- 都電15系統跡コース(2)
- コース 踏破記
- <<都電15系統跡コース(1)の続きです>>
靖国通りに沿って、町会が設置した地元町名の案内板が立っています。
千代田区町名由来板 中猿楽町
ここはかつて中猿楽町と呼ばれていました。室町時代以降、猿楽(のちの能楽)は、多くの武士たちに楽しまれるようになりました。なかでも観阿弥・世阿弥の流れを受け継ぐ「観世座」は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。その家元観世太夫や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町一丁目〜二丁目から西神田一丁目〜二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という名が生まれました。この界隈は江戸時代、おもに武家屋敷が軒を連ねていました。もともと武家地には町名が付けられていなかったため、「中猿楽町」という町名が正式に誕生したのは、明治五年(1872年)のことになります。ところで町内には、大正三年(1914年)、中国の留学生が日本国内で進学する際、欠かすことのできない日本語や英語・数学などを専門に教える東亜高等予備学校が設置されました。中華人民共和国成立後、国務院総理(首相)を務めた周恩来も、大正六年(1917年)から約二年間、この学校で学んでいます。中猿楽町はその後、昭和九年(1934年)、神保町二丁目と西神田一丁目の一部に組み込まれました。この地域の町会は、その名に「中猿」の二文字を残し、神田中猿町会と名乗っていましたが、昭和二十九年(1954年)四月、神保町と西神田の町名から「神西町会」と改めて、現在に至っています。
Naka-sarugakucho
This area was once called Naka-sarugakucho. It was named after Sarugaku, performing art that began in the Muromachi Period (1333-1568) and later gave rise to Noh theater. The residences of Kanze-dayu, the head of one of the major schools of Sarugaku, and his troupe were located in this neighborhood. In 1934, this area was integrated into Jimbocho 2-chome and Nishi - kanda 1-chome.
地元町名の案内板には法被を模した神田らしいものもあります。
神田神保町一丁目
江戸時代、この界隈には武家屋敷が立ち並んでいました。そこに表神保町・裏神保町などの町が誕生したのは、明治五年(1872年)のことです。裏神保町は、大正十一年(1922年)に通神保町と改称したのち、表神保町・表猿楽町などとともに、昭和九年(1934年)、神保町一丁目となりました。さらに昭和二十三年(1948年)、神田区と麹町区が合併して千代田区ができると、現在の神田神保町一丁目になりました。町名の由来は、元禄年間(1688年〜1704年)のころ、旗本の神保長治が広大な屋敷をかまえ、そこを通っていた小路が「神保小路」と呼ばれるようになったためといわれています。
Kanda-Jimbocho 1-chome
In the Edo Period, many samurai residences lined this area. The name Jimbocho comes from a high-ranking samurai, Nagaharu Jimbo, who lived in the area. He first gave his name to an alley running in front of his residence, and this later became the name of the town.
わが街、神田神保町 作家・逢坂剛
神保町という町名の由来が、江戸時代の旗本神保家の屋敷からきたことは、すでによく知られている。試みに、江戸城下の変遷絵図集「御府内沿革図書」を開くと、早くも十七世紀後半(延宝年間)の図上に、(神保新石衛門)の名前が見つかる。屋敷の場所は、今の白山通りからさくら通りにはいった左側、有斐閣ビルのあたりになる。神保家の名は、幕末の切絵図にも出てくるから、江戸時代を通じてずっとこの地に、屋敷があったことが分かる。神保家ほどではないが、わたしの神保町との付き合いも、きわめて長い。小学生のころから数えれば、およそ半世紀にも及ぶ。高校生のころまで、本を探しによく足を運んだものだし、かよった大学は神田駿河台、就職した広告会社は神田錦町と、いずれも神保町と目と鼻の先の距離にあった。あまりに長い付き合いなので、ついそのよさを忘れてしまいがちだが、かりにわたしが東京から他の土地に移住して、神保町を離れることになったらと考えると、冷や汗を禁じえない。この街に対する愛着は、いわば自分の家や書斎を大切にする気持ちと、よく似ている。神保町は(本の街)といわれ、大型新刊書店や大小無数の古書店がひしめいて、独特の雰囲気を醸し出す。しかし、神保町の魅力は本だけにとどまらない。この街は〈食)に関しても、並なみならぬ文化を持っている。中華をはじめ、イタリア・ブラジル・インド等の各国料理、さらに寿司・うなぎ・ラーメン・蕎麦となんでもあり、飲み食いにはいっさい困らない。戦前・戦後の歴史とともに歩んできた多くの老舗は、再開発で街の景観が一変した今も、なお健在である。そうした新旧すべてを引っくるめて、〈神保町文化)と呼ぶことに異論のある人はいない、とわたしは信じている。
