都電17系統跡コース(1)  

コース 踏破記  

今日は都電17系統跡を歩きます。都電17系統は池袋駅から数寄屋橋公園までを結び、その路線は主に日の出通り・不忍通り・春日通り・白山通り・都道402号錦町有楽町線・外堀通りを通っていました。都心を南北に斜断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。  

都電17系統

都電17系統の全長は9.8kmで、昭和44年10月26日に廃止となりました。

都電17系統の電停(路上の駅)は、池袋駅・日ノ出町三丁目・日ノ出町二丁目・大塚坂下町・護国寺・大塚仲町・大塚窪町・教育大学・清水谷町・文京区役所・同心町・伝通院・冨坂二丁目・春日町・後楽園・水道橋・三崎町・神保町・一ツ橋・錦町河岸・神田橋・鎌倉河岸・新常盤橋・日本銀行・呉服橋・八重洲口・鍛冶橋・有楽橋・数寄屋橋でした。


都電17系統の池袋駅電停はどこにあったのでしょうか?ネットで当時の写真を見てみますと、現在のグリーン大通りの突き当たりに西武百貨店の建物が写っています。その手前のグリーン大通り上に都電が停まっていますので、恐らくグリーン大通りが明治通りに合流する交差点の手前あたり(地下街の地上出入口付近)に電停があったものと思われます。偶然ですが、都電17系統が廃止された後にその代替となった都営バス「都02乙:東京ドームシティ行き」のバス乗り場も真横にあります。



グリーン大通りから歩き始めますと、首都高の高架道路が日出通り(グリーン大通りの続き)の上空で合流する東池袋交差点角に豊島岡女子学園中学校・高等学校の校舎が建っています。豊島岡女子学園は、中高一貫の私立女子中学校・高等学校で、前身は東京女子裁縫専門学校です。その後、東京家政女学校と改称し、戦後まもなく現在の豊島岡女子学園になりました。東大合格者を毎年20名前後輩出しており、「女子御三家(桜蔭・女子学院・雙葉)」に引けを取らない合格実績で、「女子新御三家(豊島岡・鴎友・吉祥)」のひとつに数えられています。試験のとき以外は毎朝5分間の「運針(長さ1メートル程度の細長い白さらし木綿布を二つ折りにし玉止めしない赤い糸でひたすら運針し、最後まで行ったら引き抜くという作業)」を行うことで集中力を高めているそうです。BS−TBSで放送されている「おんな酒場放浪記」で酒豪ぶりを発揮しているファッションモデルの倉本康子さんも豊島岡女子学園高等学校の卒業生だそうです。校風とはちょっと似合いませんね。



豊島岡女子学園のすぐ近くにサンシャイン60のビルがあります。地上239.7mの高さで、昭和五十三年に完成した当時は東洋一の高さだったそうです。「サンシャイン60」の名称は公募で選ばれたそうですが、現在東池袋となっているこの一帯の地名は昔は旭出町とか日ノ出町とか呼ばれていました。グリーン大通りに続く日出通りもその名残かと思います。そんな東池袋の有名店が首都高の高架下にある「大勝軒」の本店です。初代店主の山岸一雄さんが考案した「特製もりそば」はつけ麺の元祖とされています。昭和三十六年(1961年)に開業し、当初から行列の絶えない店として数々のメディアに取り上げられました。平成十九年(2007年)の再開発計画により一時は閉店しましたが、閉店を惜しむ声により一年後に旧店舗近くの現在の場所で復活しました。山岸一雄さんは平成二十七年(2015年)に他界され、彼が創り上げた味と心は、現在「東池袋大勝軒本店」で弟子の飯野敏彦氏が二代目店主として継承しています。



