完するために追加で指定すること)を受けた「東京市道路元標」は、昭和四十二年(1967年)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。

Nihonbashi Bridge Including the Zero Milestone of Japan

It has been reported that the Nihonbashi Bridge was first built in 1603, the year TOKUGAWA, Ieyasu established the shogunate in Edo. In the following year it was designated as the origin point of the five national roads administered directly by the shogunate (Tokaido, Nakasendo, Oshu Dochu, Nikko Dochu, Koshu Dochu). The bridge stood in the central district, where was the busiest commercial city of Edo with rows of bustling fish markets and wholesale shops along with the Nihonbashi River. The bridge that stands today is a Renaissance-style double-arch stone structure built in 1911, and one of the few Meiji-era stone bridges left in Tokyo. It is 49.5 meters long and 27.5 meters wide. The bridge has ornate cast-copper columns decorated in a mix of Japanese and European Styles.Most of all, the bronze statues of kylins (a kylins is an imaginary creature in ancient China) and the lion holding the Tokyo municipal emblem were originally designed by architect TSUMAKI,Yorinaka, which are regarded as high-leveled design art works (Original mold: WATANABE, Osao, Cast: OKAZAKI, Sessei). The bridge name inscribed on the oyabashira (thick posts located at both edges of the bridge) is modeled on calligraphy by TOKUGAWA, Yoshinobu, the 15th and last Tokugawa shogun. The Zero Milestone of Japan which is included in the national cultural property designation used to be positioned at the center of the bridge until 1967, together with the post for aerial wires for a tram line. Now it was relocated to the open space at the northwest side of the bridge. The Zero Milestone plaque was embedded in and at the center of the bridge deck pavement in 1967 with an inscription modeled on calligraphy by then-prime minister SATO, Eisaku, and also there is the replica of the plaque at the edge of the bridge on the northwest side.






元標の広場には「日本国道路元標」のレプリカが置かれていて、隣りにそれを解説した石碑があります。

日本国道路元標

日本橋は1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・コ川慶喜公の揮毫によるものです。1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノーベル平和賞受賞)の揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この復製も同時に制作・設置されたものです。東京道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化に指定されています。

Zero Milestone in Japan

Nihonbashi Bridge was built in 1603 and designated by the Edo Shogunate government as the starting point of five major roads in Japan. The present Nihonbashi Bridge, built in the Renaissance style in 1911, is a double-arched bridge made of stone. The calligraphy engraving "Nihonbashi" on the plaques on each of the four newel posts is based on the work of Yoshinobu Tokugawa, the last Shogun. In 1972, the original "Zero MiIestone of Tokyo City", formerly located in the middle of Nihonbashi Bridge was transferred to this square for preservation and replaced by a memorial plaque. The characters "Zero Milestone of lapan" on the plaque were taken from the writing of the then Prime Minister and Nobel Peace Prize winner, Eisaku Sato. Both "Zero Milestone of Tokyo City" and Nihonbashi Bridge, which calebrated its eighty-eighth anniversary in 1999, are designated important cultural assets of Japan.




日本橋を渡った先に三越本店の巨大な建物があります。正面から見ると船の舳先のようです。入口の両側には三越の象徴であるライオンのブロンズ像が置かれています。銀座三越のライオン像には三越のロゴが入った特製のマスクが付けられていますが、本店のライオン像はノーマスクです。ライオン像の台座に三越の由来を記したプレートが埋込まれています。

三越本店

三越は、延宝元年(1673年)に「越後屋」として創業した。「三井呉服店」を経て、「三越呉服店」となり、大正三年(1914年)には、鉄筋コンクリート造による大規模な百貨店の新築を行った。当時の建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの壮麗な建築で、5階建一部6階、中央部に5階まで吹き抜けのバロック的大空間をもっていた。その後、震災で損傷し、昭和二年に復興するが、更に昭和十年全館の増改築が完成し、現在見られるような規模となった。建物中央部の吹き抜けホールは、アーチ状の天窓からの光りがホール全体を照らし、5階までの各階にはバルコニーがめぐり、アール・デコ風のデザインが目につく。そこに展開する装飾性豊かな空間は見事である。