もうひとつ、町会が設置した案内板が立っています。ここは小川町三丁目なのですが、隣の一丁目・二丁目にも同じような町名案内板があるのです。しかも北部・南部と二通りも。
小川町三丁目(南部)
江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693年)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。安政三年(1856年)には、この絵図にも見られるとおり、下野足利藩戸田家・越後高田藩榊原家・信濃高遠藩内藤家の上屋敷がありました。小川町の由来ともなった「小川の清水」は、内藤家の屋敷内にあったといわれています。明治五年(1872年)、この一帯は周囲の武家地を整理して表神保町となり、明治十一年(1878年)、神田区に所属します。町内には、勧工場(百貨店の前身)で時計塔としても知られた南明館、大弓場や寄席などがあり、東京を代表する繁華街でした。昭和八年(1933年)の区画整理により、ここは小川町三丁目となります。昭和二十二年(1947年)に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町三丁目になりました。この界隈は明治のころより学生街として賑わっていましたが、昭和三十年代からは大型のスポーツ用品店が出店しはじめ、現在では東京のみならず日本屈指のスポーツ店街として多くの人々を集めています。
Ogawamachi 3-chome (Southern district)
In the Edo Period, the name Ogawamachi was used to indicate a huge area comprising the western side of Kanda. The name came from a body of water in the area, which was featured in a poem written by a famous warlord. In the Meiji Period, this became a well-known entertainment district, with one shopping center, called Nanmeikan.
須田町に向う10系統・12系統の都電と離れ、小川町交差点の小川町電停から右折して本郷通りに入ります。ここで25系統・37系統と合流していました。小川町交差点からふたつ目の信号が美土代町交差点です。美土代町はもとは神田橋に至る南北に細長い町域でしたが、昭和四十一年の住居表示で大半が内神田一丁目の一部となったものの残地は旧町名のまま残り、現在も交差点北東側に神田美土代町の町名が見られます。字面も読みも美しいこの町名は、古くこの付近一帯に神社の神田(しんでん=みとしろ)があったと伝えられることに由来するもので、神田の地名がそもそもそうした伝承に由来することから、神田美土代町という現在の町名表記は同義語をふたつ重ねているという解釈にもなるようです。
神田橋の袂に千代田区の町名由来板が立っています。
内神田一丁目
江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は、江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用されました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺や目光東照営への御成道(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。明治五年(1872年)、いったん美土代町となりますが、空き地の状態は第二次世界大戦後まで続きました。そして昭和四十一年(1966年)、内神田一丁目に編入されました。昭和五十八年(1983年)、神田橋土木詰所の敷地となっていたこの場所に、内神田住宅が完成すると九十世帯が住むようになり、平成五年(1993年)、千代田区のもっとも新しい町会として、内神田住宅町会が誕生しました。さらに平成十六年(2004年)、町会名は神田橋町会と変わりました。
Uchi-kanda 1-chome
In the Edo Period, this neighborhood near Kanda-bashi Bridge was the site of a loading dock, and was used for the transportation of building materials used for Edo Castle. This area used to be a traffic crossroads, and there were no buildings up until the Meij Period. In 1983, with the completion of a housing project, it became the youngest town association in Chiyoda.
