都電16系統跡コース(2)  

コース 踏破記  

<<都電16系統跡コース(1)の続きです>>  

本富士警察署・本郷消防署の先に麟祥院があります。春日通りに面した参道の入口には春日局の像が建っています。麟祥院は春日局の菩提寺なのです。像の後方には文京区の石碑が置かれています。碑文には文京区と春日局の縁が記されています。

文京区と春日局

文京区「春日」の地名は春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町とよばれていました。また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり、文京区は春日局と歴史的に深い縁があります。昭和六十四年一月(1989年)より一年間NHK大河ドラマ「春日局」が放映されました。文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」を設置し、区民の皆様と共に区内の活性化・地域の振興を図ることを目的として種々の事業を推進しました。ここに本事業を記念して春日局像を建立することにいたしました。




麟祥院の山門前には「春日局終焉之地」と書かれた石碑が建っていて、横に案内板も置かれています。

春日局の墓

春日局(天正七年〜ェ永二十年・1579年〜1643年)は、三代将軍コ川家光の乳母で名はお福。稲葉正成との間に三児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る。慶長九年(1604年)家光(竹千代)が生まれるとその乳母となり、生涯家光に仕えた。この麟祥院は、寛永元年(1624年)春日局隱棲所として創建され、「報恩山 天澤寺」と称した。局の死後、寺は局の菩提寺となり、法名にちなみ「天澤山 麟祥院」と改めた。墓地奥にある局の墓は、無縫塔(「無縫」とは無形無相を意味し、卵形にかたどるという意味の仏語。墓石で台座の上に卵形の石塔婆をのせた形のものをいう。)で四方に穴が貫通した特異な形をしている。




せっかくなので春日局様にご挨拶していこうと思います。山門を入り、境内を抜けた先の墓地につながる通路の横には「東洋大学発祥之地」と書かれた石碑も置かれています。お寺の建物を借りて学校を始めたとのことです。

哲学館跡

明治二十年(1887年)、この麟祥院内に「東洋大学」の前身である「哲学館」が創立された。創立者井上円了は、安政五年(1858年)越後国(新潟県)の寺に生れる。明治十八年(1885年)東京大学文学部哲学科卒業。2年後の明治二十年(1887年)9月16日、哲学諸科の教授を目的として、私立学校「哲学館」を境内の一棟を借りて開校した。哲学館では、授業以外に講義録を毎月3回発行して、今日でいう通信教育を行うなど哲学の普及につとめた。円了は大正八年(1919年)大連で逝去。享年61歳。




墓地の入口に「春日局 墓所 順路」と書かれた立て札が立っています。チラッとは見ましたが、正面奥に何やら丸みを帯びた墓石が建ち並んでいる一画があります。あそこが春日局の墓地に違いないと確信し、立て札の順路も確認せずに正面奥に向ってずんずん歩いていきます。墓地の奥まったところに、たくさんの卵形でのっぺらぼうの墓石が並んでいます。墓石が沢山あるので、どれが春日の局のお墓なのか分りません。よ〜〜〜く見渡してみますが、「無縫塔で四方に穴が貫通した特異な形」をしている墓石は見当たりませんね。それどころか、ここにある全ての墓石は卵形をしていますが、穴の空いたものはひとつもありません。四方を見渡してみたのですけど、他に卵形の墓石はありませんね。これ以上探しても時間がもったいないので先を急ぎましょう。



でも気になって帰ってからネットで調べてみました。すると、墓地には確かに春日局の立派な墓所があるんですね。どうにも気になって別の日に再訪してみました。墓地の入口にあった立て札の順路を見ますと、先日春日局の墓所だと思っていた場所とは全然違うところが順路図に記されています。墓所の入口から鍵型に進んだ一番奥に春日局の墓所があるとのことです。周囲には春日局に縁のある稲葉家・堀田家のお墓もあるようです。墓地の奥まった一画に周囲を木々に囲まれ、石垣が積まれた墓所があります。卵形をした墓石で、正面中央に丸い穴が空いています。横に回ってみますと、もうひとつの穴も直交するように空いています。確かに「無縫塔で四方に穴が貫通した特異な形」をしていますね。