日本橋三井タワーの1階には千疋屋総本店が入っています。暖房機器が置かれたテラスでは優雅なティータイムを堪能することができます。



三井タワーの隣の区画で建設中だった巨大高層ビルはCOREDO室町テラスとしてオープンしました。正面入口が中央通りに面しておらず、脇道にあるのが特徴です。入口広場はテラスになっていて、天井は全体がガラスの屋根で覆われています。テラスにはバルコニーも面していて、ちょっとした南欧風の外観になっています。



室町四丁目交差点で中央通りと交差している脇道が本銀通リです。これを正しく読める人は希でしょう。

本銀通リ(ほんしろがねどおり)

日本橋本石町・日本橋室町・日本橋本町の各四丁目北半分に当たる場所は、江戸時代初期から昭和七年(1932年)まで「本銀町」と称する町でした。町の北は竜閑川(神田堀・神田八丁堀・銀堀とも称された神田との境をなした掘割)に、西は江戸城の外堀に面する当町は、江戸時代を通して商業の中心地となっていました。東西に広がる町屋であった本銀町(一丁目〜四丁目)は、町名の由来となった「銀細工職人」が集住するとともに、数多くの商家が立ち並んでいました。なお、本銀町の名は、神田に起立した「新銀町」と区別するために「本」の字を冠したといわれています。当町在住の商人や諸職名匠には、刀脇差細工・縫箔屋・指物屋・塗師・蒔絵師・彫物師・小細工印判師・鍔師・象嵌師・塗鞘師・目貫師・柄巻師・御楽器道具師・御仏師などがおり、武家の消費需要を賄う町人地として大いに発展しました。また、「江戸名所図会」には、明暦三年(1657年)の大火後に町の北側(竜閑川沿い)に築かれた防火用の「本銀町封彊」(高さ2丈4尺【約7.27メートル】・長さ8丁【約872メートル】の石垣土手)と松並木の痕跡を紹介している他に、本銀町・本石町の各一・二丁目辺りが「福田村旧跡」(大久保主水【藤五郎】の屋敷があった旧福田村)であることを記しています。関東大震災発生(大正十二年)後の復興事業によって、歴史ある「本銀」の町名は姿を消しましたが、幸いにも旧町を東西に貫く通りは今日まで残されました。江戸時代以来、人びとの往来に利用されてきたこの通りは、平成二十七年に名付けられた「本銀通り」(幅員11m・延長520m)の道路愛称とともに往時の歴史をしのばせています。

Honshirogane-dori Street

The area, northern half of each 4-chome of Nihonbashi-hongokucho, Nihonbashi-muromachi and Nihonbashi-honcho was a town called "Honshirogane-cho" from the early Edo period to the 7th year of Showa (1932). There was Ryukangawa River (also called Kanda-bori, Kanda-hatchobori or Shirogane-bori which was a boundary to Kanda) in the north of the town and the west side Is facing to the outer moat of Edo Castle. The town was the center of commerce through the Edo period. Silversmiths which was the derivation of the town name, were dwelling together and many merchant townhouses were built along the street, expanding in the east and west of Honshirogane-cho (from 1-chome to 4-chome). It is sald that "Hon" was prefixed as Honshirogane-cho to distinguish from Shinshirogane-cho, established in Kanda. In those days, merchants and master craftsmen who resided in the town included: katana-wakizashi saiku, nuihakuya, sashimonoshi, nushi, makieshi, horimonoshi, kozaiku inbanshi, tsubashi, zouganshi, nurisayashi, menukishi, tsukamakishi, ogakkidougushi and gobusshi. Those craftsmen satisfied demands of samurai families and the townsman area prospered. And "Edo Meisho Zue" (pictures of noted place in Edo) introduced "Honshirogane-cho Dote" (a stone wall bank for fire prevention, approx. 7.27 meters high and approx. 872 meter long) which was built in the north of the town (along the Ryukangawa River) after the big fire in the third year of Meireki (1657). And the remains of a row of pine trees were also inscribed. Besides, 1 and 2-chome vicinities of both Honshirogane-cho and Hongoku-cho were recorded as "a historic spot of Fukudamura Village'(former Fukudamura Village where Okubo Monto/Togoro had premises). After Great Kanto earthquake of 1923 (the 12th year of Taisho), the historic town name "Honshirogane" disappeared because of the reconstruction works, however, the street which runs east and west has survived fortunately down to the present. There has been a lot of comings and goings on this street since the Edo period and in the 27th year of Heisel, a nickname of the road was glve as "Honshirogane-dori Street"(11 meters of wldth and 520 meters of length) which reminds us some traces of the past.






