都電18系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電18系統跡を歩きます。都電18系統は神田橋から志村坂上までを結び、その路線は主に都道402号錦町有楽町線・白山通り・旧白山通り・白山通り・中山道を通っていました。都心を南北に斜断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、都電41系統が巣鴨車庫から志村坂上までの区間を重複して走っていました。  

都電18系統

都電18系統の全長は12.3kmで、昭和42年9月1日に廃止となりました。

都電18系統の電停(路上の駅)は、神田橋・錦町河岸・一ツ橋・神保町・三崎町・水道橋・後楽園・春日町・初音町・小石川柳町・八千代町・指ヶ谷町・白山上・曙町・南部原町・北部原町・駕篭町・西丸町・巣鴨駅・巣鴨車庫・巣鴨四丁目・新庚申塚・西巣鴨・滝野川五丁目・板橋駅・板橋五丁目・板橋区役所・仲宿・板橋本町・大和町・清水町・蓮沼町・小豆沢町・志村坂上でした。


本郷通りと都道402号錦町有楽町線が交差する神田橋交差点と神田橋の間に都電18系統のスタート地点となる神田橋電停がありました。江戸時代に定められた五街道のひとつである中山道を走った都電18系統は、姉妹系統の都電41系統と共に「志村線」の愛称で親しまれ、都電14系統の「杉並線」と同じく、郊外路線的な性格を持ち合わせていました。運行距離は12.3kmにも及び、都電全系統の中で最長を誇りました。都心側から次第に伸びてきた線路は、大正元年に巣鴨車庫前電停まで開業し、昭和四年に下板橋電停(後の板橋駅前電停の西方)まで、昭和十九年に志村坂上電停(開業時は志村電停)までが開業しました。志村線としては、さらに昭和三十年に都電最後の延伸区間として、都電41系統の巣鴨車庫前電停〜志村橋電停が開業しました。都電18系統の路線は全区間が都営地下鉄三田線に踏襲されています。その三田線(都営地下鉄6号線)の敷設免許が昭和三十九年に許可されると、翌年から工事が始まりました。交通量の多い中山道での工事は渋滞必至と予測され、その工事用地確保と渋滞緩和策として、志村線の廃止・撤去が決定されました。実際には三田線の先行開業区間と重なった巣鴨車庫前電停以北の区間が昭和四十一年5月に廃止となり、「杉並線」が地下鉄開業後もしばらく競合関係として存続したのに対し、「志村線」が工事段階で廃止となったのは地下鉄の事業者が同じ都交通局だったことも影響したのかもしれません。同時に廃止となった都電41系統は開業からわずか11年という短さでした。



神田橋交差点のすぐ先に、日本橋川に架かる神田橋があります。この橋に面して江戸城三十六見附のひとつだった神田口門(後に神田橋門に改名されました)がありました。橋の脇に案内板があります。明治初期の写真には今にも崩れ落ちそうな木橋が写っています。こんなところを将軍様が通ったのでしょうか?

神田橋門跡

ここは、芝崎口門・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺に参詣に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした。門は、寛永六年(1629年)に下野真岡藩(現在の栃木県)藩主稲葉正勝によって構築されました。対岸の鎌倉河岸は江戸城築城の資材を荷揚げする河岸場だったので、この門の役割は重要でした。明治六年(1873年)に櫓門が撤去され、明治十七年(1884年)に木橋が架け直されました。道路の拡張と市電の開通に伴い改修され、関東大震災で焼け落ちた後に新たに架橋されました。現在の橋は昭和五十五年(1980年)に改架されたもので、木橋風の意匠に、灯龍風の親柱、石造風の高欄を組み合わせています。

Remains of Kandabashi-mon Gate

This was also called Shibasakiguchi-mon Gate, Kandaguchi-mon Gate, or Ooidonobashi-mon Gate. Due to being part of the Onarimichi the road used by the shogun (the military leader of Japan) to visit Ueno Kan'eiji Temple, security around the gate was tight. The gate was constructed in 1629 by the feudal lord of Shimotsuke Mooka Han (now Tochigi Prefecture), Inaba Masakatsu. As the Kamakura Riverbank on other side of the river was the port where the materials for the fortification of Edo Castle were unloaded, this gate had an important role. The Yagura Gate (a two-story gate with a room on the second story) was taken down in 1873, and the wooden bridge was rebuilt in 1884. It was repaired when the road was widened and the trams began running, and was built anew after it was destroyed by fire in the Great Kanto Earthquake of 1923. The current bridge was reconstructed in 1980, and as such combines a design in the style of a wooden bridge, main pillars like lanterns, and a handrail like that of a stone bridge.




