都電16系統跡コース(1)  

コース 踏破記  

今日は都電16系統跡を歩きます。都電16系統は大塚駅から錦糸町駅までを結び、その路線は主に南大塚通り・春日通り・清澄通り・蔵前橋通り・四ツ目通りを通っていました。城北から城東へ都心を斜断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。都心の花町から下町の歓楽街を結ぶ粋な路線でした。  

都電16系統

都電16系統の全長は10.4kmで、昭和46年3月18日に廃止となりました。

都電16系統の電停(路上の駅)は、大塚駅・大塚車庫・大塚辻町・大塚仲町・大塚窪町・教育大学・清水谷町・文京区役所・同心町・伝通院・冨坂二丁目・春日町・真砂町・本郷三丁目・春木町・天神下・広小路・御徒町三丁目・西町・竹町・小島町・三筋町・桂町・厩橋・厩橋一丁目・石原町一丁目・石原町二丁目・石原町三丁目・太平町一丁目・太平町三丁目・錦糸掘(後に錦糸町駅前に改称)でした。


スタート地点のJR大塚駅から歩き始めます。大塚は戦前の城北エリアの商業の中心地でした。JR大塚駅の東側には、かつて白木屋デパート大塚分店もありました。駅南口側に残る三業通りの名もかつて三業(料亭・待合茶屋・芸者置屋の三業種の総称)地として賑わった花町の名残です。



JR大塚駅北口に隣接する都電大塚駅前電停は、今も東京さくらトラム(都電荒川線)の現役の停留所です。



都電16系統の大塚駅電停は、現在の都電大塚駅前電停と少し離れた駅南口広場端の都営バス降車専用停留所付近の路上にありました。都電荒川線に引き継がれた旧王子電気軌道の都電32系統は都電16系統より先に開業し、山手線高架下の現在地に電停が設けられましたが、運営母体が異なっていたために都電16系統の折り返し場所となった大塚駅電停との間の線路の接続は行われなかったのではないかと推測されます。都電16系統は、上野を中心とした山の手北部エリアと下町エリアを東西に繋ぎ、都電路線の中でも主要幹線級系統として活躍した路線のひとつでした。全長が10キロを越える路線でしたが、おそらく大塚の住民が錦糸町に出向くことはなく、その逆もまた然りだったことでしょう。乗客はどちらかというと一極集中的な利用形態ではなく、短区間での乗り降りが多かったものと思われます。



都電16系統は大塚駅電停を出発すると緩やかな坂道を登って新大塚へ向かい、新大塚電停のあった大塚五丁目交差点で春日通りと合流し、隅田川を渡りきるまでまっすぐ春日通りを走り続けていました。大塚五丁目交差点から本所一丁目交差点まで一度も右折・左折することがなかったのです。大塚駅電停を出てちょうど二つ目の信号左手に都営南大塚2丁目アパートの建つ一画がありますが、ここがかっての都電大塚車庫の跡地です。都電大塚車庫の開設は明治四十五年でした。当初は現在の地下鉄茗荷谷駅に近い都営バス大塚車庫の場所に開設されましたが、大正十三年に大塚駅近くへ移転することとなり、煉瓦造3階建ての堂々とした建物を構えた新しい大塚車庫が開設されました。昭和四十六年に都電16系統が廃止され、それに伴って大塚車庫も廃止となりました。大塚車庫跡地の近くにある大塚南公園には、都電6000形の保存車両が展示されています。既に50年近く経ちますが、保存状態は良好とのことです。



春日通りを進み、大塚3丁目交差点で不忍通りと交差します。ここで池袋駅を起点とする都電17系統と合流し、春日町まで併走していました。歩道の脇に旧町名の案内板が立っています。