室町四丁目交差点の次が今川橋交差点です。今川焼き発祥のお店がある交差点ではありません。かって、ここには龍閑川流れていました。当時の名主今川氏の尽力で架けられた橋にその功績を因んで今川橋という名が付けられ、それが現在の交差点の名前になりました。歩道の脇に今川橋の由来を記したプレートが置かれています。

今川橋由来碑

今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681年〜1683年)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたのでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。昭和二十五年(1950年)龍閑川は理め立てられ、三百年近く馴れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。




中央通りは神田駅の高架線路と交差します。高架下の壁には神田駅の歴史を記した絵文書が何枚にもわたって貼られています。今回は前文だけで、全文は別の系統跡を歩く時に載せたいと思います。読み取れるかどうかは分りませんが。

神田驛百年

毎日、多くの人が行きかう駅のざわめき。高架橋の上を行きかう電車。百年前の早春、江戸からの賑わいが続く「神田」に高架鉄道がひかれた。地域とともに歴史を重ねてきた神田駅。関東大震災と戦災による苦難を乗り越えた歩みだった。残された写真から、鉄道と地域がおりなす変遷をたどってみる。




絵文書の最後に江戸町火消の纏が紹介されています。東京消防庁が設けられた現在でも消防組って残っているんですね。

江戸町火消発祥の地・神田−町火消の纏−

「火事と暗嘩は江戸の華」といわれるように江戸の町は火災が多く、特に明暦三年(1657年)の大火は江戸城や城下の大半を焼失するものとなりました。江戸中期の享保三年(1718年)には大名火消や定火消とともに「いろは四十七組」の町火消が南町奉行大岡越前忠相により組織されました。下に示した各組の纏は、武将が戦場で掲げた馬印を参考とし、燃え盛る炎のなかで組を見分けるために様々な形の纏が作られました。江戸後期になると、町火消は江戸城本丸や西の丸の出火に出動し、日覚ましい活躍で褒賞を受けました。特に神田や日本橋を管轄した一番組は、江戸城の火中にいち早く飛び込んだといいます。黒船来航以降市中警備も担い、戊辰戦争時には治安維持にも活躍したといいます。明治五年(1872年)、旧十五区(千代田・中央・港・新宿・文京・台東区と墨田・江東区の一部)の江戸町火消は、6大区39組の消防組に編成され、その後他の区を加えて、現在は11区87組となっています。




万世橋にやってきました。橋の手前には「肉の万世」のお店があります。万かつサンドが名物とのことです。

万世橋

現在の万世橋と昌平橋の間に江戸城の見附の一つである筋違門がありました。明治五年(1872年)に門が撤去されその石材を用いて架けられたのが萬代橋(萬世橋)です。石造アーチの形状は眼鏡橋と通称され、東京名所として錦絵などにも描かれました。明治三十六年(1903年)、現在の位置に新たに万世橋が架橋された後、石造の萬世橋は明治三十九年(1906年)に撒去されました。現在の橋は関東大震災後の昭和五年(1930年)に架けられました。甲武鉄道(後の中央線)のターミナル駅として万世橋駅が明治四十五年(1912年)に開業すると、橋の周辺は交通の要衝として大変な賑わいを見せました。