神田橋電停から錦町河岸電停までのひと区間は、通称「外濠線」と呼ばれていた東京電気鉄道が明治三十七年に御茶ノ水電停〜新常盤橋電停間を開業したうちの一部にあたります。一ツ橋河岸交差点を右折し、白山通りに入ります。ここから西巣鴨まで、途中旧白山通りを経由するものの、ず〜〜〜〜っと白山通りを進み、西巣鴨から終点の志村坂上電停までは中山道を進みます。



一ツ橋交差点の右手に見えてくる重厚なレンガ造りの建物は学士会館です。学士会館は、東京大学発祥の地でもあるこの地に昭和三年に竣工した震災復興建築のひとつです。戦後はGHQに接収され、将校クラブとして使われた経緯もあり、洗練された外観の内に昭和史の断片が幾重にも刻み込まれた貴重な近代建築遺産となっています。



学士会館の脇に「我が国の大学発祥地」と書かれた石碑と、いわれを説明した巨大なプレートが置かれています。

我が国の大学発祥地

当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。すなわち、明治十年(1877年)四月十二日に神田錦町三丁目に在っに東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の四学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町三丁目の当地に設けられていた。明治十八年(1885年)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治十八年までに本郷への移転を完了した。徒って、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。明治十九年三月束京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の六分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。更に、明治三十年(1897年)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。爾後明治四十年に東北帝国大学、明治四十四年に九州帝国大学、大正七年に北海道帝国大学、昭和六年に大阪帝国大学、昭和十四年に名古星帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正十三年に京城帝国大学、昭和三年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。昭和二十二年(1947年)に至って、右の七帝国大学はそれぞれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。明治十九年七月創立の学士会は以上の九大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当っている。




学士会館の敷地の端っこに小さな広場があり、「ボールを握る右手」をかたどったモニュメントと石碑があります。モニュメントの右手像はブロンズ製で、高さは2.4mもあります。ボール上には世界地図が描かれ「日本と米国を縫い目によって結ぶことで野球の国際化を表現」しているとのことです。ウィルソン氏の野球殿堂入りを記念して学士会と野球体育博物館が建立しました。

碑文

この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。明治五年(1872年)学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(1843年〜1927年)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌明治六年(1873年)に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが「日本野球の始まり」といわれている。明治九年(1876年)初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、明治四年(1871年)9月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日。明治十年(1877年)7月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。平成十五年(2003年)、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。

The birthplace of Baseball in Japan

Here in 1872 at the First Middle School of the First University District (which developed into Tokyo University in 1877), Horace Wilson, an American teacher, taught his students how to play baseball. In 1873, when it was re-named Kaisei Gakko and a playing ground was built, he reportedly enjoyed playing baseball with them. This is acknowledged as the beginning of baseball in Japan. In 1876, they played a game with a foreign team comprised of Americans living in Tokyo and Yokohama. Horace Wilson (1843 - 1927) was born in Gorham, Maine, in the U.S. After participating in the Civil War as a volunteer, he made a teaching contract with the Japanese Government in San Francisco in 1871. He taught Eglish and mathematics. His team of contract was officially expired in July, 1877. In 2003, he was inducted into the Japanese Basball Hall of Fame for his great contribution to Japanese baseball as the introducer of the game.