墓所の横に案内板が立っています。乳母とはいっても、生涯家光に尽くしたのですね。春日局様にご挨拶をして麟祥院を後にします。

春日局

幼名は福。父は明智光秀の重臣齋藤内蔵助利三、母は刑部少輔智道明の女(むすめ)で、はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝・正定・正利の三子をもうけましたが、慶長九年(1604年)三代将軍家光公の乳母として召出され、三千石を賜わりました。家光公が将軍職に就くため献身的な活躍をし、大奥の制度の確立に尽したことは有名です。ェ永五年家光公二十五歳の折、疱瘡にかかられ、諸医の手当にも験(しるし)がなかった時、局は斎戒沐浴して東照大権現の神前に詣で、「将軍の病が平癒したら今後私が病気になっても絶対に薬を服用しません」と祷りました。その忠誠心に感応してか、日ならずして家光公の病気が恢復(「回復」の元々の漢字)しました。そのため局は身の終る迄針灸薬餌を一切用いなかったと言うことです。ェ永六年京都へ上り御所へ参内し、春日局の号を賜り、後水尾天皇より天盃を頂戴しましだ。同九年再び台命により上洛し、明正天皇より従二位に叙せられました。ェ永二十年(1643年)九月十四、六十五歳で卒し、当院墓地に葬られました。




湯島天満宮は東京の代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っています。受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れますが、普段も学問成就を願う人や修学旅行の学生達で賑わっています。境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った藤原亮子・小畑実による湯島の白梅は戦中時の歌として大ヒットしました。歌のタイトルのように、境内の約300本の梅の木のうち約8割は白梅となっています。切通坂は、湯島天満宮から湯島駅・御徒町駅方面に繋がる春日通りの緩やかな傾斜の坂です。

切通坂

「御府内備考」には「切通は天神社と根生院との間の坂なり、是後年往来を開きし所なればいふなるべし。本郷三・四丁目の間より池の端、仲町へ達する便道なり、」とある。湯島の台地から、御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、その名がある。初めは急な石ころ道であったが、明治三十七年(1904年)上野広小路と本郷三丁目間に、電車が開通してゆるやかになった。映画の主題歌「湯島の白梅」"青い瓦斯灯境内を出れば本郷切通し"で、坂の名は全国的に知られるようになった。また、かって本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2−38−9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が、朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂である。

二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上りしも 勤めなればかな
石川啄木




切通坂の中程に石川啄木の歌碑と当時の苦しかった生活ぶりを記した案内板が置かれています。

この歌は、石川啄木(1886年〜1912年)の明治四十三年(1910年)の作で、「悲しき玩具」に収められている。文字は、原稿ノートの自筆を刻んだ。当時啄木は、旧弓町の喜之床(現本郷二ノ三八ノ九・新井理髪店)の二階に間借りしていた。そして、一家五人を養うため、朝日新聞社に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。夜勤の晩には、終電車で上野の広小路まで来たが、本郷三丁目行きの電車はもう終わっている。湯島神社の石垣をまさぐりながら、暗い切通坂を、いろいろな思いを抱いて上ったことであろう。喜之床での二年二か月の特に後半は、啄木文学が最高に燃焼した時代である。この歌は、当時の啄木の切実な生活の実感を伝えている。文京区内で、最後に残っていた啄木ゆかりの家”喜之床”が、この(昭和五十五年)三月十八日に、犬山市の博物館「明治村」に移築、公開された。



