- 都電15系統跡コース(1)
- コース 踏破記
- 今日は都電15系統跡を歩きます。都電15系統は高田馬場駅から茅場町(延長時には州崎)までを結び、その路線は主に早稲田通り・明治通り・新目白通り・目白通り・靖国通り・本郷通り・永代通りを通っていました。都心を東西に斜断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電が一部の区間を重複して走っていました。都電15系統はほぼ現在の地下鉄東西線のルートを辿っていて、朝夕のラッシュ時には終点の茅場町からそのまま永代通りを直進し、隅田川を越えて下町深川の洲崎まで延長運転されていました。大きな交差点ごとに右に左にと曲がるめまぐるしい路線でした。
都電15系統
都電15系統の全長は9.3kmで、昭和43年9月23日に廃止となりました。
都電15系統の電停(路上の駅)は、高田馬場駅・戸塚二丁目・面影橋・早稲田・早稲田車庫・関口町・鶴巻町・江戸川橋・石切町・東五軒町・大曲・飯田橋・飯田町一丁目・九段下・専修大学・神保町・駿河台・小川町・美土代町・神田橋・大手町・丸ノ内一丁目・呉服橋・日本橋・茅場町(・新川一丁目・永代橋・佐賀町一丁目・永代二丁目・門前仲町・不動尊・富岡町・木場一丁目・木場三丁目・洲崎)でした。
高田馬場といえば、元禄七年(1694年)に堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の仇を討った「高田馬場の仇討」で知られています。その「高田馬場」は、現在の高田馬場駅から東方に1キロメートルほど離れた甘泉園公園南側にありました。早稲田大学の最寄り駅であるJR・西武鉄道の高田馬場駅前に都電が発着するようになったのは戦後の昭和二十四年のことでした。それまでの都電15系統は早稲田電停が発着点となり茅場町方向に向っていました。旧王子電気軌道から引き継いだ都電32系統の早稲田電停は櫛形のターミナル構造をとっていたために、都電側と線路の接続がなく、両電停間は徒歩による乗り換えとなっていました。その後、都電32系統の面影橋電停から分岐して高田馬場駅に至る戸塚線の開通により、都電15系統の電車が都電32系統の早稲田〜面影橋間の専用軌道に乗り入れることとなりました。高田馬場電停は、山手線の高田馬場駅前の早稲田通り上に設置されました。当時の早稲田通りは道幅が狭かったため、都電の線路を敷いたことで道路は電車・バス・車で相当窮屈な状態であったと思われます。
高田馬場駅前電停を出発した都電15系統は、学生街特有の賑やかさで溢れる早稲田通りを東へ向かいます。途中、右手に見える昔ながらの映画館は早稲田松竹で、早稲田通りを電車が走り始めて2年後の昭和二十六年(1951年)に開館した建物は現在も現役です。早稲田松竹は松竹の系列封切館として開館しましたが、現在ではミニシアター系作品や名画座作品を主に上映しています。一時期休館しましたが、早稲田大学の学生を中心に「早稲田松竹復活プロジェクト」が発足し活動したこともあって、平成十四年(2002年)に再開しました。古き良き時代の早稲田学生街の香りが漂う一画で映画館単独の建物という存在自体も都心では貴重な存在となっています。
都電15系統は馬場口交差点で左折し、明治通りに入ります。明治通りは馬場口交差点から下り坂となり、その坂下が新目白通りと交差する高戸橋交差点です。高戸橋交差点で右折し、その100mほど先で都電32系統の線路と合流していました。現在は都電荒川線が明治通りに沿った専用軌道から神田川を越えて交差点に入り、道路中央に専用の軌道敷帯が設けられた新目白通りを早稲田方面へと向かっています。新目白通りは専用軌道の両側に上り・下りの車線のある広い道路ですが、都電15系統が走っていた頃はまだ新目白通りと呼ばれる幹線道路は無く、裏通り的な佇まいの路上に併用軌道が早稲田方面へと延びていました。新目白通りの下り車線側付近に当時の軌道があったようです。