神保町交差点で靖国通りと交差します。歩道の脇に神保町の地名の由来を記した案内板が立っています。

(旧・表猿楽町)神田神保町一丁目

神田神保町一丁目北部のうち、このあたりは、江戸時代には一橋通小川町と呼ばれ、東側は表猿楽町と呼ばれていました。「猿楽」とは能楽の古称です。高名な猿楽師であった観阿弥・世阿弥父子によって芸術性を高めた猿楽は、江戸幕府の「式楽」(儀式に用いる音楽・舞踊)に指定されました。それが、観世座・宝生座・金春座・金剛座、および喜多流の「四座一流」です。このうち観世座は、徳川家康と縁が深かったこともあり、筆頭の地位を得ていました。その家元観世太夫や一座の人々の屋敷がこの界隈にあったことから、「猿楽町」という町名が生まれたとされています。明治五年(1872年)、この一帯に猿楽町という町名が付けられました。当時、このほかに猿楽町一丁目〜三丁目、裏猿楽町、中猿楽町という町名があり、現在の神田神保町一丁目〜二丁目から西神田一丁目〜二丁目まで、その趣のある名を冠した町が広がっていたのです。明治四十四年(1911年)、猿楽町はいったん表猿楽町となりましたが、関東大震災後の区画整理の際に、西神田一丁目と神保町一丁目に変わりました。神保町という町名は、江戸時代に神保長治という旗本が住んだことに由来しています。また、この区画整理で、町割も変わりました。道路を中心にしてその両側が町域になる、「両側町」という伝統的な方式が採用されました。そのため、靖国通りをはさんで南に奇数、北に偶数の番地が交互に振られているのです。

Kanda-Jimbocho 1-chome (formerly Omote-Sarugakucho)

This area used to be known as Omote-Sarugakucho. "Sarugaku" is the name that was once used for Noh theater, one of Japan's traditional performing arts. The master and members of one of the famous schools of the art once had their residences in this area. Omote-Sarugakucho was later divided, and one section was renamed Jimbocho 1-chome, a name that derives from a well-known samurai who lived in the neighborhood.




三崎町も歴史ある町名のようです。「岬」が「三崎」に転じたというのはゴロ合わせのような気がしないでもないですが。

三崎町一丁目

三崎町という町名が誕生したのは明治五年(1872年)のことです。江戸に幕府が開かれる以前、この地にあった「三崎村」が町名の由来といわれています。江戸が開発されるまで、現在の大手町から日比谷や新橋周辺には日比谷入江と呼ばれる遠浅の海が広がっていました。三崎村は、日比谷入江に突き出した「ミサキ(岬)」だったため、この名が付いたと伝わっています。JR水道橋駅のすぐ南側には三崎稲荷神社が鎮座しています。創建は詳らかではありませんが、鎌倉時代初期の建久年間(1190年〜1199年)よりも前とも伝わっており、とても歴史ある神社です。江戸時代には、三代将軍家光が自ら三崎稲荷を崇敬するばかりでなく、参勤交代の大名たちにも信仰させたことから、参勤登城する大名は必ず、まず三崎稲荷に参拝して身を清めたそうです。ここから三崎稲荷は「清めの稲荷」とも称されています。閑静な武家地であった三崎町は、明治も中ごろを過ぎると劇場や飲食店が増え、賑やかな歓楽街へと生まれ変わります。隣町の三崎町二丁目には三崎三座と呼ばれる三つの劇場ができるなど、周辺も活気にあふれる町でした。関東大震災後の区画整理で、三崎町一丁目は昭和九年(1934年)に三崎町二丁目と統合されますが、町名は三崎町一丁目のままでした。昭和二十二年(1947年)、神田区と麹町区が合併して千代田区になると、頭に神田を付けて神田三崎町一丁目に変わります。そして、昭和四十二年(1967年)の住居表示の実施にともない、神田三崎町一丁目は分割され、旧三崎町一丁目だった区域がふたたび三崎町一丁目に定められ、現在に至っています。

Misakicho 1-chome

In the Edo Period, this area was the site of a village named Misaki-mura. The village was located on a cape (“misaki" in Japanese) that jutted out into the Hibiya Inlet, which once covered the area nearby. In the Edo Period, many samurai lived here, but later it became an entertainment district with theaters and restaurants.