切通坂を下りた先の上野広小路交差点で中央通りと交差します。中央通り上を南北に都電1系統・都電20系統・都電24系統・都電30系統・都電37系統・都電40系統の6路線が走り、春日通り上の都電16系統・都電39系統と合わせると、実に8路線が通過する交差点となっていました。上野広小路交差点は、都電16系統が山の手から下町へと沿線の風景が切り替わる地点でした。上野で有名な通りといえば、アメ横の愛称で知られる「アメヤ横丁」ですね。ですが、中央通りとアメ横の間に位置し、アメ横に並行してもうひとつの通りがあります。アメ横上中(うえちゅん)と愛称される上野中通り商店街です。上野中通り商店街の始まりは江戸時代まで遡ります。寛永寺や摩利支天徳大寺にお参りに来る人々で賑わっていたのが商店街の始まりでした。「上中」の愛称と商店街のシンボルとなっている入口のアーチにあるロゴは、日比野克彦氏が手掛けたものです。アメヤ横丁(正式名称は「アメ横商店街連合会」)は、御徒町駅と上野駅間の山手線・その他JR線の高架橋西側と高架下の約500m〜600mを中心に約400店舗を有する商店街です。「対面販売で交渉次第で更にお安く!!」がキャッチコピーです。商店街が「アメヤ横丁」という名称で呼ばれるようになったのにはふたつの説があります。第二次世界大戦直後、砂糖が手に入りにくかった時代にマーケットの周辺で露店を出した中国からの引揚者会が飴を販売し、甘味に飢えた人々の間で大好評を博したからとか、「芋あめ」を売る店が並んでいた(飴屋横丁)ためという説がひとつ。もうひとつは、アメリカ進駐軍の放出物資を売る店が多かった(アメリカ横丁)からという説です。現在でもアメヤ横丁問屋街には飴などの菓子類を売る店があります。御徒町駅前のガード下をくぐった先で昭和通りと交差します。昭和通り上には、南北に都電21系統が走っていました。



国道6号線・江戸通りと交差する手前に榧寺(かやでら)があります。榧寺は慶長四年(1599年)に開山され、元々は「池中山盈満院正覚寺」という名称でしたが、境内に榧の大木が繁っていたことから榧寺と呼ばれていました。

KAYADERA BUDDHIST TEMPLE (Pure Land Denomination. Originally built in 1580.)

This temple, named after a 1000-year-old torreya tree (Kaya), is known for the guardian of fire, Akiba Gongen sculpted out of the giant torreya tree. It is said that the principal image, Amida Buddha was made in the 10th century. A picture scroll detailing the history of this temple is designated as cultural assets of Taito City. Hokusai's painting, Taka-Toro (the hanging lantern) of Kayadera, is modeled on this temple.




榧寺には、檀徒であった石川雅望のお墓があります。塀の前に案内板が立っています。

石川雅望墓

石川雅望(1753年〜1830年)は江戸後期の国学者・狂歌師です。旅館糟屋七兵衛こと浮世絵師石川豊信の子として生まれ、六樹園・五老斎などと号しました。国学を津村淙庵、狂歌を太田南畝らに学び、狂名を宿屋飯盛といいました。天明年間に狂歌檀に台頭し、狂歌四天王に数えられます。ェ政三年、宿屋経営に関連して江戸を一時離れますが、このころ、国学に務め「源註余滴」や「雅言集覧」を著します。文化期には狂歌檀に復帰し、文化文政時代の狂歌界を鹿津部真顔と二分する勢力となります。真顔の俳諧歌体に対して俗情俗語の狂歌の軽妙さを主張しました。「(百人一首)古今狂歌袋」などの狂歌絵本や「万代狂歌集」などの狂歌撰集の他「草まくら」などの紀行文もあります。

Historic Places Ishikawa Masamochi Haka (The Grave of Ishikawa Masamochi)
Provisionally designated in 1924, Designated in 1955

Ishikawa Masamochi (1753-1830) is a Japanese classical scholar and a poet who composed a Kyoka (comic poet) in the late Edo Period. He was born as a son of Ishikawa Toyonobu, an Ukiyoe painter. His pseudonyms were Rokujuen and Gorosai. He learned Japanese classics from Tsumura Soan and comic poem by Ota Nanpo. His pseudonym as comic poet was Yadoyameshimori. In the Tenmei period, he joined the society of comic poets, where he was counted among the 4 best poets. He wrote "Genchuyoteki" and "Gagenshuran", which are about Japanese classics. He also wrote "Hyakunin-isshu Kokonkyoka bukuro", which is a picture book of comic poem, "Mandai Kyokashu", which is a collection of comic poem and traveler's journal "Kusamakura".