Sujikai-mon Gate, one of the outer gates of Edo Castle, stood between current-day Manseibashi Bridge and Shoheibashi Bridge. The gate was demolished in 1872, and the stone used to build Yorozuyobashi Bridge (Manseibashi Bridge). The stone arch structure, popularly known as a meganebashi ("spectacles bridge" or two-arched bridge), has been depicted in color prints as a Tokyo sightseeing spot. In 1903, Manseibashi Bridge was rebuilt in its current-day location before the stone Manseibashi Bridge was demolished in 1906. The current-day bridge was built in 1930, after the Great Kanto Earthquake. After Manseibashi Station opened as the Kobu Railway (later the Chuo Line) terminal station in 1912, the area around the bridge became a very busy transport hub.




秋葉原は電気マニアの街から漫画・アイドルオタクの街に変貌しています。25年程前に現金42万円を握りしめてペンティアムUのタワーパソコンを買いに行きましたっけ。あの頃はパーツの増設も簡単で、WINDOWS95もCDからインストールできました。今のパソコンは精密かつ複雑になりすぎて私には手出しができません。



歩道の脇に千代田区の町名由来板が立っています。「田代」という地名が「神田代地」に由来するということを知っている人は地元にもいるのかな?

神田田代町

この界隈は、外神田四丁目になる前は、神田田代町と呼ばれていました。寛政五年(1793年)、湯島の無縁坂から出火した大火で神田川周辺にあった町が類焼し、町の一部が火除地となりました。翌年、そこに住んでいた人々が、御成道の旗本永井伊織の屋敷跡を代地として与えられて移転してきました。そのため、この一帯は神田須田町二丁目代地、小柳町三丁目代地、神田松下町一丁目代地、神田花房町代地などと呼ばれる町になりました。明治五年(1872年)、このあたりが俗に 「神田代地」とも称されていたことから、それを略して「田代町」と名付けられました。千代田区に属した昭和ニ十二年(1947年)からは神田田代町と改称され、同三十九年(1964年)に住居表示が実施された際、周辺の町の一部と合併して、現在の町名「外神田四丁目」になりました。町内の路地裏には「花房稲荷神社」があります。現在の社は戦後、地元住民が再建したものですが、 神社そのものは江戸時代からこの地にあったとされ、古くから地域のシンボルとして人々に親しまれています。

Kanda-Tashirocho

This neighborhood was once called Kanda-Tashirocho. It is said that the name derives from the fact that in the late 18th century, land that had been used by a retainer of the Shogun was offered as alternative land for people who had been displaced from a nearby town to make way for a firebreak.

神田栄町

ここはかつて、神田栄町と呼ばれていました。江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた地域で、幕末のころの絵図には、この一帯が豊前小倉藩小笠原家の屋敷となっていたことが記録されています。ちなみに中屋敷とは、上屋敷(本宅)に対する控えの屋敷のことで、跡継ぎなどが居住しました。この界隈が大きく様相を変えたのは明治維新後のことです。 明治二年(1869年)十二月、神田相生町から出た火事によって、現在の外神田周辺は焼け野原となってしまいました。そこで明治新政府は、神田竹町・神田平河町・神田松永町などに、防火のための空き地(火除地)を設置します。それらの町に住んでいた人たちがこの界隈に移転させられ、神田栄町ができたのです。「栄」という名前は、住民が町の繁栄を祈願して付けた町名であるといわれています。明治四十四年(1911年)、町は栄町と改称しますが、昭和二十二年(1947年)、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立した際、ふたたび神田栄町となりました。そして昭和三十九年(1964年)、住居表示の実施で神田亀住町や神由元佐久間町とともに、現在の外神田五丁目となりました。

Kanda-Sakaecho

This neighborhood was once the location of many samurai residences, but in the early Meiji Period, in the middle of the 19th century, it was transformed into an alternate site for people relocated from nearby towns to make way for firebreaks. It is believed that the residents christened the town "Sakaecho" (sakae means to prosper) to express their hopes for the town's future,