水道橋交差点で外堀通りと交差します。外堀通りに沿って流れる神田川に架かる白山通りの橋が水道橋です。江戸時代には水道橋のすぐ下流に神田上水の掛樋(上空をわたすための管)が神田川の上に渡されていました。レリーフに描かれた絵には、当時の神田川の水量が豊富で流れも急だったことが見て取れます。

水道橋

水道橋の名は、江戸名所図会によれば、この橋の少し下流にかけ樋があったことに由来します。




西片交差点の西側一帯は文京ガーデンと呼ばれる大規模な再開発が行われ、超高層ビルが建ち並んでいます。西・北・南街区に分かれ、中核となる北街区のザ・タワーは、地上40階建て・高さ148mの超高層マンションで、2021年3月に竣工しました。全体の完成は2023年11月とのことです。



西片交差点の一帯は、昔は田町と呼ばれていました。千川が近くを流れていたので、田んぼが多かったのでしょう。

旧田町

俗に丸山に属し、古くは菊坂田町とした。むかし、田畑と菊畑であったので町名とした。寛永五年(1628年)、御中間方拝領地となり、元禄九年(1696年)ころ町屋が開かれた。明治二年、小石川片町・丸山田町を併せ、同五年、隣接の旧武家地や寺地を併せ、本郷田町とした。明治四十四年本郷をとり田町とした。




白山下交差点で白山通りから旧白山通りが分かれますが、新・旧白山通りは千石駅前交差点で再び合流します。都電18系統はもちろん旧白山通りを通っていました。そもそも、現在の白山下交差点から千石駅前交差点までの区間の白山通りは昭和五十九年(1984年)にできたのです。それより早く開通した都営三田線も旧白山通りの地下を通っていました。白山下交差点の手前には指ヶ谷小学校があります。昔の町名の名残りなのでしょう。

旧指ヶ谷町

古くは、小石川村に属した。元和九年(1623年)伝通院領となった。寛永(1624年〜1644年)のころには、木立の茂った谷地であった。ある時、三代将軍家光が鷹狩に来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名ができたといわれる。ェ永十一年(1634年)町屋ができ、指ヶ谷1丁目・2丁目・指ヶ谷南片町と称した。明治二年、白山前町の内・千川屋敷・円乗寺・蓮華寺・浄雲寺・正福院などの門前を併せて指ヶ谷町とした。




白山下交差点から白山上交差点まで上り坂になっています。この坂にはいろいろな名前が付けられています。

薬師坂(薬師寺坂、浄雲寺坂、白山坂) 【白山一丁目と五丁目の間】

「妙清寺に薬師堂有之侯に付、里俗に薬師坂と相唱申候」(「御府内備考」)坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、白山坂ともいわれるなど、別名の多い坂の一つである。「新撰東京名所図会」には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」、と明治末年の姿を記している。このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保十五年(1730年)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。




白山上交差点で旧白山通りは国道17号線に合流し、ここから先は国道17号線と併称して千石駅前交差点で白山通りに合流します。なお、千石駅前交差点で国道17号線と合流した白山通りは、この後も国道17号線と重なって西巣鴨交差点まで続いています。白山上交差点を左折し、坂を下ったところに東洋大学があります。東洋大学は明治二十年(1887年)に井上圓了によって創設された私立哲学館が前身となって、明治四十年(1928年)に設立された大学です。哲学研究においては日本有数の実績を持っています。スポーツ強豪校としても知られ、特に箱根駅伝の「山の神」と呼ばれた柏原竜二選手が圧倒的な強さを見せた5区の激走は今でも語り草になっています。



山手線・宇都宮線・高崎線の半地下線路を跨ぐ巣鴨橋を渡ります。巣鴨駅は橋を渡ったところに駅舎があります。



巣鴨橋を渡った先から、斜め左に延びる「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる巣鴨地蔵通商店街があります。高岩寺の「とげぬき地蔵尊」と眞性寺の「江戸六地蔵尊」のふたつのお地蔵様と巣鴨庚申塚を併せて商店街の名前になっています。「とげぬき」とは病気のトゲを抜く、すなわち病気を治す意味です。その昔、田村某という男の妻が病となり、その平癒を地蔵尊に祈ったところ、夢枕に現れた僧に地蔵の御影を一万体書き写して川へ流せと告げられ、目覚めると枕元に小さな木彫りの地蔵が置かれていました。田村某がお告げの通りその御影を書き写して川へ流すと、妻の病は全快し、後にその地蔵尊を高岩寺に奉納したところ、御影をいただくと病気が治るという噂が広まり、とげぬき地蔵として広く知られるようになったといわれます。現在、境内左手に身代わり地蔵が置かれ、患部と同じ場所を水で洗って病気の平癒を祈願する人が絶え間なく列を成しています。真性寺の江戸六地蔵は、宝永五年(1708年)に江戸の入口6ヶ所に設置された六地蔵のうちの4番目の中山道におかれた地蔵にあたり、1番目は旧東海道品川寺の地蔵・2番目は旧奥州街道東禅寺の地蔵・3番目は旧甲州街道太宗寺の地蔵・5番目は旧水戸街道霊厳寺の地蔵・6番目は旧千葉街道永代寺の地蔵が知られています。巣鴨地蔵通りは旧中山道の街道筋にあたり、江戸の中期から現在にいたるまで商業や信仰の場として栄えてきました。通りには、小さなお店や露店が連なる古き良き日本の風景が残っていて、お年寄りを中心に若い方々にも親しまれています。ちなみに、巣鴨には年間900万人が訪れるそうです。



