- 都電19系統跡コース(1)
- コース 踏破記
- 今日は都電19系統跡を歩きます。都電19系統は王子駅から通三丁目(現在の日本橋三丁目交差点辺り)までを結び、その路線は主に明治通り・本郷通り・中央通りを通っていました。都心を南北に縦断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。飛鳥山電停から松住町電停(現在の外神田二丁目交差点辺り)までの6.8kmは単独区間で、都電14系統「杉並線」が廃止された後は、都電の中で最長単独区間となっていました。
都電19系統
都電19系統の全長は9.6kmで、昭和46年3月18日に廃止となりました。
都電19系統の電停(路上の駅)は、王子駅・飛鳥山・一里塚・西ヶ原二丁目・上中里・霜降橋・駒込駅・駒込橋・上富士前町・駒込富士前町・吉祥寺町・本郷肴町・蓬莱町・本郷追分町・東大農学部・東大正門・東大赤門・本郷三丁目・本郷一丁目・湯島二丁目・神田明神・松住町・万世橋・須田町・神田駅・今川橋・室町三丁目・室町一丁目・日本橋・通三丁目でした。
都電19系統の前身である駒込駅前電停から飛鳥山電停までの東京市電の路線が開通したのは大正十二年のことでした。当時、王子電気軌道は、既に王子駅の南側にあった王子電停から飛鳥山電停を経て大塚駅前電停まで、後の都電32系統を経て荒川線として現在に存続する路線を開通済みでした。しかし、飛鳥山電停で市電と王子電気軌道の線路の接続は行われませんでした。大正四年に王子電軌が飛鳥山電停から王子駅前電停間の線路を開通させ、更に昭和十七年に東京市が王子電軌を買収し、ようやく昭和二十四年になって飛鳥山電停での線路の接続が実現し、駒込方面からの市電も王子駅前電停を発着するようになりました。そういう経緯で、都電19系統の始発駅は現在の王子駅前電停になったのです。王子駅前電停は、都電の停留所にしては立派な造りです。普通の電停は無人か待機の駅員がいるだけですが、王子駅前電停には何故か改札の駅員が配置されています。入場口で改札をしてから電車に乗り込むことになっています。王子駅は乗客が多いので、電車の中で改札するよりも、入場口で済ませた方が効率的なのでしょう。現在の王子駅前電停はJR線の高架土手横にあります。明治通りを跨ぐ歩道橋から見ますと、電停を発車した電車がすぐに急カーブを左折して明治通りに入っていきます。ここは併走区間なので、線路内にも車が入り込んできます。それでは、スタート地点の王子駅前電停から都電19系統跡の歩きを始めましょう。
JR線の高架をくぐると、左にカーブした急坂になります。坂上の音無橋交差点で右折する車が線路内に入り込みますので、電車が坂の途中で止まってしまうことがあります。私が乗っていた電車は坂の途中で停止し、動き出そうとしたのですが馬力が足りず坂を登れませんでした。運転手さんは何回かトライした後で進むのを断念し、指令所に助けを求めました。指令所の答えは一旦バックしてから、勢いを付けて登れでした。運転手さんは電車をロックさせてから後部の運転席に移動してバックした後、再び前方の運転席に戻って出力マックスで進み出しました。また先方に車が入り込んできたらどうなるかと思いましたが、無事に坂を登りきりました。乗客からの拍手は起きませんでしたが。。。その坂に沿って崖が続いています。崖の上から降りてくるモノレールが見えます。飛鳥山公園モノレールは、飛鳥山公園山頂(山ではありませんが)と王子駅横の飛鳥山公園入口とを結ぶスロープカーです。愛称は、施設名があすかパークレール、車両名がアスカルゴとなっています。