都電19系統跡コース(2)  

コース 踏破記  

<<都電19系統跡コース(1)の続きです>>  

本郷通りの左手に、大きく「栴檀林」の扁額を掲げた山門が吉祥寺です。吉祥寺の起こりは、太田道灌が江戸城築城の際、地中から「吉祥増上」の刻印を掘り出し、城内和田倉門のそばに「吉祥庵」を建立したことに始まると伝えられています。後に駿河台の水道橋際へ移転しましたが、当時は水道橋を吉祥寺橋とも呼んでいました。その後、明暦の大火で類焼し、駒込へ移転しました。このときに旃檀林と呼ばれる学寮が設けられ、曹洞宗の修行場として常時1000名余りの学僧を収容したといわれています。これが後の駒沢大学の前身でもあります。広大な境内堂宇の大半は戦災で焼失し、現在は山門と経蔵のみが往時の面影を残しています。 吉祥寺といえば武蔵野市の地名ですが、こちらは明暦の大火後に門前町の住民が移住したことによるものです。

曹洞宗 諏訪山吉祥寺(きっしょうじ)

長禄二年(1458年)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇(一棟の建物)を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。天正十九年(1591年)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦三年(1657年)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。僧侶の養成機関として旃檀林(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。

古い堂塔
 山 門  享和二年(1802年)再建、江戸後期の特色を示す。
 経 蔵  文化元年(1804年)再建、旃檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財。

墓  所
二宮尊コ(江戸末期の農政家)          (墓地内左手)
鳥居燿蔵(江戸南町奉行)            (墓地内左手)
榎本武揚(江戸末期の幕臣、明治時代の政治家)  (墓地内右手)
川上眉山(小説家)               (墓地内右手)




境内には小さな稲荷があります。お寺の中に稲荷とは奇妙に思いますが、稲荷社には古い伝承があります。昔々、大金持ちがお餅を的にして矢を射ようとして遊んでいたところ、その餅が白い鳥になり飛んでいってしまいました。それを追いかけて行ったところ、白い鳥が降り立ったところから稲が生えていた。それですごいことが起こった、悪いことをしてしまったと神社を建てたのが稲荷社ということです。稲が成った、つまり「稲成り」で「稲荷」になったということです。これがどのようにして全国に広まったかといいますと、京都にある東寺を弘法大師が訪れた際に守り神としてお稲荷さんをお祀りしました。弘法大師の教えが広まって、あちこちに関連のお寺ができる時にお稲荷さんも一緒に全国に広まったというわけです。東京のお寺にも境内に稲荷社を祀っているところは多いですね。

駒込吉祥寺 茗荷稲荷縁起

当吉祥寺は明暦大火の際府内よりこの地に移り、家康公ゆかりの毘沙門堂脇の庚申塚に茗荷権現あり、寛文年間疫病まんえんの折祈願の人絶えず、特に痔病の根治に霊験ありとされ、茗荷を断って心願する者多し。去る戦災に諸堂焼失せるも昭和二十八年この地に再建、堂裏にある茗荷権現碑は下総国府台八十右ェ門なる者が文久年間建立したものなり。




吉祥寺の境内には、お七・吉三郎比翼塚(愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚。)があります。お七の塚が何故吉祥寺にあるかといいますと、次のような話が伝わっています。

江戸も前期、天和二年(1682年)十二月、大火のために本郷の八百屋市左衛門の一家は檀那寺である駒込の吉祥寺に避難しました。そこで市左衛門の娘お七は寺小姓の吉三郎と恋に落ちます。やがて一家は無事に本郷へ戻ります。しかし、お七は吉三郎に逢いたくてたまりません。翌天和三年(1683年)一月もう一度火事になったら吉三郎様に逢えるとばかり、娘十六お七は新築された我が家に放火してしまいます。不憫に思った奉行が十五かと訊ねても、お七は正直に十六と答えます。同年三月、伝馬町から江戸引き回しの上、品川のここが見おさめ涙橋、哀れ鈴ヶ森で火炙りとなります。実は、吉三郎は放火をそそのかしたならず者で、本当の恋人の佐兵衛はその後、武蔵坊という僧侶になって江戸六地蔵を建立したという説もあります。目黒の大円寺には、吉三郎が西運という和尚になって菩提を弔ったお七地蔵尊があります。

とのことです。私はお七が振袖火事の張本人だと思っていましたが、全然違いました。ちなみに、振袖火事の経過は諸説ありますが、次のような説が有力です。

お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていたのと同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16歳)のものとなる。ところがこの娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16歳)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきた。さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。



吉祥寺には著名人のお墓がありますが、川上眉山もその一人です。私は初めて名前を聞きましたが。

川上眉山の墓

明治二年〜明治四十一年(1869年〜1908年)。大阪の生まれ。名は亮、小説家。東大を中退して尾崎紅葉や山田美妙と交わり硯友社に参加。また「文学界」同人とも交わる。明治二十八年には社会批判を含んだ「書記官」などの作品を発表する。後年、自然主義を取り入れようとするが行きづまり、ついに自ら命を絶った。




二宮金次郎の像は学校などでよく見かけますね。背中にシバ(薪ではないそうです)を背負い、中国・戦国時代の思想書「大学」(子供が読むには難しすぎる)を読みながら歩く姿が像になっています。学校に二宮金次郎の像が置かれたのは、一生懸命勉強し、家庭の仕事を手伝い、より良い生活をめざす人間としての模範的な姿が子供たちの教育に合っているということなのでしょう。意外と大人になってからの話は聞きませんが、農政改革を行った農政家、互助組織「五常講」を制度化した経世家、それに報徳思想・積小為大・一円融合などを提唱した思想家として知られています。特に報徳思想は、渋沢栄一・安田善次郎・鈴木藤三郎・御木本幸吉・豊田佐吉といった明治の財界人・実業家、松下幸之助・土光敏夫・稲盛和夫といった昭和を代表する経営者たちにも多大な影響を与えたといわれています。