石川雅望の案内板の下に、葛飾北斎の「榧寺の高灯籠」の絵が掲げられています。隅田川に架かる厩橋のところには江戸時代には橋は無く、代わりに「御厩河岸の渡し」と呼ばれた渡し舟がありました。この絵は御厩河岸の渡しの風景を描写したもので、渡しの目印となったのは榧寺の盆名物の高灯籠でした。絵の左側の赤い枠からはみ出た竹竿のてっぺんに飾り物と行灯をつけたものが榧寺の高灯籠です。



葛飾北斎の描いた「榧寺の高燈籠」です。
Picture on the right, "Lantern of Kayadera Temple" by Katsushika Hokusai.

塀の前には榧寺に伝わる観音菩薩坐像の由来を記した案内板も立っています。

銅造観音菩薩坐像

本観音菩薩坐像は銅製・鋳造で、総高が208.4センチメートル、像高は100.2センチメートルである。像に刻まれた銘文によると、宝暦年間(1751年〜1764年)に室生寺の僧、快心の発願によって江戸の鋳物師、粉川市正が制作し、当寺の本堂前に安置した。粉川市正は江戸神田を拠点に、江戸時代中期から明治時代にかけて活躍した。代々、粉川市正を名乗り宗信・宗次・国信など五代から七代ほど続いたと考えられ、全国に100例以上の作例が知られる。本像を制作したのは、他の作例から粉川市正藤原宗信と推定される。また文政十年(1827年)に丸山佐助が、本像を修理するために多くの浄財を募り、多川民部が修理を行なった。多川民部は正徳年間(1711年〜1716年)以降に活躍した鋳物師で、神田鍛冶町三丁目(千代田区)に居住していた。遺例はわずかであることから、本像は多川民部の活動の一端を知る貴重な資料である。本像は、台座に刻まれている銘文から奉納者・制作者・制作年代などを知ることができる。また、江戸を代表する鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品であり、江戸時代の鋳物師の技術・活動を知る上での基準となるものである。平成二十三年三月に台東区有形文化財(彫刻)として台東区区民文化財台帳に登載された。

Seated Copper Statue of the Bodhisattva Kannon

This seated statue of the bodhisattva Kannon is a cast made of copper. The total height of the statue is 208.4 centimeters, while the image itself is 100.2 centimeters tall. According to the inscription on the statue, Kaishin, a monk from Muro-ji, was inspired to commission the production from a caster in Edo named lchinokami Kokawa during the Horeki era (1751-1764). The statue was enshrined in front of the main temple building. Ichinokami Kokawa was active in the Kanda area of Edo from the the middle of the Edo period through to the Meiji period. It is thought that the Ichinokami name was passed down for five generations or more (possibly as many as seven generations) of casters, including Munenobu, Munetsugu, and Kuninobu. There are more than 100 known Ichinokami works throughout the country. It is assumed from other works that this statue was cast by Ichinokami Kokawa Munenobu Fujiwara. In 1827, Sasuke Maruyama collected numerous donations in order to repair the statue. The repairs were carried out by Minbu Tagawa, who was actively working as a caster during the Shotoku era (1711-1716) and who lived in Kaji-cho 3-chome, Kanda (Chiyoda-ku) Very few of Minbu Tagawa's works remain, so this statue is a precious insight into his activities. The inscription on the pedestal informs us of the statue dedicator, the producer, the time of production and more. It is a valuable object in terms of conveying the style of an exemplary caster from the Edo period, and it also provides a reference point for understanding the technology and activities of casters from that time. In March 2011, the statue was registered in the Residents of Taito-ku Cultural Properties Registry as a Taito-ku Tangible Cultural Property (Sculpture).




江戸通りと厩(「厠:かわや」ではなく、うまやです)橋交差点で交差します。江戸通り上には、都電22系統が南北に走っていました。また、伝通院前から都電16系統と併走してきた都電39系統がここで折り返しになっていました。交差点の先に、年代物のレジスター機器をショーウインドウに並べたお店があります。ウインドウに書かれている「TECレジスター」とは、東芝テック製のレジスターのことのようです。東芝テックは、社名・企業形態に変遷はありましたが、大正時代に国内初の金銭登録機を発売した会社です。なお、「TEC」とは旧社名の東京電気(Tokyo Electric Company)の略称です。POS(販売時点情報システム)システムを中心とするリテールソリューション事業を展開しています。国内外でPOSシステムのトップシェアを誇っています。ここは販売店みたいですが、年代物のレジスターが並んでいたので博物館かと思いました。