巣鴨地蔵通商店街入口と白山通り・国道17号を挟んだ向かいには、都営バスの巣鴨自動車営業所があります。巣鴨営業所は、かっての都電巣鴨車庫の跡地にできました。都電時代は白山通り上に巣鴨車庫前電停があり、ここから車庫へ直接出入りしていましたが、現在のバスは白山通りから車庫の脇道を通って出入りするようになっています。志村坂上電停に向かう都電41系統はここが起点になっていました。また、都電35系統が神田橋電停まで都電18系統と併走していました。巣鴨車庫は大正二年の開設で、震災直前の頃には都心方面への7つの路線を受け持つ一大拠点となり、震災後は板橋方面への路線延伸を支えたターミナルとして機能しました。全盛期には100両近い都電が広々とした車庫スペースを出入りしていました。都電巣鴨車庫の廃止は都電35系統の最終運転日となった昭和四十三年2月で、現在見られる都営バス営業所の建物は戦後に建て替えられた都電車庫時代の建物がそのまま使われています。



豊島市場は、東京都中央卸売市場の市場です。元和年間(1615年から1624年までの期間)に発祥した「駒込土物店」が前身で、本駒込の天栄寺境内には縁起碑が建っています。神田市場・足立市場(千住青物市場)と並び江戸の三大青物市場のひとつで、幕府の御用市場でした。明治時代には駒込青果市場となり、昭和十二年(1937年)3月に豊島区内の現在の場所に移転し、「東京中央卸売市場豊島分場」となりました。セリが終わったのか、場内は閑散としています。



西巣鴨三丁目交差点で現在の都電荒川線と交差します。かって都電32系統として運行されていた路線が現在の都電荒川線になります。王子電気軌道が都電32系統の前に飛鳥山〜大塚駅前間を開業したのは明治四十四年ですが、当時はこの場所には電停はなく、志村線の巣鴨車庫前〜西巣鴨間が昭和四年に開業した際、乗り換え用としてここに新庚申塚電停が設置されました。



右手に古めかしいレンガ塀が目に入りますが、ここは昭和十七年に閉鎖された大都映画巣鴨撮影所の跡地で、その後は区立朝日中学校となっていましたが、これも廃校となり、「にしすがも創造舎」として再利用されてきました。しかし、近隣の区立中学校の校舎建て替え期間中の仮校舎としての使用が決まり、平成二十八年(2016年)年12月をもって事業を終了しました。レンガ塀を注意深く見ますと、撮影所時代を紹介するプレートが設置され、由緒などが記載されていることが分かります。最初のプレートです。

河合映画巣鴨撮影所(大都映画巣鴨撮影所前身) −現在朝日中学校−


大都映画

大正八年、天然色活動写真(天活)の仮設ステージから始まり、国際活動映画(国活)や河合商会による買収などを経て設立された大都映画は現在の朝日中学校がある所に巣鴨撮影所を特っていた。大都映画は昭和十七年に大映に吸収されるまで、「貞操」・「街の爆弾児」・「宮本武蔵」などを制作した。




二番目のプレートです。

大都映画巣鴨撮影所(初期のもの) −現在朝日中学校−

昭和二年に河合映面会社が設立され、昭和八年には大都映画(株)に発展した。昭和二年当時、廃屋同然だった旧国活会社の巣鴨撮影所を買収して以来、昭和十七年に大都映画の灯が消えるまでの15年間、この撮影所で映画の制作・配給が続けられた。戦前の日本映画界では製作本数最多を誇り、配給・興行の一貫体制を堅持し最も大衆に愛された映画会社であった。