車両名は、ゆっくり上がる様子がエスカルゴ(カタツムリ)に似ていることから、飛鳥山公園と組み合わせて付けられました。飛鳥山公園入口からの高低差は約18m、レール延長は48mとなっており、片道約2分です。世界最短のモノレールとしてギネスブックに載ってもいいくらいの短さです。2009年7月17日から運行が始まり、高齢者・障害者・小さなお子様連れなど、誰もが飛鳥山公園を利用しやすくなりました。無料で乗車できることもあり、たちまち大人気になりました。冷暖房も完備され、車イス・ベビーカーにも対応しています。
都電が難儀した急坂が飛鳥大坂です。歩道脇にその概要を記した案内石柱が置かれています。
飛鳥大坂
いまはきわめてゆるやかな勾配だが、「東京府村誌」には「飛鳥山坂、本村(滝野川村)にあり、飛鳥橋の方に下る長さ一町十二間三尺、広さ三間、坂勢急なり」と記されているように、都内でも有数の難所であり、荷車の後押して手間賃をかせぐ人もいた。昔は将軍家の日光御社参の行列もここを通った。
飛鳥山 花見てかえる をとめらが
道のみ坂を ゆきなづみたり
太田水穂
(注記)「なずむ」とは、人や馬が前へ進もうとしても、障害となるものがあって、なかなか進めないでいるという意味。
飛鳥山公園を左手に見ながら、明治通りは飛鳥山交差点で右にカーブして池袋方面に延びていますが、交差点からそのまま直進する道路が本郷通りになります(本郷通りの起点は飛鳥山交差点です)。現在の都電荒川線は飛鳥山交差点で斜め右方向に進み、赤いトラックの横後方に見える飛鳥山電停の方に曲がっていきます。一方、都電19系統はそのまま本郷通りを直進し、西ヶ原方向に直進していました。
ついでに飛鳥山公園に立寄ってみましょう。八代将軍吉宗が王子権現に飛鳥山一帯の地を寄進したのは享保八年(1723年)のことで、江戸庶民への開放と桜の植樹が進められました。現在も春になると花見の名所として多くの人が集まる光景は江戸時代から続いた春の風物詩でもあり、都電時代には美しい車窓風景となって乗客の目を楽しませたことでしょう。
飛鳥山公園内にはかっての都電の車両が展示・開放されています。車両は、戦後の都電の主力車両として290両が製造された6000型ですが、昭和四十年代の都電廃止撤去の進行に合わせて大半が廃車となり、荒川線存続時に生き残ったのは、わずか13両のみとなっていました。6080号はそのうちの一両で、昭和五十三年の廃車後に北区へ譲渡され、飛鳥山公園に設置されました。以来、子供たちに親しまれる公園のシンボルとなっていましたが、雨ざらしの状態で損傷が進んだことから、平成十七年に大掛かりな整備が行われ、現在はすっかり化粧直しのされた美しい外観に甦っています。保管場所に屋根は付いていますが、横殴りに雨には無防備な状態ですね。
都電6080について
この都電6080は、昭和五十三年4月まで飛鳥山公園脇の荒川線を走っていた車両です。荒川線の前身は「王子電気軌道株式会社」といい、通称「王電」の名で親しまれた私営の郊外電車でした。明治四十四年8月、大塚⇔飛鳥山上間2.45kmの開業がはじまりで、その後王子を中心に早稲田・三の輪・赤羽を結ぶ路線が完成し、昭和十七年当時の東京市に譲渡されたのです。この車両は6000型と呼ばれており、戦後はじめての新造車で昭和二十四年に製造されたものです。青山・大久保・駒込の各車庫を経て昭和四十六年3月荒川車庫の配属となり、現役を退くまで都民の足として活躍していました。北区では都電のワンマン化を機会に交通局から譲り受け、子供たちの施設として設置したものです。
運転席には椅子がありませんね。立って運転していたのでしょうか?