厩橋は三連のタイドアーチからなる橋です。現在の橋は関東大震災後に復興事業として架けられました。蔵前と本所を渡した厩橋は明治時代に初めて架けられましたが、江戸時代には渡船が往き来していました。この付近の隅田川沿いの河岸地を御厩河岸と呼びましたが、これは幕府の厩があったことによるもので、江戸っ子は御厩を「おんまい」と発音したといわれています。初代の厩橋は木橋で、明治二十八年から二代目の鉄橋となり、その10年後の明治三十八年から電車が橋を渡るようになりました。アーチは架線を取り付けるには便利そうに見えますね。都電16系統の特徴として、大塚駅前を出発してから厩橋を渡った先の本所一丁目交差点を右折するまで、多少の曲がりはありましたが、一度も交差点で右折・左折をしていないのです。都心部を走っていた都電で、交差点を全て直進して長い距離を走り続けていた路線の中ではある意味希少な存在だったといえるでしょう。



本所一丁目交差点を右折した先に横網(「よこずな」でなく、「よこあみ」と読みます)町公園があります。東京市が陸軍の被服廠(ひふくしょう:軍服などを作る工場)が移転した跡地を買収し、公園として造成を進めていましたが、その最中に発生したのが関東大震災です。まだ空き地状態だった被服廠跡地には周辺の人たちが家から布団や家財道具を持ち出し、続々と避難してきました。ちょうど昼時であったことと、台風の余波で強風が吹いていたこともあり、各所で火災が発生しました。やがてこの被服廠跡にも強風にあおられた炎が四方から迫り、その火の粉が持ち込まれた家財道具などに燃え移りました。激しい炎は巨大な炎の竜巻・火災旋風を巻き起こし、一気に人々を飲み込みました。この地だけで3万8千人もの命が失われました。関東大震災で亡くなった人々の霊を弔慰するため、四十九日に相当する大正十二年10月19日に、この地において東京府市合同の大追悼式を挙行したのがこの公園の歴史を刻む最初の出来事でした。当初「大正震災記念公園」と仮称された公園でしたが、昭和五年(1930年)に慰霊堂(当時は震災記念堂)や鐘楼・日本庭園が完成し、9月1日に横網町公園として開園しました。翌年の昭和六年には復興記念館も完成し、現在の横網町公園となりました。

横網町公園

関東大震災(大正十二年・1923年)や、東京空襲(昭和十九年〜二十年・1944年〜1945年)による悲劇を、記憶・伝承し、その犠牲になった多くの人々を慰霊する公園です。

Yokoamicho Park

This park is dedicated to the remembrance of the many victims of the Great Kanto Earthquake (1923) and the Tokyo Air Raid (1944-1945), to commemorate and preserve the memory of these tragedies.

東京都慰霊堂

関東大震災、および東京空襲の遭難者、16万人余の御霊を慰霊する施設です。昭和五年(1930年)に建てられました。堂内には絵画等の展示もあります。どなたでも入堂できます。
入堂無料、9時〜16時30分、年末年始は閉堂

Tokyo Metropolitan Memorial Hall

Built in 1930, this hall is a memorial for more than 160,000 lives lost during the Great Kanto Earthquake and the Tokyo Air Raid. Paintings and other archives are on display in the hall, and it is open to the public.
Free admission, open 9:00 am to 4:30 pm. Closed for the New Year's holiday.

復興記念館

関東大震災からの復興事業を記念するために昭和六年(1931年)に建てられました。関東大震災、東京空襲の被害や復興に関する資料を展示しています。
入館無料、9時〜16時30分(入館)、毎週月曜日(祝日の場合は翌日)および年末年始は休館

Great Kanto Earthquake Memorial Museum

This museum was built in 1931 to commemorate the reconstruction project following the Great Kanto Earthquake. Documents and other materials related to the damage caused by the earthquake and the Tokyo Air Raid, as well as to the ensuing reconstruction, are on display.
Free admission, open 9:00 am to 4:30 pm (entry). Closed on Mondays (if a national holiday, closed the following day) and for the New Year's holiday.





