都電17系統跡コース(2)  

コース 踏破記  

<<都電17系統跡コース(1)の続きです>>  

左手に見えてくる重厚なレンガ造りの建物が学士会館です。学士会館は、東京大学発祥の地でもあるこの地に昭和三年に竣工した震災復興建築のひとつです。戦後はGHQに接収され、将校クラブとして使われた経緯もあり、洗練された外観の内に昭和史の断片が幾重にも刻み込まれた貴重な近代建築遺産となっています。



学士会館の脇に「我が国の大学発祥地」と書かれた石碑と、いわれを説明した巨大なプレートが置かれています。

我が国の大学発祥地

当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。すなわち、明治十年(1877年)四月十二日に神田錦町三丁目に在っに東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の四学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町三丁目の当地に設けられていた。明治十八年(1885年)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治十八年までに本郷への移転を完了した。徒って、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。明治十九年三月束京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の六分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。更に、明治三十年(1897年)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。爾後明治四十年に東北帝国大学、明治四十四年に九州帝国大学、大正七年に北海道帝国大学、昭和六年に大阪帝国大学、昭和十四年に名古星帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正十三年に京城帝国大学、昭和三年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。昭和二十二年(1947年)に至って、右の七帝国大学はそれぞれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。明治十九年七月創立の学士会は以上の九大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当っている。




学士会館と白山通りを挟んだ向かいに共立女子学園があります。鳩山春子などの当時の教育者34人により、明治十九年(1886年)に「共立女子職業学校」という技芸学校として設立されました。共立女子学園の講堂(通称、神田共立講堂)では、著名人を招き講演などが行われています。また1970年代には日本のフォークシンガーの聖地とされ、ここでは吉田拓郎・かぐや姫・アリス・ガロなどがコンサートを開催しました。現在は学校関係者以外には貸し出していませんが、2009年7月20日、再結成したアリスが一夜限りのライブを行いました。



共立女子学園の校舎の前に謎のオブジェが置かれています。どこが「月の満ち欠け」なのでしょうか?

寄贈

共立女子大学神田校舎の新校舎完成を祝うとともに、大学・学園がたゆまなく発展することを祈願し、茲に彫刻「月の満ち欠け」を寄贈する。
2003年11月 社団法人 共立女子学園櫻友会




一ツ橋河岸交差点を左折し、白山通りを離れて日本橋川に沿って進みます。



交差点の先に古びた一ツ橋が架かっています。上空を首都高の高架で塞がれた形ではありますが、大正十四年に竣工したコンクリート橋がまだ現役の姿を見せています。最初の橋は家康が江戸に入府した頃に架けられたようで、当初は一本の丸木橋だったことがその名の由来といわれています。



徳川御三卿のひとつとなった一橋家は、一ツ橋から神田橋にかけての日本橋川右岸一帯に広大な屋敷地を構えていました。橋から下流方向を見渡すと、右岸側に江戸城内濠時代の石垣の一部が残され、薄暗い川面に由緒ある歴史の一端を映し出しています。



一ツ橋交差点の次は錦町河岸交差点になります。交差点の直ぐ近くには日本橋川に架かる錦橋があり、神田錦町と皇居前方面を結んでいます。神田錦町の語源は、付近に一色姓の武家屋敷が2軒並んでいたことから「二色町」となり、それが転じて「錦町」になったといわれています。江戸時代中盤から明治初期にかけては、この錦町のあたりは通称「護持院ヶ原」と呼ばれた広大な火除地で、非常に寂しいところとして知られていました。