都電の電車の隣には、昭和十八年に製造されたD51が保存・展示されています。やはり花形機関車の迫力は違いますね。
紙の博物館は世界有数の紙専門のユニークな博物館です。和紙・洋紙を問わず、古今東西の紙に関する資料を幅広く収集し、保存・展示する世界有数の紙専門の博物館です。昭和二十五年(1950年)にわが国の洋紙発祥の地である東京・王子に開設されましたが、首都高速道路の建設に伴い、平成十年(1998年)に現在の飛鳥山公園内へ移転しました。多くの紙関係会社の支援によって運営されています。常設展示では、紙の製造工程・種類や用途・紙の歴史・紙の工芸品・歴史的資料や生活用品などを展示しています。また紙に関する書籍を約1万5千点有し、図書室で一般にも公開しています。年間を通じて企画展を開催すると同時に、紙を素材としたバラエティー豊かなイベントも実施しています。毎週土・日曜日に行われる「紙すき教室」は、牛乳パックの再生原料から手すきのハガキを作る催しで、年齢を問わず大変人気があります。
公園の一画に平和の女神像が置かれています。建立当時は日中友好ムードが高まりをみせていたのですけどね。
平和の女神像
この像は、日本と中国の国交正常化を記念し、人類の理想である平和と幸福を願って、北区民有志を中心とした「日中友好・世界平和析念「平和の女神像」建立の会」と、北区・北区議会・北区自治会連合会・区内企業・関係団体等が力を合わせ、1974年に飛鳥山公園に建立したものです。作者は、長崎市「平和祈念像」の作者として有名な故北村西望氏 です。当初は、大噴水のあった中央広場に建立いたしましたが、1998年三月、公園の大規模な改修に伴い、現在の場所に移設いたしました。なお、台座の裏に「女神像建立の辞」があります。
作者 北村西望(きたむらせいぼう)
1884年長崎県生まれ。1912年東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科を首席で卒業後、北区西ヶ原のアトリエ(後に井の頭公園内へ移転)で数々の名作を製作。1947年日本芸術院会員。1958年文化勲章受章。1974年日展名誉会長、1980年東京都名誉都民、1981年北区名誉区民。1987年永眠。
飛鳥山公園は3つの博物館があることでも知られていますが、このうちの旧渋沢家飛鳥山邸跡地にある渋沢資料館には、大正六年築の「晩香廬」と大正十四年築の「青淵文庫」が現存しています。前者は渋沢栄一の喜寿の祝いに、後者は傘寿と子爵昇格の祝いに建てられたもので、小規模ながらどちらも当時を代表する建築家であった田辺淳吉のきめ細かな意匠が印象的な建物になっています。
渋沢栄一とは
1840年、現在の埼玉県深谷市に生まれました。農業・商業を営む実家を手伝うかたわら、尊王攘夷思想に傾倒しましたが、緑あって一橋慶喜の知遇を得て家臣となりました。1867年パリ万博で文明に触れ、感銘を受けました。帰国してからはその経験を活かし、民間の立場から約500社にのぼる株式会社・銀行などの設立、経営指導に尽力し、民間経済外交・社会公共事業に取り組み近代日本の経済社会の基礎を作りました。
渋沢史料館
渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館として、1982年に開館しました。かつて栄一が住んでいた旧渋沢邸跡に建ち、公益財団法人渋沢栄一記念財団が運営しています。栄一の生涯と事績に関する資料を展示し、それにまつわるイベントなども随時開催しています。
晩香廬
落成:1917年 国指定重要文化財
1917年に栄一の喜寿(77歳)を祝って清水組(現・清水建設株式会社)より贈られた洋風茶室です。青淵文庫とともに、建築家・田辺淳吉の代表作です。渋沢邸を訪れた賓客をもてなすために利用されました。
青淵文庫
竣工:1925年 国指定重要文化財
栄一の傘寿(80歳)と子爵に昇格したお祝いを兼ねて、1925年に竜門社(現・公益財団法人渋沢栄一記念財団)が贈呈しました。ステンドグラスや装飾タイルなどが書庫に彩りを与えています。書庫として建設されたことから全体的に堅牢で、鋼製の書棚などにも十二分にこだわった建築となっています。
飛鳥山公園の東側の入り口横に渋沢栄一が住んだ邸宅の案内板が立っています。
旧渋沢家飛鳥山邸
飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。渋沢栄一は明治三十四年から昭和六年に亡くなるまでの三十年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は、現在の本郷通りから「飛烏山3つの博物館」に向かうスロープを上がった付近に出入り口となる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれらの建物は昭和二十年の空襲で焼失してしまい、大正六年竣工の「晩香廬」と大正十四年竣工の「青淵文庫」、この二棟の建物のみ「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一の喜寿の祝いとして、「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督Lています。当時の世界的なデザイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成十七年、「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)」として二棟が重要文化財(建造物)に指定されました。