写真の注記:「後に事務所は洋館になった」


三番目のプレートです。現像部の下にお稲荷さまが鎮座しています。中山道上に「市電」の表記もしっかりとなされています。

大都映画巣鴨撮影所全図 −現在朝日中学校−




西巣鴨交差点で明治通りと交差します。白山通りは西巣鴨交差点で終点となり、ここから先は中山道(国道17号)の単独区間となります。都電が走っていた当時は、もちろん首都高中央環状線はなく、上空には青空が広がっていたことでしょう。



板橋郵便局の手前から、右手斜め上に向かって旧中山道の道筋が延びています。現在は賑やかな仲宿商店街となっている通りです。板橋宿は江戸時代に整備され、栄えていた宿場町でした。中山道六十九次のうち、日本橋から数えて最初の宿場となっていました。東海道の品川宿・甲州街道の内藤新宿・奥州街道と日光街道の千住宿と並び、江戸四宿のひとつでした。 江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿の入り口にある大木戸より内側をもって「江戸御府内」、つまり「江戸」として扱われていました。板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側・北の方)から上宿・仲宿・平尾宿となっていました。 上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近でした。



新板橋で石神井川を渡ります。ちなみに、板橋は旧中山道の仲宿付近の石神井川に架かる橋です。板橋は平安時代の昔より既にあり、昭和七年にコンクリート製の橋に掛け替えられるまでは文字どおり板張りの木橋でした。



歩道の脇に「歴史と文化の散歩道:板橋宿場の散歩」の案内板があります。かつて、榎と槻の木が並んでいたことから「エンツキ(縁尽)」と呼ばれて忌み嫌われ、嫁入りや婿入りの行列がこの下を通ると不縁になるといわれていた場所です。八代将軍吉宗の嗣子家治に降嫁した五十宮の一行や、十一代将軍家斉の世子家慶に降嫁した楽宮の一行は縁切榎を避けて中山道西側を迂回したといわれ、孝明天皇の妹和宮が十四代将軍家茂に降嫁した際は縁切榎を菰で包み隠してしまったと伝えられます。女性がこの榎の肌に触れたり、榎の樹皮を削って男性に煎じて飲ませると男性から離縁されるという俗信も広まり、自らは離縁することが許されなかった封建時代の女性にとっては頼るべきよすがであり、陰に陽に信仰を集めたそうです。

板橋と縁切り榎

石神井川に架かる板橋は江戸時代以降宿名・町名、そして区名の由来となった橋です。昔は丸太橋が多く、板で造られた橋が珍しかったのでこう呼ばれていました。現在はコンクリート製の橋が架かっていますが、江戸時代には三本づつ五組の橋柱を河中に建て橋桁を渡し、木製欄干が穏やかな弧を描くようにかけられていたそうです。板橋のそばにある縁切榎は、この木の下を嫁入り婿入り行列が通ると必ず不縁になると伝えられていました。現在では三代目の榎が植えられており、良い縁を結び悪い縁を切るものとして信仰を集めています。

Itabashi Bridge & The Enkiri Enoki Tree

This is the bridge after which Itabashi-ku is named. 'Ita' means a 'wooden plank' while 'bashi' means 'bridge'. In old days most bridges were 'Marutabashi', meaning 'log bridges'; and 'Itabashi' was so-named because of its more novel construction. The Enkiri Enoki Tree nearby is a nettle tree believed to have the power of 'enkiri', meaning to 'sever one's personal connections', especially marriages.




大和町交差点で環七と立体交差します。環七の開通が東京オリンピック直前の昭和三十九年のことなので、電車開業当時から廃止撤去に至るまでの期間、電停周辺の景観の変遷には著しいものがあったことでしょう。



首都高の高架と分かれた先の右側は蓮沼町の町域です。蓮沼の地名は、多摩川に近い大田区西蒲田にも見られますが、大きな川が長年にわたり氾濫を繰り返したことで流路が変わり、その跡地が沼となり、ハスが繁茂した様子が地名となったみたいです。蓮沼の集落は元は荒川右岸の低地にあり、氾濫を避けて高台のこの地に移ってきたという経緯があります。右側に板橋十景にも選定され、しだれ桜の名所として知られる南蔵院が見えてきます。八代将軍吉宗が鷹狩りに出る際の休憩所にもなっていたという由緒あるお寺です。古くは荒川右岸の低地にあった寺ですが、たび重なる荒川の氾濫を避け、享保九年(1724年)に高台のこの地へ移ってきました。