旧大塚上町

もと、小石川村に属した。元禄年間(1688年〜1704年)以来護国寺領大塚上町、伝通院領大塚上町の二か町であった。護国寺領は正徳三年(1713年)、伝通院領は延享二年(1745年)に町奉行支配となった。明治五年、護国寺領と伝通院領および大塚町飛地を合併して、たんに大塚上町と称した。町名は、大塚仲町および大塚坂下町の上にあるので、大塚上町と名づけた。町内の南端の現・大塚三丁目の交差点は、海抜高度が28.9メートルで区内の幹線道路では最高地点である。むかしはここから富士山がよく見えたので、護国寺へ下る坂を富士見坂という。




都電16系統が廃止された後、大塚駅前から錦糸町駅前までの全く同じルートを都電の代替として都市新バス「グリーンライナー」の愛称を持つ都バス02系統が走るようになり、現在に至っています。ちなみに、都バス02系統の一日当たりの乗降客数は数ある都バス路線の中で堂々の第三位となっています。それだけ昔も今も需要が多いということでしょう。時刻表も極めて密で、平日午前8時台にはナント14本のバスが運行されています。最短2分間隔ですから、ほぼ数珠つなぎの状態です。尚、都バス02系統の派生型として、都バス02乙系統があります。こちらは池袋駅東口が起終点となります。都バス02乙系統は、都電17系統の池袋駅〜春日町の区間を引き継いでいるのでしょう。



大塚3丁目交差点から先の春日通り沿いには、お茶の水女子大・東京教育大学(筑波大学の前身で、廃校後跡地は教育の森公園になっています)・拓殖大学・跡見学園などの学校が建ち並ぶ文教地区となっています。これらの学校に通う学生さんも都電を大いに利用したことでしょう。



かっての東京教育大学の敷地跡に造られた教育の森公園の入口に茗渓会館の建物があります。筑波大学およびその前身である東京教育大学・東京高等師範学校の同窓会である社団法人「茗渓会」の施設です。現在は株式会社シーズンにより、嘉ノ雅茗渓館の名称で結婚式場・レストラン・カフェが運営されています。



お茶の水女子大学の隣りに跡見学園があります。白百合女子大学と並ぶお嬢様学校だとか。室町時代の女官たちが使っていたという「ごきげんよう」という挨拶の発祥の地とされているそうです。ちなみに、「ごきげんよう」という言葉は相手の体調や気分をうかがう丁寧な挨拶で、別れの挨拶としてだけでなく、出会いの挨拶としても使うことができるとのことです。初めて知りました。



茗荷谷駅の名称は、小石川台地と小日向台地の間の浅い谷に江戸時代に茗荷畑が拡がっていたことから、この辺りの地名が「茗荷谷」と呼ばれていたことに由来しています。現在は茗荷の本格的な栽培は行われていませんが、拓殖大学文京キャンパス脇の小さな畑では今でも茗荷が栽培されています。



歩道の脇に旧町名の案内板が立っています。

旧清水谷町

もと、小日向村の内であった。のち、弓矢同心衆十四人の拝領地となり、寛永九年(1632年)一部町人借地となる。延宝四年(1676年)町方支配になった。この町は、現在の春日通りに沿った細長い町で、小石川台地の上にあった。台地の上に清水谷とはおかしいが、明治初期の文献では、林泉寺(しばられ地蔵で有名・西隣の旧茗荷谷町)あたりの谷を清水谷と呼んだ。この清水谷をとって町名にした。




小石川5丁目交差点から東の方向に緩やかに下る広い通りが延びています。道路の中央は公園を兼ねた緑地帯となっていて、桜並木が続いています。播磨坂と呼ばれる通りは戦後に計画された環状3号線の一部で、春日通りから千川通りへ下る500メートル程のみが昭和三十年前後に完成しました。外苑東通りの延長上にあたる道路ですが、現在も播磨坂の前後は工事未着手で、突如現れる道幅の広い大通りは不自然に見えます。ここに桜の植樹が行われたのは昭和三十五年のことですが、現在では立派な桜並木に成長し、文京区でも有数の桜の名所となっています。