日本橋川に架かる神田橋に出ます。江戸城外郭門のひとつだった神田橋門に通じたかつての郭門橋で、門は将軍の上野寛永寺参詣道に通じる位置付けとなっていましたが、明治五年に撤去されました。日本橋川は江戸城外濠の跡でもありますが、神田橋から下流方向が荷揚げ場として賑わった鎌倉河岸の跡地となります。神田橋北詰の交差点付近に神田橋電停がありました。神田橋電停には多くの都電が発着し、都電2系統と都電35系統は神田橋交差点を右折し、都電15系統・都電25系統・都電37系統は神田橋交差点を南北に直進していました。また、志村坂上からの都電18系統がここで折り返していました。都電の交差点としては各系統の電車が複雑に方向転換をした場所になっていて、他の交差点でポイントの自動化が進む中、ここでは最後まで有人の信号塔が残され、絶え間なく交差点に進入してくる電車の振り分けに転轍手が間断なく活躍していました。都電17系統は神田橋交差点を直進し、明治三十七年開通の伝統ある「外濠線」のルートをなぞって、再び単独区間に入っていきます。神田橋のすぐ手前にある「神田橋公園」内に奇妙な彫刻が置かれています。最初は黄金の猿の像かと思ったのですが、コガネ虫を擬人化したものだそうです。ひょっとして本物の黄金でできているかも!

金銅鎚起 豊展観守像

この彫刻は、活気とやすらぎ・教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり「彫刻のある町・千代田区」として潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した写真集、神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。




とあるレンガ造りの建物の角に町名由来板と石碑が置かれています。

千代田区町名由来板 内神田一丁目

江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用されました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。明治五年(1872年)、いったん美土代町となりますが、空き地の状態は第二次世界大戦後まで続きました。そして昭和四十一年(1966年)、内神田一丁目に編入されました。昭和五十八年(1983年)、神田橋土木詰所の敷地となっていたこの場所に、内神田住宅が完成すると九十世帯が住むようになり、平成五年(1993年)、千代田区のもっとも新しい町会として、内神田住宅町会が誕生しました。さらに平成十六年(2004年)、町会名は神田橋町会と変わりました。

Uchi-kanda 1-chome

In the Edo Period, this neighborhood near Kanda-bashi Bridge was the site of a loading dock, and was used for the transportation of building materials used for Edo Castle. This area used to be a traffic crossroads, and there were no buildings up until the Meij Period. In 1983, with the completion of a housing project, it became the youngest town association in Chiyoda.




石碑は、かってこの辺りにあった物揚場を後生に伝えるために設置されたもののようです。

物揚場跡

日本橋川水運の物揚場標石ここに出土す 往時をしのぶよすがとして後世に伝える




神田橋交差点の次は鎌倉橋交差点になります。交差点を右折したすぐ先に、昭和四年に震災復興橋として架けられた鎌倉橋があります。この付近は江戸城築城の際に鎌倉からの石材の荷揚げ場として使われたことから、鎌倉河岸の名も残っています。そのあたりを解説した案内板が歩道脇に立っています。

神田鎌倉町・鎌倉河岸

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東二百四十万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌が築いた城塞を、後北条氏が整備しただけの粗末なものでした。慶長八年(1603年)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請に乗り出します。家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦三年(1657年)の「新添江戸之図」には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。江戸城築城に際して、家康が近江から連れてきた甲良家も、町内に住まいがあったと伝えられています。甲良家は、作事方の大棟梁として腕をふるい、江戸城をはじめ、増上寺・日光東照宮などの幕府関連施設の建設に力を尽くしました。

また、町内には、古くからさまざまな逸話を残す寺社があります。尾嶋公園のそばにある「御宿稲荷神社」もそのひとつです。家康が関東の新領国を視察した際に、先発隊として来ていた家臣の家に宿をとりました。のちにその庭の祠が御宿稲荷として信仰されるようになり、幕府より家康の足跡を記念して社地を寄進されました。昔、潮入りの葦原だったこのあたりで、漁業を営む人々が篤い信仰を寄せていた「浦安稲荷神社」も、かつてはこの町にありました。この祠は、天保十四年(1843年)に遷座され、現在は神田明神の境内にあります。「出世不動尊」は、一橋徳川家の表鬼門除けとして祀られていたといわれています。本尊は、平安時代の僧智証大師の作と伝えられています。不動尊前の「出世不動通り」は、当時毎月二十七日に緑日が開かれ、たいへんな盛況だったようです。




鎌倉橋の欄干にはところどころに窪みがみられます。太平洋戦争中に米軍によって機銃掃射された時に生じた弾痕の跡だそうです。橋を狙ったのでしょうか、それとも橋を渡る通行人を狙ったのでしょうか?

