都電20系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電20系統跡を歩きます。都電20系統は江戸川橋から須田町までを結び、その路線は主に音羽通り・不忍通り・中央通りを通っていました。都心を半円状に走り、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。  

都電20系統

都電20系統の全長は9.5kmで、昭和46年3月18日に廃止となりました。

都電20系統の電停(路上の駅)は、江戸川橋・音羽七丁目・音羽三丁目・護国寺・大塚仲町・氷川下町・丸山町・駕篭町・上富士前・神明町・動坂町・道灌山・駒込坂下町・団子坂・千駄木町・八重垣町・宮永町・七軒町・動物園・上野公園・広小路・黒門町・末広町・旅籠町・万世橋・須田町でした。


都電20系統の起点となる江戸川橋電停ですが、江戸川橋交差点近くに位置していたと思われるのですが、場所がよくわかりません。ネットで調べてみますと、交差点からかなり離れた場所にあったという説も見受けられます。結局、場所を特定出来ませんでしたので、江戸川橋の手前辺りから歩くことにします。江戸川橋の名は、この付近の神田川を古くから江戸川と呼んだことに因んでいます。橋が架けられた時期は定かではありませんが、江戸川と呼ばれた区間では最も古い由緒ある橋のようです。昭和十年頃までは、音羽通りを挟むようにして弦巻川と水窪川と呼ばれたふたつの小さな川が流れていて、江戸川橋の前後でそれぞれ神田川に注いでいました。現在は江戸川橋東側の護岸に、水窪川跡に造られた下水管の大きな排出口を見ることができます。



江戸川橋の袂に旧町名案内板が立っています。大洗堰は江戸川橋の直ぐ上流にある堰です。井の頭池を源流とし、途中で善福寺川と妙正寺川を併せた神田上水は関口の大洗堰で水位をあげ、白堀(開渠:蓋のない地上の水路)で水戸上屋敷に入り、そこから地下に埋設された樋を使って神田や日本橋方面に給水されていました。

旧関口水道町

むかし、関口村の内であった。鷹匠細田加右衛門他2名の知行所であったが、延宝年間(1673年〜1681年)以前から村方町屋となった。貞亨二年(1685年)町屋が許され、町奉行、代官両支配となった。そして、武蔵国豊島郡関口水道町となる。明治五年、造兵司(江戸末からの大砲製造所−明治二年政府の東京関口製造所と改称、明治三年竹橋内吹上に移転、砲兵工廠の前身)や武家屋敷地その他を併せた。明治十一年、小石川区に編入した。江戸時代に水番所があり、大洗堰の神由上水の水門の差蓋揚卸の役を勤めていた。上水の管理運営にあたる人が住んでいたので、水道町の町名ができたといわれる。




江戸川橋北詰の左手に江戸川公園があります。目白台の高台の突端部がすぐ北側に迫り、台地の斜面には雑木林が自生し、江戸川沿いには桜並木が続いています。この辺りの神田川流域は、明治四十三年に大洪水に見舞われ、その後の大正二年から大正八年にかけて大掛かりな護岸改修工事が行われました。江戸川公園の開園は護岸改修完了後の大正八年で、昭和五十九年には神田川の拡幅工事に伴い改修されました。



公園の入口広場にある公衆トイレ(素晴らしく綺麗)の目隠板に近隣の名所が紹介されています。

@肥後細川庭園

熊本藩主細川家の下屋敷で、1882年に細川家の本邸となった地です。起伏の変化を利用した回遊式泉水庭園で、素朴さの中に江戸時代の武家庭園の面影をとどめています。

Higo-Hosokawa Garden

This was the suburban residence and became the principal residence in 1882 of Hosokawa family who was the feudal lord of Kumamoto. This circuit style garden utilizes the ups and downs and still keeps the Edo period Samurai garden in simplicity.

A松聲閣

旧熊本藩細川家の学問所として使用されていました。現在の建物は、歴史性を活かして保存・修復を行うとともに、耐震性を確保し、平成二十八年にリニューアルオープンしました。

Syouseikaku

It was used as a school of Hosokawa family who was the feudal lord of Kumamoto. This building reopened in 2016 after completing the preservation renovation and acquiring the earth-quake resistance without losing historicity.