更に町名の由来板が続いて立っています。町名にはいろんな歴史があるんですね。神田元佐久間町は現在の千代田区、旧東黒門町は現在の台東区にありました。

神田元佐久間町

ここはかつて神田元佐久間町と呼ばれていました。江戸時代、この界隈には豊前小倉藩小笠原家の中屋敷がありました。明治二年(1869年)十二月に発生した火事で、このあたりは様相を一変します。神田相生町から出た火は、現在の外神田周辺を焼き尽くしたといわれています。明治新政府は、神田佐久間町一丁目内にあった神田柳屋敷などに火除地(防火のための空き地)を設置しました。そのため、そこに住んでいた人々が代地として小笠原家屋敷跡に移転してきたのです。明治三年(1870年)のことでした。神田元佐久間町の町名が生まれたのはこの時です。新たに生まれたこの町を神田佐久間町と区別するため「元」が付けられたのです。明治四十四年(1911年)、いったん元佐久間町と改称されましたが、昭和二十二年(1947年)、千代田区ができたときに町名はふたたび神田元佐久間町となりました。この町名は、一帯が住居表示の実施によって外神田五丁目となる昭和三十九年(1964年)まで使われていました。

Kanda-Motosakumacho

This neighborhood was once the location of many samurai residences, but in the early Meiji Period, at the end of the 19th century, it was transformed into an alternate site for people relocated from nearby towns to make way for firebreaks. It is said that the townspeople chose the name Motosakumacho to differentate it from the town of Sakumacho, from where they had been moved.

旧町名由来案内 旧東黒門町

東叡山寛永寺が創建されたのにともない、寛永三年(1626年)に同寺の門前町として上野新黒門町ができた。この命名については御府内備考が「東叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉」と述べられているのに由来する。上野新黒門町は、御成道(現在の中央通り)の両側に形成されていたが、明治二年(1869年)、御成道を境にして東西に二分され上野西黒門町、上野東黒門町として新たに発足した。翌三年、東京府の近代都市政策のもと、下谷第三十九番組に属し、地元指導者を中心にまちづくりが始まった。そして、明治五年(1872年)付近の武家屋敷を合併し、本町は形づくられた。明治四十四年に上野の二字をはずし、東黒門町となつた。




上野にやってきました。アメ横近くの中央通りにも台東区の旧町名案内板が立っています。

旧町名由来案内 旧上野三橋町

本町は、明治二年(1869年)上野仁王門前町と仁王門前上野家来屋敷の東側、そして北大門町飛地と上野役人屋敷を合併し、その地域を町域にして起立した。町名は町の南西、御成道(現中央通り)、不忍通りとの交差点あたりに三橋という橋があったことに由来する。橋の名は、不忍池から流れ出る忍川に三つ並んで架設されていたことにちなむという。ほかに将軍が寛永寺墓参の折に渡る橋なので、御橋といい、それが三橋に転訛したとする説もある。定説の三つの橋は、真中の橋が将軍専用で、両側の橋が一般の通用橋であったという。忍川は昭和初年に暗渠になり、そのために橋も消えた。昭和三十九年(1964年)の住居表示では大部分が上野四丁目になり一部JR高架線が同六丁目になった。




都電1系統は上野公園の脇を右にカーブして終点の上野駅に向います。



ガード手前、上野公園のシンボルである西郷さん銅像直下には「UENO3153(さいごうさん)」のガラス張りの主にレストランが入っている商業ビルがあります。ここには2008年までファミリーレストラン「聚楽台」が営業していた「上野公園西郷会館」がありました。建物の全面に「聚楽台」と書かれた看板が付けられていましたね。



上野駅前の電停跡にやってきました。今はどこが電停だったかその痕跡は残っていませんが、正面入口前の広場と反対側のマルイの間辺りにあったのではないかと思います。品川から長い道のりでしたが、さすがに帝都東京の花形路線だけあって見所満載でした。



帰りにアメ横の飲み屋街を通りました。今はコロナ禍ですが、ここだけは飲んべえの別天地です。さすがに自粛モードで立ち寄りはしませんでしたが、コロナが終息したらまた来てみたいものです。






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