案内板の足下に石碑があります。
物揚場跡
日本橋川水運の物揚場標石ここに出土す 往時をしのぶよすがとして後世に伝える
神田橋電停を出た15系統は、2系統・25系統・35系統・37系統とともに日比谷通りを大手町へと南下し、大手町交差点で左折し、永代通りを東へと向かいました。大手町界隈のビル群も、既に大半は近代的なタワービルへと生まれ変わっていますが、永代通り左手に見える新大手町ビルは、竣工が昭和三十三年ですので都電の車窓風景ともなったビルのひとつになります。その新大手町ビル前付近が、丸ノ内1丁目電停です。都庁前電停から東京駅丸の内口前を北上してきた28系統と31系統がここで15系統に合流していました。
東京駅北側の高架越しに超高層ビルの建設工事が進んでいます。「八重洲二丁目北地区第一種市街地再開発事業」という名称で、東京ミッドタウン八重洲になるのだそうです。赤坂の「東京ミッドタウン」、有楽町の「東京ミッドタウン日比谷」に次いで、都内で3施設目となる「東京ミッドタウン」ブランドの複合ビルとなり、地上45階(高さ240m)・地下4階・ペントハウス2階からなり、39階〜45階には日本初進出のブルガリホテル東京、1階〜4階には区立城東小学校が入ることになっています。竣工は2022年8月の予定です。超高層商業ビルの中に小学校とは奇妙に感じますが、小学校の跡地を敷地に含んだ再開発ということです。最近の区役所の建て替え事業と通じるところがあるようです。
右手に丸ノ内オアゾをやり過ごすと、永代通りは東京駅北側の高架をくぐります。くぐった先で、新幹線の高架沿いを新常盤橋へ抜ける通りが31系統(三ノ輪橋行き)のルートになります。永代通りが外堀通りと交わる呉服橋交差点に呉服橋電停がありました。かつて、外堀通り沿いには江戸城外濠が南北に水を湛えていましたが、戦後に埋め立てられ、橋も濠も現在はその痕跡は残っていません。濠の跡地には大和証券ビルや鉄鋼ビルが建ち、地下には首都高速八重洲線が濠跡に沿って通過しています。呉服町交差点の近くで日本で最高層となる4棟からなる「TOKYO TORCH開発」が始まっています。「A棟」(地上高約212m。竣工済)は「常盤橋タワー」、「B棟」(地上63階・地下4階・延べ面積約54万4千u・地上高約390m。2027年竣工予定)は「TOKYO TORCHタワー」となるそうです。
「TOKYO TORCHタワー」は、トーチ風(たいまつ型)のデザインが特徴です。現在日本一の高さを誇るあべのハルカス(地上60階・高さ30m)や2023年3月竣工予定の虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業メインタワー(地上64階・高さ325m)を上回り、日本一の超高層ビルになります。オフィスを主体とし、62階と屋上に屋外空間併設の展望施設、57〜61階に国際級ホテル(約100室)・3〜6階に大規模ホール(約2千席)、地下1階〜6階に商業ゾーンが整備される予定です。
「TOKYO TORCH開発」は常盤橋プロジェクトとも呼ばれていますが、「常盤」という地名は「常盤色」に由来しているそうです。
江戸時代、ここ「常盤橋」は、江戸城へ向かう表玄関である、「常盤橋御門」が存在する場所でした。この日よけ暖簾(のれん)は、日本独持のもので、江戸時代では商家の表玄関で広く使われていました。ここで使用している緑は日本の伝統色「常盤色」であり、模様のアーチは、現存する都内最古の石造りアーチ橋である「常盤橋」をイメージしています。
During the Edo period,Here in Tokiwabashi' was a place where the 'Tokiwabashi Gomon', the main entrance to Edo castle. This sunshade goods (NOREN) is unique to Japan and it was widely used in front of the store in the Edo period. The green used here is the Tokiwa color, and the arche patterned images 'Tokiwabashi', it is the oldest stone arch bridge existing in Tokyo.
一方、「呉服」の地名はその名の通り幕府の呉服商がこの地に屋敷を構えたことに由来しています。
呉服橋門跡
呉服橋門は、寛永十三年(1636年)に築造されました。門に付属する橋は、現在の丸の内一丁目と中央区の八重洲一丁目を結んでいました。名称は、日本橋側の門前の町名が呉服町(現在の中央区八重洲一丁目)であったことに由来します。また呉服町に幕府御用を勤めた呉服師の後藤家の屋敷があったため、後藤橋とも称されていました。明治四年(1871年)、呉服橋門は枡形石垣と橋を残して撤去され、さらに戦後外濠川が瓦傑により埋め立てられた際に橋も姿を消しました。現在は「呉服橋交差点」・「呉服橋ガード」としてその名前が残っています。
Gofukubashi-mon Gate Site
Gofukubashi-mon Gate was constructed in 1636. The bridge leading to the gate connected current-day Marunouchi 1-chome with Yaesu 1-chome in Chuo City. The name derives from the fact that the locality adjacent to the gate on the Nihombashi Bridge side was called Gofukucho (current-day Yaesu 1-chome, Chuo City). It was also called Gotobashi Bridge, as the residence of the Goto clan, tailors to the shogunate, was in Gofukucho. Gofukubashi-mon Gate was demolished in 1871, leaving only its square-stone wall and the bridge, and when Sotoborigawa River was filled with rubble after WWII, no trace of the bridge was left. Today, the name remains in Gofukubashi Kosaten (Gofukubashi Bridge Intersection) and Gofukubashi Guard (Gofukubashi Bridge Railway Bridge).