B関口芭蕉庵

江戸時代を代表する俳人・松尾芭蕉は、1677年からの3年間、神田上水の改修工事に携わり、この地の「水番屋」に住んだといわれています。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家が建てられました。

Sekiguchi Basho Hut

Matsuo Basho who represents haiku poet of Edo period is said to have been involved in the renovation work of Kanda-Waterworks for 3 years from 1677, and lived in "Mizu-Banya" here at this place. People who worshiped him later built a house called "Ryuin-Ann" here.

C永青文庫

熊本藩主細川家の下屋敷跡です。刀剣や美術工芸品など、細川家伝来の文化財と16代護立氏のコレクションを収蔵し、展示公開しています。国の重要文化財クラスも数多く所蔵しています。

Eisei-Bunko Museum

The former residence of Hosokawa family who was the feudal lord of Kumamoto was located here. The collection of the museum includes important cultural heritages Ilike swords and arts of Hosokawa family as well as collections of the 16th lord Moritatsu. There are a lot of nationally important cultural properties.

D野間記念館

講談社創業者の野間清治氏が収集した「野間コレクション」や出版文化資料を中心に、珠玉の作品が展示されています。季節を彩る庭も見どころのひとつです。

Noma Memorial Museum

Here, works of art mainly from "Noma Collection", which was gathered by Seiji Noma who was the first president of Kodansha, and publication culture assets are exhibited. The garden, to show case the four seasons, is also a must-see.

E成瀬記念館

赤煉瓦のロマネスク調の記念館では、日本女子大学創立者・成瀬仁蔵の生涯を紹介する常設展に加え、企画展も随時開催しています。

Naruse Memorial Hall

This is a Romanesque memorial Hall of red Brick, In addition to the permanent exhibition to introduce the life of Jinzo Naruse, the founder of Japan Women's University, planned exhibition is also held time to time.

F鳩山会館

1924年に政治家・鳩山一郎が建てた鳩山家の洋館です。ハトをモチーフにしたステンドグラスとバラが美しい庭は必見です。

Hatoyama Hall

Ichiro Hatoyama, a politician, constructed this Western-style house in 1924. The beautiful garden with a pigeon motif stained glass and roses is a must-see.

G東京カテドラル聖マリア大聖堂

ドイツ・ケルン市の信者たちの寄進をもとに、1964年に丹下健三の設計で建造されました。ステンレス・スチール張りの外装で、内部には1本の柱もないというユニークでダイナミックな造りです。

St. Mary's Cathedral Tokyo

It was constructed after Kenzo Tange's design in 1964, on the basis of donations by believers in Cologne, Germany. The structure of the building is dynamic and unique with stainless-steel-walled exterior, and there is no pillar inside.

Hホテル椿山荘東京

起伏に富み、山の造形美を誇るこの庭園は、推定樹齢500年の椎の木、100種1,000本の椿の他、桜やモミジなどの木々が茂り、さながら森のような都会のオアシスです。 国登録有形文化財の三重塔や、伊藤若沖下絵の羅漢石など、木・石造の史跡も点在しています。

Hotel Chinzanso Tokyo

This hilly garden reminds one of the beauty of mountains. In this urban oasis, you feel like you are in the woods with a vertebral tree estimated 500 years old, 1,000 camellia trees of 100 different kinds, cherry blossoms and maples. There are also historical sites made of wood and stone, such as the national registered three-story pagoda and the Rakanseki by Jyakuchu Ito.

I水神社

言い伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり」と告げたため、ここに水神を祀ったという神社です。

Sui Shrine

According to the legend, God stood in the Hachiman Shrine's Chief Priest's dream, and said "I'm Water God, If you enshrine me at this land, I'll be the Weir's Guardian God and save the town of Edo and the villagers" , And thus, this shrine was built here.