新目白通りが明治通りから都電早稲田駅交差点まで開通したのは、都電15系統が廃止された後の昭和五十九年(1984年)のことでした。新目白通りの左手に神田川が近づいてくると、都電荒川線の面影橋電停が見えてきます。電停のすぐ北側に神田川に架かる面影橋があります。この橋は「俤橋」とも書き、古くから於戸姫(おとひめ)伝説で知られた橋といわれます。戦国時代、この近くに於戸姫という美しい娘が和田某という落武者と暮らしていましたが、その美しさ故に周囲では男たちの争いが絶えず、娘は自らの美しさを恨んで黒髪を切り落とし、そのまま橋から神田川に身を投げたと伝えられ、後に付近の村人がこの娘の死を憐れみ、橋からその面影を偲んだことから面影橋の名があるといわれます。「江戸名所図会」では「姿見橋」の名で紹介され、かつて橋の左右に池があり、橋から覗き込むと鏡のように顔が映ったことに因む名とも伝えられます。
面影橋を渡る通りは鎌倉街道の道筋に合致するといわれ、目白不動金乗院をはじめ周辺に多くの寺社が点在しています。橋の北側に位置するオリジン電気の工場入口脇には、山吹の里の碑が建っています。「山吹の里」は太田道灌の伝説に基づいています。太田道灌が鷹狩りに出かけた際に俄雨に遭い、付近のみすぼらしい民家に立ち寄って蓑を借りようとしたところ、出てきた少女は山吹の花一輪を差し出しました。道灌は意味がわからず怒ってしまいましたが、後に「後拾遺和歌集」で中務卿兼明親王が詠んだ和歌、「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」を踏まえ、「実の」と「蓑」を掛けていたということを知りました。古歌を知らなかったことを恥じた道灌はそれ以後歌道に励んだといわれています。
新目白通りの南側には、清水徳川家下屋敷跡地の甘泉園公園が広がり、その奥の高台上に鎮座する水稲荷神社と甘泉園住宅付近がかっての高田馬場の跡地です。水稲荷神社は、当初「冨塚稲荷」と命名されましたが、元禄十五年(1702年)に霊水が湧き出し、現社名に改名されました。眼病のほか水商売および消防の神様として有名です。境内にある「高田富士」(戸塚富士あるいは富塚富士とも言われます)は、早稲田大学拡張工事の際に構内にあった江戸中最古の富士塚を移築したものです。普段は登拝できませんが、7月の海の日とその前日に催される「高田富士まつり」の際に一般の登拝が可能となっています。
都電15系統は、都電荒川線の終点である早稲田電停に着きます。もともと都電32系統で使われていた早稲田電停は櫛形のターミナル構造をしていて、江戸川橋方面への15系統・39系統の始発電停となっていた早稲田電停とは交差点を挟んで向き合っていました。昭和二十四年に高田馬場駅方面へ乗り入れる戸塚線開通と同時に両電停の線路がつながり、15系統が面影橋方面へ直通する運行形態となりました。早稲田電停前の交差点から西早稲田の高台に上がっていく通りはグランド坂と呼ばれます。坂の西側、現在は早稲田大学総合学術センターや図書館などが建ち並ぶ一帯に、かつて早稲田大学野球部の安部球場があったことに因む坂名です。球場の開設は明治三十五年と古く、当時は戸塚球場と呼ばれていましたが、戸塚線開通と同年の昭和二十四年に野球部育ての親といわれた安部磯雄教授の名から安部球場と改称されました。球場は昭和六十二年に閉鎖されましたが、その後も坂名として名は残り、早稲田電停に最も近い新目白通りのバス停には、グランド坂下の名が現在も使われています。