二宮尊徳の「墓碑」

天明七年〜安政三年(1787年〜1856年)、相模の人。通称、金次郎。江戸末期の農政家。人物を認められて小田原藩領下野国桜町の荒廃を復興したことで知られる。その後、常陵その他の諸藩の復興に農政家として、また政治力によって寄与するも、日光神領の復旧に従事中病死する。彼の思想・行動は後に「報徳社運動」として展閧キるようになった。




吉祥寺の経蔵は、江戸時代に建てられて現存している都内唯一の経蔵で、旃檀林の図書収蔵庫として使われました。貞享三年(1686年)に建立されましたが、安永七年(1778年)に焼失し、文化元年(1804年)に再建されました。昭和八年(1933年)には大修復が行われています。

吉祥寺経蔵一棟

江戸時代、この寺は曹洞宗の修行所旃檀林として知られ、経蔵は図書収蔵庫であった。現在の経蔵は、焼け残った旧経蔵の礎石をもとに、文化元年(1804年)古いきまりによって再建したものと考えられる。旧経蔵は、貞享三年(1686年)に建造し、安永七年(1778年)に焼失と伝えられる。昭和八年(1933年)に大修復を行った。屋根は、桟瓦葺、屋根の頂に青銅製の露盤宝珠をのせた「二重宝形造り」である。外側の各所に彫刻を施し、意匠と技術に粋をこらしたみごとなものである。蔵内に、経典を収蔵する八角形の転輪蔵がおかれている。建造物としての価値とともに、東京都内に残る江戸時代建造の経蔵として貴重である。




歩道の脇に文京区の旧町名案内板が立っています。水道橋にあった吉祥寺が移転してきたので町名が駒込吉祥寺になり、水道橋の北側一帯に居住していた住民が移転した先が現在の武蔵野市の吉祥寺になったのですね。

旧駒込吉祥寺町

むかしは駒込村の農地であった。江戸時代初期に、越後村上城主堀丹後守の下屋敷となった。明暦三年(1657年)の振袖火事(明暦の大火)後、水道橋(もと吉祥寺橋)の北側一帯にあった吉祥寺が移って来た。そして岩槻街道(日光将軍御成道)に沿って門前町屋が開かれた。延享二年(1745年)から町奉行支配となった。明治二年、吉祥寺門前町と吉祥寺境内の全域を併せて、駒込吉祥寺町とした。江戸時代、吉祥寺には旃檀林といって、曹洞宗の学問所があった。学寮・寮舍をもって常時1,000人余の学僧がいた(現在の駒沢大学に発展)。二宮尊コ・榎本武揚・鳥居燿蔵や川上眉山らの墓がある。


旧町名の由来を記したプレートが柱に貼り付けられています。天和の大火は、天和二年旧暦12月28日(1683年1月25日)に発生した江戸三大大火のひとつです。その日の正午ごろ駒込の大円寺から出火し、翌朝5時ごろまで延焼し続けました。死者は最大3500人余と推定されています。 八百屋お七がこの火事で被災者になり、のちにお七が放火した火事のきっかけになりました。浅嘉町という町名にしたのは、黒鍬の者の大部分が神田から青山浅河町に移住した際、同じルーツであったことを忘れないために、駒込に移住した残りの黒鍬の者が浅嘉を町名にしたのでしょう。

旧駒込浅嘉町

もと、駒込村のうちであった。天和二年(1682年)の大火で、黒鍬の者(江戸城内の作事、防火、城番などの雑事)の屋敷が、神田から青山浅河町に移ったとき、土地が不足で、この地で補った。青山の浅河と浅嘉が同音なので、駒込浅嘉町とした。江戸三大市場駒込の土物店(青物市場)があった。




もうひとつ、同じような内容ですが旧町名案内板が立っています。

旧駒込浅嘉町

もと、駒込村のうちであった。天和二年(1682年)の大火で、黒鍬の者の神田の土地が召し上げられたとき、青山浅河町がその屋敷となったが、地所が不足となり、この地で補った。その後、町屋を開くとき、青山の浅河と浅嘉が同音なので駒込浅嘉町とした。神田及び千住の青物市場とともに江戸の三大市場の一つ、駒込土物店があった。旧浅嘉町・高林寺門前・天栄寺門前の街道ぞいの辻にできた青物市で、起源は元和年間(1615年〜1624年)といわれる。土物とは、大根・人参やごぼうなどの土のついた野菜、幕府の御用市場であった。

○黒鍬の者 − (江戸城内の作事・防火・城番などの雑役として働く。)




旧町名案内板の横に、この付近の名所・旧跡を紹介した地図付き案内板が立っています。やけに細長いですね。

駒込土物店跡

神田・千住と並び江戸3大青果物市場といわれました。元和年間(1615年〜1624年)の頃、 近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こりといわれます。区指定文化財材。

Site of Komagome Tsuchimonodana

This was said to rank with Kanda and Senju as one of the three largest produce markets in Edo. Around the time of the Genna era (1615-1624), farmers from nearby areas who were carrying their vegetables into Edo to sell would stop here to rest, and local residents started coming to buy fresh vegetables from them. That is said to have been the start of the market. The site is a city-designated Cultural Property.

光源寺(駒込大観音)

光源寺境内にある駒込大観音(おおがんのん)は奈良の長谷観音の写しの十一面観音。元禄年間に創建されましたが1945年の大空襲で焼失、1993年に再建されたお像です。境内の野梅の巨木とともに「梅の大観音」として知られています。

Kogenji Temple (Komagome O-Gannon)

The Komagome O-Gannon on found within Kogenji Temple is a replica of the Eleven-Faced Hase Kannon in Nara. It was created during the Genroku Era (1688-1704), but was destroyed by fire during the intense bombing of 1945, and then rebuilt in 1993. Paired with the great mountain Japanese apricot tree growing on the grounds, this figure is known as the O-Gannon of the Japanese Apricot.