江戸川橋から護国寺にかけて南北にまっすぐに延びる道路は音羽通りですが、音羽といえば音羽御殿として知られる鳩山会館ですよね。音羽通りから高台にある会館まで緩やかにカーブした長いスロープの坂道が続いています。以前訪れた際は会館内が見学できたのですが、現在は館内整理のため休館中とのことです。



入口横の壁に埋め込まれた古びたプレートに「鳩山家の建物」という説明が記されています。

鳩山家の建物 東京大学教授(近代建築史)藤森照信

文京区の音羽の丘の上に鳩山邸の美しい洋館が姿を現わしたのは、関東大震災の翌大正十三年である。鳩山家は、衆議院議長の和夫(1856年〜1911年)、総理大臣となった一郎(1883年〜1959年)。外務大臣をつとめた威一郎(1918年〜1993年)、さらに衆議院議員の由紀夫(1947年生)、邦夫(1948年生)、と四代にわたり指導的な政治家を生み育てた。この洋館を建てたのは一郎で、ここを舞台に、戦後政治の画期となった自由党(現・自由民主党)の創設が計られ、また首相として決断した日ソ国交回復の下準備も行われている。設計を手がけたのは一郎の友人の岡田信一郎(1883年〜1932年)で、大正・昭和初期を代表守する建築家として知られる。一郎の没後、傷みがひどくなったけれど、このたび大修復を加え、往年の輝きを回復した。修復に当たり、一郎、その夫人で教育者の薫、威一郎を記念する部屋を設け、公開されることになった。パラの庭を前に建つイギリス風の外観、ハトをモチーフとするステンドグラス、アダムスタイルの応接室、朝倉文夫作の和夫、春子夫妻像、などなど見るべきものは多い。

Hatoyama Family Home
Terunobu Fujimori Professor (Modern Architectural History) Tokyo University

The Hatoyama family's beautiful Western-style residence was built atop a hill in Bunkyo Ward's Otowa in 1924, the year following the Great Kanto Earthquake. The Hatoyama family spawned four generations of statesmen : Kazuo (1856-1911), Speaker of the House of Representatives : Ichiro (1833-1959), Prime Minister : lichiro (1918-1993), Minister of Foreign Affairs : and Yukio (1947- ) and Kunio (1948- ), members of the House of Representatives. This house was built by Ichiro, and it was here that the formation of the Liberal Party (presently the Liberal Democratic Party), a landmark in postwar politics, was planned. It was also here that preliminary preparations were made for the restoration of diplomatic relations with the former Soviet Union, a decision made by Ichiro during his tenure as prime minister. The house was designed by Ichiro's friend Shinichiro Okada (1883-1932), who is known as a representative architect of the Taisho and early Showa periods. After Ichiro's death, the house, which had failen into disrepair, was given a major renovation and restored to its former splendor. On this occasion, memorial rooms were established in honor of Ichiro, his wife Kaoru, who was also an educator, and Iichiro, and the house was opened to the public. The home has much worth seeing, including an English-style exterior with rose gardens in front, stained glass adorned with a pigeon motif, an Adam brother's style drawing room, and sculptures of Kazuo and his wife, Haruko, by Fumio Asakura.




歩道の脇に旧町名案内板が立っています。奥女中の音羽は桂昌院の信任が厚かったことから、この地を拝領したのでしょう。それにしても、奥女中に文京区の一等地を与えるとは!

旧音羽町

もと、小石川村、雑司ヶ谷村、小日向村、関口村などの地であった。五代将軍綱吉が、生母桂昌院の願により護国寺を建立した。元禄十年(1697年)護国寺領となり、町屋にしたが家作人がなく、後幕府が再建して奥女中の音羽という者に家作を与えた。音羽の名をとり町名にしたという。また、「新編江戸志」には、護国寺建立は京都の清水寺を模したので、門前を音羽町と名づけたとある。音羽町は一丁目から九丁目まであったが、これは京都の1条から9条通りに模したともいわれる。なお、旧丁目は護国寺側を起点として、江戸川橋の方が九丁目となっている。護国寺をいかに大事にしたかがうかがえる。




護国寺の手前に旧町名案内板が立っています。この辺りの土地も奥女中の青柳に与えられたのですね。奥の権力が如何に強大であったかが思い知らされます。

旧東青柳町

もと、小石川村の内であった。五代将軍綱吉が、生母桂昌院の願により護国寺を建立した。元禄十年(1697年)護国寺領となり、町屋にしたが家作人がなく、後幕府が再建して奥女中の青柳という者に家作を与えた。青柳の名をとり町名としたという。護国寺の仁王門前、音羽通りをはさんでの旧音羽一丁目の両側、東の方が東青柳町、西の方が西青柳町となった。延享二年(1745年)町方支配となった。護国寺前から江戸川橋までの一直線の道路(音羽通り)は、江戸時代から道幅も広く整然としていた。将軍の護国寺への御成りの道で、1千人以上の供が従ったという。