まちの記憶 昭和十九年(1944年) 日本本土市街地への空襲が始まる

鎌倉橋欄干には、1944年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の跡が大小30個ほどあり、戦争の恐ろしさを今に伝えている。

the memory of town Chiyoda City
The air-raids on Japan's mainland cities begin

The Kamakura bridge stone handrail bears about 30 bullets impacts of various sizes, which it received from machine-guns used during the night air-raids of the American army on Japan's mainland cities in November 1944. These traces convey us until now the testimony of this dreadful time.




鎌倉橋交差点で南下してきた外堀通りに合流します。日本橋川は鎌倉橋を過ぎると右へ緩やかにカーブしますが、これに沿う外堀通りも右へカーブし、龍閑川に架かっていた龍閑橋の跡地にさしかかります。龍閑川は江戸城外濠の鎌倉河岸東端から北東方向にほぼ一直線に開削された堀割で、江戸期には神田堀と呼ばれていました。明治十六年に再度開削され、もともと外濠口に架かっていた龍閑橋を再利用した上で、堀の名を龍閑川と改めたといわれています。龍閑の名は、外濠口の町家を開いた井上龍閑という幕府坊主の名によると伝えられています。龍閑橋は大正十五年に日本で最初の鉄筋コンクリートトラス橋として改架されましたが、戦後の堀の埋め立てにより昭和二十五年に撤去されました。外堀通りと江戸通りが交差する地点が新常盤橋交差点になります。交差点先の日本橋川には新常盤橋が架かっています。現在の新常盤橋は、隣接する東北新幹線の高架工事に合わせて昭和六十三年に架け替えられたものですが、都電時代の新常盤橋は大正九年に架けられ、美しい三連アーチのコンクリート橋でした。もともと電車の敷設に合わせて架橋されたようで、100メートルほど下流にある明治十年に改架された常盤橋に対して、「新常盤橋」と命名されました。



新常盤橋を過ぎた先の左手に日本銀行旧館の荘厳な威容の建物が見えます。東京駅赤レンガ駅舎などで知られる辰野金吾の設計というネオバロック調の建物は明治二十九年に竣工し、この場所に電車が開通してから廃止・撤去されるまでの一部始終を見守ったことになります。外濠線時代から都電の車窓越しにその偉容が垣間見れたことでしょう。



「ときわばし」と名のつく橋が3つあるのですが、まん中に架かるのが「常磐橋(旧常盤橋)」です。一番最初に架けられ、江戸時代にはこの場所に江戸城外郭の枡形門・「常盤橋門」があり、木橋が架かっていました。明治の世になり、江戸城の他の外郭の門は取り壊されていきましたが、その壊された他の門の石垣の石材が再利用されて、明治十年に木橋から二連アーチの石橋に架け替えられました。西洋の文化が橋に表現された最初の橋とされています。大正時代に入って、この橋の両隣に新常盤橋と常盤橋が道路橋として架かりました。この時点で昔からあった真ん中の橋は、橋を区別する上で「常盤」でなく「常磐」の文字が使われるようになったという説があります。常磐橋は今日まで常盤橋門の城門の石垣とともに保存され、都内に残る石橋としては最も古い橋となっています。しかし、2011年の東日本大震災の地震によって橋の石積みに影響が生じたことがわかり、修復工事が行われていましたが、令和三年(2021年)5月10日に終了し、通行が再開されました。



常盤橋は関東大震災の後に架けられた三番目の「ときわばし」です。



常盤橋を過ぎると、外堀通りは一石橋で日本橋川を渡ります。大きな石造りの親柱が印象的なこの橋は、江戸時代初期からの古い橋で、戦後に呉服橋方向への外濠が埋め立てられるまでは、橋のすぐ西側が外濠と日本橋川の分岐点となっていました。江戸時代、橋の北詰には幕府金座御用の後藤庄三郎の屋敷地が、南詰には幕府呉服御用の後藤縫殿助の屋敷地があり、「後藤」を「五斗」ともじり、「五斗」がふたつで「一石」と命名されたと伝えられます。都電時代の橋は大正十一年改架の鉄筋コンクリート花崗岩貼りの橋でしたが、平成九年に架け替えられ、現在は当時の親柱の一基のみが残されています。