飛鳥山公園を出て、本郷通りに戻ります。都電19系統の飛鳥山電停は、飛鳥山交差点を直進した先の本郷通り上にありました。現在の本郷通りは江戸時代の岩槻街道の道筋にあたり、日光東照宮への将軍社参の道として日光御成道とも呼ばれました。江戸時代に各街道に置かれた一里塚ですが、都内では中山道に置かれた志村一里塚と西ヶ原の一里塚が現存しています。西ヶ原の一里塚は左右一対が現存するだけでなく、左右の塚が旧来の位置のまま保存されているという点で、都内では唯一の一里塚といわれています。西ヶ原の一里塚を挟んで左右に本郷通りの上下車線が分かれていますが、挟まれた中央の塚と通りの左手にある塚との間が旧岩槻街道の道幅ということになります。都電19系統の線路も塚を挟んで左右に分かれて敷かれていました。
一里塚の上に案内板が立っています。現在でも散見される歴史的建造物の保存運動にも通じるものがありますね。
二本榎保存之碑
一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道付設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長・滝野川町長・地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された複は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。
二本榎保存之碑
公爵徳川家達題
府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり。之を二本榎と云ふ。是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす。往昔群雄割拠の世道路久しく梗塞せしか、徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植え、里毎に塚を置き塚には榎を植えしむ。之を一里塚と云ふ。然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず、今存するもの甚少し、二本榎は実に其存するものの一なり。先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり。一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが、幸にして市の当事者・学者・故老の言を納れ、塚を避けて道を造り、以て之を保存せんとの議を決したり。法学博士男爵阪谷芳郎君、東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り、瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり。男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し、篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ、以て飛鳥山公園の附属地となせり。阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す。今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め、慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり。又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり。乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し。惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく、以て国民の文野をトすべし。幕府治平を講ずるに当り、先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて、帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり。老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん。後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん。
大正五年六月 文学博士 三上参次撰
阪正臣書
(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用いたるものなり。虎の門は慶長年間に始めて築造せられ、其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり。今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり。
(一部原文を現代かな漢字に直しています)
こちらの案内板は、「二本榎保存之碑」を今様に補足しています。
西ヶ原一里塚
慶長九年(1604年)二月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から教えると日光御成道の二番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正五年六月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑には、こうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。