護国寺の象徴である仁王門の先には、不忍通りに面してふたつの門が続いています。護国寺惣門は大名屋敷の門を思わせる造りで、これも護国寺の格式の高さを象徴しています。元禄年間(1688年〜1704年)の建造といわれ、現在は境内にある音羽幼稚園の入口にもなっています。

護国寺惣門

この惣門は、護国寺の方丈への軸線上にあり、寺院の門と共に住宅の門という性格をあわせもっている。形式は社寺系のものではなく、江戸時代武家屋敷門の五万石以上の大名クラスの、格式に相当する形式と偉容をもっている。当寺が幕府の厚い庇護のもとで、高い格式を保持した歴史を反映している。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、この門は、中期元禄年間のもので、特に貴重な文化財である。




惣門の先にもうひとつ大きな門がありますが、こちらは護国寺に隣接する豊島岡墓地の入口になります。明治六年、若くして亡くなった稚瑞親王(明治天皇の第一皇子)の墓所となり、以後は宮家や旧皇族の墓所として現在に至っています。近年では、平成十二年に香淳皇后(昭和天皇の皇后)の斂葬の儀が執り行われた他、つい最近では、三笠宮寛仁親王の儀も記憶に新しいところです。



「塚」とは、周囲の地面よりこんもりと丸く盛り上がった場所を指し、何かが集積・堆積した盛り上がりをいいます。人工的に造られたものとしては古代の権力者の墓である古墳が代表的なものです。都内にも古墳に祀られるほどの豪族がいたんですね。

旧大塚町

もと小石川村の内、寛永六年(1629年)町屋が開かれた。町名は、大きな塚があったので、大塚と名づけたといわれる。この塚は、貞静学園の北裏から三井銀行研修所内(大塚1−3)にあった。一説には古墳といわれる。明治五年、付近の地を併せて町域は拡張したが、その内の多くは、安藤長門守の下屋敷であった。ここに陸軍弾薬庫が置かれたが昭和四年にお茶の水から、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)が移った。




護国寺から春日通りと不忍通りが交わる大塚三丁目交差点までの坂は富士見坂と呼ばれています。東京には「富士見」を関した地名や坂や橋名が多いですね。低い建物しかなかった時代には、高台に上がればどこからでも富士山が見えたのでしょう。富士山が現在の山状になったのは、江戸時代中期の宝永四年(1707年)に起きた宝永大噴火で、それ以前の富士山は山頂から麓まで滑らかな曲線を描いていたのでしょう。

富士見坂

坂上からよく富士山が見えたので、この名がある。高台から富士山が眺められたのは、江戸の町の特色で、区内には同名の坂が他に二ヶ所ある。坂上の三角点は、標高28.9mで区内の幹線道路では最高地点となっている。むかしは、せまくて急な坂道であった。大正十三年(1924年)10月に、旧大塚仲町(現・大塚三丁目交差点)から護国寺前まで電車が開通した時、整備されて坂はゆるやかになり、道幅も広くなった。また、この坂は、多くの文人に愛され、歌や随筆にとりあげられている。

とりかごをてにとりさげてともとわがとりかひにゆくおほつかなかまち
会津八一(881年〜1956年)

この道を行きつつ見やる谷越えて蒼くもけぶる護国寺の屋根
窪田空穂(1881年〜1967年)




護国寺前交差点を右折して不忍通りに入った都電20系統は、大塚三丁目交差点を直進します。左手は旧大塚仲町の町域でした。

旧大塚仲町

古くは、小石川村のうちであった。延宝年間(1673年〜1681年)以前百姓町屋となり、延享二年(1745年)大塚仲町と称して、町奉行支配となった(「御府内備考」)。町名は、大塚上町と大塚窪町の間、仲の町であることからであろう(「小石川区史」)。明治五年、高源寺門前を併せ、明治二十四年元小石川の内、字吹上を除き、小石川大塚町飛地を加えた。本傳寺は、寺内に4院あったが維新後本坊に併合された。また、寺内には波切不動尊堂がある。町内の大塚公園はもと松平家(白河藩)の屋敷跡で、明治二十九年養育院がおかれ、昭和三年この跡地を利用し、近代的公園となった。また、現在大塚五丁目にある吹上稲荷社はもとこの町にあった。