白山神社

天歴年間(947年〜957年)に加賀一宮白山神社から現在の本郷1丁目の地に勧請。後に巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移り、1655年に綱吉が5代将軍職につく前、屋敷の造営のために現在地に再び移り、栄えました。梅雨の季節にはあじさいの名所としても有名です。

Hakusan-Jinja Shrine

During the Tenryaku era (947-957), the Hakusan-Jinja Shrine deity at Ichinomiya in Kaga Province was enshrined in the Hongo 1-chome vicinity. It was later moved to Sugamohara (within the present-day Koishikawa Botanical Gardens). In 1655, before Tsunayoshi became the fifth Tokugawa Shogun, the shrine was moved again to make way for construction of a mansion, and it prospered at its present location. It is also well known as a scenic spot for viewing hydrangeas during the rainy season.

吉祥寺

元は水道橋の付近にありましたが、明暦の大火(1657年)で被災し、現在の地に移りました。関東における曹洞宗の宗門随一の旃檀林(修行所)がおかれ多くの学僧が学びました。第二次大戦で大半が焼け、山門と経蔵だけが往時をしのばせています。

Kichijoji Temple

The temple was originally located in the Suidobashi area, but burned down in the great Meireki era fire of 1657, and was moved to its present location. This was the location of the Sendanrin, which was the premier training temple for priests of the Soto School.of Zen Buddhism in the Kanto Region, and many student priests pursued their studies here. It was largely destroyed by fire again during the Second World War, and only the temple gate and the sutra repository remain to show what it used to look like.

森鴎外記念館

記念館は明治の文豪森鴎外が、後半生を過ごした旧居跡(都指定旧跡)に建てられました。2階からはるかに東京湾が望めたとされ、鴎外自ら「観潮楼 (かんちょうろう)」と命名しました。館内では、鳴外の自筆原稿・書簡などの展示をはじめ、文京区ゆかりの文人たちを紹介しています。

Mori Ogai Memorial Museum

The Memorial Museum was built on the site (a Tokyo Metropolitan Area-designated historical site) where Mori Ogai, the great Japanese writer of the Meiji Period (late 19th-early 20th century), lived the last half of his life. It was said that from the second story, Tokyo Bay could be seen far in the distance, so Ogai named his house Kancho-ro. The Museum has manuscripts and letters in Ogai's own handwriting on view with other memorabilia, and also introduces other literary figures associated with Bunkyo City.




本郷通りの左手を中心に、この辺りには多くの寺院が集中しています。駒込一帯は、吉祥寺と同様に明暦の大火後に江戸城周辺部から多くの寺院が政策的に移転してきた寺町です。「お寺マップ」を掲げた石材店などもあり、駒込ならではの雰囲気が醸し出されています。



本郷通りに面して、へそルックの巨大な布袋尊像が目を引きます。浄心寺は、還蓮社到誉文喬和尚が駿河に創建し、徳川家康の死後、家康の中間頭だった畔柳助九郎武重が江戸に戻る際に畔柳と共に江戸へ入り、元和二年(1612年)に湯島妻恋坂付近に創建しました。明暦三年(1657年)の明暦の大火のよって焼失してしまったため、駒込の地へ移転したといわれています。戦後、白山にあった「正念寺」を吸収合併したのに伴い、「白山上の子育桜観音」と呼ばれた十一面観音像を浄心寺で預かることになり、「江戸三十三観音霊場10番」と「上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場17番」の札所も浄心寺に移りました。本堂には、阿弥陀三尊像のほか、高さ1.5m、重さ500kgの日本一の巨大木魚が安置されています。急階段を上って本堂のガラス戸越しに中を覗き込みましたが、ガラスが日の光を反射して中の様子が見えませんでした。浄心寺の墓地には、落語家として一世を風靡した立川談志のお墓があります。



向丘二丁目交差点の先の向丘高校が位置する辺りがかっての蓬莱町です。旧町名案内板が立っています。

旧駒込蓬莱町(昭和四十年までの町名)

元文年間(1736年〜1741年)町屋が開かれた。町内向側に寺院4か寺(瑞泰寺・栄松寺・清林寺・光源寺)があったので、四軒寺町と唱えた。本郷通りの長元寺・浄心寺の両側を江戸時代、ウナギナワテ(まっすぐ細長い道)といわれた。明治五年、浅嘉町の一部と、高林寺門前・浩妙寺・浄心時などの寺地を併せ、町名を蓬莱町とした。町名は、中国の伝説にある東方の海中にあって、仙人が住むという蓬菜山の名にあやかり、将来の繁栄を願ってつけられた。明治十三年、駒込片町・下駒込村の各一部を合併した。町内には寺院が多く、戦災で焼失したが大観音で有名な光源寺、将軍に献上した”お茶の水”で有名な高林寺(振袖火事でお茶の水からここに移る)がある。




東京大学の本郷キャンパスは言問通りで南北に分断され、北側に農学部、南側にその他の学部が入っています。農学部の敷地は、もとは東大教養学部の前身にあたる旧制第一高等学校が明治二十二年に神田一ツ橋から移転してきた場所です。昭和十年に駒場にあった東京帝国大学農学部と敷地交換が行われ、現在に至っています。正門の柱は古びた石造りですが、開閉門は風格のある木材で造られています。 農正門の由来を記したプレートの材料にも拘っていますね。

農正門

農正門は、1935年に農学部が駒場から第一高等学校跡に移転した後、1937年に創建された。現在の門は2003年に木曽のヒノキ材を用いて復元された。この板は北海道演習林産のイチイ材である。

This gate, "Nou-Seimon", was originally built in 1937 for the Faculty of Agriculture to commemorate its transfer in 1935 from the University's Komaba Campus, thus occupying the site of the former First Higher School. The present gate was restored in 2003 with Hinoki cypress. This board was made using the wood of Japanese yew tree grown in the University Forest in Hokkaido.