早稲田電停から新目白通りをさらに進むと、右手に都営バスの早稲田車庫が見えてきますが、ここは大正七年開設の都電早稲田車庫の跡地です。早稲田大学のすぐ裏手という立地で、「都の西北早稲田の森に」の通り、周辺に緑の多い閑静な車庫でした。都営バスの営業所の敷地内に入ると、定期券売り場への通路部分に都電時代の敷石が再利用されている様子を見ることができます。車庫の裏手へまわると、すぐに早稲田大学正門前の広場で、向かい側には同大学のシンボルでもある大隈講堂が堂々とした雄姿を見せています。東京都歴史的建造物の指定第1号となったこの建物は、昭和二年の建造であり、同大学創設者である大隈重信の没後にその記念事業の一環として建築され、現在も大学講堂として現役で機能しています。印象的なフォルムを描く時計塔の高さは約38メートルとされ、これは大隈重信が持論としていた人生125歳説に因むといわれます。現在もこの時計塔からは大小の鐘の音色が時を告げています。都営バスの車庫に隣接するリーガロイヤルホテル前付近で新目白通りから左へ入ると、すぐに神田川の駒塚橋に出ます。橋のすぐ北側まで目白台の高台に続く急斜面が迫り、都心離れのした景勝地のような景観の趣を楽しめます。その高台の傾斜地には、松尾芭蕉ゆかりの関口芭蕉庵や大イチョウが印象的な水神社、旧熊本藩主細川家ゆかりの永青文庫などが集中しています。関口の地名は、江戸期の神田上水の取水口であった神田川大洗堰に因むもので、駒塚橋からひとつ下流の大滝橋付近がその跡地です。堰の廃止は昭和八年のことで、それまでは神田川の流れはここで二分され、一方は上水路として小石川を経て神田・日本橋方面へ給水され、余水が神田川(江戸川の別称もあり)となって江戸城外濠に注ぎました。近くの新宿区水道町や文京区水道の町名も神田上水に因むものであり、住居表示前までは大滝橋から江戸川橋までの神田川両岸に関口水道町の町名がありました。新目白通りから外苑東通りが右へ分かれる鶴巻町交差点に鶴巻町電停がありました。行政上の町名は早稲田鶴巻町ですが、電停は開業当初から「早稲田」の冠称を省き、現在のバス停もそれを忠実に承継しています。旧早稲田村の北部にあたる鶴巻町一帯は、明治の頃まで「早稲田田圃」と呼ばれる農村形態が続いていました。鶴巻の由来については元禄の頃に小石川村で放し飼いにされていた鶴が飛来し田畑を荒らすため、この地に鶴番人を置いたことに因むとする説と地名学的に「ツル」は水路のある低地を指し、「マキ」は牧場の意から、そのような土地利用がかつて見られたことに因むとする説があります。
目白坂下の交差点から神田川左岸に並行して小日向台地の裾を東へ向かう通りを巻石通りといいます。大洗堰から取水された神田上水は神田川左岸に並行して開削された水路を流れ、小石川の水戸徳川家屋敷地へと入りましたが、その水路部分のうち江戸川橋付近から水戸徳川家屋敷地手前までの区間が明治初年に石を敷いた暗渠となり、巻石通りと呼ばれる道路になりました。かって、神田川は江戸川と呼ばれていました。この「江戸川」という地名は千葉県と東京都の県境を流れる江戸川とは別物で、現在の神田川の一部、飯田橋付近(船河原橋)から関口大洗堰(現在の大滝橋)までの区間が「江戸川」と呼ばれていたことの名残りです。
新目白通りが首都高速5号線の高架と重なる江戸川橋交差点にあったのが江戸川橋電停です。交差点北側は神田川に架かる江戸川橋で、橋の北側には江戸川公園の入口があります。橋を越えて護国寺方面へ直進する広い通りは音羽通りで、江戸川橋電停を起点とした都電20系統が護国寺から不忍通りを経由して須田町電停へと向かっていました。江戸川橋の名は、この付近の神田川を古くから江戸川と呼んだことによるものです。昭和十年頃までは音羽通りを挟むようにして弦巻川・水窪川と呼ばれた小さな川があり、江戸川橋の前後でそれぞれ神田川に注いでいました。現在は江戸川橋東側の護岸に水窪川跡の下水が流れ込む大きなトンネルの口を見ることができます。
江戸川橋を渡り、神田川左岸の江戸川公園に入りますと、目白台の高台の突端部がすぐ北側に迫り、川沿いの桜を中心に緑が多くなっています。このあたりの神田川流域は、明治四十三年に大洪水に見舞われたといわれますが、その後の大正二年から大正八年にかけて大掛かりな護岸改修工事が行われました。江戸川公園の開園は、護岸改修完了後の大正八年で、早稲田方面への電車の開通とほぼ同時期ということになります。公園の中に記念碑が建っています。
目白台・関口の歴史 〜川の歴史に思いをはせる〜
大井玄洞の胸像