播磨坂のさくら並木

この通りは、戦災復興事業における付近一帯の土地区画整理によって、都市計画道路環状三号線の一部として造られました。江戸時代、この辺りは松平播磨守の上屋敷でした。また、千川(小石川)が流れる低地一帯には「播磨田んぼ」が広がっていたことから、新しくできたこの坂を「播磨坂」と呼ぶようになりました。立派なさくら並木(現在127本)は、昭和三十五年に「全区を花でうずめる運動」で値えられた若木(樹齢15年)が育ったものです。昭和四十七年からに、毎年4月初めに「文京さくらまつり」が行われ、多くの人々に親しまれています。平成七年(1995年)3月には、全体が「水と緑と彫刻のある散歩道」として整備され、年間を通じて楽しめる新しい名所となりました。




緑地帯の入口に桜並木の由来を記した案内板が立っています。桜の木が植えられた時期は何回かに分かれているようです。

環三通り桜並木の由来

かつて、このあたりは常陸府中藩主松平播磨守の上屋敷で、坂下には千川(小石川)が流れ、「播磨田圃」といわれた田圃があった。戦後できたこの坂は、播磨屋敷の跡地を通り、「播磨田圃」へ下る坂ということで、「播磨坂」とよぶようになった。坂の桜並木は、戦後問もない昭和二十二年、地元の人たちが植えたのがはじまりである。昭和二十八年には小針平三氏他、有志からの苗木寄贈により桜並木が生まれた。その後、並木植樹帯の整備がすすみ、平成七年には装いを新たにした桜並木が完成した。昭和四十三年には「桜まつり」が地元町会・婦人会の協力で開始され、今日まで桜の名所として区民に親しまれている。




東京メトロの小石川車両基地のある一帯は、かって同心町と呼ばれていました。その由来を記した案内板が立っています。

旧同心町

幕府の先手組の同心屋敷があったので、俗に同心町と唱えた。先手組は組頭の下に与力・同心で組織され弓組と鉄砲組とがあった。将軍出陣のとき先ぼうをつとめる。平時は江戸城本丸の諸門の警備や、将軍外出のときは供をしてその警衛にあたった。先手組の組頭は火付盗賊改を兼ねており、与力・同心は市中の警備も行った。同心は与力に属した下級武士である。江戸町奉行配下にも町役入の与力を助ける同心がいた。いわゆる八丁堀の同心である。明治五年、近隣の土地を併せて旧来の名をとり同心町とした。




小石川4丁目交差点の角に堂々とした円柱(ピロティといわれる建築様式らしい)の並んだ建物があります。公立の中学校では考えられないような立派な造りです。それなりに歴史のある学校なんですね。

小石川高等小学校跡

明治四十一年(1908年)4月、新しく小学校卒業生を対象とする修業年限2〜3年の普通教育をほどこす「高等小学校」が設けられることになった。
  • 旧小石川区内で1校設けられたのが、「黒田尋常小学校」(現在地・文京総合福社センター)に併設された「東京市黒田高等小学校」である。生徒数460名。
  • 同年10月に日竹早町109番地(現在地・竹早公園)に独立校舎を新築し移転する。同時に名称を「東京市小石川高等小学校」と改める。
  • 昭和三年(1928年)、この地(日同心町20)に鉄筋校舎を新築移転する。生徒数1374名。
  • 昭和十六年(1941年)4月、「東京市小石川国民学校(高等)」となる。
  • 昭和二十二年(1947年)3月、学制改革により廃校。新設の「文京区立第三中学校」に引き継がれる。
その後、校舎は「小石川工業高校」「小石川高校」が使用したが、昭和三十五年4月から「文京区立茗台中学校」となった。




小石川4丁目辺りは、かっては竹早町という地名でした。江戸期に御箪笥町という町名があった場所ですが、「箪」の字を分解して「竹早」の町名としたといわれます。現在でも、東京学芸大学附属竹早小学校・中学校とか東京都立竹早高等学校とか、付近の学校名や公園名などに竹早の名が残されています。