一石橋の親柱

皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋の歴史は古く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに木橋として見えています。当時は西河岸町と北鞘町とを結ぶ橋で、橋名の由来としては、北橋詰近くの本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、五斗+五斗で一石と名付けたと「江戸砂子」に見え、日本橋地区と神田地区を結ぶ橋として重要でした。木橋としては最後となった明治六年(1873年)の一石橋は長さ十四間、幅三間の橋でした。大正十一年(1922年)に東京市道路局によって鉄骨コンクリート花岡岩張りのモダンな橋となり、堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋となったのです。関東大震災にも落橋せず、その後も交通上の重要な橋として使われてきました。平成九年には大正十一年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残され、当時の姿をしのばせています。平成十四年に中央区民文化財に登録されました。




一石橋の南詰に案内板が立っています。今は迷子を見つけたら交番に連れていけば済むのですが、江戸時代には電話もなく張り紙で情報を伝えるしかなかったのでしょう。でも、迷子の親は必ず告知板を探して回ったでしょうから、案外と効率的な手段だったかもしれません。悪用して、なりすましの親を演じて連れ帰った輩もいたかも。

一石橋迷子しらせ石標

江戸時代も後半に入る頃、この辺から日本橋にかけては盛り場で迷子も多かったらしい。当時は迷子が出た場合、町内が責任をもって保護することになっていた。そこで安政四年(1857年)、西河岸町の一石橋の橋詰に、迷子探しのための告知石碑が建立された。日本橋から一石橋にかけての諸町名主などが世話人となり、迷子保護の立場から町奉行に申請したものである。銘文は、正面「満(ま)よひ子の志(し)るべ」、右側画「志(し)らす類(る)方」、左側面「たづぬる方」、裏面「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」。両側面上部に長方形の窪みがあり、左側面の窪みに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼る。通行人がそれを見て心当たりがあれば、その旨を書いた紙を右側面の窪みに貼って知らせたという。いわば庶民の告知板である。このほか湯島天神境内の「月下氷人石」や浅草寺境内、両国橋橋詰など往来の多い場所に同樣のものがあった。しかし震災や戦災などで破壊され、現存するのは一石橋のものだけである。総高175.7cm(棹石163cm、台石12.7cm)、棹石正面幅36cm、同奥行26cm、台石正面幅70cm、同奥行68.5cm。作者などは不詳である。

Tangible cultural property (Historical Material)
Ikkokubashi Maigoshirase Sekihyo
Designated in 1938

Around the late Edo Period, the area around Ikkoku bridge to Nihonbashi was a downtown area and there were said to be many lost children. At the time, the neighborhood was responsible for their protection. Therefore, this stone was erected for giving notice of lost children at the bridge foot of the Ikkoku Bridge in Nishikashi-cho in 1857. The heads of towns from Nihonbashi to Ikkokubashi became caretakers and asked for the permission to the upper magistrate of the area to protect lost children. The inscription of the stone says "Sign for Lost Children" on the front, "Informer" on the right side, and "Inquirer"on the left side, and "Erected in February 1857, Nishikashi-cho" on the back. The both sides of the upper part of the stone have a rectangular dent and papers with characteristics of a lost child or missing person were to be put on the left side. If a passer-by has information, the passer-by was to put up a notice on the dent on the right side. The sign served as a sort of bulletin for general public. There were similar stones, such as Gekka jinseki in Yushima Tenjin Shrine, in areas with large traffic such as Sensoji Temple and the foot of the Ryogoku bridge. However earthquakes or wars destroyed most of such stones. The stone at the Ikkoku Bridge is the only one remaining. Height 175.7cm (Main stone 163cm, Base stone 12.7cm), Width of the main stone 36cm, Depth of the main stone 26cm, Width of the base stone 70cm and the depth of the base stone 68.5cm. The maker is unknown.