上富士前交差点の手前に日本医師会館の本部があります。日本医師会は開業医や勤務医およそ17万人が加入する学術専門団体です。医学教育の向上・関連科学との総合進歩・医師の生涯教育・医学や医療の国際交流・公衆衛生の指導啓発・地域医療の推進発展など幅広い事業を行っています。また、医師を代表して国や官公庁に対して医療政策に関する諮問や提言を行っています。武見太郎会長時代には強力な政治圧力団体としても知られていました。日本医師会館のすぐ先に東洋文庫の特徴ある建物があります。東洋文庫は、広くアジア全域の歴史と文化に関する東洋学の専門図書館ならびに研究所です。三菱第三代当主である岩崎久彌氏が1924年に設立した東洋学分野での日本最古・最大の研究図書館で、世界5大東洋学研究図書館のひとつに数えられています。その蔵書数は国宝5点・重要文化財7点を含む約100万冊にも及んでいます。



2021年11月13日、遂に竜王戦の決着がつき、藤井聡太さんが豊島さんから竜王を奪取して藤井竜王&4冠となりました。私はAbemaTVでLIVE中継を観ていましたが、終局直前には視聴者が4.8mになっていました。昨年の木村さんとの王位戦では確か5mを超えていたと思いますが、土曜日の夕方とはいえ凄まじい視聴者数です。そんな将棋ブームの昨今ですが、不忍通り沿いに碁盤店があります。碁盤は碁を打つためのものですが、何故か将棋盤も碁盤店で売られていますね。やはり、将棋よりも碁の方が格上なんでしょうか?



団子坂下交差点脇に名所案内板が立っています。森鴎外と夏目漱石という明治の文豪が揃って千駄木に住居を構えていたんですね。

@森鴎外記念館

記念館は明治の文豪森鴎外が、後半生を過ごした旧居跡(都指定旧跡)に建てられました。2階からはるかに東京湾が望めたとされ、鴎外自ら「観潮楼」と命名しました。館内では、鴎外の自筆原稿、書簡などの展示をはじめ、文京区ゆかりの文人たちを紹介しています。

1.Mori Ogai Memorial Museum

The Memorial Museum was built on the site (a Tokyo Metropolitan Area-designated historical site) where Mori Ogai, the great Japanese writer of the Meiji Period (late 19th - early 20th century), lived the last half of his life. It was said that from the second story, Tokyo Bay could be seen far in the distance, so Ogai named his house Kancho-ro. The Museum has manuscripts and letters in Ogai's own handwriting on view with other memorabilia, and also introduces other literary figures associated with Bunkyo City.

A旧安田楠雄邸庭園

1919年につくられた近代和風のお屋敷。安田財閥の創始者・安田善次郎氏の孫・楠雄氏逝去後、(公財)日本ナショナルトラストに寄贈されました。お雛様をはじめ、四季のしつらいとイベントで和風住宅の空間を堪能できます。毎週水・土一般公開。東京都指定名勝。

2.Former Yasuda Kusuo Residense and Gardens

This is a modern Japanese-style residence built in 1919. It was donated to the Japan National Trust for Cultural and Natural Heritage Conservation after the death of Kusuo Yasuda, grandson of Zenjiro Yasuda, who founded the Yasuda zaibatsu (financial conglomerate). The interior space of this traditional Japanese style dwelling can be fully enjoyed with the arrayed dolls of the Girls Festival and other special events and furnishings of the four seasons. Open to the public on Wednesday and Saturday every week. A Tokyo Metropolitan Area-designated spot of scenic beauty.

B根津神社

六代将軍綱豊(家宜)が生まれた地。根津神社はその産土神(守り神)となり、1706年に綱吉によって現在地に社殿が造営されました。権現造りの見事な姿を残す建築で、国指定重要文化財に指定されています。春、境内には3,000株あまりのつつじが咲き誇ります。

3.Nezu-Jinja Shrine

This marks the location where Tsunatoyo (lenobu), the sixth Tokugawa Shogun, was born. Nezu-Jinja Shrine became the tutelary deity of the birthplace (a protective deity) of the Shogun, and in 1706, Shogun Tsunayoshi had the shrine structure built in its present location. It is a premier example of the Gongen style of shrine architecture, and has been designated a National Important Cultural Property. In the spring, it is noted for its masses of some 3,000 blooming azalea bushes.