公園内には関東大震災で焼け爛れた多くの遺物が展示されています。

自動車の焼骸 Remains of a Burnt Car

自動車のボディが焼失し、シャシーだけが残ったもの。この自動車は車両番号第一号という古い歴史を持ち、銀座の明治屋商店で震災直前まで使用されていたという。




鉄柱の熔塊 Mass of Melted Iron Pillar

大日本麦酒株式会社吾妻橋工場内の鉄柱が猛火により溶解し、かたまりとなってしまったものである。




復興記念館内には、関東大震災と太平洋戦争で生み出された数多く展示品が並べられ、日本が被った悲惨な実態が間近で見られます。

東京都復興記念館案内

震災復興記念館は、大正十二年(1923年)9月1日に発生した関東大震災の被害や惨状、その後の復興事業を伝えるため、昭和六年(1931年)8月18日に開館しました。館内には震災復興を祝って昭和四年(1929年)9月に開かれた帝都復興展覧会の展示品、絵画や写真・図表・被災資料及び市民からの寄贈品などが展示されています。震災から立ち直った東京は、太平洋戦争末期の空襲で再び焼け野原となりました。そこで戦後、戦災関係資料の展示が追加され、「東京都復興記念館」と名称を変更しました。今では震災・戦災の記憶とともに、昭和初期の都市計画や街づくりを伝える貴重な展示施設となっています。

横網町公園復興記念館(震災記念屋外ギャラリー)

大正十二年(1923年)9月1日午前11時58分に発生した関東大震災の被害は、死者及び行方不明者10万6千人余、負傷者5万2千人余、家屋の損害は69万4千戸余にも達した。ことに家屋の密集した東京の下町では、地震後発生した大火災による猛火、熱風により、諸々の建築物はもちろん多くの人々が焼死し、その光景はさながら地獄絵の如く惨たんたるものであった。当「震災記念屋外ギャラリー」は、その震災による被災品を展示することにより、過去におきたその惨劇を後世に伝え、二度と同じような不幸がおこらないことを深く願って建造されたものである。

YOKOAMI OPEN GALLERY

The Great Earthquake which occurred in the Kanto region on September 1, 1923, brought unprecedented damage mostly to the cities of Tokyo and Yokohama as well as other places. Especially in congested down town (Shita-machi) housing areas, the Sumida river was buried with many corpses. The Yokoami Open Gallery was constructed in the hope that such a disaster should never be repeated and to make future generations aware of this tragedy by displaying fragments and remains of the damage.




東京都慰霊堂は、建築家伊藤忠太の手によるものです。公園の隅には、幽冥鐘の堂が建っています。文中の王一亭は、清朝末期に活躍した中国の実業家・書画家・銀行家・政治家です。上海を中心に活動した一方、中国同盟会にも参加した革命派の人物でもあります。画家としても優れた業績を残し、仏教徒としての活動も顕著でした。

幽冥鐘の由来

この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈されたものです。震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、此の鐘声の功徳に依って永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海・横浜経由で大正十四年(1925年)11月1日、記念堂建設地(横網町公園)に運ばれました。この鐘を安置する鐘楼は、昭和五年(1930年)8月31日に現在地に完成し、同年10月1日「梵鐘始撞式」を行いました。なお、これら一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏の特段のご尽力がありました。




本所一丁目交差点から清澄通りを僅かに走り、石原一丁目交差点を左折して蔵前橋通りに入ります。厩橋で都電16系統に合流した都電23系統は、月島方面へ向けて清澄通りを南下していきました。また、清澄通りの駒形橋方向からは、福神橋行きの都電23系統が両交差点間のみ合流していました。蔵前橋通りの中央には柵によって中分離帯が設けられています。何となく都電が走っていたような風景が目に浮かびます。石原三丁目交差点で三ツ目通りと交差します。三ツ目通りは環状三号線の一部区間の名称です。