かつて江戸川と呼ばれていた神田川は、たびたび洪水をおこし、沿岸の人々にとって治水事業は、永年の願いでした。明治四十三年(1910年)の大洪水の後、大井玄洞(1855年〜1930年)は人々の願いをかなえるため、治水に尽力しました。大正二年(1913年)に護岸工事着手し、大正八年(1919年)に完成させています。人々は、この治水事業の功績を称え、昭和三年(1928年)神田川沿いの江戸川公園の当所に玄洞の銅像を建てました。
神田上水
日本最古の神田上水(神田川)は、徳川家康の命により大久保藤五郎によって開かれました。井の頭池を水源とし、下流の大滝橋あたりに大洗堰を築き、水位を上げて上水を水戸屋敷に入れ、樋で地下を神田や日本橋方面に流しました。園内の左手を進むと、石組みの池を見ることができます。その石組には、大洗堰の石柱を使用しています。更に、先を進むと「関口色蕉庵」や「水神社」に出会うことができます。「関口芭蕉庵」は、神田上水の改修工事に携わった松尾邑蕉が「龍隠庵」と呼ばれる水番屋に住んだといわれ、これがいつしか「関口芭蕉庵」と呼ばれることになったそうです。「水神社」は、いい伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安奏なり」と告げたため、ここに水神を把ったといわれています。
江戸川の桜を解説した案内板があります。
江戸川の桜
下の絵は、明治三十九年頃の江戸川橋下流にある「中之橋」付近の景色を描いたものです。見事な夜桜と船から花見を楽しむ様子が描かれ、かつての名所・盛り場としての姿を伝えています。残念ながら大正末期頃の護岸改修により、この景色は失われましたが、当時の面影を惜しみ、現在の江戸川公園沿いに桜を植樹し、新たな桜の名所としました。
江戸川橋から下流の神田川には、比較的短い間隔で橋が並びます。華水橋・掃部橋・古川橋と過ぎると、次が石切橋で橋の南詰が石切橋電停でした。石切橋は、寛文年間(1661年〜1673年)の架橋といわれる古い橋で、このあたりの橋としては最も幅員の広い橋だったことから江戸期には大橋とも呼ばれたようです。「石切」とはすなわち石工のことで、付近にそうした職人が住んだことによるようです。石切橋を渡ると、すぐ右手にうなぎ店「はし本」があります。江戸後期から明治期にかけてこのあたりの神田川沿いには多数のうなぎ店が軒を連ねたことで知られ、中でも「はし本」は江戸期からの老舗で、看板には「うなぎ」と書かずうなぎの姿を模した「う」の文字だけを書くのが伝統でした。石切橋を過ぎると神田川が区の境界となり、右岸側が新宿区・左岸側が文京区となります。石切橋の次の橋が西江戸川橋です。江戸川橋から東に位置するのに「西」とは不思議ですが、橋名は神田川左岸に昭和三十九年まで西江戸川町の町名があったことに由来します。神田川には江戸川の別称がありましたが、この先の大曲から下流方向の川沿いにはかつては江戸川町の町名があり、その西隣りということで西江戸川町となりました。
橋の袂に案内板が立っています。案内板には明治期の地図が添えられています。
西江戸川橋の由来
この橋は、明治後期の資料によると、西江戸川町(現在の文京区水道二丁目)と牛込五軒町(現在の新宿区西五軒町)との間に架けられた木橋であったそうです。橋が架けられた時期などは定かではありませんが、橋の名はこうした地名に因んで付けられたものと推察されます。また、明治初期の資料にはこの橋の記載はありませんが、明治二十年(1887年)頃の地図ではこの橋と見られる橋が、現在よりやや上流に記されています【右図参照]。
右図は、明治二十年頃の西江戸川橋付近