C光源寺(駒込大観音)

光源寺境内にある駒込大観音(おおがんのん)は奈良の長谷観音の写しの十一面観音。元禄年間に創建されましたが1945年の大空襲で焼失、1993年に再建されたお像です。境内の野梅の巨木とともに「梅の大観音」として知られています。

4.Kogenji Temple (Komagome O-Gannon)

The Komagome O-Gannon on found within Kogenji Temple is a replica of the Eleven-Faced Hase Kannon in Nara. It was created during the Genroku Era (1688-1704) but was destroyed by fire during the intense bombing of 1945, and then rebuilt in 1993. Paired with the great mountain Japanese apricot tree growing on the grounds, this figure is known as the O-Gannon of the Japanese Apricot.

D夏目漱石旧居跡(猫の家)

文豪夏目漱石(1867年〜1916年)の旧居跡。漱石は、イギリスから帰国後の1903年から3年間ここに住んでいました。この間、東京大学英文科・第一高等学校の講師として活躍する一方、この旧居を作品の舞台として処女作「吾輩は猫である」を執筆しました。

5.Site of Former Natsume Soseki Residence (Neko no ie)

This is the site of the former residence of the great literary figure Natsume Soseki (1867-1916). After returning from England in 1903, Soseki lived here for three years. During that period he was a lecturer in English literature at the University of Tokyo and at the First Higher School, and also wrote his first novel, I Am a Cat, which was set in that residence.




根津神社入口交差点から根津一丁目交差点までの不忍通りの両側は、かって根津八重垣町と呼ばれていました。

旧根津八重垣町

宝永三年(1706年)根津神社が、元根津(団子坂上の北側)から現在地(六代将軍家宣の生まれた甲府中納言家コ川網重の山手屋敷であった)に移って、その門前に町屋が開かれ、根津門前町といわれた。明治二年、根津八重垣町と町名を改めた。それは、根津神社の祭神素戔嗚尊の歌によったといわれる。

  八雲起つ 出雲八重垣つまごみに
    八重垣造る その八重垣を

根津の名称は、根津神社の天井や絵馬などに、ネズミが多くかかれていることからではなかろうか。大黒天(大国主命)が祭られているが、ネズミはその使いといわれる。
(「御府内備考」)




都電20系統は池之端二丁目交差点を左折して上野動物園沿いに進みます。実は、歩いた時にはここから不忍池の弁天門辺りまでの経路が判明していませんでした。恐らく、現在はフェンスで囲まれて動物園の敷地になっているところに線路があったのではないかと推測します。そんな訳でこの時は池之端二丁目交差点から水月ホテル鴎外荘を経由して上野動物園の弁天門に至るルートを進みました。池之端二丁目交差点を左折した直ぐのところに小さな児童遊園があり、往年の都電車両が停まっています。ここは、かっての池之端七軒町電停跡です。



池之端児童遊園に保存・展示されている都電の車両は7500形で、つい最近まで荒川線で走っていたそうです。

都電7500形(7506号車)

ここに展示された都電は7500形といわれる形式で、昭和三十七年に製造された旧7500形を車体更新したものです。旧7500形は昭和五十九年以降、台車と主要機器を流用した車体更新が施され(て)現在の7500形となり、都電で初めて冷房装置が搭載されました。この車両は、平成二十年1月末まで都電荒川線(三ノ輪橋から早稲田)を走行し、平成二十年2月1日東京都交通局より台東区に譲渡されました。




案内板には、当時の池之端七軒町電停に停車している都電20系統の写真が添えられています。行き先表示が「江戸川橋」となっていることから、電車の後方が上野動物園で、手前のカーブした先の池之端二丁目交差点から不忍通りに入っていたのでしょう。

旧都電停留場(池之端七軒町)