電通院交差点で、右手の安藤坂を上ってきた都電39系統が合流し、この先厩橋電停まで併走していました。交差点左手には、広い通りの正面奥に伝通院の山門があります。伝通院の正式名称は無量山伝通院寿経寺といいますが、今も昔も寿経寺の名ではどこの寺だか分からないほど伝通院の名が広く浸透しています。電通院の寺名は徳川家康の生母・於大の方に因んでいます。慶長七年(1602年)8月に於大の方が京都伏見城で死去しました。翌年、家康は母の遺骨をこの地に埋葬し、現在まで残る墓を建立しました。そして於大の方の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院としました。境内には徳川家縁の女性や子供(男児)が多く埋葬されています。墓地には巨大な墓石が幾つも並んでいます。



富坂が始まるところに中央大學理工學部の校舎が建っています。以前は校舎の屋上にくるくる回る奇妙な装置がありましたが、現在はアンテナらしきものが上空をにらんでいます。大学のHPによれば、気象センサーや全天カメラなどのスカイモニターを納めたミニドームらしいです。くるくる回っていた装置も気象レーダーか何かだったのでしょう。



中央大學理工學部から文京区役所が入る文京シビックセンターの手前まで割と急な下り坂になっています。その横手に礫川公園があります。石垣の前に2枚の案内板が立っています。

旧小石川町

京都聖護院門跡道興准后が、「廻国雑記」(文明十八年・1486年)に次のことを書いている。「ここ(上野忍岡)を過ぎて小石川と言へる所にまかりて、我方を思ひ深めて小石河いつをせにとかこひ渡るらん」。また、「江戸砂子」(享保十七年・1732年)に、「小石多き小川が幾流もある故なり・わけて伝通院の後の流、ねこまた橋の川筋小石川の濫觴(らんしょう:物事の起こり・始まり・起源)なり」とある。むかし、千川(小石川)、江戸川(神田川)や周囲の高台から流れた細流が、現在の後楽園一帯で合流していた。これらの川は砂や小石が多かったので、この辺を小石川村と呼んだ。明治五年、小石川町とした。

富坂

「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本」にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。また、春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、“アララギ”の編集にあたっていた。
「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876年〜1926年)




ついでに礫川公園の中に入ってみます。手入れの行き届いた綺麗な公園で、人工の滝も造られています。



今日は早春の2月初旬で、木々はまだ葉を落としたままです。一本の木の前に案内板が立っています。案内板には、幸田露伴の孫で幸田文の一人娘である青木玉さんの寄稿文が添えられています。

幸田文ゆかりの「ハンカチの木」

「ハンカチの木」は、19世紀中頃中国に滞在したフランス人宣教師アルマン・ダビットによって、四川省の西境で発見され、発見者にちなんでダヴィディアと命名された。白い花びらのように見える部分は、大小たれさがった苞であり、これがあたかもハンカチを広げたように見えることから和名「ハンカチノキ」と名づけられた。なお、別名「ハトノキ」とも呼ばれる。一科一属一種といわれている珍しい木で、落葉高木、花は雌雄同株の丸い花序で、白い苞片に守られているように見える。4〜5月に花をつけ、5月初旬が見頃である。作家の幸田文(1904年〜1990年)が小石川植物園の山中寅文(東京大学農学部技術専門員)から譲りうけたこの「ハンカチの木」は、長女で随筆家の青木玉の庭に仮り植えされていたものである。平成十四年(2002年)12月、多くの方々に見ていただきたいという青木玉の好意により、ここ傑川公園に移植された。平成十六年(2004年)は幸田文生誕100年にあたる。