大勝軒の先で、都電17系統は都電32系統(現在の都電荒川線)と平面交差していました。当時の電停の名称は、日ノ出町2丁目電停(現在の名称は「東池袋4丁目電停」)でした。都電17系統は電停の手前に左へ分かれるポイントがあり、現在の荒川線脇の一画に線路が引き込まれていました。これは大塚まで行かないと車庫が無い都電17系統専用の電車留置線で、主に朝夕のラッシュ時にはここに電車が待機していました。都電17系統が廃止された後、都営バスの日ノ出町操車場として長らく使われていましたが、平成二十年に敷地が道路予定地となったことから閉鎖され、現在は跡地の一部に超高層マンションが建設されています。



更に進みますと、右手奥に広大な雑司ヶ谷霊園が拡がっています。前身は明治七年に開設された雑司ヶ谷旭出町墓地で、明治二十に年から東京市が管理することになり、昭和十年に雑司ヶ谷霊園と改称されました。樹木に囲まれた広大な敷地には、夏目漱石・泉鏡花・小泉八雲・竹久夢二・永井荷風・東條英機・大川橋蔵など、多くの著名人の墓所が散在しています。左手に護国寺の墓地を見ながら、小篠坂を下っていきます。首都高護国寺ランプ前の交差点で不忍通りに合流します。墓地の入口横に案内板が置かれています。十数年前に「歴史と文化の散歩道」を歩いた際も見ましたね。

将軍家ゆかりの寺

東京には多くの寺院がある。江戸時代、江戸に在住しなければならなかった全国の大名とその家臣、幕府直轄の旗本、御家人などは国元の菩提寺の他に江戸にも菩提寺が必要であった。そのため数多くの寺院が建立されたのである。そのなかで、徳川将軍に関係の深い寺院は、寺領も大変広く、現在でも東京を代表する寺院となっている。将軍家の菩提寺は芝の増上寺、上野の寛永寺であり、現在それぞれ6人の将軍が葬られているが、ここ周辺にも将軍家にゆかりのある寺院は多い。護国寺は天和二年(1682年)五代綱吉の生母桂昌院の発願で建立された寺院である。桂昌院は綱吉の安産を祈願しにたびたび参詣に訪れたという。綱吉によって建立された観音堂は国の重要文化財となっている。伝通院ははじめ寿経寺と称していたが、慶長七年(1602年)家康の生母於大の方をここに葬った際、於大の方の法号をとり伝通院とした。於大の方の他二代秀忠の娘千姫、三代家光の室、孝子の墓がある。湯島近くの麟院は三代将軍家光の乳母春日局が創建し、寛永二十年(1643年)65歳で没するまで余生を送った寺であり、春日局の墓がある。




不忍通りから音羽通りが分岐するところの広場奥に巨大な護国寺の仁王門が建っています。護国寺は天和元年(1681年)の創建です。後に将軍家の武運長久と江戸城護持の祈願寺となり、寺領1200石に及ぶ江戸有数の大寺となりました。本堂は元禄十年(1697年)に観音堂として建てられたもので、当時の江戸幕府の財力と権威が結集され、元禄文化を象徴するような華麗な造りを見せています。音羽通りは、護国寺への将軍御成道として開かれました。

護国寺仁王門

八脚門、切妻造で丹塗。元禄期造営の本堂、薬師堂や大師堂などから成る徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。建立の年代については、元禄十年(1697年)造営の観音堂(現本堂)などよりやや時代が下がると考えられる。正面(南側)の両脇に金剛カ士像(阿形像・吽形像)、背面(北側)の両脇に、二天像(増長天・広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。

護国寺の山門の丹の圓柱
   つよきものこそ美しくあれ (窪田空穂)




仁王門の先には、不忍通りに面してふたつの門が続いています。護国寺惣門は大名屋敷の門を思わせる造りで、これも護国寺の格式の高さを象徴しています。元禄年間(1688年〜1704年)の建造といわれ、現在は境内にある音羽幼稚園の入口にもなっています。