外堀通りと永代通りが交差する地点の北西角に竣工したばかりの(私が歩いた時点では未だ工事中でした)常盤橋タワーが聳えています。高さ212m・38階建ての超高層ビルです。常盤橋タワーは、令和九年(2027年)に竣工予定のトーチタワーと合わせて東京TORCHと呼ばれる再開発プロジェクトの中心となる建物です。トーチタワーは、高さ390m・63階建ての超高層ビルになる予定で、高さ300m・60階建ての大阪のアベノハルカスを抜いて日本一の高さになります(「虎ノ門・麻布台プロジェクト」で建設中の高さ330m・64階建てのメインタワーが2023年に完成すると、この時点ではアベノハルカスを抜いて日本一の高さになります)。完成したら一度展望台に上ってみたいものです。



東京駅八重洲口の北側に北町奉行所跡の石碑が置かれています。ちなみに、南町奉行所は有楽町駅の中央口前広場にあったそうです。

都旧跡 北町奉行所跡

江戸町奉行は徳川幕府の職制の一つで、寺社奉行・勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていた。江戸町奉行は老中の支配に属し、配下の本所奉行・道役小伝馬町牢屋・寄場奉行・町年寄を統括した。その職掌は江戸府内の行政・司法・警察の一切にわたっていた。定員は二名で、南北両奉行に分かれ、月番で交替に執務したが、時に応じて増減された。原則として旗本が任命され、役料は三千石芙蓉間詰で、勘定奉行の上座、輩下に与力・同心などがいた。「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は天保十一年(1840年)三月から三年の間、北町奉行の職にあった。




2013年にオープンしたグランルーフは、東京駅八重洲口にある食のモールです。ノースタワーとサウスタワーを結ぶ「光の帆」をデザインモチーフとし、長さ約230mの大屋根と、賑わい空間と歩行者ネットワークを形成するペデストリアンデッキから構成され、「先進性」・「先端性」を象徴する八重洲口の新たなランドマークになっています。



東京駅八重洲口と外堀通りを挟んだ向かい側に、現在東京ミッドタウン八重洲が2022年の完成を目指して工事中です。東京駅の八重洲側にはそれほど高い建物はないので、周辺からは飛び抜けて高く見えます。六本木・日比谷に次ぐ3番目のミッドタウンになります。メインタワーは、高さ240m・45階建て(ペントハウス2階が付属)の規模はトーチタワーと比べれば小さめですが、横幅が長いので正面からみるとその巨大さに圧倒されます。尚、1〜4階には日本の超高層ビルでは初めてと思いますが、中央区立城東小学校が入ることになっています。運動場はどこに造るのでしょうか?



外堀を埋め立てた跡に建つ西銀座デパートの横に細長く延びた数寄屋橋公園があります。公園内には石原裕次郎の大ヒット曲「銀座の恋の物語」の歌詞が刻まれている銀座の碑がおかれています。

銀座の碑

心の底までしびれる様な
吐息が切ない囁きだから
泪が思わず湧いてきて
泣きたくなるのさこの俺も
 東京で一つ
  銀座で一つ
若い二人が始めて遭った
真実の恋の物語り

大高ひさを作詞
鏑木創作曲




公園内には、「銀座の象徴 柳並木」の石碑も置いてあります。銀座の柳の碑は、この他に銀座一丁目と八丁目にも設置されています。

銀座の象徴 柳並木

銀座の柳は明治十年頃銀座に植えられ銀座の象微とされたが三度の変遷を経て昭和四十三年銀座通りの改修と共に姿を消した。このたび西銀座通りが束京都のシンボルロ一ドとして歩道拡張と共に御影石鋪装を施し、面目一新されたことを機に並木を柳に代え、銀座の象徴復活を果たした。西銀座通会はこの柳が末長く人々に愛され、親しまれ続けることを願い、ここ数寄屋橋公園に碑を建立する。




都電17系統の数寄屋橋電停は、中目黒が始点の都電8系統・渋谷駅が始点の都電9系統・新宿駅が始点の都電11系統が走っていた晴海通り上の線路とわざわざ交差した上で、交差点の南側に設置されていました。これは、かつて線路がそのまま外堀通りを直進し、新橋駅まで通じていたことの名残りといえます。



ということで、都電17系統跡を歩き終えました。常盤橋のトーチタワーやミッドタウン八重洲など、東京の近未来が垣間見えた感じがして面白かったです。




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