西ヶ原には、国立造幣局東京工場(旧滝野川工場)があります。日本銀行券・収入印紙・その他諸証券類の製造、官報・国会会議録・法律案・予算書・決算書・その他の国会用製品の製造などを主な業務内容にしています。見学コースが設けられていて、2階の見学廊下からお札を印刷する現場をガラス窓越しに見学することができます。大きな機械でお札を印刷している様子は圧巻とのことです。また、お札の製造工程や偽造防止技術について、パネルや体験装置を使いながら楽しく学ぶこともできます。インターネット版官報や、1億円の重さを体験しながら記念撮影ができるコーナーもあるそうですよ。ちなみに、新札一万円で一億円の重さは約10kgだそうです。ちなみに、ちなみに、ワインの重さは?一般的なボルドー型の750mlのワインボトルの重さは1本約1.3kgだそうです。ということは、ワインボトル8本で10kg超ということになります。私は先日6本まとめて買い、腕が千切れる思いで家まで持ち帰りましたが、あれを八千万円の札束だと思っていたら軽く感じたかも。
滝野川公園は、明治二十六年に開設された農事試験場の跡地に造られました。隣接して東京高等蚕糸学校があり、電停の名称も開業当初は蚕糸学校前電停、その後農事試験場前電停と変わり、最終的に西ヶ原二丁目電停としたのは戦後になってからのことでした。滝野川公園は滝や水路で水遊びのできる公園で、公園の奥には近代農業の研究施設・農事試験場跡地の碑があります(見落としました)。滝野川公園一帯は、先土器時代から近世にわたる複合する御殿前遺跡と重なります。奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡の郡衙(地方役所)と推定されています。古代の武蔵国には21の郡が置かれ、現在の東京都は豊島郡・荏原郡・多麻郡にあたります。この豊島郡衙の中心部分がこの滝野川公園一帯になります。
御殿前遺跡
御殿前遺跡は、先土器時代から近世にわたる複合する遠跡です。なかでも奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡の郡衙(地方役所)と推定されています。古代の武蔵国には21の郡が置かれ、現在の東京都は豊島郡・荏原郡・多麻郡にあたります。この豊島郡衙の中心部分がこの一帯です。
平塚神社は非公開ですが、北区指定有形文化財の「紙本著色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻」や古文書「平塚神社文書」を所蔵しています。立派なイチョウとケヤキの並木が参道にあり、節分には盛大な豆まきが行われます。
平塚城伝承地 平塚神社
平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神ならびに別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留値で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明十年(1478年)一月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貢久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、250石の知行地を与え、この内の50石を朱印地として平塚明神に寄進させました。
西ヶ原交差点で本郷通りは右にカーブしますが、その角地に旧古河庭園があります。武蔵野台地の斜面に立地するこの庭園は、明治時代の陸奥宗光の邸地だったものを、その次男が足尾銅山の経営などで知られる古河市兵衛の養子となったことから、古河家の所有になりました。丘の上に建つ石造りの英国風洋館と、その前面に広がるバラ園を中心とした洋風庭園は、鹿鳴館やニコライ堂を手掛けた英国人建築家ジョサイア・コンドルの設計で、大正六年に竣工しました。また、斜面から低地に広がる日本庭園は、京都の庭師小川治兵衛の作庭です。これら和洋二つの庭園が違和感なく並存し、大正時代の面影をよく残しています。
西ヶ原交差点から緩やかに下る本郷通りの坂は大炊介坂と呼ばれます。
大炊介坂
坂の名は、この辺りに住んでいた中世の武将保坂大炊介にちなんで大炊介坂と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで宮坂とも、樹木に覆われていたので暗闇坂とも呼ばれていた。この道は岩槻街道で、江戸時代には、将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため日光御成道と呼ばれたが、現在は本郷通りと呼ばれている。この辺りに江戸時代には牡丹園が設けられたこともあった。
大炊介坂を下りきったところに霜降橋電停がありました、霜降橋は、かつて本郷通りを横切っていた谷田川に架かっていた橋の名です。谷田川は、染井霊園付近を水源として、駒込・千駄木を経て不忍池へと流れ、往古の石神井川の流路にあたるといわれています。川は震災後から昭和十年頃までに暗渠化され、橋も同時期に撤去されたようですが、流路跡は霜降銀座商店街として現在も賑わいを見せています。現在もバス停や交差点や商店街に霜降橋の名前が残っています。本郷通りは交通量も多かったので、ここには地元の商店街の人たちがお世話した交通事故撲滅の願いを込めた地蔵堂があったとのことです。
ことぶき地蔵堂跡
この説明板の歩道を挟んだ向かい側には、ことぶき地蔵尊のお堂が建っていました。お堂は、この付近で交通事故が多発していたことから、交通安全と西ヶ原坂下通り商店街(現西ヶ原霜降橋商店街)の繁栄を祈念し、昭和二十八年(1953年)十一月に地域の人々により建立されました。尊像は、無量寺に安置されていた子育て地蔵尊を遷座し、その際、地域の子どもたちによる稚児行列も行われました。以来、「ことぶき地蔵」と称されるようになり、夏の地蔵盆のほか、毎月六の日を縁日とし、本郷通り沿いに露店も出て多くの人々で賑わいました。地蔵尊が祀られて以来、本郷通りの改修工事なども進み付近の交通事故が減少したことから、子育てや交通安全を願う人々の信仰の対象となっていました。長い間、西ヶ原霜降橋商店街の人々がお世話をしてきましたが、平成二十七年(2015年)、地域の人々に惜しまれつつお堂は解体され、尊像は無量寺の門前に再び遷座されました。