南蔵院

当院は、宝勝山蓮光寺と号する真言宗寺院で、ご本尊は十一面観世音菩薩です。開山は、寺歴では宥厳とされていますが、「新編武蔵風土記稿」では、開山を宥照、開基を蓮沼村の名主新井家の先祖・新井三郎盛久としています。当初、南蔵院は荒川低地にあった 「道生沼」の畔(坂下二丁目二四番地付近)に建っていましたが、度重なる洪水によって現在地に移転したといわれています。この移転伝承は、隣接する氷川神社や、蓮華寺(蓮根一丁目10番)と同様のものであることから、当該地域における歴史的環境の変化と、村の対応などを考えていく上で注目されます。なお、移転の時期は、長らく享保期(1716年〜1736年)とされてきましたが、それ以前の正保期(1644年〜1648年)に作成された「武蔵国図」を始めとする絵図類には、すでに蓮沼村や南蔵院などが現在の位置に描かれていることから、その時期は大きく遡るものと考えられます。また、享保七年十一月二十五日に行われた八代将軍徳川吉宗による戸田・志村原の鷹狩りに際しては、当院が御膳所となっています。境内にある庚申地蔵は、承応三年(1654年)に庚申待講中が造立したものです。また、安永六年(1777年)と文化元年(1804年)に建立された南蔵院石造出羽三山供養塔の台座には、蓮沼村・前野村・小豆沢村の講員70名の氏名と房号が刻まれており、当該期の出羽三山講の様子を知る貴重な資料となっています。これらは、区の有形民俗文化財に登録されています。




御本尊の十一面観世音菩薩にご挨拶をします。と思ったら、御本尊でも不動明王だったみたいです。十一面観世音菩薩様はどこにおわすのかな?

御本尊 十一面観世音菩薩

別名十一面観自在菩薩・大光普照観世音菩薩と申します。十一の仏面はひとびとの悪痴を断ち、仏の位を得させる功徳を表しております。正三面慈悲の菩薩面は、すなおに仏さまの教えにしたがって行くひとにたいして、慈心をもつて教化し、楽を与え、左の忿怒の三瞋面は、悪いことをしたり、仏さまの教えを信じようともしないひとにたいして、悲心でおこり叱つて、その心をあらためさせて苦を抜き、右の牙を出している白牙三面は、よい行いをしているひとに、さらに仏さまのみちにすすませようと、ほめておられ、うしろの大笑いをしている笑怒一面は、よいことも悪いこともたいしてできず、いつもふらふらしているひとに、悪に向わせないように、そして頂上の仏面は、仏さまの教えにしたがい、ひとびととともにあゆんでゆこうと志しているひとにたいして、教えを説いて仏道をきわめさせるためです。これら十一のお顔は、みなこの観音さまの慈悲の心をあらわしております。持ち物は、左手に蓮華の入った水瓶をもち、右手は与願という印を結んでおられ、全容金色のご本尊さまです。この観音さまの信仰は、古く飛鳥・天平時代からさかんに信仰され、自分自身を正し、この観音さまを礼拝供養し、ー心に称名すれば、憂い・悩み・苦しみをなぐし、諸病を除き、障りや災難を滅し、横死をなくし、悪魔や鬼神のたたりを除き、開運招福、財宝を獲得してひとびとを救ってくださるというお誓からです。また臨終のときには、この観音さまが現われて、密厳浄土に引導して下さるという功徳がお経に説かれております。またこのご本尊さまのほか、行基菩薩がお作りになった阿彌陀如来坐像、弘法大師が天長年中、相州江の島で一万座の護摩修行をなさったときの灰でご自作なされた、厄除大師が奉安されております。