護国寺惣門

この惣門は、護国寺の方丈への軸線上にあり、寺院の門と共に住宅の門という性格をあわせもっている。形式は社寺系のものではなく、江戸時代武家屋敷門の五万石以上の大名クラスの、格式に相当する形式と偉容をもっている。当寺が幕府の厚い庇護のもとで、高い格式を保持した歴史を反映している。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、この門は、中期元禄年間のもので、特に貴重な文化財である。




惣門の先にもうひとつ大きな門がありますが、こちらは護国寺に隣接する豊島岡墓地の入口になります。明治六年、若くして亡くなった稚瑞親王(明治天皇の第一皇子)の墓所となり、以後は宮家や旧皇族の墓所として現在に至っています。近年では、平成十二年に香淳皇后(昭和天皇の皇后)の斂葬の儀が執り行われた他、つい最近では、三笠宮寛仁親王の儀も記憶に新しいところです。



護国寺の門前を過ぎると不忍通りは次第に上り坂となりますが、これを富士見坂といいます。かつては坂の上から富士山がよく見えたのでしょう。もともと道幅の狭い急坂だったようですが、大正期の電車敷設時に傾斜が緩められ、道幅も拡げられました。

富士見坂

坂上からよく富士山が見えたので、この名がある。高台から富士山が眺められたのは、江戸の町の特色で、区内には同名の坂が他に二ヶ所ある。坂上の三角点は、標高28.9mで区内の幹線道路では最高地点となっている。むかしは、せまくて急な坂道であった。大正十三年(1924年)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。

とりかごをてにとりさげてともとわがとりかひにゆくおほつかなかまち
会津八一(881年〜1956年

この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根
窪田空穂(1881年〜1967年)




富士見坂を上りつめると、春日通りと交差する大塚3丁目交差点になります。都電17系統の電車は交差点を右折し、春日通りに入ります。この先春日町電停までは都電16系統と併走し、さらに春日町電停からは白山通りに入り、神田橋電停まで都電2系統・都電18系統・都電35系統と併走していました。



伝通院に続く参道の奥に傳通院山内福聚院があります。安政三年(1774年)に開山し、大黒天が祀られています。「傳通院山内」といいますから、昔はこのお寺も伝通院の敷地内だったのでしょう。江戸時代から有名なお寺で、甲子の日に参れば商売繁盛・金運に恵まれるといわれ賑わいました。鎌倉時代の作と伝わる大黒天座像は、古式で簡潔・量感に溢れているといわれます。門を入ったところにあるとうがらし地蔵は、明治の中ごろとうがらしの好きなおばあさんが持病のぜん息に苦しんでいたのですが、医者からとうがらしを止められていたにもかかわらず食するうちに亡くなりました。そこで近所の人が哀れんで地藏尊を造り、とうがらしを供えました。その後、ぜん息に苦しむ人々が祈願すると治り、お礼にとうがらしを供えるようになったと伝えられています。

木造・大黒天坐像一躯(案内板の表記は、身+匚+品)

像高(右足下より)47.2cm、ヒノキ材、漆箔、彩色。小像ながら簡素な彫法により彫刻的量感がよくあらわれて、見るべきものがある木造彫刻といえる。特に数少ない古式武装神スタイルを整えていることと、その製作年代を鎌倉時代に遡ると考えられることなどを含め貴重な文化財である。大黒天信仰は8世紀にわが国に伝わり、以来、大国主命伝説と習合して寺院の食堂に祀ると繁栄を招くといわれている。江戸時代になって民間信仰として広まり農神として祀られ、七福神の仲間に数えられるようになった。しかし、本来は仏法護持の戦闘神として憤怒形をしているものであることを考えると、この大黒天像は本来のスタイルを尊重している坐像であるといえる。