染井吉野桜記念公園は、かつての都電駒込車庫の跡地に造られました。都電駒込車庫は、飛鳥山電停までの線路が開通した大正十二年に設置され、都電19系統のみを管轄した車庫でした。ソメイヨシノ発祥の地という駒込の車庫らしく、周囲は桜並木で囲まれ、車庫南側の切通し下にある山手線駒込駅ホームからは、春になると見事な満開風景が見上げられたといわれています。
駒込の一部は江戸時代染井と呼ばれ、巣鴨とともに花卉(かき)・植木の一大生産地であった。この地で江戸時代以後数多くの優れた園芸品種が誕生したが、なかでも染井吉野は、当地の地名から名付けられ、世界を代表する桜の品種となった。左の絵は、植木屋の第一人者、染井の伊藤伊兵衛の庭で大勢の人が花を愛でている様子である。
The Land of Somei-Yoshino Cherry Blossoms-Komagome
During the Edo era, a part of today's Komagome town was called "Somei" In those days, Somei and neighboring Sugamo were famed for their plants and flower businesses. Numerous superior hybrids have been created in this village, early examples of modern bio-engineering techniques since Edo era. One of the most successful creations of that era was a certain species of cherry tree. It was named Somei-Yoshino, after the village. This is the flower that people throughout the world know as the "japanese cherry blossom". The illustration at left depicts a crowd in a garden, admiring cherry blossoms grown by Ihei Ito, the most renowned plant nurseryman of his day in Somei.
駒込橋交差点の右手角に、六義園の染井門(普段は閉鎖中。入園は南側の正門から)があります。駒込駅前に広大な敷地を持つ六義園は、かつての加賀藩前田家の中屋敷で、五代将軍綱吉からこの地を賜った柳沢吉保によって命名されました。庭園は元禄十五年(1702年)に完成し、桂離宮の庭園様式にならった回遊式築山泉水庭園を設け、元禄時代の大らかな気風を反映した名園といわれています。明治十一年に三菱財閥の岩崎家により買収され、ここは別邸とされていました。その後、昭和十三年に岩崎家から東京市に寄付され、以後は史跡公園として一般公開されています。染井門横に東洋文庫で開催されている展示会のポスターが掲示されています。コロナ渦ですが、開館されているのでしょうか?
過去は六義園の敷地にあった「東洋文庫」 六義園ゆかりの地探訪
六義園は明治十一年(1878年)に、三菱創始者の岩崎彌太郎が購入し、明治維新後荒れたままになっていた庭園に新たな樹木や石を運び復興・修築し、江戸の大名庭園をみごとに復活させました。周囲の赤煉瓦の塀や園内のつつじ茶屋は岩崎家駒込別邸の時代に建てられたものです。岩崎彌太郎没後は、その弟で三菱第二代社長の岩崎彌之助が築庭を続け、後に岩崎彌太郎の長男で三菱第三代社長の岩崎久彌に引継がれ、昭和十三年(1938年)に、東京市に寄贈されました。その岩崎久彌が大正十三年(1924年)に、駒込別邸の一角に設立したのが「東洋文庫」です。東洋文庫は、東洋学分野での日本最古・最大の研究図書館であり、世界5大東洋学研究図書館の一つに数えられ、国宝5点、重要文化財7点のほか、多数の貴重書を所蔵し、現在の所蔵数は約100万冊を超えます。その蔵書を展示品として一般に公開しているのが、世界最大級”本”のミュージアム「東洋文庫ミュージアム」です。最新の技術を駆使した展示方法で所蔵する貴重書や浮世絵などの名品をご覧いただきながら、東洋の歴史と文化を楽しく自然に学ぶことのできる施設です。
南側の正門の方に回ってみます。見事なレンガ塀が続いています。
レンガを使用した外周塀
江戸時代中期に作庭された文化財庭園に、幕末以降にもたらされた技術を用いたレンガが使われている理由には、この文化財庭園の歴史的な変遷が大きく関わっています。江戸時代当時の柳沢家の屋敷範囲と、明治年間以降の岩崎家の敷地とは、文化財庭園として指定された現在の六義園の範囲よりも東西南北にそれぞれ広がっていました。指定文化財範囲から外れた、これらの土地では、日露戦争の祝勝会が開催され、第二次大戦当時には児童向けの科学館なども置かれていました。従って、改修前のレンガ塀は、第二次大戦後に、国指定の文化財として整備する前後の時期に、管理用に構築されたものであり、岩崎家所有当時の外周塀ではありません。しかしながら、柳沢家から岩崎家、そして東京市(府)から東京都へと、所有者や管理者が移り変ってゆく中で、岩崎家が所有していた湯島や本所などの屋敷でも採り入れられた、洋風の意匠であるレンガ塀も、歴史的な変遷を物語る貴重な文化財といえます。