明治四年(1871年)撮影の呉服橋門
Gofukubashi-mon Gate in 1871
呉服橋交差点を過ぎると、永代通りは千代田区から中央区に入り、15系統の終点も間近となります。永代通りと中央通りが交差する日本橋交差点では、1系統・19系統・22系統・40系統と交差した他、永代通りでは錦糸町駅前電停からの38系統が折り返し、15系統と茅場町電停までのひと区間を併走していました。永代通りに面して派手な色彩の長崎物産館があります。以前は銀座八丁目にあったと思うのですが、移転してきたようです。珍しい南蛮由来のお菓子類が充実しています。
昭和通りと交差した先の首都高上に千代田橋が架かっています。現在は川底部分が首都高の路面になっていますが、かつて流れていた楓川に架かっていた千代田橋です。最初の架橋は昭和三年(1928年)で、首都高速道路の建設で楓川は埋め立てられてしまいましたが、千代田橋は撤去されずにそのまま残っています。都電15系統もこの橋を渡っていたのでしょう。
千代田橋を過ぎると、茅場町交差点の先に東京証券会館ビルが見えます。この手前辺りに15系統の茅場町電停があったようです。永代通りを併走してきた28系統・38系統はそのまま直進して隅田川に架かる永代橋へと向かっていました。通常の15系統は茅場町電停で折り返しましたが、朝夕のラッシュ時にはさらに永代通りを直進し、門前仲町電停を経て洲崎電停に至る延長運転もありました。
新川一丁目交差点近くに「河村瑞賢屋敷跡」の案内板が立っています。
河村瑞賢屋敷跡
江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(1618年〜1699年)の屋敷がありました。瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦三年(1657年)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。晩年にはその功績により旗本に列せられました。斎藤月岑の「武江年表」によると、瑞賢は貞享年間(1684年〜1688年)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川一丁目二十三番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかつて新川一丁目七番・九番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。「御府内沿革図書」延宝年間(1673年〜1681年)の霊岸島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます。
永代橋の手前に特徴あるビルが建っています。かって山一証券が入っていたビルですが、現在は「RBM茅場町タワー」という看板がかかっています。RBMという名前はあまり馴染みがありませんが、「レジデンス・ビルディングマネジメント株式会社」の略で、高品質なオフィス・高層住宅を社会へ提供することで街に新しい価値を創造するという社訓を掲げた独立系総合不動産会社です。ちなみに、前身は秀和株式会社です。
永代橋の手前に「船員教育発祥之地」の石碑が置かれています。
船員教育発祥之地
内務卿大久保利通は、明治政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎彌太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に、成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。爾来百年、ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。
永代橋を渡ります。橋の中央部分にはアーチ型の支柱がありますが、両端は開放区間になっていて架線を支える支柱がありません。都電が走っていた頃はどうやって電力を供給していたのでしょうか?永代橋からは佃島の超高層マンションが望めます。よくあんな中州に超高層住宅を建てたものです。隅田川が氾濫したらどうやって避難するのでしょうか?
永代橋を越えた先に大島川西支流が流れています。昨年歩いた川で、懐かしいですね。
清澄通りを越えると門前仲町のディープな飲み屋街が拡がります。
といっても、私が行くのは魚三だけです。魚介類のメニューは豊富でしかも安い!無愛想なご主人ですが、午後4時の開店と共に店内にダッシュするのが常連客。でも都電15系統を歩いていた時はコロナ禍で営業時間短縮になっていました。現在は更に厳しく、休業しているのでしょうか?再開したら真っ先に飛んで行きたいものです。
富岡八幡宮は「深川八幡宮」とも呼ばれています。江戸最大の八幡宮で、八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りのっひとつになっています。江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されています。
沢海橋は大横川に架かる橋です。ここも昨年「東京の河川を歩く」で通りましたね。
都電15系統延長線の終点だった州崎電停は、永代通りと大門通りが交差する東陽三丁目交差点付近にあったらしいです。私が歩いた時はその場所が特定できず、その先にある都バスの東陽操車所を通り越して東陽町駅前交差点まで行ってしまいました。東陽操車所というくらいなので、かっては都電の車庫があったのではないかと思っていましたが、都バスと都電の関係はわかりませんでした。
ということで、イマイチ歯切れが悪いのですが東陽三丁目交差点を都電15系統の終点とします。高田馬場駅から州崎までは結構な距離があり、路線が都心部を斜断していることもあって、見どころが多かったです。今では州崎という地名が残っていないことが残念です。
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