伝通院の山門は二層造りの立派なものです。平成二十四年(2011年)に再建されたとかで、まだ真新しいですね。



伝通院は、慶長七年(1602年)8月29日に徳川家康の生母である於大の方が伏見城で没した後(法名:傳通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼)、家康がその菩提を祀るために創建したお寺です。慶長十三年(1608年)9月15日に堂宇が完成し、徳川将軍家の本来の菩提寺である増上寺に次ぐ菩提所次席として江戸時代には大いに繁栄しました。伝通院の墓地には、於大の方(伝通院)のほか、豊臣秀頼・本多忠刻の妻である千姫(天樹院:二代将軍徳川秀忠の長女)・若狭小浜藩主の京極忠高の妻となった初姫(徳川秀忠の四女)・徳川家康側室で大坂冬の陣では本陣に供奉し、夏の陣では伏見城に留守居をしたお夏の方(清雲院)・幕末の勤皇志士で浪士組を創案した清河八郎・尊皇攘夷派の公卿で朝廷から追放された七卿落ちのひとり澤宣嘉、それに日本初のピアニストである久野久・詩人の佐藤春夫・作家の柴田錬三郎・日本画の橋本明治・指圧の浪越徳治郎といった著名人も眠っています。

傳通院の墓所

当山は、応永二十二年(1415年)、浄土宗第七祖了譽聖冏(しょうげい)上人が開山されました。当時は小石川極楽水(小石川四丁目)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名で開創されました。それから約二百年後の慶長七年(1602年)八月二十九日、コ川家康公の生母於大の方が七十五歳、伏見城で逝去。その法名を「傳通院殿」と号し、この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになり、以来千姫(天樹院殿−二代将軍コ川秀忠公・於江の方の長女)や孝子の方(三代将軍コ川家光公の正室)、於奈津の方、初姫など多くの徳川家の子女達が埋葬されるようになりました。当山には開創六百年におよぶ長い歴史の側面を物語る著名な方々のお墓が現存しております。




於大の方の墓石は徳川家康の生母ということもあって、墓地の中でも一際目立っています。案内板にはその生涯が記されています。

於大の墓

享禄元年〜慶長七年(1528年〜1602年)。徳川家康の生母。三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘。天文十年(1541年)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む。後に離婚して阿古屋城主・久松俊勝に再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。法名、伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼にちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。

徳川家康の母 於大の方の生涯

於大の方は享禄元年(1528年)、愛知県知多郡東浦町の緒川城四代目城主水野忠政の娘として生を受けました。於大の方が六歳の時、父忠政は三河刈谷に城を築き、家臣と共に移ったと伝えられています。天文十年(1541年)、当時今川方であった岡崎城主・松平広忠に嫁ぎ、竹千代(家康)が生まれました。その後、父忠政の死後、家督を継いだ兄信元は織田方に付いた為、於大の方は離縁され、刈谷へ戻って来ました。その後、坂部城主・久松俊勝に再嫁し三男四女をもうけました。夫俊勝が天正十五年に亡くなり、翌年尼となり、後に伝通院の号を授かりました。慶長七年(1602年)於大の方は、天下をとった家康の招きで訪れていた京都伏見城で七十五歳の生涯を閉じました。戦国の世を生きた於大の方は、争いの無い平和な世を願い続け、その波乱の生涯が、時を越え今に語り継がれています。於大の方の故郷東浦には緒川城と、水野家四代の墓が菩提寺である乾坤院に残っています。




千姫は幼くして豊臣秀頼と政略結婚させられ、大阪夏の陣で秀頼と引き裂かれた悲劇のヒロインですが、生涯幸せには恵まれませんでした。

千姫の墓

慶長二年〜寛文六年(1597年〜1666年)。二代将軍秀忠の娘。慶長八年(1603年)幼少の身で豊臣秀頼に嫁し、大坂城にはいる。元和元年(1615年)城を出て翌年桑名城主・本多忠政の子、忠刻と再婚するも死別とともに天樹院と号して江戸に帰り竹橋に住む。




孝子も徳川家と朝廷を繋ぐために降嫁し、結局不憫な人生を送りました。

孝子の墓

慶長七年〜延宝二年(1602年〜1674年)孝子は三代将軍コ川家光の正室。前関白鷹司信房の娘、元和九年(1623年)京都から江戸に下り江戸城西の丸に入る。寛永二年(1625年)家光と結婚するが公家出身で武家の生活になじめないまま七十三歳で没す。