ここ、池之端児童遊園は、かつて都電停留場(池之端七軒町)のあった場所です。昭和三十年代の都電全盛期の時代には、20系統(江戸川橋〜須田町)、37系統(三田〜千駄木二丁目)、40系統(神明町車庫前〜銀座七丁目)と三つの路線が走っていた区間でしたが、昭和四十二年(1967年)12月に37・40系統が廃止、昭和四十六年(1971年)3月には20系統も廃止になり、池之端七軒町(廃止時は池之端二丁目に改称)の停留場は姿を消しました。平成二十年3月、都電停留場だったこの場所に都電車両を展示し、地域の歴史が学べ、まちのランドマークとなる児童遊園として整備しました。使用したレールは、東京都交通局荒川線で使われていたものを再使用しました。




そんな訳で、実際は線路が通っていなかった路地を進みます。突き当たりのT字路脇に、水月ホテル鴎外荘があります。ここには、かって明治の文豪森鴎外が住んでいました。ホテルの建物の前に居住跡を示す石柱が立ち、横には森鴎外旧居跡の案内プレートが掲示されています。

森鴎外旧居跡

森鴎外は文久二年(1862年)正月十九日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。明治二十二年(1889年)三月九日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町十一番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。同年八月に「国民之友」夏季附録として、「於母影(おもかげ)」を発表。十月二十五日に文学評論「しがらみ草子」を創刊し、「翌二十三年一月には処女作「舞姫」を「国民之友」に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍した。しかし、家庭的には恵まれず、長男於菟が生まれた二十三年九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町五十七番地に転居していった。

Remains of the former residence of Mori Ogai

Mori Ogai (1862-1922) is one of the most famous modern writers in Japan. In March of 1889 he married Akamatsu Toshiko, and from the summer of that same year lived at this site. This house still stands in the inner garden of a hotel. In October of 1889 he published the literary review "Shigarami zoshi". In January of the following year he wrote his first novel Maihime (Dancing Girl). With the completion of these and other early works, this spot should be remembered as the site where he began his literary career. However his domestic life was not so fortunate and in September of 1890 he divorced Toshiko and moved to a new place the follwing month.




ホテルの入口横には森鴎外の生涯を記した案内プレートも掲げられています。

森鴎外 ogai mori (1862-1922)

島根県津和野出身。旧幕時代の藩(?)医の長男に生まれる。東京大学医学部卒。陸軍省の軍医となり、日清戦争・日露戦争に従軍。翻訳・創作・批評に活躍、明治文化人の重鎮。代表作に「於母影」(翻訳詩集)。「舞姫」・「雁」・「渋江抽斎」・「高瀬舟」・「うたかたの記」。

森鴎外居住の跡

森鴎外は、明治二十三年(1890年)この地において文壇処女作の「舞姫」を発表しました。そして次々と文学作品を発表し、近代文学史上画期的な活躍をする基礎を築いた地でもあります。




鴎外荘のT字路を右に曲がり、上野動物園の弁天門の前に出ます。本当は、都電の線路は北側の池之端門辺りから不忍池沿いに半円状に回り、弁天門の脇を通って不忍池沿いに下町風俗資料館方向に延びていたらしいですけど。



公園の中に、西条八十の歌碑が立っています。何故この場所と「かなりや」が結びつくのかといいますと、西条八十は一時上野の不忍池付近のアパートを借りて仕事をしていました。彼は子供の頃に麹町のある教会に連れて行かれ、教会の中で自分の真上にある電灯がひとつだけ消えていたのを見ました。この時、「ただ一羽だけ囀ることを忘れた小鳥」・「唄を忘れたかなりや」のような印象を受けたのですが、生まれて数ヶ月の娘を抱いて上野公園近辺を歩いている際にその記憶を思い起こして作品にしたのが童謡の「かなりや」なのです。不忍池の歌碑は昭和三十五年(1960年)4月3日に、サトウ・ハチローらによる「西条八十会」によって建立されました。

うたをわすれた
 かなりやは
  ざうげのふねに
   ぎんのかい
    つきよのうみに
     うかべれば
      わすれたうたを
       おもいだす