東京大学本郷キャンパスには多くの門がありますが、本郷通りに面した東大正門は格式があり、安田講堂に続く銀杏通りは東大のシンボルになっています。東大前の本郷通りに電車が開通したのは大正二年ですが、当時の東大総長浜尾新は電車の通過が理学部地震研究所の地震計に誤作動を及ぼすとして難色を示し、振動を吸収しやすい木煉瓦を敷き詰めた軌道敷とすることでようやく開通を見たというエピソードが伝えられています。



東大で最も有名な門は赤門ですね。東大一帯は大半が江戸時代の加賀藩前田家上屋敷の跡地ですが、赤門はその御守殿門であり、十三代藩主前田斉泰が十一代将軍家斉の娘溶姫を正室に迎えるにあたり、当時の慣例から文政十年に朱塗りの門を建造しました。同じような門は他の大名家にも見られたようですが、赤門は焼失しても再建が許されないという慣例があり、現存する赤門はここが唯一といわれています。薬医門と呼ばれる様式で、左右の番所も含め、往時の様子をほぼそのままに残しています。赤門は東大の代名詞でもあり、現在も多くの学生を迎え入れる現役の門として機能しています。

赤門

文政十年(西暦1827年)加賀藩主前田斉泰にとついだ11代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門であり、重要文化財に指定されています。

This red-lacquered gate "Goshuden-Mon" was built in 1827 for the sake of the 11th Shogun Tokugawa Ienari's daughter, Yo-Hime, who married Maeda Nariyasu, the feudal lord of the Province of Kaga. The gate is legally piotected as one of the important cultural properties of Japan.




赤門前を過ぎると本郷通りはかすかな下り坂となりますが、これを見返り坂といいます。その先で本郷通りがやや窪んでいる場所に前田家屋敷から流れ出ていた小川が流れていて、別れの橋と呼ばれた橋が架かっていました。江戸時代、市中を追放となった罪人はこの橋まで護送されて放たれたといわれ、本郷三丁目方向からここまでの下り坂を見送り坂、橋の先は罪人が振り向く見返り坂と呼ばれました。明治時代の中山道の改修により、坂らしい傾斜は現在はほとんど失われています。 春日通りと本郷通りが交差する本郷三丁目交差点手前に旧町名の案内板が立っています。

旧本郷(昭和四十年までの町名)

「御府内備考」に次の記事がある。本郷は古く湯島の一部(注・湯島郷の本郷)であるので、湯島本郷と称すべきを上を略して、本郷とだけ唱えたので、後世湯島と本郷とは別の地名となった。湯島のうちで中心の地という意味から本郷の地名が生まれた。江戸時代に入って、町屋が開け、寛文のころ(1661年〜1673年)には、1丁目から6丁目まで分れていた。中山道(現・本郷通り)の西側に沿って、南から1丁目〜6丁目と南北に細長い町域である。

   本郷もかねやすまでは江戸の内
            (古川柳)




本郷三丁目交差点南西角に「かねやす」と大書きされたシャッターが見えます。近年まで雑貨屋として営業していたそうですが、数年前に店を畳んだようで今はシャッターを下ろしたままになっています。

かねやす

兼康祐悦という口中医師(歯科医)が、乳香散という歯磨粉を売り出した。大変評判になり、客が多数集まり祭りのように賑わった(御府内備考による)。享保十五年大火があり、防災上から町奉行(大岡越前守)は三丁目から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺が続き、それからの中仙(中山)道は板や茅葺きの家が続いた。その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。「本郷も かねやす までは江戸のうち」と古川柳にも歌われた由縁であろう。芝神明前の兼康との間に元祖争いが起きた。時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行った。それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになった。




本郷二丁目交差点の近くに、またまた地図付きの細長い名所・旧跡をガイドする案内板が立っています。

日本サッカーミュージアム

2002FIFAワールドカップを記念し、2003年12月に開館したサッカー専門ミュージアムです。館内は、日本代表チーム、なでしこジャパン、Jリーグ関連の映像、展示物はもちろん、日本サッカーの歴史がぎっしりと詰め込まれています。

Japan Football Museum

This football specialty museum was opened in December 2003 to commemorate the 2002 FIFA World Cup. Not only can visitors view exhibits and videos on the Japanese men's national team, women' s national team ("Nadeshiko Japan"), and the J. League, but the museum is also packed with information on the history of football in Japan.

お茶の水おりがみ会館

ゆしまの小林(1858年創業)が、折り紙や和紙文化を気軽に親しんでいただけるように開いた施設です。明治時代に世界で初めて折り紙を製品化しました。ギャラリーや手染め和紙工房も見学でき、折り紙・和紙工芸教室もお楽しみいただけます。

International Origami Center

This facility was opened by the paper specialty store Yushima no Kobayashi (founded in 1858) to increase familiarity with origami (folding paper) and Japanese paper-making culture. During the Meiji Era, this is the first place in the world where origami was commercialized. Visitors can tour the gallery and a workshop where traditional Japanese paper is dyed by hand, and also enjoy lessons in origami and Japanese paper crafts.

史跡湯島聖堂

1690年に五代将軍徳川綱吉によって創建された孔子廟で、1797年には昌平坂学問所(昌平黌)が開設されました。聖堂は江戸時代、学問・教育の総本山として仰がれました。現在の湯島聖堂は関東大震災で焼失後、1935年に再建されたものです。

Yushima Seido Temple

This Confucian temple was established by the fifth shogun Tokugawa Tsunayoshi in 1690, and opened as the Shohel-zaka Gakumonjo (Shohelko) school in 1797, And it was revered as the head temple of education and learning during the Edo Era. The current Yushima Seido Temple is a reconstruction bullt in 1935, after the original structure burned down in the Great Kanto Earthquake.