半地下になった大横川親水公園を法恩寺橋で渡ります。報恩寺は、太田道灌が江戸城築城に際して平川(後の江戸城平川門付近)に建立したことから、その地名に因んで山号を平河山とし、元禄八年(1695年)にこの地に移転してきました。蔵前橋通り周辺の「太平」という町名は、太田道灌の「太」と山号の「平」に因むといわれています。かつては20ヶ寺に及ぶ塔頭(たっちゅう:禅宗寺院で祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔や庵などの小院をいいます。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは門徒らが塔のほとり・「頭」で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説があります。)を擁したという大寺ですが、現在も参道の両側には4ヶ寺の塔頭が見られ、そこには周囲の喧騒から切り離された静寂な空間が残されています。参道を報恩寺山門に向けて歩くと、ちょうど寺の背後にスカイツリーが望まれ、歴史ある景観に新しい顔が加わった絶妙のロケーションとなっています。勿論、都電が走っていた頃はスカイツリーの姿はありませんでしたが。大横川は都電が走っていた頃には川の流れが見られましたが、昭和五十六年から墨田区内の上流部を暗渠化する工事が始められ、現在見られる大横川親水公園は平成九年に完成しました。公園となっても、かつての橋の大半は往時のまま残り、都電16系統が渡った報恩寺橋のほか、都電24系統の渡った業平橋や、都電25系統・都電29系統の渡った江東橋も現役で残っています。



太平四丁目交差点を右折して四ツ目通りに入ります。交差点角にはオリナスがあります。オリナス(OLINAS)とは、ショッピングモール・シネマコンプレックス・オフィスビル・マンションから成る複合商業施設です。明治二十六年(1893年)から平成九年(1997年)までこの地にあった時計メーカーの精工舎(セイコー)の工場跡地の再開発事業として、東京建物が中心となって開発され、2006年に開業しました。専門店の入る「オリナスモール」、大型商業施設の入る「オリナスコア」、オフィスビル「オリナスタワー」、マンション「ブリリアタワー東京」の4棟で形成されています。名称のオリナスは、建設地の「錦糸」町の連想から、職・住・遊が融合して「織り成す」をイメージして付けられました。また、アルファベット表記のOLINASは、「Organization of Lifestyle Interface, New bussiness, Amenity, Shopping」の頭文字となっています(こじつけっぽい感あり)。



錦糸公園は、大正十二年(1923年)に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受けた東京の復興事業の一環として隅田公園・浜町公園と並んで計画されました。元々は帝国陸軍の糧秣厰倉庫でしたが、公園として整備されて昭和三年(1928年)7月に開園されました。戦時中は空襲時の避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用されました。昭和二十年(1945年)の東京大空襲においては、一万余の遺体が当公園に仮埋葬されました。戦後は人々の憩いの場として使われるようになり、次第に体育館や噴水池などが整備されてきました。



錦糸公園前交差点の手前にルーペハウスというルーペのみ販売している専門店があります。通販もやっているようですので、老眼で不自由されている方は問い合わせてみては?



JR総武線が通るガードの北側に都電16系統の錦糸堀電停(後に錦糸町駅前電停に改称)がありました。錦糸町の地名の由来となった錦糸堀は、駅北側を東西に横切る現在の北斎通りを流れていました。ちょうど都電16系統の電停のほんの少し北側を錦糸堀が流れていたことになりますが、堀は震災後に埋め立てられ、戦後の電車開通時にはその痕跡も分からなくなっていました。錦糸堀は、正しくは南割下水と呼ばれ、江戸時代には「おいてけ堀」と呼ばれたのもこの錦糸堀です。ガードの先の四ツ目通り上には、都電28系統・都電36系統の始発電停がありました。昔は総武線が地上を走っていたために、踏切を挟んだ都電16系統と都電28系統・都電36系統の線路は総武線と交差することができず繋がっていませんでした。総武線が高架になった後も都電の線路の接続は行われず、都電16系統だけが高架の北側にポツンと置かれた電停で折り返していました。



ということで、都電16系統跡の歩きを終えました。山の手の文教地区から下町のアメ横の商店街・庶民の活力が溢れる錦糸町と、面白い街角巡りが楽しめました。歴史のある寺社・仏閣など、江戸の情緒も感じられました。2017年にオープンした丸井錦糸町店の地下にあるジャパンミート生鮮館で食料品の大量買いをして帰るとしますかね。




戻る