縁のある木

縁のあるなしは人ばかりではない。樹木にもそれがあり、時に思いもかけぬ縁が生じることがある。この木はたまたま私の家の庭に根を下してから開花を迎えるまで、実に二十年近い年月を過した。「ハンカチの木というのだから、きっと白い花が咲くのだろう」と、木を贈られた母は初花を楽しみにしたが、平成二年他界し、ついに花を見ることはなく、私は花を待つことを忘れた。それから七年、まぶしいほど明るい五月の空の下で新緑が萌え、枝先に大小二枚の真白な苞が風に揺れていた。中心に小さな蕾の集合体を両手で大切に囲っているように見える。木に咲く花のかたちとしては、他に類がなく、自然はたった二枚の白く美しい不思議な姿の花をハンカチの木に与えたかと胸が熱くなる想いで見守った。母が見たならどんなに喜んだか。多分それは私の目を通して、伝わったであろうと信じている。母から私に引き継がれたこの木が、新しい場所で、更に多くの方々との御縁を結ぶよう心から願って止まない。
平成十六年一月
青木玉




公園にはもう一本、歌詞が添えられた案内板を前にして枝振りのよい木が植えられています。

童謡「ちいさい秋みつけた」とはぜの木

童謡の名作を数多く残したサトウハチロー(1903年〜1973年)は、昭和十二年(1937年)秋、上野・桜木町から向ヶ岡弥生町に転居した。家の庭には、はぜの木が植えられ、仕事部屋からよく見えた。童謡「ちいさい秋みつけた」は、深紅に染まったはぜの枝葉を眺め作詞された。昭和三十年(1955年)秋のことである。ハチローの没後、旧宅は記念館に改装され、遺稿や愛用品が展示されたが、平成七年(1995年)館は閉鎖され、平成八年(1996年)記念館は北上市に新設された。その後、残された"はぜの木”は木の延命を図るため5本の枝を残し、切り株状にして平成十三年(2001年)10月、この地に移植された。樹齢約70年、毎年深紅の枝葉が“ちいさい秋”を語り伝えてくれる。

ちいさい秋みつけた (三番)

サトウハチロー作詞
中田喜直作曲

誰かさんが 誰かさんが
誰かさんが みつけた
  ちいさい秋 ちいさい秋
ちいさい秋 みつけた
むかしの むかしの 風見の鳥の
ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
はぜの葉あかくて 入日色
ちいさい秋 ちいさい秋
  ちいさい秋 みつけた




富坂を下ったところに文京区役所電停がありました。現在文京シビックセンターが建っている場所には、かって文京公会堂が建っていました。文京公会堂は、昭和三十四年(1959年)に開催された「第1回日本レコード大賞」の授与式や1970年代の人気番組である「8時だヨ!全員集合」の生放送会場としても使用されていました。ちなみに、第1回日本レコード大賞は水原弘が歌った「黒い花びら」でした。



春日町交差点で白山通りと交差します。白山通りには、都電2系統・都電18系統・都電35系統が南北に通っていました。大塚仲町から併走してきた都電17系統はここで白山通りへ右折し、数寄屋橋方面へと向かいました。都電17系統の線路は交差点のかなり手前で春日通りから右へ分岐し、交差点の南西角に三角形のスペースを作り出していました。これが待機場所の役目も果たしたようで、三角形の真ん中には電車を捌く信号塔が立っていました。その跡地でしょうか、現在でもかなり広い三角形の緑地があり、そこに大きな石と案内板が置かれています。

神田上水の石樋の石

ここに使われている石は、江戸時代に神田上水で使われていた石樋の一部で、昭和六十二年、外堀通りの工事中に現在の水道橋付近から発掘されたものです。神田上水とは近世都市の江戸で最初に整備された上水道であり、コ川家康が江戸入りと同時に造らせたと言われています。水源となる井の頭池の湧水を、大洗堰(現在の文京区関口)を経てから水戸屋敷(現在の小石川後楽園一帯)に入れ、そこから先は暗渠(地下の樋)で通しています。この暗渠で使われていたのが、石樋(石で作った樋)です。なお、お茶の水坂からは、掛樋(木で作った樋)で神田川の上を横断させて、神田・目本橋方面に飲料水として給水されていました。