妻恋神社

その昔、日本武尊の東征のとき、三浦半島から房総への途中で大暴風雨にあい、妃の弟橘姫が海に身を投じて海神の怒りを鎮めたといいます。途中湯島の地に滞在したので、郷民が尊の姫を慕う心をくんで、尊と姫を祀ったのが神社の起こりと伝えられています。

Tsumakoi-jinja Shrine

Legend has it that long, long ago, the eastern expedition of Prince Yamato Takeru no mikoto met with a fierce storm on the way from the Miura Peninsula to Boso, and Yamato Takeru's wife Princess Ototachibana hime threw Nerself into the sea as a sacrifice to calm the wrath of the sea god. The expedition stopped in the Yushima area along the way, and in sympathy for the Prince's grief over his lost wife, it is said that the local villagers founded the shrine to honor the couple.

湯島天満宮(湯島天神)

学問の神様・菅原道真公を祀り、境内には銅製の鳥居(都指定文化財)や迷子探し石標の奇縁氷人石(区指定文化財)があります。梅の名所としても知られ、毎年2月上旬から3月上旬には文京梅まつりが、また11月上旬には文京菊まつりが開催されます。

Yushima Tenmangu Shrine (Yushima Tenjin Shrine)

This shrine honors Sugawara no Michizane, a poet deified as a god of learning. On its precincts are a copper torli gate (a designated cultural property of Tokyo) and the Kienhyojinseki, a stone marker for lost children (a designated cultural property of Bunkyo City). The shrine is also famous for its plum blossoms and hosts the annual Bunkyo Plum Blossom Festival from early February through early March and the Bunkyo Chrysanthemum Festival in early November.




飛鳥山交差点から始まった本郷通りが国道17号線と分かれる湯島聖堂前交差点手前に東京医科歯科大学の湯島キャンパスがあります。東京医科歯科大学は、かって東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の敷地の一部を間借りしていました。前身の東京高等歯科医学校(旧制)時代、建築物の拡張の必要性に伴い、文部省は1930年に東京女子高等師範学校およびこれに隣接した東京高等師範学校(東京教育大学を経て、現在は筑波大学)を文京区大塚に移転させ、東京高等歯科医学校の拡張が行われました。このような経緯もあり、湯島キャンパスは限られた土地に建蔽率一杯の高層建築物が密集した形で配置されています。特に研究棟は超高層の建物になっており、国立の研究機関としては特異な外観を呈しています。



湯島聖堂前交差点を渡りますと、右手に鬱蒼とした木々に囲まれた湯島聖堂の敷地が広がっています。湯島聖堂の前身は幕府の儒官林羅山により上野忍ヶ岡に建てられた孔子廟で、元禄三年(1690年)に五代将軍綱吉の命で湯島の地へ移され、名称を「聖堂」と改めました。学問を好んだ綱吉はこの聖堂を幕府官学の拠点と位置付け、幕府直営の学問所として全国から旗本や藩士の子弟を集めました。明治時代に入ると、学問所は新政府の昌平学校となり、明治十年の東京大学設立の母体のひとつにもなりました。現在の正殿(大成殿)は震災後の昭和十二年に完成した鉄筋コンクリート造ですが、第二門にあたる入徳門は、宝永元年(1704年)のものが残されています。 湯島聖堂の外壁は特徴的な築地塀になっています。築地塀とは、石垣の基礎に柱を立てて貫を通した骨組みを木枠で挟み、そこに練り土を入れて棒でつき固める「版築」という方法で作られ、塀の上に屋根として簡便な小屋組を設け、瓦や板などで葺いたものも多くあります。現在でも御所や寺院などに築地塀が残っています。見るからに頑丈そうな外観です。



湯島聖堂の東側の塀に沿って南北に下る坂があります。「学問所周辺の三つの坂」とは、昌平坂・相生坂(聖堂の南を神田川に沿って昌平橋へ下る坂)・団子坂(昌平坂の東側に開かれた坂)を指すらしいです。

昌平坂

湯島聖堂と東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。そこで学問所周辺の三つの坂をひとしく「昌平坂」と呼んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。元禄七年(1694年)9月、ここを訪ねた桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母)は、その時のことを次のような和歌に詠んだ。

萬代の秋もかぎらじ諸ともに
      まうでて祈る道ぞかしこき




都電19系統は、神田明神下交差点のひとつ手前の文京区と千代田区の境界付近の交差点で右折し、一瞬だけ外堀通りを進みます。外堀通りは昌平橋交差点を右折して大手町方面に向かいます。神田川に架かる外堀通りの橋が昌平橋です。現在の橋は昭和三年に架橋され、当初は万世(よろずよ)橋と呼ばれましたが、昭和五年から橋名をひとつ下流の橋(万世橋)に譲り、こちらは昌平橋となりました。

昌平橋

昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、寛永年間(1624年〜1644年)に架けられたと伝えられています。橋際から駿河台に登ると一口稲荷(現在の太田姫稲荷神社)があり、一ロ橋とも呼ばれました。他にも、相生橋という呼称もありました。その後、元禄四年(1691年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。少し下流にあった筋違門とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「八つ小路」と呼ばれる広場として賑わいました。

Shoheibashi Bridge

Shoheibashi Bridge is one of the bridges that crossed Edo Castle's outer moat (current-day Kandagawa River) and is said to have been built in the Kanei Era (1624-44). It was also called Imoaraibashi Bridge as Imoarai Inari (current-day Otahime Inari Shrine) stands on Surugadai upwards from the bridge. It was also referred to as Aioibashi Bridge. It later came to be known as Shoheibashi Bridge after Shoheikyo, the birthplace of Confucius, following erection of a shrine to Confucius in Yushima in 1691. Along with Sujikai-mon Gate, which was a short distance downstream, the bridge was used as a major thoroughfare for the Nakasendo Road and the Nikko Onarimichi Road, and there was a bustling public square called Yatsukoji at the south end of the bridge.