私は初めて知りましたが、橋本徳壽という歌人のお墓もあります。

春いまださわがしからぬ空のいろに
        辛夷の花は白く咲きたり
               コ壽

橋本徳壽は明治二十七年(1894年)神奈川県横浜市に生まれた。短歌は初め土岐哀果に学んだが、後に万葉集に傾倒し古泉千樫を師と仰いだ。昭和二年(1927年)短歌結社「青垣会」を結成するに当たり、その原動力となって活躍した。千樫亡き後は、青垣会を六十年間にわたり牽引すると共に、宮中歌会始の選者、明治記念綜合歌会の選者を務める等、大正から平成までの長きにわたり、歌壇に大きな足跡を遺した。歌碑に刻まれた歌は、歌集「桃園」に収められており、春の到来を実感した喜びが、清楚な辛夷(コブシ:モクレン科モクレン属で落葉広葉樹のひとつです。早春に真っ白できれいな花を咲かせ、冬が明ける合図となる花です。)の花の開花にことよせて格調高く詠まれている。なお、橋本徳壽は我が国屈指の木造船技師でもあり、日本全国に赴き技術指導にあたった。平成元年(1989年)死去。




文久三年(1863年)2月4日、江戸幕府将軍・徳川家茂の上洛にあわせて、将軍警護のための浪士組が伝通院・塔頭の処静院に集合し、江戸を出立して中山道を上洛しました。この浪士組が新撰組の前身となった組織です。このとき集まったのは、勝海舟・高橋泥舟と並ぶ「幕末の三舟」のひとりとされる山岡鉄舟や清河八郎を中心に、近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨達でした。その支援を行った琳瑞上人を含めて、案内板に解説があります。

浪士隊結成の処静院跡の石柱

この石柱は、伝通院の塔頭の一つで、伝通院前の福聚院北側にあった処静院の前に建っていたものである。石柱の文字は、修業と戒戒律のきびしさを伝えている。処静院は、その後、廃寺となった。文久三年(1863年)二月四日、幕末の治安維持を目的とした組織”浪士隊”の結成大会が処静院で行なわれた。山岡鉄舟、鵜殿鳩翁、伝通院に眠る清河八郎を中心に総勢150人。その後、浪士隊を離れて、新撰組として名をはせた近藤勇、土方歳三、沖田総司などが平隊員として加わっていた。一行は文久三年二月八日、京都へと発った。年号が明治と改まる五年前のことであった。

新選組の前身 新徴組発会の処静院跡

幕末の歴史に一頁を残した新撰組の前身新徴組は江戸市中から応募した浪士隊として清川八郎・山岡鉄舟らの呼びかけで芹沢鴨、近藤勇、土方歳三らが参加し、文久三年二月四日、伝通院山内処静院で発会したと記録されております。処静院はその後火災に遭い消失しましたが、この碑建立の一帯が処静院で大黒天に隣接しておりました。幕末時処静院住職琳瑞和尚は、清河八郎らを支援したとして佐幕派浪士と見られた武士らに暗殺されましたが、いまなお伝通院内に墓碑が建立され供養されております。このたび本会の事業として、この記念碑を建立し、永く歴史の時点を残すことに致しました。

幕末の傑僧琳瑞上人

幕末の傑物と称せられている琳瑞は幼時、細谷房蔵と称し、天保元年十月出羽の国(山形県)に生まれた。幼時より秀才の誉れ高く伝通院山内処静院住職福田行誡のもとに学んだ。その才は見る見る内外に評価され三十有歳にして士々の間においても認められる所となり、高橋泥舟、山岡鉄舟等皆彼のよき理解者であった。彼は公武合体論を主張し水戸烈公の支持を取りつけ、大いに政治的動きをなした。しかしながらこれは誤解を生む原因ともなり、慶応三年十月十八日深夜、彼は高橋泥舟宅の帰り広井求馬・松岡丙九郎なる人物らに三百坂で刺殺された。時に三十八歳と記されている。