今度は真砂坂を登ります。真砂坂は本郷・小石川の台地に囲まれて区役所の付近が谷地になっているために、谷地から台地上に登るかなり急な坂になっています。その途中に、現在廃校となった錦秋学園高等学校の歴史を記した案内板が立っています。区画整理が原因で廃校というのも珍しいですね。

学校法人 錦秋学園中学・高等学校由来

錦秋学園は、明治四十二年に秋間為子による個人経営で当地に創立されました。昭和二年十二月二十一日に全財産を投じ、法人財団錦秋高等女子学校を設立、更に昭和六年一月に財団錦秋女学院に名前を変更、昭和二十二年四月には新学制により、錦秋高等女学校を発展的に解消し、錦秋中学校を設立、同二十三年には申請の錦秋学園高等学校を設置して新教育令により民主的女子教育しておりましたが、昭和三十九年、東京都の区画整理の一環として前面道路の拡張計画の為、昭和四十七年から生徒募集を停止、本校の現状から残地に新校舎の建築は到底不可能のため休校。設立以来六十四年間で、約二万人の卒業者を送った。昭和四十九年三月十五日、東京都多摩市に錦秋幼稚園を設置し、現在まで三千五百九十名の卒園生を送り出している。




本郷3丁目交差点で本郷通りと交差します。本郷通りには、王子駅と通3丁目を結んでいた都電19系統が走っていました。交差点の南西角に「かねやす」と大書きされたシャッターが見えます。近年まで雑貨屋として営業していたそうですが、数年前に店を畳んだようで今はシャッターを下ろしたままになっています。

かねやす

兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった(御府内備考による)。享保十五年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺きの家が続いた。その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。「本郷も かねやす までは江戸のうち」と古川柳にも歌われた由縁であろう。芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。




本郷3丁目交差点の先に古めかしい重厚な建物の教会が建っています。「日本キリスト教団本郷中央協会」の中央會堂で、明治二十三年創立・大正十二年震災・昭和四年復興と書いてあります。登録有形文化財に指定されているようです。「真理は汝等に 自由を得さすべし」とありますねぇ。「汝等」は「うぬら」とも読みますが、ここでは「なんじら」と読むのが普通でしょう。



真新しいビルの前に白い樹皮の木が植えられています。南江堂創立110周年と第一社屋新築を記念して植えられたとのことです。南江堂は明治十二年(1879年)の創業以来、「文化的意義の深い出版事業を通して社会に貢献する」という理念のもと、医学・薬学・看護学・リハビリテーション医学・栄養学などの専門図書を刊行してきました。今日では、年間約100点にもおよぶ新刊書籍のほか、月刊誌として臨床雑誌「内科」・「外科」・「整形外科」・「胸部外科」と、「がん看護」(隔月刊)を発行し、全国の医療関係者に広く購読されています。また、医学の洋書・洋雑誌の輸入販売では、世界各国の出版社とネットワークを築き、国際的にも高い評価を得ています。さらに、電子書籍や電子ジャーナルにも取り組み、時代のニーズに応える総合的な医療情報の提供をめざしています。

ヒポクラテスの樹(Platanus orientalis L.)

医聖ヒポクラテスは紀元前460年〜375年にギリシャのコス島に生き、格言「人生は短く学術は永遠である」を遺した。篠田秀男博士(慶応義塾大学医学部1927年卒)は1955年コス島に聖跡を訪ねヒポクラテスの樹(プラタナス・オリエンタリス)の果実5個を母国にもたらした。ここに繁る一樹は1962年岩岡豊麻氏が篠田氏の株より挿木し育成したもので両氏のご厚意により南江堂の発展を祈り寄贈されたものである。




<<写真多数のため、都電16系統跡コース(2)に続きます。>>




戻る