昌平橋の袂に神田旅籠町の町名案内板が立っています。

千代田区町名由来板 神田旅籠町

この周辺は、かつて神田旅龍町と呼ばれていました。昌平橋の北側にあたるこの地は、中山道の第一の宿場である板橋宿、日光御成街道の宿場町である川口宿への街道筋として、旅龍が数多く立ち並んでいたため、「旅龍町」と呼ばれるようになったと伝えられています。江戸幕府は、五街道のなかでも、遠く京都に通じる東海道と中山道の整備にとくに力を入れていました。また、日光御成街道は将軍が日光参拝の際、必ず通った街道で、現在の国道122号にほぼ相当します。こうしたニつの重要な街道の拠点となる町が旅範町だったのです。しかし、天和二年(1682年)に江戸で大火事が起こります。浄瑠璃や歌舞伎でも有名な「八百屋お七」の大火です。もともとあった旅龍町はこの火災で類焼し、北側の加賀金沢藩邸跡地に替地を与えられました。そして元禄七年(1694年)には、浅草御門の普請のため、馬喰町・柳原周辺の町が代地を与えられ移転しています。これを機に旅龍町にも一丁目と二丁目ができました。さらに、明治二年(1869年)には、昌平橋と筋違橋の北側にあった幕府講武所付町屋敷が神田旅寵町三丁目と改称されました。さて、旅龍町の由来となった旅龍ですが、幕末のころにはほとんど姿を消しています。「諸問屋名前帳」によれば、嘉永(1848年〜1854年)のころまで残っていた旅龍は、わずか一軒だけとなり、代わりに米や炭・塩・酒を扱う問屋が増えていたことがわかります。街道筋の宿場町として誕生した旅寵町は、その後、活気あふれる商人の町として成長をとげたのです。

Kanda-Hatagocho

This area was located along the Nakasendo, one of the five major highways of the Edo Period, which went from Edo to Kyoto, and the Nikko Onari Kaido (which the Shogun always took when visiting Nikko). Consequently, there were many small inns (called "hatago"), which are the origin of the name. By the end of the 19th century, the Inns had virtually all vanished, however, to be replaced by various wholesale shops.




神田川に架かる中央通りの橋が万世橋です。初代万世橋は、明治五年に撤去された筋違門の石塁を再利用して架橋された眼鏡橋で、現在よりやや上流に架けられていました。昭和五年に現在地に鉄筋コンクリート橋が架けられると、万世橋の名が移されたといわれています。

万世橋

この橋を万世橋といいます。はじめはこの場所には橋がなく、約150メートル上流に筋違橋門に附属する橋がありました。明治五年(1872年)に門が解体されたとき、不要となった枡形石垣を転用して、門の跡に東京最初の石橋が架けられ、時の東京府知事大久保一翁により万世橋と命名されました。しかし一般には、半円形の二つの通船路の川面に映るさまが眼鏡のようなので、眼鏡橋の愛称で呼ばれました。明治三十六年(1903年)に元万世橋と改称しましたが、明治三十九年(1906年)に撤去されました。橋名を刻んだ石の親柱は神田神社の境内に保存されています。この場所に初めて橋が架けられたのは、明治十七年(1884年)のことで、上流の昌平橋が流出したため代用として昌平橋が架けられました。上流の昌平橋が復旧すると、この橋は新万世橋と改称し、明治三十六年(1903年)には鉄橋に改架されて万世橋と再度改称しました。現在の橋は、関東大震災の後の昭和五年(1930年)に架け替えられました。




かって、中央線の神田〜御茶ノ水間に「万世橋駅」がありました。明治四十五年(1912年)に完成した赤レンガ造りの万世橋高架橋は、東京駅が開業するまで中央線の起点として栄えました。大正十二年(1923年)に関東大震災で焼失した駅舎は、東京駅と同じように豪奢な建物だったと言われています。長らく休止状態だった万世橋駅の遺構は、平成二十五年(2013年)にマーチエキュート神田万世橋として新たに生まれ変わりました。階段・壁面・プラットホームなどを活かした空間の中にショップやカフェが並ぶこれまでにないマチナカの商業施設です。



中央通りと靖国通りが交差する須田町交差点に須田町電停がありました。都心を網羅した全盛期の都電では、複数の系統が集まる繁華な交差点があちこちに見られましたが、中でも全体の1/4にあたる10系統もの路線が顔を揃えた須田町電停は、その代表的なものでした。須田町交差点にこれほどまでに都電の系統が集中した背景には、昭和十八年まで中央線の始発駅として賑わった万世橋駅の存在が関係しているのかもしれません。そんな神田須田町の町名案内板が立っています。町名案内板が法被を着ているのは、如何にも神田っぽいですね。

千代田区町名由来板 神田須田町一丁目

江戸の町の整備が本格的に始まったのは慶長年間(1596年〜1615年)に入ってからのことです。それまで、須田村と呼ばれていた神田川周辺も農村から町人の町に生まれ変わりました。しかし、昔からの地名は残されたようで、明暦三年(1657年)の「新添江戸之図」には「すた町」と記されています。江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とだいたい同じ範囲を指していたようです。また、文政七年(1824年)の「江戸買物独案内」を見ると、江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったことがわかります。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。さらに明治以降、数多くの繊維関連の問屋が軒を連ねるようになりました。その理由について、専門家のなかには、神田川南岸の柳原土手(現在の和泉橋付近)で江戸期に開かれていた古着市の伝統を引き継いだためと考える人もいます。つまりこの周辺は、江戸期以来の“商いの町”としての伝統が、いまだに生き続けている土地なのです。

Kanda-Sudacho 1-chome

In the early 17th century, this area was transformed from an agricultural village called Suta-mura into a town of merchants and artisans. In the Edo Period, there were many candy shops and pharmacies, as well as salt and oil wholesalers and stores selling Buddhist altar articles. There are still many stores in business that have been designated as historical buildings by the Tokyo Metropolitan Government.