神田川を斜めに渡す新白鳥橋を過ぎると神田川は大きく右へ急カーブし、その曲がり角に架かる白鳥橋の袂に大曲電停がありました。早稲田電停から併走してきた都電39系統は白鳥橋を渡った先に電停があり、ここから安藤坂方面へと分かれていきました。白鳥橋付近は古くから大曲と俗称されましたが、これは文字通り神田川の急カーブに由来する地名です。明治期までは、白鳥橋も大曲橋と呼んだようで、大正初年からの護岸改修工事で橋の架け替えが行われ、白鳥橋と改められました。この付近は神田川左岸の小日向台地と右岸の牛込台地に挟まれた谷地ですが、古くはここに白鳥池と呼ばれた大きな沼があり、明暦三年(1657年)の大火の後に埋め立てられ、その後に町家や武家地に変わっていったといわれます。白鳥橋からTOPPAN(凸版印刷)本社のビルが望めます。国内印刷業界2強(凸版印刷と大日本印刷)の一角で、世界最大規模の総合印刷会社です。大蔵省印刷局でエドアルド・キヨッソーネの部下だった木村延吉と降矢銀次郎が出資者を募ったのが始まりで、社名の「凸版」は創業当時に最新鋭であった銅凸版印刷技術(別名・エルヘート式凸版印刷)を前面に出すためにつけられたものです。「印刷テクノロジー」をベースにした「情報コミュニケーション事業分野」・「生活・産業事業分野」および「エレクトロニクス事業分野」の3分野にわたる幅広い「拡印刷」事業活動を展開しています。
江戸城の北西にあたる飯田橋は江戸時代には「牛込見附」が置かれた場所で、現在は外堀通りが通り、JR中央・総武線の飯田橋駅の両側で早稲田通り(神楽坂通り)と目白通りが交差しています。明治から昭和戦前期の飯田橋付近には、「陸軍造兵廠東京工廠」が置かれ、国鉄の牛込・飯田町駅が存在していました。現在のJR飯田橋駅は、昭和三年(1928年)に牛込駅と飯田町駅が統合された比較的新しい駅です。国電の始発駅だった飯田町駅は統合後も長距離列車発着用のターミナル駅が残り、その後は貨物駅となって平成十一年(1999年)まで存在しました。この飯田橋を通る都電には、3系統・13系統・15系統の3路線が存在しました。山手線の南端にあたる品川駅前を出て、四ツ谷駅前から外堀通りを通って、はるばる飯田橋駅前へやって来たのが都電3系統です。都電3系統は飯田橋が起終点の電停だったことから、13系統・15系統の路線とは接続していませんでした。高田馬場駅から南下して、新目白通り・目白通りを経由して飯田橋へやって来た都電15系統は、飯田橋から九段下・神保町・大手町を通り、茅場町に向っていました。また、新宿駅前からの都電13系統は河田町から神楽坂を通って飯田橋を経由し、御茶ノ水・岩本町を通って終点の水天宮前に向かっていました。これらの路線は現在、東京メトロ東西線、南北線、有楽町線、都営地下鉄大江戸線に受け継がれています。
都電15系統が走っていた1960年代には現在の飯田橋歩道橋は存在していませんでした。外堀通りに沿って低層の建物が建ち並び、昭和の長閑な風景が拡がっていました。
1960年代の飯田橋駅付近を走る都電15系統。手前は目白通り、後方は外堀通り。
飯田橋駅の高架下をくぐり、目白通りをさらに進みます。飯田橋の地名は、家康入国の際にこの地を案内した飯田喜兵衛の名に由来し、中央線の前身である甲武鉄道が明治二十八年に開設したターミナル駅も飯田町駅となっていました。その飯田町駅跡地が目白通りの左手奥に見え隠れするエドモントホテル一帯の地で、平成十一年に飯田町貨物駅が廃止となった後に付近の街並みの様相も再開発で一変しました。飯田橋駅から九段下交差点までの目白通りは「飯田橋散歩路」と呼ばれ、「発祥の地」と記された標柱が幾つか建っています。東京農業大学は、設立当初は育英黌農業科でしたが、翌年に「東京農学校」となり文京区に移転しました。大正十四年(1925年)には「東京農業大学」となり、昭和二十一年(1946年)に世田谷区のキャンパスに移転し現在に至っています。
東京農業大学開校の地
明治二十四年(1891年)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番地に東京農業大学の前身、育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。明治二十五年(1892年)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農業用地取得のため大塚窪町に移転しました。
目白通りの反対側に「飯田橋」の案内碑が見えます。