不忍池南端にある下町風俗資料館脇を左折し、100m位ですが不忍通りに戻り、上野四丁目交差点を右折して中央通りに入ります。道路脇に旧町名由来案内板が立っています。

旧上野三橋町

本町は、明治二年(1869年)上野仁王門前町と仁王門前上野家来屋散の東側、そして北大門町飛地と上野役人屋敷を合併し、その地域を町域にして起立した。町名は町の南西、御成道(現中央通り)、不忍通りとの交差点あたりに三橋という橋があったことに田来する。橋の名は、不忍池から流れ出る忍川に三つ並んで架設されていたことにちなむという。ほかに将軍が寛永寺墓参の折に渡る橋なので、御橋といい、それが三橋に転訛したとする説もある。定説の三つの橋は、真中の橋が将軍専用で、両側の橋が一般の通用橋であったという。忍川は昭和初年に暗渠になり、そのために橋も消えた。昭和三十九年(1964年)の住居表示では大部分が上野四丁目になり一部JR高架線が同六丁目になった。




続いて、もうひとつ旧町名由来案内板が立っています。

旧東黒門町

東叡山寛永寺が創建されたのにともない、寛永三年(1626年)に同寺の門前町として上野新黒門町ができた。この命名については御府内備考が「東叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉」と述べられているのに由来する。上野新黒門町は、御成道(現在の中央通り)の両側に形成されていたが、明治二年(1869年)、御成道を境にして東西に二分され上野西黒門町、上野東黒門町として新たに発足した。翌三年、東京府の近代都市政策のもと、下谷第三十九番組に属し、地元指導者を中心にまちづくりが始まった。そして明治五年(1872年)付近の武家屋敷を合併し、本町は形づくられた。明治四十四年に上野の二字をはずし、東黒門町となった。




さらにもうひとつ旧町名由来案内板が立っています。

神田栄町

ここはかつて、神田栄町と呼ばれていました。江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた地域で、幕末のころの絵図には、この一帯が豊前小倉藩小笠原家の中屋敷となっていたことが記録されています。ちなみに中屋敷とは、上屋敷(本宅)に対する控えの屋敷のことで、跡継ぎなどが居住しました。この界隈が大きく様相を変えたのは明治維新後のことです。明治二年(1869年)十二月、神田相生町から出た火事によって、現在の外神田周辺は焼け野原となってしまいました。そこで明治新政府は、神由竹町・神田平河町・神田松永町などに、防火のための空き地(火除地)を設置します。それらの町に住んでいた人たちがこの界隈に移転させられ、神田栄町ができたのです。「栄」という名前は、住民が町の繁栄を祈願して付けた町名であるといわれています。明治四十四年(1911年)、町は栄町と改称しますが、昭和二十二年(1947年)、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立した際、ふたたび神田栄町となりました。そして昭和三十九年(1964年)、住居表示の実施で神田亀住町や神由元佐久間町とともに、現在の外神田五丁目となりました。

Kanda-Sakaecho

This neighborhood was once the location of many samurai residences, but in the early Meiji Period, in the middle of the 19th century, it was transformed into an alternate site for people relocated from nearby towns to make way for firebreaks. It is believed that the residents christened the town "Sakaecho" (sakae means to prosper) to express their hopes for the town's future.




神田川に架かる万世橋は、延宝四年(1676年)に架橋された筋違橋がルーツとなっています。江戸城三十六見附のひとつである筋違見附門に付随する橋でしたが、明治五年に筋違見附門が取り壊され、余った石材を利用して初代の萬世橋(よろずよばし:萬代橋)が架橋されました。洋風石造造りで、「神田の眼鏡橋」と称して全国的に有名でしたが、明治三十九年に撤去されました。現在の万世橋は昭和五年に関東大震災の帝都復興事業として架橋されました。有名な「肉の万世」は、昭和二十四年に万世橋の袂に開業したのが社名の由来となっています。また明治四十五年4月1日には万世橋駅が開業し、大正三年(1914年)に東京駅が開業するまでの7年間は中央線の起点駅となりました。



万世橋を渡ったすぐ先に須田町交差点があります。多くの都電が須田町を起点・終点とし、東西南北に路線が延びていました。



ということで、都電20系統跡の歩きを終えます。江戸橋から須田町まで直線距離は大したことはありませんが、都心の北側を半円状に走ることで沿線の住民には便利な乗り物だったのでしょう。恐らく、江戸橋から須田町まで通しで乗ったのは余程のヒマ人だったと思われます。多分、私もそうしたと思いますが。




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