中央通りが神田金物通りと交差する地点が今川橋交差点です。今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681年〜1683年)との記録があります。今川橋の橋名は、架橋に尽力したといわれる名主の今川善右衛門の名によるといわれます。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。今川橋辺りには陶磁器を商う商家が立ち並び、大層賑わったといいます。神田堀とも呼ばれた龍閑川は、江戸城外濠の鎌倉河岸東端から北東方向に、ほぼ一直線に掘られていました。龍閑の名は、外濠口に龍閑町の名があったことに因み、町家を開いた井上龍閑という幕府坊主の名によると伝えられます。堀の東端は、箱崎からの浜町川に接続し、江戸の商業中心地を貫く鉤形の運河を形成していました。その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。安政四年(1857年)に埋め立てられましたが、明治十六年に浜町川が神田川まで延長されるにあたり、龍閑川は再度開削されました。その後、戦後の昭和二十三年から再び埋め立てが始められ、昭和二十五年(1950年)には完全に暗渠となりました。三百年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。橋の撤去からおよそ70年以上を経た現在も、交差点名や近くの郵便局名などに今川橋の名は生き続けています。因みに、今川焼発祥の地がここで、安永年間(1772年〜1780年)に近くの菓子店で売り出されたことに始まるそうです。とあるビルの壁に今川橋のプレート碑があります。



日本橋室町四丁目5番地と表示のある路地の入口のポールに「時の鐘通り」というプレートが貼り付けてあります。時の鐘が移設された十思公園は、昭和通りを超えた日本橋小伝馬町にあります。

石町時の鐘 鐘撞堂跡

時の鐘は、江戸時代に本石町三丁目へ設置された、時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役に任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝永八年(1711年)に製作された時の鐘(東京都指定文化財)が十思公園内(日本橋小伝馬町五−2)に移されて残っています。鐘撞堂は度々の火災に遭いながら、本石町三丁目(現日本橋室町四丁目・日本橋本町四丁目)辺りにあり、本通りから本石町三丁目をはいって鐘撞き堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移設された十思公園までの道が平成十四年三月に「時の鐘通り」と命名されました。近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。




その時の鐘が間近に聞こえたであろうところに、与謝蕪村(与謝野蕪村ではありません)が出入りしていた夜半亭がありました。

夜半亭 − 与謝蕪村居住地跡

夜半亭は、元文二年(1737年)俳諧師早野巴人(1676年〜1742年)が「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵です。「夜半ノ鐘声客船ニ至ル」という唐詩にちなみ、巴人も「夜半亭宋阿」と号しました。この夜半亭には、多くの門弟が出入りしていましたが、なかでも「宰町」と号していた若き与謝蕪村(1716年〜1783年)は内弟子として居住し、日本橋のこの地で俳諧の修行に励みました。蕪村は、安永三年(1774年)巴人三十三回忌追善集「むかしを今」の序文で、「師やむかし、武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりにあやしき舎りして、市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老の寝ざめのうき中にも、予とともにはいかいをかたりて」と夜半亭での巴人との様子を記しています。寛保二年(1742年)巴人の没により、江戸の夜半亭一門は解散、蕪村は江戸を離れ、常総地方などを歴訪後、京都を永住の地と定めます。やがて、俳諧師としての名声を高め、画業においても池大雅と並び称されるほどになった蕪村は、明和七年(1770年)巴人の後継者に推されて京都で夜半亭二世を継承しました。

鎌倉誂物 宰町自画



尼寺や 十夜に
届く 鬢葛




日本橋には多くの自治体がアンテナショップを開いています。多くは県が主体となっていますが、中には市が単独で出店しているところもあります。「すもと館」は、淡路島洲本市のアンテナショップで、洲本市の事業者を中心に選定された500種類以上の商品が並ぶほか、イートイン”島のキッチン”を併設しています。島のキッチンで食すことができる淡路牛や玉ねぎ、米は全て淡路産です。フードメニューのほか、島のクラフトビールや地酒まで楽しめます。



とあるビルのショーウインドウに丁髷鬘がズラリと並んでいます。どうやら床屋さんの展示のようです。江戸から明治の世に変革する中、丁髷から断髪に至る過程で髪結いさんも多大な苦労があったことでしょう。

江戸時代の丁髷から見える日本橋町民の生活文化

1603年コ川家康が江戸に幕府を開いて以来、日本橋はすベての街道の原点として、また、江戸に息づく人々の生活文化を全国へ発信する起点として大きな役割を果たしてきました。全国から集まる侍、様々な技を持つ職人、商人、芸人衆に加え江戸町民が暮らす生活文化は圧巻でした。浮世床(髪結)では時には江戸町民の地位、階級や職業、そして心意気を表す術でもあった髪型(丁番)には、男達も結構拘っていたようてす。京都から下ってきた「高尚で」「伝統の都」からの文化が次第に江戸町民文化へと昇華されていく中で丁髷スタイルは時代と共に変化を続けていきますが、明治維新の文明開化、男子の丁髷廃止、断髪の号令などによって西洋風髪型へ変化。他国に類例を見ない習俗の革命でした。それはまさに丁髷は古代から営々と継承されてきた日本の束髪の歴史の終焉であり、最後の「束髪式髪型」でした。 欧米の文化を取り入れ、日本の男性を断髪させ、姿・形を西洋化することは当時の理髪師の苦悩と努力を抜きには語れません。西洋式技術の伝搬、道具の輸入、改良、医師から学ぶ衛生消毒思想と設備の導入など、西洋式理髪の昔及に奔走した先達に改めて敬意を表したいと思います。西洋理髪、理髪外科医にルーツに辿る「ヘアサロン大野グループ」の心はまさにここにあります。移り変わる時代の空気感を全身で受け止め、「技術の心」「心の技術」の精神で進化してまいります。