飯田橋
江戸時代、千代田区側は外堀の城壁である土居にかこまれて、この目白通りも飯田橋もありませんでした。明治初年(1868年)に簡単な木橋がかけられましたが、明治十四年(1881年)に土居が掘切られて車の通行ができる橋になりました。明治二十三年(1890年)には鉄製の橋にかわり、昭和四年(1929年)に現在の橋がかかりました。飯田橋と言っても町の名前ではありません。JR飯田橋駅の新宿側の橋の名前です。その向こう側に船河原橋があります。こちらの橋の方が、飯田橋より古いのかもしれません。現在の飯田橋という町は、以前は飯田町と言われていました。戦後の町名変更で飯田橋となって、飯田町という町名は残っていません。
「飯田橋散歩路」に設置されている案内碑の序文と言うべき「歴史のプロムナード」が建っています。
歴史のプロムナード(プロローグ)
昔々、縄文時代の頃、このあたりは波の打ち寄せる入江でした。その後、海は後退して、葦の生い茂る広い湿地となりました。徳川家康が江戸に来て大規模な築城工事が行われ、このあたりは湿地から旗本屋敷にかわりました。九段坂・中坂を中心とした元飯田町は、町人の町として 賑わいましたが、明治になって旗本屋敷の後は住む人もなくなり、一時は大変さびれました。しかし、次第に賑わいを取り戻し、現在のようなビル街に変わりました。この飯田橋散歩路に標柱を建て、この町の移りかわりを示しました。
飯田橋にはいろいろな顔がありましたが、幕府の台所方も担っていたんですね。
台所町跡
江戸のはじめから元禄の頃まで、飯田町紙流通センターの所に江戸城の台所衆の組屋敷がありました。そして台所頭をはじめとして、台所衆、台所者と呼ばれる役人が住んでいました。武鑑にお台所頭、四百石、たい所町、鈴木喜左衛門と記されています。その後大名や、旗本の屋敷に移り変わりましたが、なお付近は台所町の名が残りました。
この他にも沢山の案内碑があるそうですが、道路の反対側に建っていたのか、見逃してしまいました。ふと見上げますと、ビルの壁に「竹書房」の看板がかかっています。1972年10月に野口恭一郎によって設立され、日本初の麻雀専門誌「月刊近代麻雀」を創刊した出版社です。その後、麻雀漫画専門誌や4コマ漫画専門誌の発行も始め、現在は漫画雑誌や漫画単行本・小説・官能小説・写真集なども出版しており、麻雀ビデオやオリジナルドラマ・外国映画・イメージビデオなどの映像ソフトの販売も行っています。麻雀最強戦の主催者としても知られていますね。
九段下交差点で都電15系統は靖国通りへと左折し、10系統と12系統に合流しました。交差点の奥に九段会館が建っています。旧称は軍人会館として知られ、ホール(講堂)やレストラン・宿泊施設などを備え、結婚式やイベント各種などに使用されていました。東日本大震災で天井が崩落し、多数の死傷者が出て2011年に廃業し、現在は建て替え工事が行われています。石垣を思わせる石貼りの1階の上に白壁の2階と城郭のような屋根とが載り、中央に玄関入口と矢狭間のような窓を配したデザインは、帝冠様式というより、全体的に城門をデザインモチーフにした和風といってよい風格の建物でした。
九段下交差点を左折し、靖国通りに入ります。小川町交差点を右折して本郷通りに入るまで、都電10系統・12系統と同じルートを辿ります。日本橋川の手前に奇妙な像が置かれています。長大な頭をしていますね。杖にくくりつけているのは巻物かな?
寿人遊星
この彫刻は、1986年ハレー彗星の地球接近を記念し、人々の清福を望み、星と縁(ゆかり)の深い”寿老人”を模して制作されたものであり、「彫刻のあるまち・千代田」として、潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した絵本「かんだ彷徨」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。
俎橋を渡った先に、真新しい専修大学の校舎が建っています。校舎が建てられる前は、何でこんなところに細長い空き地があるのか不思議に思っていました。案内板にその経緯が書いてあります。