伝通院を出た左手に、浪越学園が運営する浪越指圧治療センターの建物があります。指圧療法創始者の浪越徳治郎が創立した施設で、建物の前庭に浪越徳治郎の胸像と神の手といわれる腕のモニュメントが展示されています。彼の名言は「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く。」でした。多発性関節リウマチの母の痛みを和らげたいという一心から揉んだり擦ったりするうち、指で押すことで痛みが和らぐことを発見しました。後にこの技術を指圧と名づけ、多くの人にその技術を広めるため、1940年に東京市小石川区に指圧学校を設立しました。マリリン・モンローが新婚旅行で来日した際に、胃痙攣で体調を崩したモンローに素手で触って指圧した唯一の日本人でした。2000年9月25日、肺炎のため94歳で死去しました。



伝通院交差点の角にベナン共和国の大使館があります。ペナン島はマレーシア随一の観光地ですが、ベナン共和国ってどこにあるんでしょうかね?ネットで調べてみましたら、ベナン共和国は西アフリカに位置する共和制国家で、南北に長く、西をトーゴ・北西をブルキナファソ・北東をニジェール・東をナイジェリアに接し、南は大西洋のギニア湾に面している国です。国名でピンときた人は相当の地理マニアでしょうね。



中央大学理工学部の先は緩やかな下り坂になっています。都電にとって下り坂はいいでしょうけど、反対側から登ってくるのは難儀なことだったでしょう。

富坂

「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持たる着をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本」にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。また、春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、“アララギ”の編集にあたっていた。

    「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
      島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876年〜1926年)




都電17系統の電車は、富坂を下りきった先の春日町交差点で右折して白山通りを水道橋方向に南下します。都電は、通常交差点に進入すると同時に方向を変え、レールは90度のカーブを描きますが、都電17系統は交差点のかなり手前で線路が春日通りから分岐し、交差点の南西角に三角形の大きな空間を作り出していました。現在の春日町交差点を見ますと、ちょうど春日交番前の三角地帯が都電の三角形の跡地と思われます。



春日町交差点の近くに講道館のビルが建っています。入口の横に講道館の創始者である嘉納治五郎の銅像と業績を記した案内板が置かれています。

嘉納治五郎師範

万延元年(1860年)10月28日、摂津国御影村(現在の兵庫県神戸市東灘区)に生まれる。明治十年(1877年)7月、東京大学文学部入学。政治学及び理財学を修め、同十四年(1881年)7月卒業。明治十五年(1882年)5月、下谷の北稲荷町永昌寺にて講道館を創設。講道館柔道を創始する。学習院教頭、熊本の第五高等中学校長、第一高等中学校長、高等師範学校長、又貴族院議員などを歴任。大日本体育協会(現在の日本体育協会)初代会長、東洋初の国際オリンピック委員を務め、日本の体育・スポーツの普及振興に尽力すると共に、オリンピックの発展にも貢献した。昭和十三年(1938年)3月15日、エジプト・カイロに於ける国際オリンピック委員会総会で東京・札幌両大会開催の最終的承認を得、帰国の途中、同年5月4日、太平洋上水川丸船中で急逝。享年79歳。勲一等旭日大綬章。銅像は朝倉文夫制作である。