御本尊 不動明王

五大明王・八大明王(降三世・軍茶利・大威徳・金剛夜又・烏枢沙摩・愛染・大元帥各明王)の主尊で、大日如来さまが一切の悪を退治するために、忿怒の相に化身したとされる明王さまです。別名不動威怒明王・無動尊と申します。私たちの煩悩や悪魔・災いから救わずにはいられない大慈悲心に満ち、つねに仏ごころをおこさせて導くという役目をもつておられます。髪は蓮の形に結んで頂に乗せ、弁髪と呼ばれる髪を左肩にたらし、両眼を見開き、口もとはかみしめて右は上、左は下へ牙をだし、下半身は裳を着け、半身は条帛と呼ばれる布をまとい、盤石の上にお坐りになつておられます。身色は青黒で降魔の義を表し、背後の火焔(原文は旧でなく臼)は火がすべてのものを焼き尽すように、ひとびとの迷いや欲望を焼き尽し、またすべての災難の種を焼いて願いをかなえて下さるという、願心をあらわしておいでになります。他に矜迦羅・制咤(原文はうかんむりのない旧字)咤迦両童子を率いる三尊像です。持ち物は、右に煩悩を断ち切る利剣を握り、左手には羂索をもつておられます。言うことを聞かない敵をしばりあげ、ときにはその命をも断つというものでありますが、それと同時に自分の欲望や迷いをたち切り、勝手気ままになりがちなおのれの心をしばりつけるという剣と紐でもあります。お不動さまの信仰は、仏教”動”の世界です。動きをおさえるのではなく、躍動するカを発揮させる明王です。故に古くからおおぜいのひとびとから信仰されてきているのです。一心に祈れば何ごとによらず一つは必ずかなえて下さる明王さま、もしちょっとでも修行をおこたれば仏罰たちどころにくだるという、有難いかわりに又おそろしい明王さまです。堅固不動の心・諸願成就・災難・厄難・病難等すべての難を除き、財富を得、商売・事業の繁盛・福徳円満等の等の功徳がおおくの諸軌に説かれております。




小豆沢町に入ります。小豆沢という地名は一風変わっていますが、由来には諸説あり、平将門が貢物の小豆を船で搬送中に難破し、この付近に小豆が流れ着いたとする説や、どこからか流れ着いた小豆が飢饉で苦しむ付近の人々を救ったとする説、崖地を意味する「アズ」に因むとする説、梓の木が多く見られた地とする説など多様です。志村坂上駅の手前に板橋十景に選定されている志村一里塚があります。

志村一里塚

江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1604年)二月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)の塚が江戸日本橋を基点として一里(4km弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。志村の一里塚は、本郷森川宿・板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830年)の「新編武蔵風土記稿」では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治九年(1876年)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和八年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正十一年(1922年)に国の史跡に指定され、昭和五十九年に板橋区の史跡に登録されました。




この石垣によって志村一里塚が現在まで残っているんですね。



中山道と小豆沢通り・城山通りが交差する志村坂上交差点付近が、都電18系統の終点である志村坂上電停でした。志村の地は、荒川南岸の低地と武蔵野台地の接点にあり、起伏の多い地形が特徴です。地名は、篠竹が生い茂った場所を意味する「しの村」が変化したものという説があります。中山道が台地上から荒川に向けて一気に下るのが志村坂で、昭和三十年に開通した志村線の延伸部(都電41系統)は、この坂を下って新河岸川を渡す志村橋まで通じていました。志村坂上交差点からちょっと先の坂の入り口に、国際興業バスの志村坂上バス停があります。都電の電停はこの辺りにあったのでしょうか、それとも志村坂上交差点の手前にあったのでしょうか?



ということで、都電18系統跡を歩き終えました。巣鴨から先の中山道を歩くのは久しぶりでしたが、新たな発見が沢山ありました。志村坂上から先、志村橋まで運行されていた都電41系統は都電18系統に引き続いて歩いたのですが、その記録をHPに載せるのは遙か先になりそうです。もしかしたら、載せる前に挫折してしまうかも。。。

今回、HP作成で初めてWindows11を使いました。Windowsが提供する各種のツールでUIがかなり変更され、Windows10と比べて使いにくくなったと感じる点がいくつかあります。また、日頃使っているアプリとの互換性がどうなのか心配でしたが、今のところ問題は出ていません。何はともあれ、一連の作業が無事に完結しました。溜まりに溜まっている「昭和の都電跡を歩く」と「東京23区の散歩道を歩く」の残りの分も頑張って作成しようと思います。




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