日本橋三越の向かいの路地に「伊勢定本店」の看板が掛かっています。如何にも日本橋の食の老舗といった感じです。伊勢定は「江戸前の蒲焼」に拘り、裂きたて・蒸したて・焼きたてを信条としています。材料の鰻は天然より旨い養殖うなぎを目指し、餌から管理した純国産のうなぎのみを使用しています。お米はうなぎの旨味に負けない長野県産のコシヒカリを使用しており、ふっくらとした生粋の江戸前蒲焼を堪能できます。



日本橋は東海道のみならず、中山道や日光街道など、江戸期に五街道と呼ばれた主要街道の起点とされましたが、現在もここには日本国道路元標が置かれ、都心から各方面に向かう国道の起点となっています。街道の起点ということは、同時に里程の起点でもあり、江戸時代に全国の街道筋に築かれた一里塚はこの日本橋を起点として距離が測られていました。 橋は慶長八年(1603年)の架橋といわれています。家康が江戸城東側にあたるこの付近一帯を埋め立て、町割を施した際に架橋されたのでしょう。名称の由来については諸説ありますが、諸国へ通じた起点という意味のようです。現在の橋は明治四十四年架橋の石造二連アーチ橋で、欄干の中央に麒麟、両端に獅子をあしらった青銅製の装飾がつき、平成十一年から国の重要文化財の指定も受けています。



その日本橋の袂に人魚の銅像が鎮座し、横に案内板が立っています。

日本橋魚河岸跡

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩千魚を荷場げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心とLて、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。なかでも、日本橋沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した舟が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用Lて運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。この魚河岸は、大正十二年(1923年)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年(1954年)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぷりをうかがうことができます。

Remains of the Nihonbashi Riverside Fish Market

Fresh fish and other seafood for consumption in the capital were unloaded for three centuries at the market that operated along the bank of the Nihonbashi River between the Nihonbashi and Edobashi bridges. The Nihonbashi Riverside Fish Market originated in the early Edo period as a sales point for fish left over from the supplies sent to the shogun and daimyos lived in Edo castle town by the fishers of Tsukudajima. The riverbank later became the core of a very busy fish trading district sprawling across the Honfuna-cho, Odawaracho and Anjincho neighborhoods (the present Muromachi 1-chome and Honmachi 1-chome area). The center of activity was the market area along the Nihonbashi River where numerous boats docked, fully laden with fish from nearby coastal waters. Lined with fish shops that throbbed with negotiations in the high-spirited style characteristic of Edoites, with daily transactions totaling as much as a 1000 ryo (equivalent to about 16 kilograms of silver), it was one of the liveliest spots in the city of Edo. During Edo period, the seafood brought in along the Nihonbashi River was sold to dealers aboard the hiratabune (flatboats) pulled up to the wharf along the riverbank, then displayed on stands at shops on the street side of the riverbank warehouse buildings for sale to the food trade. When Tokyo was rebuilt after the Great Kanto Earthquake of 1923, the market was relocated to Tsukiji on the Sumida River, and the Tsukiji Fish Market of Tokyo Metropolitan Central Wholesale Market continues to flourish as the city's seafood wholesaling center. As a reminder of the prosperous trading era of this site, a historical monument was erected in 1954 by people who had been affiliated with the old market, with a summary of the more than 300 years of history from the founding to the relocation of the Nihonbashi Riverside Fish Market.




日本橋交差点を越えて、中央通りの最後の区間に入ります。あちこちで大規模な建て替え工事が進行中です。様々な紙製品を取り扱う「はいばら」も装い新たに斬新なデザインの建物に戻ってきたようです。建物は2016年度のグッドデザイン賞を受賞しています。「はいばら」は、文化三年(1806年)の創業以来、200年以上続く老舗で、和紙(白和紙・友禅・千代紙)、和小物・便箋・金封・のし袋などの商品を取り扱っています。初代須原屋佐助が江戸日本橋に小間紙屋を開業したのが始まりといわれています。また、「雁皮」を原料とする「雁皮紙」を江戸の庶民に最初に売り出したことで有名です。竹久夢二が欧州に旅立つ時に、四代目当主がこれを援助するなど、夢二と関わりがあり、夢二の作品を絵封筒や便箋、千代紙などで売り出し、現在でも、それら夢二の手がけた商品を販売している。夢二の他にも、柴田是眞・河鍋暁斎・川瀬巴水・川端玉章・伊東深水などの絵師とも交流が深く、彼らの残した下絵を多く所有し、一部はうちわ絵などとして復刻され、店頭に並んでいます。



中央通りをさらに進むと、右手に東京駅を望む八重洲通りとの交差点が、終点の通3丁目電停です。江戸の商業地のパイオニアとして、東海道に面した通1〜4丁目が起立したのは、江戸開府から間もない慶長八年(1603年)のことでした。日本橋から続く街道沿いの細長い町域で、江戸から明治・大正・昭和への時代変遷の中、中央通りは絶えず首都東京を代表する目抜き通りとしての顔を持ちづづけました。「通り三丁目」の町名は、都電廃止後の昭和四十八年の住居表示で消滅しましたが、この交差点界隈だけは「通3丁目」の俗称が定着し、現在も八重洲通りには同名のバス停が立っています。



ということで、都電19系統跡を歩き終えました。本郷通りと中央通りという歴史的な名所・旧跡が残っている道筋と、今なお商業の中心地として活躍する地域だけあって、見所が満載でした。




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