Kano Jigoro Shihan

Kano Jigoro Shihan was born in Settsu Province (now Hyogo Prefecture) on October 28, 1860. After entering the Faculty of Letters at the University of Tokyo in July,1877, Kano Shihan completed his degree in politics and economics in July, 1881. Established the Kodokan at Eishoji-temple, Kitainari-cho, Shitaya, Tokyo, in May 1882. This was the start of Kodokan Judo. Served in various roles including vice-principal of Gakushuin, principal of the Fifth Higher School, the First Higher School, Higher Normal School, was a member of the House of Peers, and held other key positions. Contributed to the diffusion and development of Japanese physical education and sports, and also the Olympic movement as the first president of the Japan Amateur Athletic Association (now Japan Sports Association) and the first Asian member of the International Olympic Committee (10C). Obtained final approval to hold the Tokyo and Sapporo Olympic Games at the 10C meeting in Cairo, Egypt in 1938. Passed away suddenly on the passenger ship the Hikawa-maru while sailing home over the Pacific Ocean on May 4, 1938 in his 79th year. Kano Jigoro Shihan was awarded the Grand Cordon of the Order of the Rising Sun by the Japanese government. This bronze statue was created by Asakura Fumio.




壱岐坂下交差点から先の右手に東京ドームシティのアトラクション施設が建ち並んでいます。昔は後楽園と呼ばれていましたが、後楽園という名前は水戸徳川家屋敷の庭園の名に由来しています。命名したのは水戸のご老公こと水戸黄門(徳川光圀)で、中国の「岳陽楼記」にある「天下の憂に先んじて憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」から採られました。屋敷地は水戸徳川家の祖となる徳川頼房により開かれ、当初は7万6千坪余りの広さを有していたと伝えられます。庭園の築造は二代光圀へと引き継がれ、もともとの沼沢地に神田上水の水を引き入れて深山幽谷の趣をもつ回遊式築山泉水庭園として完成されました。明治時代に入ると、庭園東側に砲兵工廠が置かれますが、昭和八年にこれが九州へ移転すると、その跡地に後楽園球場の建設が始まりました。その後、庭園は昭和十三年から都の公園として一般公開されるようになりました。



白山通りが外堀通りと交差した先に水道橋が架かっています。現在の水道橋は昭和三十六年に架橋されたもので、今も都電時代と変わらぬ姿を見せています。北詰側の欄干には、「江戸名所図会」にある「御茶ノ水」の図を彫った銅板が嵌め込まれていますが、神田上水掛樋の橋脚の奥に見えているのが水道橋です。水道橋は、江戸の上水道だった神田上水を跨いだ掛樋による命名で、橋から神田川左岸の歩道を御茶ノ水駅方向に少し歩くと、「神田上水懸樋跡」の石碑が置かれています。仙台堀とも呼ばれた神田川の堀割は、本郷台地を深く切り開いた人工の水路であり、小石川方面から下ってきた神田上水は掛樋で堀割を越えて駿河台方面へ通水されていました。



JR線の高架下を潜ると、右手に東京歯科大学水道橋病院の建物があります。歯科大学附属病院ですが、何故か内科と眼科も備わっています。三崎町は日大の街です。日本大学経済学部は6,500人の学生を擁する日本一大きな経済学部ですが、多彩な専門教員によって少人数対話型の教育を実現しているのだそうです。ひとつの学部で6千人以上もの学生数とは凄いですね。学食もハンパない広さでしょうか。



神保町交差点の先に救世軍本営があります。救世軍は、世界で起きている様々な問題に苦しみ、救いを求めている人々のために社会福祉・教育・医療などの支援を行いながら、伝道事業を行なっているイギリスで生まれたキリスト教(プロテスタント)の団体です。平和的な団体なのに何故「軍」という名前が付いているのかといいますと、世界のどこへ行っても支援をスムーズに行えるように軍隊式の組織編成を採用しているのです。また、救世軍が一目でわかるように、メンバーは制服・制帽・階級章を身につけることになっています。歳末の風情を代表する社会鍋は年末になると必ずテレビなどに取り上げられていましたが、最近はあまり見かけませんね。



神田神保町は書籍の街です。岩波書店・集英社・小学館など、大手の出版社が神保町(住所表示は一ツ橋ですが)に本社を構えています。でも、何故SixTONES(「ストーンズ」と読むらしいです)の巨大ポスターが?



<<写真多数のため、都電17系統跡コース(2)に続きます。>>




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