今川小路共同建築跡
今川小路共同建築は、かつてこの場所にあった復興建築のひとっで、通称「九段下ビル」と呼ばれていました。大正十二年(1923年)に起きた関東大震災からの復興の中で計画され、昭和二年(1927年)に完成した店舗兼住宅の建物でした。共同建築とは、一団の土地について所有権または借地権を有する複数の人が、共同で出資して建設した耐火建築のことです。震災後の東京では不燃化や耐震化が課題になったことから、積極的に建設が推奨されました。この今川小路共同建築は、東京における最初期の事例として、特に貴重なものでした。しかし、平成二十四年(2012年)、老朽化により解体され、85年の歴史に幕を下ろしました。令和二年(2020年)、今川小路共同建築の図面など関係する文書33点が千代田区指定文化財となり、その歴史を後世に伝えています。
Imagawa Koji Kyodo Kenchiku (Condominium) Site
The Imagawa Koji Kyodo Kenchiku (Condominium) is a building that once stood on this site as a post-disaster reconstruction building commonly known as the Kudanshita Building. The building comprised shops and dwellings and was completed in 1927 as part of the recovery effort after the 1923 Great Kanto Earthquake. A kyodo kenchiku is a fire-resistant building jointly financed and built by a number of people with ownership or leasehold rights over grouped land. As fire and earthquake resistance became an issue in the wake of the earthquake, city authorities in Tokyo actively promoted the construction of these buildings. The Imagawa Koji Kyodo Kenchiku was the first example of such a building in Tokyo, making it a particularly significant building. However, due to the effects of aging over time, it was demolished in February 2012, closing the curtain on its 85-year history. In 2020, 33 diagrams and other documents relating to the Imagawa Koji Kyodo Kenchiku were designated as cultural properties by Chiyoda City so that the history of this building can be known to future generations.
右側の写真は竣工直後の今川小路共同建築
The Imagawa Koji Kyodo Kenchiku immediately after completion
<<写真多数のため、都電15系統跡コース(2)に続きます。>>
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