残念ながら、今日はコロナ渦で休園中でした。緊急事態宣言が解除された後の9月末に再訪したのですが、園内の様子は後ほどお知らせします(多分、1年後位?)。
本郷通り左手奥に富士神社があります。創建の地は本郷で、加賀藩前田家上屋敷が本郷に給される際、駒込のこの地へ移されました。もともとこの地には、俗に富士塚と呼ばれた古墳のような塚があり、これを富士山に見立てて富士山麓の溶岩石を積み上げ、登山道も造られました。平安時代からの山岳信仰は、江戸時代に入ると富士山信仰として庶民の間に定着し、実際の富士登山が叶わない多くの江戸市民のための疑似富士山が市中に多数造られ、富士講と呼ばれる組織も発達しました。駒込富士は江戸市中各地の富士山の中では古い方で、6月の山開きには多くの参詣者で賑わったといわれています。
富士神社
富士神社はもと、旧本郷村にあった。天正元年(1573年)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間社を勧請した。寛永六年(1629年)加賀藩前田侯が上屋敷(現東京大学構内)を賜わるにあたり、その地にあった浅間社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。社伝によれば、延文年間(1356年〜1361年)には既に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったといわれる。この塚は一説によると、前方後円の古墳といわれる。富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組識で成り立っていた。
近世中期頃から江戸市民の間に、山獄信仰として富士講が多く発生しました。旧五月末になると富士講の仲間の人々は六月朔日(ついたち)の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行いました。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でました。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」が多数出来ました。文京区内では、この「駒込のお富士さん」、護国寺の「音羽の富士」、白山神社の「白山の富士」がありました。駒込富士と呼ばれた富士塚正面には、加賀鳶をはじめとする鳶職人の献石が多く並び、本郷の旧地での加賀藩前田家との関わりが偲ばれます。
富士神社の境内の一画に駒込ナスの案内板が立っています。そういえば、新宿の成子天神社の境内にも「鳴子ウリ」の案内板が立っていましたね。神社と農作物は縁があるようです。
江戸・東京の農業 駒込ナス
幕府がおかれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの犬名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。このようにして、江戸近郊の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、当富士神社周辺でも、各種の野菜栽培が生産されるなど、大消費地江戸の供給基地として発達しました。とくに、ナスは優れたものが出来たことから「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも記されています。農家はナス苗や種子の生産にも力を入れるようになり。タネ屋に卸していました。ここ、巣鴨駅の北西にある旧中山道にはタネ屋が集まり、さながらタネ屋街道の趣をなし、駒込・滝野川など周辺の農家が優良品種の採種と販売に大きく貢献していました。
THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO Komagome Nasu (Egg plant)
Population increase of Edo was triggered by the establishment of Tokugawa government. The staple rice could be supplied from all over the country. The biggest problem, however, was a chronic shortage of fresh vegetables. Record tells that vegetables were grown even on the grounds of Edo Castle. In the suburbs of Edo, the farming of cash-earning crops such as egg plant, radish, burdock, etc. became more and more active. The area around this shrine also produced various kinds of vegetables and served as a supply source for Edo. Egg plant, among others, was of superb quality relished by Edoites as the popular 'Komagome Nasu'.
<<写真多数のため、都電19系統跡コース(2)に続きます。>>
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